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変奏カノン


雑誌に挟んだままだった一葉。この写真を見るのは二年と少しぶりだ。
躊躇わずにピリピリと真ん中から二つに裂いていく。右側の彼女、左にいる僕。一片の僕は指から離れ地面に落ちる。手に残った片割れを見つめれば彼女の後ろ、夜へと向かうグラデーションの中、遠くに大観覧車が写り込んでいた。
わざわざ腰を屈めて、たった今落としたばかりの僕を拾い上げ、彼女の隣にもう一度繋げてみる。二人の間の歪な亀裂、それはどうしたってもう元には戻せない。



***



低血圧の僕は寝起きがきつい。休日明けの朝、まだ半分眠ったような頭でボーッとコーヒーを沸かして、とりあえず歯ブラシを咥える。
そこに「うわ、うわーーっ!」と叫び声が聞こえたと思ったら、ガチャン!とけたたましい音がして、次にはバタバタと忙しない足音、そうしてバンとドアの開く音。
頭に響くから勘弁してほしい。後でもう一眠りしたかったのに今のこれでしっかりと目が覚めちゃったじゃない。
くたびれたTシャツとジャージで口に歯ブラシを突っ込んだまま、緩慢な動作でキッチン脇のドアを開ければ、片手にスリッパを握りしめたなまえが肩で息をしながら涙目になって共用廊下に立っている。
「なんなの、いったい」
「総司……、」
僕を認めると手にしたスリッパを投げ捨てて情けない顔で飛びついてくる。いくつになっても僕の目には相変わらずな、このちっちゃいウサギみたいな子は四つ下の僕の幼なじみだ。
幼なじみとアパートで隣同士に住んでるわけは大したことじゃない。僕の隣室がたまたま空いてたことと彼女が上京する時に両親に頼まれたこと、そして僕には別段拒否をする理由なんかなかったからだ。何しろこんなタイプだから、一人にしておいたらどうなるかわからないと心配する小父さん小母さんの気持ちはわからなくもなかったし。
僕にへばりついた身体を引っぺがせばなまえは不満気な顔を見せた。「どこに出たの」となまえの部屋に足先を向ければ、さっき投げたスリッパをチラッと見やる。
「ううん、あれでもう仕留めたの……」
「へえ? じゃ、なんで泣いてるの」
「だって、嫌いなんだもん……って、わたし泣いてないし」
彼女は部屋に出るあれが本当に苦手だった。そういう仕事は僕の役目だった筈だけど、そこのところだけは自立したみたいだ。
「よしよし、よく頑張ったね」
「うん」
「と僕が言うとでも思ってるの」
「え、」
「朝からうるさいの、やめてよ」
おでこに一発デコピンを弾いてやると「いったーいっ! ひどい」と頬を膨らます。
二階の同じフロアの向こう隣、何だか迷惑そうな雰囲気でガラッと窓が閉まったので、仕方なく「すみませーん」と声をあげた。
部屋に戻って歯磨き粉だらけの口をすすぐのに、なまえがわざわざついてくるから「時間平気なの」と聞けば「あ、いけない」と慌てて自室に戻っていく。
既に身につけたブラウスもスーツのスカートもお固いデザインなのに、なまえの顔は化粧の途中で眉毛が片一方しかなかった。いくら慌ててたからってなんて間抜けな顔だろう。僕はプッと噴きだした。
きちんと整えればそこそこ綺麗ななまえのあんな顔だけはね、きっと僕しか見たことがないと思う。そしてこの先も……僕はそう信じ込んでいた。
