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02


斎藤は何処に視線を当ててよいのか解らずに全身を強張らせたまま、ひたすらに目を泳がせていた。
ひらひらと舞う小さな金魚のように目に映る薄物が、彼にとって未だ慣れない妖しい雰囲気を持って心を掻き乱す。
このようなものをこれ程大量に一度に目にした事など生まれて初めてである。
そもそも女性用の下着を目にしたのはあの夜だけだ。
なまえの身に着けていた清楚でシンプルなものを見たのが生涯最初で最後なのだ(今のところ)。

――何故、俺は此処にいるのだろうか。

平常心を保つために瞳を閉じ深呼吸をし、此処に至るまでの経緯を整理してみる。
隣には久しぶりにやっと逢えたなまえがいる。自分としても逢いたくてたまらなかった最愛の恋人である。
恋人ではあるが口下手である事と、己の都合で呼び出しなどしては迷惑であろうかなどと毎夜のように逡巡するうちに誘いそびれてしまい、そうしているうちに誘いにくくなり気がつけば時は経ち、今回は一か月近くも逢えていなかった。サークルで第一副将、第二副将と言う関係の時はこんな風ではなかったのに。
心ひそかに彼女を想い続けやっと想いが通じ合えたのだ。それだというのに。
斎藤が左之に相談したかったのはこの辺りのことだった。
恋に慣れない彼にはどうしていいのかが本当に解らなくなってしまっていたのだ。
昨年末に付き合い始めそれから直ぐの斎藤の誕生日、元旦の夜を彼女と共に過ごした。
共に酒を呑み自然とそうなった。無論軽い気持ちなどではない。意識が飛びそうな程に幸せだった。
だが今にして思えばあれは一体なんの奇跡だったのであろうか。
なまえともっと仲を深めたいと望んでいる。しかしそう望めば望むほど、互いの距離が遠ざかっていくような気がしてしまう。気にし過ぎるのだと解ってはいるが困らせたくない。嫌な思いをさせたくないと尻込みする気持ちが先に立つ。
なまえはいつもサバサバとして見えた。彼女の枷にだけはなりたくない。だが想いだけは募る。
昨夜左之と別れた帰途ふいに鳴ったスマフォが映し出した発信者の名を見ていつになく心が躍った。
自分の方こそ直ぐにでもなまえに連絡をしなければならないと決意した矢先のことでもあり、またなまえの声を聞けることを心から嬉しいと感じた。
電話越しに耳を擽ったのはおずおずとした感じの声。

『あの……っ、わたし、なまえです』
「あ、ああ、」
『あの、一? 明日の土曜日……時間あるかな……?』
「むっ、無論だ。おっ、俺も連絡をしようと思っていたところなのだ。……明日は何があっても空けておく」
『え、え、予定があるなら無理しないで……一が暇だったら……でいいんだけど』
「予定などない……っ、その、俺もなまえに、その……逢いたかったのだ」
『そ、そうなの……なら、あの、あのね……出来たら行きたい場所があって……、』

とこのように無駄に点々の多い会話を延々と続ける交際半年の二人を、それぞれの友人たちが放っておけないのは自然の理というものである。斎藤は平助に耳打ちされた言葉を思い浮かべた。
“……プレゼント考えてるのか? もうすぐ付き合って半年記念だろ。そういうの大事だよ、一君。そういう仲になってんならランジェリーとか女の子は意外に喜ぶぜ。俺も買ってやった事あるけどさぁ、自分好みの下着をさぁ……”
顔から火が出そうな言葉を遮り平助を追い帰した後、左之の広げたフリーペーパーの下方で目にした文字列。
“手を繋いでランジェリーショップを訪れるカップルが急増。恋人にランジェリーのプレゼントで親密度が上昇”
そして今日の午後一番。
待ち合わせの場所で会うなり、久し振りに逢えたことを喜ぶよりも「一緒に行って欲しい」と酷く切羽詰まった様子のなまえが手短に告げた場所はデパートだった。
そして現在目の毒でしかないものに囲まれ、くらくらとしながら斎藤が立っているここは、なまえが友人に教えられたというインポートランジェリーとやらの専門店であった。
この偶然の一致は一体何だ。
まるで狐につままれているような気がする。
何か謀られているのであろうか。
いや、そうではない。これは渡りに舟と言う物だ。平助やあのフリーペーパーを書いた人間の言を鵜呑みにするわけではないが、ここへ自ら案内してきたのは誰でもないなまえなのだ。
なまえが望むのならば交際半年の記念の品として彼女の所望したものを買ってやればよい。女心のよく解らぬ俺の選んだ贈り物などより余程良いことは間違いない。
お膳立てはされている。寧ろ有難いではないか。
それに自分としても、それは本当にもしもの話ではあるのだが、平助の言ったようにもしも……だ。
そうだ、もしもである。
なまえが自分好みの下着を身に着けてくれたとして、そして二人きりの空間でその姿を自分に見せてくれたとしたならば……。
瞬時にして全身が火を噴いたような心地がした。
斎藤は己の頭の中に浅ましくも浮かんだ映像を首を振って掻き消す。
待て。落ち着け、斎藤一。このような不埒な想像はなまえに対して失礼と言う物であろう。
混乱の極みに陥った斎藤は、実際には隣にいたなまえの方もドキドキと小さな胸を痛い程に波打たせている事実に、とても気づいてやれる状態にはなかった。





