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 猫の耳も序でに


私にはあまりお馴染みとは言えないので、その行事のことなんてすっかり忘れていたけれど、たった今思い出した。確かに今日の日付は10月31日だ。
つまりこれはあれだ、お菓子を要求してどうこうというやつだ。
手を繋がれたままホームに下りればそこにも私達以外人影はなく、隣に立つ彼は時々気遣うように私に顔を向けた。目が合えば瞳だけで微かに微笑む。その顔を見返しては私の心臓が鼓動を速める。やがて地下鉄独特の音を立てて電車が入ってくる。
真っ黒な車両の窓に灯るのはやはりオレンジ色の灯りだった。
促されるまま車内に足を入れれば中も無人で、彼に手を引かれ隣に腰をかければ電車は静かに動き出す。
目の前の凄絶な美形に心を石化させられていたが、やっと少し落ち着きを取り戻し始めれば今度は急速に種々の疑問がわらわらと湧き上がってきた。
私の仕事はどうなるの?今日は大切な第一回目のアプローチだ。是が非でも落としたいビッグクライアントだ。最初からアポイントメントに遅れるどころか、万一現地に行けないなんてことになったら重大問題だ。
どうして私がこんな奇異な目に遭わなければならないの?
それにこの人は誰?
どうして私の名前を知ってるの?
この電車はどこへ向かっているの?
と目を落した腕時計はしかし私に衝撃の事実を伝える。
長針と短針は長い方を上向きにそれぞれが垂直になり、文字盤を左右真っ二つに分けているのだ。現在時刻が6時? ついさっきこの美形が「特別な夜」と言った意味の一部が解った気がした。つまり今は夜に向かう午後6時ということなのだろうか。
そもそも普通の地下鉄の駅であったはずのこの場所が、どうしてこんなふうに様変わりしてるの?
やはり責任の所在だけははっきりとさせておかなくては、場合によってはこの人にも…、と綺麗な横顔をキッと見上げれば、彼はこちらを向いて「どうした?」という目をした。

「あの、こういうの困るんですけど。あなた……、」

私の険しい顔つきと尖った口調を受けて、蒼玉のように透き通った瞳が小さく見開かれる。
それは心から困惑したような何とも言えない表情だった。その揺れる瞳を見返すうちにどういうわけか「どういうつもりですか」と続けるつもりの言葉が止まり不思議な感情が上ってくる。現実的なことを問うのが無意味に思われてくる。仕事に向かう私にこんなことはかつてなかった。
これは夢だ。きっとそうだ。でなければ何だというのだ。
“枕営業”だなんて失礼な評価を受けている私ではあるけれど、勿論そんなことはしたことがない。それなりの年齢になってはもはや何の自慢にもならないので誰にも教えた事はないけれど、実は男性にあまり免疫がないのだ。

「何か気に障ったか?」

彼の口調は俄に心配そうなものに変わる。気に障るとかそういう問題以前にこの状況に説明が欲しいんですけど。
だけど私の口から出た言葉は頭で考えていたこととは全く違ったものだった。

「あなた……の名前……、」
「ああ、すまない。名乗っていなかったな。俺は斎藤一だ」

ホッとしたように耳に心地のいい声で名を告げた彼に「斎藤さん、」と小さく繰り返せば口端を微かに上げ彼は頷いた。
間もなく次の駅に電車が滑り込む。
扉が開けば立ち上がった斎藤さんは手にしていた黒いフェルトハットを被り、さっきと同じように私の手を掴むのと同時に、私の営業用の大きな鞄も反対の手に取った。
中には大切な書類が入っている。けれど私はそれを咎めることがもう出来なかった。
これが夢ならば、夢と割り切ってしまえばいいのかも知れない。
たった一駅だと言うのに外へ出ればそこは無国籍な風情の漂う郊外で、現実に目にするまでは信じ切れていなかったがやはり夜だった。
ぽつんぽつんと灯る街灯は淡いオレンジ色の灯を零し、見回せばビルや車と言ったものはない。振り返り見上げる駅舎は古ぼけた石造りで、葉を落とし節くれだった大きな木に囲まれたとんがった屋根の上に、驚くほど大きなオレンジ色の満月を載せている。
「こちらへ」と先に立ち当たり前のように手を出す斎藤さんに再び手を握られて恐る恐る踏み出す足元は、アスファルトではなくて土と草を踏み固めた様な道だった。少し進んだところで枯れ掛けた蔦の絡まる小さな家のドアを彼がノックする。

