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 人嫌いも程々に


長い夜が終わる。身体だけでなく心も一つにした長い夜が終わっていく。
満月が徐々に色褪せて、天蓋の透き通るようなレースごしに見る空は、残りの時間がほんの僅かであることを無情に教えた。
広い部屋には天井に届くほどの大きな窓があるだけで家具らしいものはなかった。壁際の灯のない燭台とベッドの下に散らばった斎藤さんのコートやスーツ、ドレスやストッキングや下着も、放り出された革靴もブーツも、夜明けの薄青に浮かび上がる。
乱れたシーツの上、彼の腕の中で弛緩していた私は俄に焦りを感じてその首元に縋り付いた。抱きしめ返す手はこの上なく優しく、宥めるように背を撫でられて胸が締め付けられる。
今はこんなにも近くピタリと合わさった素肌がもうすぐ離されてしまう。
愛しいバンパイアが何度も耳元に囁く。「愛している」と繰り返される睦言が、昇る太陽と共に夢と消えゆくことが私にもわかっていた。

「……帰った方が、」
「こうしていたい」
「このままでいたら……」

まだ闇の残る今のうちに帰らないと、太陽が昇ってしまったらあなたは。
彼の帰る場所なんて知らないのだけれど。

「離さぬ。最期まで」
「でも、バンパイアは、」
「心配ない。もう傷つけたりはせぬ、なまえを」

私のすべてを染め上げていくような綺麗なブルーの瞳を細め薄く笑う。
心配ないだなんてそんなの信じられない。
これはハロウィンの夜が見せる、ただの夢。どんなに悲しくたって夢は必ず醒めるということもわかっている。
だけど悲しいのはそれよりも、私の目の前であなたが消えてしまうこと。

「私より、あなたの方が、」
「俺の心配をしてくれるのか?」
「当たり前でしょう? あなたが、灰になるなんて、」
「愛している、なまえ。信じてくれ」
「私も愛してる。だから、」
「俺を……許して欲しい」

彼は慈しむような手つきで触れ、私の唇に人差し指を当てた。もう黙れと言わんばかりに幾度もなぞり、そうして塞ぐ。
許すって、なんのことを言っているの?
私を置いていくと言っているの?
そう思いながらも髪を撫でる手と愛しげに動く舌にまた溺れていく。
バンパイアが日の光を浴びてはいけないというのはおとぎ話のお約束で、そもそもこれは私が見ている夢だ。けれど斎藤さんの指も唇も泣きたいくらいに優しくて、触れ合う肌は温かくて、いくらこれが夢だとしても閉じた瞳からじわりと滲んでくる涙をどうすることも出来なかった。
一糸纏わぬ互いの身体にきつく腕を回し合い、胸を合わせて脚を絡ませる。

「なまえ、もう一度だけ」
「でも、」
「忘れるな、俺を」
「はじめ……、」

耳にかかる荒い吐息。
もう間もなく朝が来る。
最初の一筋の光を瞼に感じた瞬間に「……なまえ」と呼ぶ切ない声が聞こえ、私は耐えきれずに声を上げた。
目を開いた時には。
ぼやけた視界は、サラサラとした銀色の粉が眩しい朝日の中に舞うのを映すばかりで、それはあまりにもキラキラと綺麗に輝いていて、そして。
私の中にいた美しいバンパイアが消えていた。
こらえきれない涙がポロポロと溢れて落ちる。

