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03


リムの部分を無造作に掴み外した眼鏡をテーブルに置いた。僅かにくらりとする感覚に、俺は知らずに寄せた眉間を指で押す。
少々過ごしたと自覚をしていながら尚もテーブルのボトルを取り上げて空になりかけたグラスに注ぎ足す。酒には強い方だ。だが常ならばこのような飲み方はしない。
休日出勤のない週末の自室。やらねばならぬこともあるにはあったが、何一つ意味のあることを出来ず仕舞いで夏の一日が暮れようとしていた。
ソファーに深く沈みこんだまま、もう何杯目かもわからなくなったスコッチをストレートで一息に喉に流し込む。
土方歳三という人物のことは以前から知っていた。直接に関りはなくとも仕事上彼の名を聞くことが幾度かあったからだ。なまえの相手が彼と知ったときは驚くよりも、持っていた疑念が確信に変わっただけだった。
長い間思慕を続けてきたなまえに想いを伝えたことを悔いているわけではない。それを深層で望んでいたのは紛れもない事実なのだ。
しかし俺のしたそれ以外の行動のすべては、完全に常軌を逸していた。頭に血を上らせて事情も聞かずに殴りつけた男はなまえの恋人だった。そしてなまえの心を確かめもせず、まるでつけ込むかのように激情のままに彼女を抱いた。あまりにも利己的な行為だ。
刹那の幸福に酔いしれていたあの時、彼女の方は俺の下で本当はどう思っていたのか。
ホテルを出る前になまえと話をしたかった。彼女の本心を知りたかった。だがあの時は時間がなかった。キャンセルの出来ない仕事の為N県へと向かう翌朝の新幹線で、やや冷静になった俺はひたすら内省していた。
もしもなまえと土方さんとの関係が壊れてしまうとしたら、それを決定的にしたのは間違いなく俺だ。俺が望んだのはなまえの幸せな姿だった筈なのに。
いつも笑っていて欲しかった。綺麗ごとと言われればそれまでだが、彼女がそれを望まぬのに土方さんから奪い取りたいと思っていたかと言えば多分そうではない。
俺が幸せに出来るのならばどれほどよいかと考えもしたが、一番に慮るべきはやはり彼女の本当の気持ちだ。そして。……いや、だからこそ、あのままにはしておけないと思ったのだ。
出張から戻った夜、なまえとの短いやりとりの後、俺は土方さんに連絡をとった。
彼の連絡先はなまえからわざわざ聞き出さずともすぐに知れた。

「あの日はどうかしていました。すみませんでした」

研究室を訪ね、そう言って頭を下げた俺をしばらくの間言葉もなく真顔で見ていた土方さんは、ややあって出し抜けに笑いだした。その笑い声はどこか乾いていた。
目立たない程度に僅か切れた口角を見るともなく見つめれば、わざとかそうでないのか彼は長い指の先で自分のそこに触れ、そして笑いを抑えられないと言った様子を見せて続けた。

「お前、どれだけあいつに惚れてるんだ」
「…………」
「初対面の男を殴りつけるほどだ。半端なもんじゃねえんだろ?」
「……はい。本気で惚れています」
「なら謝る必要なんかねえ。お前はお前のやりたいようにやりゃいいじゃねえか」

上手い言い回しなど見つからぬ俺に対して、土方さんは俺と比較にならぬ余裕を持つ男に見えた。
改まって対面して冷静に言葉をかわせば、彼の方もなまえに本気であることを察するのは容易だった。土方さんを前にして稚拙な己を思い知らされた気がした。
それでも秘めてきた感情を一度表に出した以上、後戻りのできないことをよくわかってもいた。

「俺のしたことは最低だと思っています。それでも俺はなまえを……」
「今のなまえは誰のもんでもねえよ。だからお前はそれでいい。俺も俺の好きにするさ」

この懐の広い男よりも自分を選べと、俺にそのようなことを言えるのだろうか。
本人は気付いていないかもしれぬがなまえは人を惹きつける女だ。仕事では部下に頼られ過ぎて難儀しているようだが、そうなるのは彼女が慕われているせいだ。最近になってオフィスに出入りを始めた業者の男が、彼女をある種の特別な目で見ていたことも知っている。
俺はなまえにふさわしい男だろうか。
同僚としてではなくなまえと話をしたい。どうしても直接向き合って今この心にあるものをすべて、嘘も隠しもなく伝えたい。そうして彼女の気持ちを知りたい。
あれからずっと仕事に追われながらも、自身で処理のしきれない逡巡と抗いきれぬ焦燥が募るばかりだった。




どこかで電話が鳴っている。

ソファーの肘掛けに片肘をつき手で自分の頬を支える格好で眠っていた俺は、微かな腕の痺れとズキズキと脈を打つような頭痛を感じながら、覚醒しかける意識の中で拾った着信音を聞いていた。
真っ暗な部屋を薄ぼんやりと開いた目だけで見渡せば、そこが自室であることはわかったが時間がまるでわからない。
鳴っているのは俺のスマートフォンだろう。一体どこに置いたのだったか。
音は一度途切れた。
そして間をおかずに再び鳴り出す。
次のそれは俺をやっと現実に戻した。
出し抜けに立ち上がればすぐ前にあるテーブルに足が当たり、ゴトと音を立ててウィスキーのボトルが倒れた。構わずに暗闇の中を隣室へと歩く。ベッドヘッドのボードに置かれていたそれは、どこか切実感を伴うような音で鳴り立てる。
眼鏡を外していたせいで画面の表示など見えなかったが、俺にはそれが彼女からのコールであることがわかった気がした。