「ほんとに無理です。勘弁して、そういうの」
「何を仰ってるんですか、可愛いですよ。ねえ、斎藤さん」
「ああ、」

白とピンクのアリスみたいなエプロンドレスを身につけたポニーテールの女の子が、腰の引ける私に宛がう黒いベルベットのドレスはどう見ても膝上20センチ以上はあった。
上半身がビスチェのようになっていてウエストが物凄く細く括れ、肩には華奢な細いストラップ。バストの縁と広がったスカートの裾に同色のふわふわな羽毛があしらわれていて、可愛いと言えば確かに可愛いけれど、このドレスはあまりにもセクシー過ぎる。
斎藤さんにエスコートされてこれから私はハロウィンパーティに向かうらしい。この家に既に私の衣装が用意されているということで会場へ向かう前に立ち寄ったと言うわけだ。
傍らの斎藤さんは黒い帽子を取り、衣装を満足げに眺めると私に視線を戻して「きっとなまえに似合うだろう。着て見せて欲しい」と無体なことを言った。
棚の上に置かれた大小様々のジャックオーランタンの灯りを映して、その瞳は優しく細められる。相貌からは想像のつきにくい、思いの外男っぽく節の張った長い指が伸びてきて、私の眼鏡をスッと外した。

「あ……、」
「困るだろうか」
「……、」
「なまえの素顔を見ていたい」

なんだか嬉しそうなその目に絆されて、意思とは裏腹に私の首は縦に動いてしまった。
視力は本当は悪くなく眼鏡は戦闘用なので然程問題はないが、このドレスは果たしてどうなんだろう。高校生の時ですらこんなに短いスカートをはいたことなんか無いと言うのに。
全てが予め決まっていた筋書きのようで、彼に見つめられるたびいちいち私の抵抗の気力が奪われていく。
ピンクのアリスが背後から私のスーツの上着を取りタイトスカートのホックに手をかけた。私をじっと見つめている斎藤さんに彼女がまた声を掛ける。

「斎藤さん、レディのお召し替えですよ」
「……っ、そ、そうだな、すまない、」

スラリとした黒ずくめの紳士はハッとしたように口元を手で覆い美しい目元を朱に染めた。立ち居振る舞いはあくまでもスマートで物腰が柔らかく、さっきまでどこかに妖艶さすら纏わせていた彼の打って変わったその表情に私は一瞬虚を突かれる。
「支度が出来たら、呼んでくれ」と聞き取りにくい声で早口に言うと、彼は長い紫紺の髪を靡かせインバネスコートを翻して隣の部屋へと消えていった。閉じられたドアから目が離せずに私はまた不思議な感覚に捉われる。
あの人、綺麗なだけでなくて、なんだか可愛い人なんだ……。
私にも意味の解らない熱が上ってくるのを感じる。

「斎藤さんがあんな顔を見せるのは珍しいんですよ」

クスクス笑いながらてきぱきと私の衣装を変えるアリスが「私は千鶴です、よろしくお願いします」と言ってピョコンと頭を下げる。
頬を熱くしたまま「みょうじなまえです」と答えた私の着付けが済めば、彼女は大きな姿見の中に映る私を見て感嘆の声を上げた。

「思った通りよくお似合いです」
「あの、お尻のところについてるこの長い紐みたいなのは……」
「あら、なまえさん。それ紐じゃないです、尻尾です」
「し……っぽ……?」
「黒猫の尻尾ですよ」
「くろ、ねこ……、」
「ブーツはこちらを」

千鶴ちゃんは呆然とする私にはお構いなしにソファに座らせて、ドレスと同じ生地のニーハイブーツを目の前にそろえる。華奢なピンヒール、こんなものは履いたことが無い。こんな踵で5メートルも歩ける気がしない。しかし彼女の手はよどみなく動きパンプスを脱がせた。待ち兼ねたようにドアが向こう側からノックされて小さな声が聞こえた。

「……もうよいだろうか」
「斎藤さん、どうぞ」

僅かに遠慮がちにドアから出てきて、尚クスクスと笑いを漏らす千鶴ちゃんに横目を走らせた斎藤さんは、私に視線を移し不意に足を止める。
さっきよりもっと大きく見開かれた瞳は、時を止めたように暫くのあいだ私の全身を捉えていた。食い入るように見つめる彼の深いブルーに晒されて、堪らない羞恥が込み上げ思わず俯いてしまう。

「そんなふうに見ないでください」
「すまない……、あんたがあまりに、その、」

斎藤さんは再び目尻を刷いたような朱に染めて、それからゆっくりと私に近づいた。その手にあったものを見て今度は私が目を瞠る。

「それ、」
「黒猫には愛らしい耳が要るだろう?」

斎藤さんの腕が私の頭を抱くかのように前から回り、後ろで括られていた髪がさらりと解かれる。長い両手の指が手櫛を梳き入れてからまるでティアラでも載せるみたいに、繊細な動きでベルベットのカチューシャを飾る。私は身動きも出来ず何も言わず、彼にされるがまま。
最後にコートの下のドレススーツのポケットから取り出したのは、金色に光るリップスティックだった。キャップを外し繰り出したそれは真紅の色をしていた。
少しだけ腰を屈めた彼は「これで仕上げだ」と吐息で囁きながら、右手の指先で私の頤を持ち上げて一度見つめる。左手の親指で私の唇をなぞってからゆっくりと真っ赤なルージュを引き、ほんの少し後ろに下がった。

「思った以上に……、」

私の全身を眺めた彼の言葉の先は溜息に消えていった。



Have a nice trick-or-treating!




MATERIAL: SUBTLE PATTERNS / egg*station

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