「行かないでよ、はじめ。そばにいて欲しいって、失くしたくないって言ったの、あなたなのに」

嗚咽を漏らし、両手で顔を覆って私は泣いた。





アナウンスが響いた。
次の駅名を知らせるそれにハッと開いた私の目が捉えたのは、いつもと何一つ変わらない地下鉄の車内風景で、膝の上には黒いバッグが置かれ私はきちんとスーツを着ていた。
反射的に覗き込んだ腕時計は9時少し前を示している。
大丈夫だ、アポイントメントには間に合う。
ホッとすると同時に今しがた見ていた夢が甦った。
いつもならば資料を見たり商談の内容を確認したりしているところだ。それを私ときたら、クライアントのオフィスに向かう電車の中で眠り込んでしまったばかりか、夢を見ていたのだ。
あろうことかバンパイアに抱かれる夢だった。欲求不満だろうか……。
全身がカッと熱くなる。
地下鉄の窓の外は朝だと言うのに真っ黒で、その闇色をじっと見ていると私を抱いた美しい男の面差しが浮かぶ。不意に胸を刺す痛み。
夢とは言え、あんなことは初めてだった。与えられる感覚に乱されて思考が止まり、幾度も襲う快楽の波にただただ飲み込まれ翻弄された。
好きな人と愛し合い抱き締め合うことがあれほど甘美で切なく狂おしいものだなんて、私は知らなかったのだ。
こんなことを考えている場合ではないと思うのに、私の脳が夢の軌跡をなぞり始める。そして不意に思い当たったのは夢の中で、彼に抱かれながら甦りかけた現実世界での過去のひとコマ。
それはずっとずっと長いこと記憶の彼方に押しやったままの思い出だった。
たった今、全く不用意に、しかしはっきりと頭の中に浮かび上がってきた名前に戦慄する。

彼は“斎藤一”と言った。

人づきあいが得意じゃなかった。けれど他人との関わりを避けては社会を生きてはいけない。私は努力をして他人を、そして自分をもコントロールする術を大学時代に学んで、コンサルティング営業という職業に就いた。ビジネスでありそこに利益が発生するのであれば、ある程度までの人間関係を仕事として割り切れるくらいには大人になったのだ。
オフィスワークで毎日決まった人と顔を合わせているよりは外勤の方が幾分ましだ。交わした契約通りに仕事を運び、見合う成果を上げれば報酬もついてくる。
だけど高校生の私はそうではなかった。
人嫌いに特に理由なんかはない。子供の頃から元々一人でいるのが好きだったし、友達とはしゃぐよりも本を読んで空想の世界に遊ぶ方がよっぽど楽しかった。
無用のトラブルや煩わしさが苦手だった。特に女性同志というのはニコニコと笑い合いながら慣れ合って、それでいて心のどこかで相手をライバル視するものだ。
偏った考え方だとわかってはいた。だけどそう考えたからと言ってそれまで特に不都合なんてなかった。
私の周りにいる女性達のあいだで繰り広げられる、スペックの高い男性を虎視眈々と狙う戦いの前哨戦は高校時代から始まっていた。
私の学校でも女生徒に人気のある先輩を巡って女子が見えない火花を散らし戦々恐々としていたあの頃。でも私には関係のないことだと思っていたし、参戦する気なんてもちろんあるわけがなかった。
それなのに、ある日。

「なまえを好いている」

どうして選りによって私だったのか。
嫌だ、嫌だと思う心は向き合うことを拒否するあまり、彼の告白を無視して逃げた。
だって斎藤さんは女子の誰もが憧れる王子様みたいな人で、そんな人と私が口なんか利いたらどんな目に合うかわからない。
人が怖かった。だから私には誰もいらない。一人で静かにしていたい、そっとしておいて欲しい、あの時の私はそう思ったのだ。お願いだから近づかないでと私は逃げ続けた。

「何故、話を聞いてくれぬのだ」

霞の払われた記憶の中から彼の表情が甦る。あのとき私を切なく見つめた瞳は澄んだ美しいブルーだった。
放課後に訪れた図書室で目当ての本を探した書庫の奥、片隅に置かれた椅子で本を読んでいた斎藤さんはそこに偶然現れた私を見上げて目を瞠り、そうして苦しそうに顔を歪めた。

「俺はあんたを、どうしても」

つかみどころのない猫のようななまえに、溺れるような恋をした。

「どうしても、諦められない」
「一度だけ。でも一度だけしたら……忘れてくれますか」

捉われた身体はとても逃がしてもらえそうになかったのだ。咄嗟に口走った私の言葉を聞いた斎藤さんの顔が、まるでひどい痛みを耐えるみたいに苦しげに歪んだのを私は見なかった。
斎藤さんから目を逸らして奥歯を噛みしめた。でも私は彼を嫌っていたわけではない。ただそっとしておいて欲しかった、私が望んだのはそれだけだった。