「はい」
『斎藤君? 寝てたよね、ごめ……』
「どこにいる」
『え?』
「あんたが今どこにいるのか、教えてくれ」
『え、あの、斎藤君のマンションの近くなんだけど……私もやっぱり話したいことが』
「近く? どこだ」
『駅を出てすぐの、自販機がいっぱい並んでる……隣に大きな駐車場があって、』
「すぐに行く。そこを動くな」

さんざんに悩み惑ってきたことが酔いの醒めた頭から霧散してゆく。
俺は周りの何を誰を傷つけたとしても、やはり俺自身から目を逸らすことなど出来ぬのだと痛感する。
なまえを好いている。誰にも渡したくない。
エレベーターの上昇してくるのを待てずに非常階段を駆け下りた。鉄製のらせん状の階段で俺の靴音が夜の静けさに響き、傍迷惑だろうと思うが足は止まれなかった。
地上のドアを押し開け人気のない歩道を全力で走れば、数分もいかずになまえの姿が見えた。彼女の数歩前で足を止めた俺は、息を上げたまま食い入るようにその顔を見つめた。

「走ってきてくれたの? こんな時間だし悪いかなと思ったんだけど、でもどうしても斎藤君のことが気になっちゃって……」

ミネラルウォーターを片手に自動販売機に軽く身体を凭せ掛けていたなまえは、俺を見て俄に慌てたような顔をし、機械の明かりを受けた頬に決まり悪げな笑みを浮かべる。
そうしてわずかに声の調子を落とす。

「迷惑だったらごめん。私は明日休みだけど、もしかして斎藤君は仕事入っ……」
「あんたが好きだ」
「え……っ?」
「あれからずっと考えた。なまえのことや土方さんのことを。それでも俺は、あんたが望まないとしても、それでも……どうしてもあんたを諦められそうにない」
「諦めるって、それ、どういうこと……?」

俯けていた顔を上げたなまえは驚いたように俺を見つめ返した。




なまえを部屋に招き入れ、やっと確認した時刻は深夜零時を回っていた。
部屋の中を見回した彼女がテーブルに倒れていたウィスキーのボトルに目を留める。

「一人で飲んでたんだ」
「ああ、」

なまえがさりげない手つきで倒れていたボトルを起こし置き直す。

「今日誘ってくれたのって、何か話があったからだよね?」
「特別な話ではない。ただなまえの気持ちを確かめたいと、そう思っていた」
「確かめる?」
「あんたはその、俺のことを、す、好いてくれているのだろうか……と」

振り向いたなまえの目が丸くなる。
一度触れたからと言って気安く手を伸ばしかねる俺を見るうち、何やら色々と一度に察したらしいなまえはその口元をゆっくりと綻ばせていった。いつもオフィスで見る愛らしい顔で可笑しそうに笑う。
その唇から出た言葉は俺にとっては思いがけないものだった。

「斎藤君は私のことをどんな女だと思ってたの?」
「……は?」
「誰とでもあんなことする女って?」
「そ、そのようなことを思うわけが、ないだろう」
「それなのに私が斎藤君を好きになってるって思えなかったの?」
「…………」

こちらに向き直るなまえの心地よい声は俺の心の深部をくすぐる様に柔らかく触れ、言葉の意味を理解するにつれ疼くような熱が身の裡に起こってゆく。

「斎藤君とのこれからを私も望んだから、だからあの日……」

わかっていてもわからなかった。想えば想うほど自信を失った。欲しくてたまらないからこそ不安に駆られていた。好いた人の気持ちが僅かでも己にあるなどと信じかねて、どれほど欲しいと求めても容易く手に入るものではないと考えるようになったのだ。
仕事の場でこのような考え方をしたことはこれまでにない。すべてはなまえのことだったからだ。なまえだから俺は惑わされた。

「不甲斐ない男だ。いい年をしてみっともなく独りで悩んでいた」
「みっともなくなんてないよ。斎藤君が誠実な人だから、好きになるって私は思った」
「好きに……これから、なるのか」
「もうなってる。好きだよ、はじめ」
「……っ」

唐突になまえが俺の名をその唇に載せた。ここに至って俺の顔面は火を噴いたように熱くなった。

「名前で呼ばれるの、嫌?」
「い、嫌なわけが……」
「はじめのこと、一番好きだよ」

曇りのない綺麗な笑顔を見せて俺の名と俺の求めた言葉とを繰り返す彼女を見つめ返し、初めて心からの安堵と例えようのないほどの幸福感に包まれてゆく。思わずその腰に腕をまわして引き寄せた。
頬に手を当て上向かせれば、一度くすりと笑った彼女の瞼が静かに伏せられる。

「俺のものに……本当に」
「うん」

彼女のくれた言葉でやっとすべての迷いの晴れた俺は、溢れるほどの思いを込めてその唇に己のそれを重ねた。



This story is to be continued.




MATERIAL: SUBTLE PATTERNS / egg*station

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