硬直した斎藤は日頃の無表情が更に表情をなくしていた。その横顔を盗み見れば軽い絶望感が襲ってくるが、とにかく今は千の言葉を信じよう。ここまで来てしまった以上もう後戻りはできないのだ。
落ち着け、落ち着くんだ、わたし。
何もせず何も伝えずにお別れになってしまうくらいなら、頑張ってするだけのことをし伝えることを伝えてからの方がいい。
手強い相手を警戒し過ぎて打ち込みもせずに一本取られるくらいなら、懐に入り込んで大胆に打っていく。それが常になまえの勝負にかける姿勢である。
恋だって剣道と同じ。そう、試合だと思えばいい。
前進するんだ、みょうじなまえ!
一晩中考え抜いた結果決心を固め、殆どスカイツリーの尖塔から飛び降りるくらいの勇気を出して斎藤をこの店へと連れて来たのだ。
千はこう言った。
「愛し合う二人が触れ合うことはとても大事なのよ。彼が手を出してこないなら自分から誘うの。そうね、彼をそそる様な素敵なランジェリーを身に着けて。その前にランジェリーを仕入れなきゃいけないんだけど……。あ、彼と一緒に見に行けばいいわ。そうすれば彼の好みもわかるもの。カップルならそんなの普通よ」
ビールのグラスが重なっていくほどに、何だか千の言っていることが正しいように思えて来た。
「わかったよ、千。わたしやる」と答えてしまってから、千のしてやったり顔を見て一抹の後悔が酔った頭を過ったような気もしたが、なまえは一度自分が口に出した言葉を引っ込めることが出来なかった。
そういうところも融通が利かないタイプなのである。
勢いだけでやってきたこの店はイタリア直輸入の品々を置いている。
暖色の照明に彩られ落ち着いて洗練された雰囲気のインテリアで統一され、まるで宝飾店のような佇まいではある。
しかしロココ調のテーブルの上にディスプレイされているのは、淡く透けた素材のブラばかり。あちらのテーブルには小さなショーツ達が飾られている。
トルソーが纏っているのはサテンのリボンやレースがふんだんに使われたベビードールで、見た目はとても可愛らしいのだが身に着ければ肌はおろか胸の尖端やデリケートゾーンの色まで解かりそうなほどに薄い素材で出来ていた。さりげなく裏側を見ればショーツは言うまでもなくTバック。
女性であるなまえが一渡り見渡しただけでも気恥ずかしくなってくる。
日本製のものは補正だとかアウターに響かないようになど機能を重視したものが多いが、外国製のそれらは見せることを前提としているようで、もはや下着とは呼べないようなものばかりだった。

こんなの裸でいるよりも着ている方が恥ずかしい。

奮い立たせた勇気が萎みそうになりながら店内を見回していると、唐突に背後から声がかかる。

「どういったものをお探しですか」

それは穏やかな柔らかい声だったのに文字通り飛び上がりそうになる。ドクンドクンと鼓動を打っていた心臓が口から飛び出すかと思った。
振り返れば品の良いワンピースを身に着けた店員がそっと近づいてくる。
必死になっていたなまえは付き添いの斎藤の様子を伺うこともいつしか忘れていた。
小さな声を絞り出し「あの、初めてで……、」と言いかければ。