同じアパートと言っても同じ部屋に住んでいるわけじゃないし鍵を預けあっているわけじゃない。だけど平日の夜はごくたまに何となく夕ご飯を一緒に食べたりする。そんな時なまえは自分の仕事の話なんかをして、目をかけてくれる上司がいると言うから「よかったね」と言えば「仕事の話、つまらない?」と聞かれ「よくわからない」と僕は正直に答えた。
美容師の僕とOLをしているなまえの休みは合わないし、お互いの予定なんてたいていは知らない。デートみたいなこともしないから、二人で行き来するこの二部屋だけが僕となまえの、少なくとも僕にとってはたったひとつのかけがえのない空間だ。
ああ、そう言えば一度だけ二人で出かけたことがあったかもしれない。引っ越してきてすぐの火曜日だったかな、なまえがどうしても行きたいと言った大きな観覧車の見える公園。
手持ち無沙汰になった僕がなまえの部屋のドアを開ければ、彼女はスマホの画面を見つめていた。すぐのキッチンに隣接する奥の部屋から、顔を上げた彼女は一度僕を見て、そうして少し笑って、バッグの内ポケットに大事そうにスマホを仕舞いこむ。
ドアに寄りかかった僕は、キャリーのついた小さなスーツケースの中身の確認を始めたなまえをじっと見ていた。最終チェックに余念のない彼女はもう目を上げない。スーツケースのファスナーを閉めてから、さっきのバッグの奥にそっと入れ込んだ折りたたみの傘は深く濃いブルーで、彼女の持ち物の中ではなんだかその色が異質に見えた。
「研修はどこだっけ?」
「横浜。三日もホテルに缶詰め」
「横浜だったんだ?」
今回のことは知ってたけど場所は聞いた覚えがなかった。聞き逃したのかな。でも、横浜だなんて。
「決まった時に話したのに。ねえ、寂しい?」
「なんで? 静かで嬉しいけど」
「ひどい……」
「久々に女の子と遊びにでも行こうかな」
「女の子って……いつかの?」
「は? 誰のこと言ってるの」
「別に。誰とでもどうぞご自由にお出かけください!」
なまえの見えるところで女の子と二人でいた記憶なんて僕にはないんだけどな。こんなことを言えば自由に遊ぶよりもまるで、なまえといることを優先してるように聞こえるかもしれないけど、実際いつからだろう。僕はそうなってしまっていた。
女の子が特に好きというわけでもないし誰でもいいわけじゃない。だけど僕の周りには職業柄かいつも女の子がいた。誘われれば付き合うし寝たいと言われれば寝た。なまえの存在が特別になるまでの僕は、その程度に軽く生きていた。
「髪、伸びたね」
「また切ってくれる?」
「三万円になります」
「意地悪、ケチ。て言うかふっかけ過ぎじゃない。もう頼まない!」
憎まれ口をききながらなまえは立ち上がり、白に近いグレーのスーツの上着を羽織った。踵の高すぎないスクエアトゥのパンプスに小さなつま先を入れる。
嘘だよ。帰ってきたら、きっとね。
なまえの髪をカットするとき。それが僕にとって彼女に触れられる唯一の機会だ。
階段の降り口まで行ってキャリーバッグに手を伸ばしたら、なまえが首を振った。降りていく背中を見送ってもう一度ベッドに戻ろうかと考えたけどやめた。出勤時間にはまだ時間があるのにわざわざ早くに起きだした僕の意図をなまえはわかっているのかな。
雨の来そうな空を一度見上げ、退屈だから時間には早いけど店に行こうかなと考える。
思いもかけない再会がこの後にあるなんて、そしてそれが全て変わっていくきっかけになるなんて、僕はまだ知らなかった。