「好いた人にそのように言われて我慢が出来る程人間が出来ていない。憎んでいい。浅ましい男と軽蔑されてもいい。だが俺は……、」

泣いているかのように掠れた声で「なまえが好きだ」と何度も呟く斎藤さんの下で、何も考えずに私は時が過ぎるのを待った。
二人合意のもと、あまりにも悲しい行為をたった一度だけ、あの日私達はしたのだ。
それでも私の瞼の裏に微かに残ったのは、苦しげに揺れる蒼玉のように澄んだ美しいブルー。
それは夢で私を抱いた愛おしいバンパイアと寸分変わらない美しい瞳。違うのは髪の長さだけたっだ。
人の脳というのは意外に都合が良く出来ている。
かき乱された身体にも心にも蓋をして、翌日からも何もなかったように過ごした。私は全てを忘れようとした。彼の名前さえも。そうして実際に忘れた。
それから間もなくの卒業式にも何も感じなかった。人の自己防衛本能と言うのはこういうもの。
だって忘れなければ、私はきっと斎藤さんを好きになってしまった筈だから。
斎藤さんのような人を受け入れることは怖くて、あの頃の頑なな私にはどうしても出来なかったのだ。





黒い鞄を提げて背筋を伸ばし歩く。
駅の化粧室で身だしなみを正した私は約束の10分前に、目的のオフィスの入る巨大なタワービルのエントランスに到着した。
作成してきた企画提案資料や第一回目の見積書は確認済みで手落ちはない。名刺入れから抜き出した一枚をカバーの裏にセットして、鞄の取り出しやすいポケットに移動させる。
初回訪問は第一印象が非常に大切だ。女である私には殊にスマートな身のこなしも必要なのだ。呼吸を整えほんの少しの緊張感を持ってエレベーターホールへと向かう。
思い出は思い出、夢は夢であると既に割り切って仕事モードに頭を切り替えた私には、その時まだ何もわかっていなかった。




Frightfully Special Night
May the magic of Halloween be with you.





書類に目を落としながら片手で口許を覆った俺に、広報室長がちらりと視線を寄越した。言葉を交わしつつ忙しなく外出準備を整えた彼は席を立つ。

「何か気になる点があるのか?」
「いいえ、何も問題ありません」
「悪いが頼むぜ、斎藤」
「承知しました」

広告費総額に変化がないにもかかわらず費用対効果の落ちた点が問題となり、既存代理店の一社に見切りをつけ新規参入代理店との取引を開始する事となった。今日はその第一回目のアプローチである。
急な出張に出る室長の背を見送り、俺はこれからやってくる先方の担当者を待つべく、資料を手に会議室へと移動した。
予め手元に届けられている概要資料である。先ほどから幾度も見直したその担当者名に再び目を走らせる。

企画コンサルタント みょうじなまえ

本来室長が担当する予定であったこの件を、急遽俺が代行することに決まったのは今朝で、確認した書類にその名を初めて見た俺は目を疑うほどに驚愕した。それが忘れもしない初恋の女性の名と同じだったからだ。
あれから何年経ったかなどと数えて生きてきたわけではないが、俺は彼女を忘れたことがなかった。
一体何の巡り合わせか、それとも単なる偶然としたならば出来過ぎている。
昨夜俺は面妖な夢を見た。
それはバンパイアが黒猫のように愛らしい彼女と愛し合う夢で、この身に残る感覚はあまりにもリアルだ。
愛おしい人の手触りも匂いも温もりも、狂いそうな程に俺を昂ぶらせた彼女の全てをもはっきりと鮮明に思い出すことが出来る。
今宵はハロウィンという祭りだという。現代では娯楽的意味合いも大きいようだが、古代ケルト発祥のそれは本来収穫を祝い悪霊を追い払う宗教的な行事だ。夢はどうやらそのハロウィンとやらに由来するものであったらしい。
折しも腕時計は9時20分を示した。
目の前のドアは間もなく叩かれる筈だ。
これがハロウィンの夜に精霊の起こした奇跡であろうとそうでなかろうとどちらでも構わない。
いずれであろうとも、俺は再び出逢う彼女をもう二度と離さないだろう。



end……




MATERIAL: SUBTLE PATTERNS / egg*station

AZURE