「か……っ、か、彼女の……希望するものを……っ」
「………っ」

なまえのか細い声に被せるように店員の声に応えたのは斎藤だった。今までに聞いたこともないような声に眼を剥いて今度は右側をふり仰げば、斎藤の瞳はもう何処を見ているのかさえ分からなかった。
挙動不審を極めた二人を見つめるショップ店員は柔らかな笑顔を崩すことも無く、小首をかしげるように斎藤に話しかける。

「せっかくご一緒にいらしたんですから、彼氏さんのお好みで選んで差し上げたらいかがでしょう。彼女さんもその方が嬉しいんじゃないかしら」
「お、お、俺、の……こ、このみ……?」

ややたってからブラとショーツのセットを購入と言う意思を二人からやっと聞き出した店員が、笑みを絶やさないままポケットからメジャーを取り出す。
滑らかな手つきでなまえの胸回りにメジャーを当てる姿さえ、斎藤は眩し過ぎて直視することが出来ない。頭の中は疾うに真白である。
「お色は」と聞かれ「……し……しろ……、」と答えたのを最後に斎藤はすっかり口を閉ざしてしまった。





店の奥まった場所にあるフィッティングルームの前で斎藤は所在なく立っていた。
つい先程店員が白いブラとショーツを何セットか恭しくテーブルに並べて見せ、なまえが長い時間をかけてから遠慮がちに中の一つを指さした。
それはストラップからカップまで繊細な花模様を丁寧に刺されたチュールレースの純白のブラと、同柄のビキニタイプの小さなショーツがペアになっているものだ。
透けたような生地ではあるがバストトップは細かい刺繍でカバーされており、ショーツのクロッチにも薄手だかきちんとコットンが施されていた。
左右のカップの間とショーツの左右の部分には、サテンの艶やかな濃いブルーの細く長いリボンがあしらわれている。
それを手にしてなまえが恥ずかしげに厚手のカーテンの向こうに消えてから5分以上が経っている。

「サイズはいかがでしょう?」
「……はい、」
「失礼してよろしいですか?」

なまえの答えを受け先程の店員がカーテンの奥へと消えていく。
内部で行われていることを考えない様考えない様と自身を戒めてはいたが、眼を彷徨わせればあちらにもこちらにも女性物の下着ばかり。
斎藤は剣道の試合前には常に心頭滅却を念じ、立礼の位置で礼を行い竹刀を抜き合わせ蹲踞し主審の開始宣告の瞬間まで、常に心を無に保つ。己を御する事には誰よりも長けていた筈であった。しかしこの特殊な状況においてはその特技も如何な役にも立たなかった。
ただ目を閉じているしかない。
思えばこの店に足を踏み入れて以来、己がまるで己ではないように制御不能となり果てているのだ。

「彼氏さんご覧になられますか?」

弾かれたようにはっと顔を上げれば店員がニコニコとこちらを見ながらカーテンの中を指し示している。

「……お、俺がこの、中へ……?」
「とっても可愛らしくてよくお似合いです」
「そ……っ、そのような……え、遠慮する、」
「そう仰らずにどうぞ? カップルでいらしたお客様は皆さん、彼氏さんに一緒に見てもらうんですよ」

さあさあ、と言わんばかりに背を押され、前にのめる恰好で試着室に一歩足を入れれば。
すらりと均整の取れた姿態に真っ白な愛らしい下着を着けた恋人が、真っ赤になって俯いていた。
背後の大鏡によってその後ろ姿もしっかりと目に入る。
見てはいけないと、なまえに無礼ではないかと逸らそうとした目が、どうしても逸らせない。
斎藤は眼を見開き薄く唇を開けたまま言葉もなくその場に立ち尽した。
煽情的でありながら愛らしいその姿に見惚れ、喉がからからに乾き言葉を押し出すどころではなかったのだ。
その後のことは記憶から抜け落ちていた。財布を取り出したなまえを押し止め、斎藤が支払おうとするのを遠慮するなまえを尚制して、夢遊病者のように会計をしたことだけはおぼろげに憶えている。





せっかくのデートであるのだからどこか外で共に食事をと当初の予定では考えていたのだが、そのようなこともすっかり飛んでしまっていた。
気がつけばなまえの部屋へと来ていて、着替えの為に寝室らしき隣の部屋へ入っていったなまえを待ちながら、ソファにぐったりと身を沈めた。
窓の外はまだ明るいが間もなく夕方と言ってもいいくらいの時間である。
隣室から微かな衣擦れの音が聞こえている。
余りにも想像を超えた時を過ごすと、人は抜け殻のようになってしまうのであろうか。
先程のなまえは愛らしかった。しかし思い出してしまえば己の中に湧き上がるものに抗えそうもない。
いや、しかし一カ月ぶりにせっかく逢えたのである。思い直し身を起こして座り直せば、背中越しに小さな気配を感じた。