「斎藤さん」

その日の業務を終えパソコンをシャットダウンしたところで呼びかけられて振り返れば、課員が三々五々に帰り支度をする中、研修資料を手にしたみょうじが笑っていた。
「みょうじ、明日からか」
「はい。斎藤さんのおかげです。ご期待に添えるよう、たくさん勉強してきますね」
「ああ、頼もしいな。最終日の夜には俺も行くつもりだ」
「はい」
「その時に、その、」
「はい?」
「いや、頑張って来い」
一瞬言いよどんだ俺を見て彼女はほんのりと笑んだ。彼女が俺の部下として配属されて二年あまり。二泊三日で行われる今回の本社研修は人事考課と上司の推薦によって決まった参加者が、更なるスキルアップを目的として関東近郊の支社から集まる。内容の詰まった三日間はかなり厳しいカリキュラムである。
初めて出会った頃の彼女は粗忽で失敗も多く、しかし意欲と上昇志向は人一倍あった。芯が強くミスや叱責では決して泣かない。そういうみょうじが初めて涙を見せたのは、初参加のプロジェクトが成功した時だ。
あの日から俺の感覚が一変した。
これまで近づいてきたのは俺の立場や収入というものに重きをおいて、まるごとの庇護を求める女性ばかりだったような気がする。色恋にまるで興味を持てなかったのは、そういう女性ばかりが周りにいたからなのだろう。
しかし部下としてのみょうじを日々見つめるうちに、彼女となら共に在りたいと考えるようになった。肩を並べ隣を歩ける女性だと感じた。彼女のサポートならば幾らでもしたいと。無論仕事の上で私情を挟む気はないが、もっとみょうじのことを知りたいと思うようになった。然して俺が初めての恋情に囚われていったのは当然の帰結と言えたかもしれない。
研修終了の翌日は土曜日だ。最終日の夜に彼女と共に過ごしたいと、俺はそう考えていた。今ひとつ曖昧だった関係を一歩進めたいと思った。
共にオフィスを出て駅までの道を歩きながら、他愛無い話をする。不意に起こった一陣の風になぶられた髪をみょうじが掻き上げる。真っ直ぐな黒髪を梳く彼女の指先、その仕草をどうにも眩しく感じながら見つめた。
「髪が伸びたのだな」
「切ろうかなと思ってるんです」
「以前聞いた幼なじみの店か」
「はい。美容院って自分に合うところを探すのが結構大変だから、結局そういうことになっちゃうんです。斎藤さんはどんなお店に行かれるんですか?」
「俺か? 俺は適当な散髪屋だが」
そう答えればみょうじは「斎藤さんらしい」と笑う。俺らしいとはどういうことだろうと思いながらも、彼女の笑顔に癒やされる自分を感じ俺の頬も思わず緩む。駅に着けばそれぞれの路線への階段上で少しの間立ち止まった。
「明日から少し留守にしますけど」
「ああ、では三日後に、な」
「はい」
彼女は胸元で小さく手を振って階段を下りて行った。
その翌日も俺にとっては何一つ変わらぬ普通の一日であったが、いつものようにざわめくオフィスがみょうじのいないたったそれだけで心なしか広く感じられる。
朝スマートフォンに送った短いメールに少し時間をおいて戻った返信は、みょうじらしい真摯な言葉で研修への抱負、そして短く付け加えられていたのは金曜の件だった。オフィスでは話しにくかった事柄をわざわざメールに書き添えた自分に苦笑が漏れるが「ご一緒させてください」という言葉で内心浮き立った気分になる。しかし今頃は研修に臨んでいるだろう彼女を思えば、いささか不謹慎かと俺は意識して口元を引き締めた。
この日は妙に蒸し暑い一日となった。本社勤務の同期に個人的な用向きで連絡を取り、欲しい情報を得てから帰り支度にかかる。上着を羽織りかけ、少し考えて腕にかけビジネスバッグを手にする。
外に出ればビル風は昼の熱を残していた。梅雨入りしたとのニュースの後は一向に降らなかったが、今夜こそ一雨来そうな不快な湿気が纏いついてくる。
いつもように地下鉄の階段を下りながら不意に昨日のみょうじとの会話を思い出し、俺自身も少し長くなりすぎた感のある前髪を掻き上げかけてふと手を止めた。
それは全くの思いつきで、俺にそういう行動は滅多にないのだが突然そこに幾ばくかの興味を覚え、いやこれは興味ではなく必要性のあることだと言い訳めいたことを己で己にした。腕時計を覗けば19時前で、おそらくまだ間に合う。俺はいつもの帰宅とは違うホームへ向かう為足先を変えた。
長く東京に住んでいるがそこは降り立ったことのない街だ。目抜き通りでも駅から近いその店はすぐにわかった。全面が硝子張りになった内部は伺い見るだけでも奥行きが広く天井は高く、煌びやかな照明に煌々と照らされた高級感のある店内に数え切れぬスタッフの立ち働く姿が見えた。記憶にある母親が行っていたような美容室を想像していた俺には、足を踏み入れるのに相当の勇気を要する佇まいである。それが以前からみょうじとの会話に時折差し挟まれた彼女の幼なじみが美容師として勤める店だ。
「男性のお客さんも多いんですよ」と彼女は言った。だからと言って特に勧められたわけでもないのにこの場所までわざわざ来た俺は、おそらくみょうじの幼なじみという人物を無自覚ながら気にしていたのだろう。しかし名を知っているわけでなく、ここにこれだけの人数の店員がいるのならば、その幼なじみを特定するなど到底不可能ではないか。
磨き立てられた硝子に映る俺は仕事帰りのサラリーマンで、洒落た姿の客達の中にあってはいかにも場違いだ。ドアの前でしばし躊躇った挙句、やはり帰ろうと思った。声をかけられたのはその時だった。
「よかったら中へ、ど……」
かつて聞いた覚えのある、よく知った声。内側から硝子のドアが大きく開け放たれ、背の高い男が出てきた。俺の方から視線を合わせる前に言葉を途切れさせた彼の息を呑む気配を感じる。その姿を視認した俺もまた驚愕に口を噤んだ。
この時、互いの胸中にあった感情は似たようなものだったのではないだろうかと後になって思った。
それから二日後の金曜、俺は車で出勤し夕刻まで詰めた仕事をこなし、定時前にオフィスを出て予定通りに横浜へと向かった。何日も前からこの為に業務の調整をしてきたのだ。予め予約をしていたホテルの駐車場に車を入れ、ロビーで待てば待ち合わせた時刻よりも早くにみょうじが姿を見せた。軽く手を上げれば笑顔を浮かべる。
「お疲れ様」
「仕事の後なのに来てくださって、ありがとうございます」
待ち合わせの場所をここに決めたことを言葉でなくメールのやり取りで伝えた為、実際に彼女に会うまでは己の先走った行動にもしや本心では呆れられていないかと一抹の不安を抱えていた。
「今夜は少し、改まった話を……二人でしたいと思った」
「……はい」
「着替えてきたのか?」
「研修したホテルに荷物を預けてあったので、出る前に化粧室で。あ、斎藤さん、髪切りました?」
「ああ、少しな」
「素敵です。似合いますね」
そう言って笑うみょうじの様子に安堵し、そうとなればいつも通りの笑顔と常には見慣れぬ清楚な白いワンピース姿を殊更に愛おしく感じた。この為にその服を用意してきてくれたのだろうか。すぐにも抱き寄せてしまいたいという己の衝動を努力で抑える。
「メインダイニングに予約を入れているが、時間までにまだ少しある。外を歩いてくるか」
「はい。わたし、港の見える公園がとても好きなんです」
「ああ、そう言っていたな」
彼女のスーツケースをホテルクロークに預け、港を一望できる公園まで出かけた。俺の隣を歩く彼女はハードな研修後にも関わらず、疲れた様子もなく寛いだ表情をしていた。
遠景を見はるかせば大きな観覧車が見え、それはまもなくの日没から美しく輝き出すだろう。触れるともなく触れた指に指を絡めれば拒む素振りはなく、繋ぎ合わされた手はホテルに戻るまで解かれなかった。
この時俺は、名実ともにみょうじを俺のものにしたいとこれまでになく強く望んだ。このように誰かを心から求めるのは生涯で初めてのことだ。
この後の食事のテーブルで、スペシャリテによく合うというワインをソムリエに勧められて俺はわずかに迷った。本来ならばワインを楽しみたいところではあったが、みょうじは当然ながら俺が車で来ていることを知っており、ここで酒を口にすれば食事の後の行動は決まったも同然で、それではあからさまではないかとも思う。
彼女の意思を確認する意味をこめ祈る気持ちで「ワインを頼むか?」と問えば、みょうじは「いただきたいです」と答えた。ほのかに頬を染め微笑む彼女の様子に勇気を得て「今夜は帰せなくなると思うが、いいのか」と言葉を押し出す。