「……はじめ、」

細い声で名を呼ばれ振り向くがなまえは隣室から出ては来ない。

「なまえ?」
「ちょっと……来て」

震えた声の調子に異変のようなものを感じ、立ち上がり隣室へと足を入れようとした。その足が止まる。
斎藤の眼が再び捉えたのは先程購入した白い下着の上下を身に着け、ごく薄手のカーディガンだけを羽織ってベッドに腰掛けたなまえの姿だった。
瞠目し咄嗟に片手で口元を覆った彼はくらりと眩暈を感じる。先程ランジェリーショップの試着室で見た時よりもなお艶めかしく色っぽいなまえの姿に、脳味噌が瞬時に沸くような気がした。
斎藤の方も長い間己を抑えてきたのだ。
身体の芯がずくりと疼くのをはっきりと感じた。

「……あの、に、似合わない……よね、」
「な……なまえ……、」
「ごめん。ごめん……ね、一の事、今日は付き合わせて。こんなこと……のために……、」

なまえの大きな瞳から大粒の涙がポロリと零れた。
それを見るなり矢も楯もたまらずに大股で傍寄りその身体を両腕で強く抱き竦める。

「どうした? 何故、泣くのだ。俺が何か気に障る事をしてしまったか……すまない」
「違うの、わたし怖くて……一はもうわたしのことなんて好きじゃなくなってしまったんじゃないかって……、」
「そのような……! そのようなことがある筈が、」

斎藤の胸に顔を埋めたままなまえが今回の経緯をポツリポツリと話し始めた。
昨夜の千とのやり取りの一部始終を嗚咽の合間に涙声で話すのを聞くうちに、斎藤の心が締め付けられるように痛み始める。
なまえを渇望する程に求めてきたのは自分の方ばかりだと思っていた。

「すまない。なまえがそのように思っている事に気づいてやれず不安にさせた」
「一のことが好き。でも一は……、」
「俺はなまえを誰よりも好いている。ずっと変わらぬ。いや、前よりももっと、」
「なら……それならこのままわたしを、」
「な……なまえ、そ、そのようなことを言われては、俺はもう……、」

強く抱き締め身体をぴたりと密着させたまま、制御装置の壊れた斎藤がなまえの上に体重をかけ、二人もろともにベッドに沈み込む。
泣きじゃくるなまえが強く背に回してくる腕が切なく狂おしく愛おしかった。
かけがえのない恋人。ずっとなまえが欲しかった。
想いを注ぎ込むように塞いだ唇からなまえの想いも痛い程に伝わってくる。
酸素が足りなくなるほどに長い口づけをいつまでも、何度も何度も繰り返した。

「言わせてすまなかった。俺の方こそずっと言いたかったことだ」
「……よかった。一と別れたくないもん」

口づけの合間に見せたなまえの泣き笑いの顔がたまらなかった。
俺との間を彼女の方も悩んでくれていたとは。
これ程に愛され求められていたとは。
心の底から安堵と幸福感が湧いてくる。
ゆっくりと流れる音楽に合わせ身を添わせ踊るように、二人は二人に合ったペースで進んで行けばいいのだ。
友人の忠告も雑誌の情報もありがたい、けれど二人だけにしかわからないリズムというものもある。
二人にとってパートナーはこの先もずっとお互いだけ。互いの心だけは見失わないように、信じ合ってさえいれば何も怖いものなどないのだから。
なまえの身体を愛おしく抱き締めたまま斎藤が耳元で囁く。

「焦ることはないのだな」
「ん、そうだね」
「だが……ゆっくりと言っても限度はあるだろう?」
「……え?」
「流石に俺達の速度は少し遅すぎる。……そうは思わないか、なまえ?」

眼を見開いたなまえの唇がまた熱く塞がれ、その言葉の意味を追った頭の中にやがて甘い靄がかかっていき、いつしか考える事を放棄した彼女は大好きな人の温かな優しい手にただ全てを任せた。



2014.05.22
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MATERIAL: SUBTLE PATTERNS / egg*station

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