今日は金曜の夜でお客さんが多いから、店を閉めるのは下手をすれば22時を余裕で回ってしまう。後片付けまでしたら絶対に間に合わない。21時にはもう我慢の限界が来た僕は、いつになく他のスタッフに頭を下げてお腹が痛いと言った。そうして駅まで走り電車に飛び乗った。尻ポケットに突っ込んだ財布とスマホ、手に持っていたのは二年前の日付けの情報雑誌だけ。
電車のドアに凭れ、夜の色をした窓ガラスの外を見ていた。勢いでこうして電車に乗っておいて、僕はどうするつもりなんだろう。
なまえの話に時々出てきた彼女の上司とか言う男。それがどういう奴なのか、考えないようにしてたけど本心ではずっと気にしていた。その男に僕の店の話をしたとなまえに聞いた時からは拭い切れない悪い予感みたいなものがどこかにあって、だけどまさかその予感がこんなことだったなんて、いくら何でも僕にわかるわけがなかった。
今になってひとつだけ思い出したんだ。なまえの言ったいつかの子っていうのがどの時の子のことだったのか。上司の話を初めて聞いた翌日、得体のしれない不快感が消えなくてイライラしていた僕は、初めて女の子を部屋に連れ込んだ。プライベートに立ち入られることは元々好きじゃないからあれっきりだったし、その子の顔だってもう記憶にもないくらいだったのに、そのことをなまえが憶えていたことの方にむしろ驚いていた。
こういうのを何と言うのかな。すれ違い? 空回り?
これは宿命。いや、報いとでも言うのかもしれない。やり方によってはいくらでも未来は変えられた筈なんだ。最初から相手が一君だとわかっていたならば、きっと僕は。
青天の霹靂なんて言葉はそうそう使うものじゃないと思う。だけどあの時の状況はその言葉が妙にピッタリで、店のドアを開けた格好で固まった僕は自分でも自覚できるほど呆けた顔でしばらく一君を見ていた。
一君は高校の同級生だった。僕とは何の共通点もなくて言わば正反対と言ってもいい彼を、それでも嫌いだったわけじゃない。同じ剣道部に所属したあの頃、僕らは双璧と呼ばれていた。
立ち尽くしたままあまり気の進まなそうだった一君を店内に招き入れ、「僕がスタイリングする」と言ったら彼は少しだけ嫌な顔をした。
「ねえ一君、僕プロだよ? 少なくとも……」
鏡の中で目を合わせながらの短いやり取りで、僕らは驚くほど的確にお互いの置かれた状況や感情を理解した。
「好きな子に笑われないくらいには仕上げてあげるから。どうする?」
「毛先を切る程度でいい」
「僕、散髪屋じゃないんだけど」
「時に、あんたには……幼なじみの女性がいるか?」
単刀直入に切り出したのは一君の方だった。十年近くの時を経ても、誤魔化したり取り繕ったりしない彼の姿勢は可笑しいほど変わらない。試合の時も彼はいつもそうだった。
一君の少し癖のある髪に指先を梳き入れる。アホ毛が少し立ってるところとか、この髪質もあの頃と同じ。
「……うん、いるけど? 僕の幼なじみにはどうやら気になる男がいるみたいだね。ではシャンプーしますんで、こちらへどうぞ」
「…………、」
シャンプーを終えて慎重に鋏を入れれば、しばし沈黙の後、彼は言った。
「幼なじみとは……総司のことだったのか」
「…………で、君がなまえの上司ね」
「あんたはみょうじをどう思っている」
「……そんなの一言では言えないかな。だいたいそれ、僕がわざわざ説明する必要ある?」
「答えたくなければいい。だが俺は言っておく。金曜の夜になんの邪魔も入らずに済めば……彼女の一番の気に入りという場所で伝えるつもりだ」
「そう」
一君とは昔からそうだった。一を言えば十伝わる。当時はその阿吽の呼吸が心地よかったものだけど、今はこんなにも腹立たしくて。よりによってこんな場合にも彼と僕はどこかでわかり合っている。
「彼女に思いを抱く男がいたとして、その男がいかなる行動を起こしたとしても、俺には譲る気はないが」
「……ふうん」
僕は鼻で笑った。それしか出来なかった。そうやって手の内を簡単に明かして君はいつも真正面から来るんだよね。まるで剣道の試合と同じ。
「手元が狂いそうだからもうその話よさない? 前髪、オカッパにしちゃうよ?」
「やめてくれ。それにしても総司が美容師になっていたとは驚いた」
「大学は行ったんだけどね、つまらないから途中で止めちゃった。それで後から美容の専門に入り直したの」
「そうか」
「決められたレールの上を走るのは僕の性に合わない。人に指図されるのもね」
「わかっている」
昔から一君は悪く言えば柔軟性がなくて、でも良く言えば自分を曲げない意志の強さがあった。それも僕と正反対。好きになった女の子の話なんて聞いたことがなかったけど、彼もモテたことはモテたから話題に事欠かなくて僕はよく揶揄って面白がったりした。そういうとこ、もうあの頃とは違うのか。
取り出したスマホの画面を見る。幾度かかけようと思いながら、結局はかけられなかった電話。表示されてるのはどう考えても研修なんてとっくに終わってるだろう時間だ。一君はもうなまえと会ってるんだろうな。
こうして気だけ焦る僕の方は、これからどうすればいいのかさえまだ何一つ決めてもいないのに。電車が目的の駅のホームに滑り込む。





クロークでみょうじのキャリーバッグを受け取れば、気を利かせたベルボーイが客室まで運んだ。ドアを開き部屋の内部まで運び込もうとするのを止め、頭を下げるのに一つ頷いた俺は、彼が立ち去るのも待てずにみょうじの腕を引く。
みょうじが頬を赤らめていたのは酒の所為だけではなかっただろう。音を立ててドアが閉まるなり強く抱きしめれば、彼女は抗わずに俺の腕に収まった。





――全文は年齢条件を満たす方のみBehind The Scene* にて閲覧ください――





もうどのくらいここにこうして座ってるだろう。
あと一時間もしないうちに日付は変わりあの観覧車のイルミネーションは消える。幻想的に配された園内の照明やビルの灯りが作り出す夜景、そんな綺麗な光とは対照的な暗闇で僕は俯いている。僕はただじっと暗い海を見ながらここに座っている。
だってあの日なまえと二人で座ったこのベンチ以外、他にどこを探せばいいのかなんて僕にはどうしたってわからなかった。
僕は一君よりもずっと器用で世渡りも口も上手いと思い込んでたけど、本当に必要な時に必要なことを口に出すことだけが出来ないんだ。一番大事な人に無神経な言葉ばかりを投げつけて肝心なことが言えず、ただ傷つけてただけかもしれない。そんな僕だからなまえに伝わらなかったのも無理はない。
望みは願う前に泡のように砕けて消えた。何も気づきたくないと目を逸らしてきたことへの、これが報いなんだろう。
手のひらに並べた二つの欠片。ちぎれた写真の上にぽたりと滴が落ちる。空がいくつもの滴を落とし始めて、それは瞬く間に数を増やして、まるで僕の代わりに泣いてくれてるみたいにいくつもいくつも絶望の涙を落として、みるみる強くなる雨が僕の慟哭をかき消した。



***



本当のさよならはそれからほぼ一ヶ月くらい後のなまえの引っ越しの日で「よりによってどうしてこんなクソ暑い真夏の盛りにするの」と不満をたらたらと漏らしながらも、荷造りの手伝いという最後の仕事をやり終えた。殆どの荷物は処分してこの部屋から運び出すものなんて、大した量じゃなかった。
汗を拭いながらなまえが微笑んだ。
「総司、ありがとう」
「今日の分は貸しにしとくよ」
「え、」
「あとで請求するから」
一君が口を挟んでくる。
「いい加減にしろ、総司」
「ふん、誰が一番面倒な粗大ごみ処理をしたと思ってんのさ。請求書の宛名は一君にしとくからね」
憎まれ口を言ってるのに、ふとなまえが寂しげな顔を見せた。
「そんな顔しなくてもいいよ。別に永遠の別れじゃないんだし」
「そうだよね」
照れ笑いをしたおでこにデコピンをお見舞いすれば、彼女は今度は頬を膨らませる。その顔を見て僕は声を出して笑った。
だけどこれが最後だ。もう彼女に二度と会うつもりはない。
僕はね、僕の助けが必要なちっちゃなウサギみたいななまえが好きだったんだよ。



2016/06/22

▼真秀様

真秀さん、このたびは100万打企画にご参加くださりありがとうございました。真秀さんにいただきましたリクエスト内容は『現代で、沖田さんと斎藤さんに奪い合い、かつ、斎藤エンドで沖田切ない要素』でした。このテーマはもう切なくて(どっちにも肩入れしきれず)沖田さんはフラれなきゃいけないしでも斎藤さんを傲慢な勝利者にもしたくないしと悶えつつも、不完全な二人の恋というイメージで書きました。ヒロインとの関係と斎藤沖田二人の気持ちの錯綜を、回想シーンで前後したりもしてますが一応時系列で交互にしてみたらまた恐ろしく長くなってしまい(通常の短編二本分くらいの長さ笑)しかもヒロインがなんだか脇役っぽいですね。すみません!それと大人描写部分が半端な感じですみません!その点も悩んだんですが、なんとなく、沖田さんが気になって没頭できなかった斎藤さん(=私)でも一応鍵つきます。こんな仕上がりですが真秀さんには少しでも楽しんでいただけたら嬉しいです。この度はリクエストをありがとうございました。





MATERIAL: SUBTLE PATTERNS / egg*station

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