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君がセラピー


「大丈夫かい? 本当なら私が行くところを、手が離せないばかりにすまないね」
「何度も行ってますし、大丈夫よ。では行ってきます」

薬研を用いてゴリゴリと生薬を砕きながら気がかりな顔をする父親に元気に応えると、大切な薬を風呂敷に包んだなまえは贅を尽くした金箔貼りの看板を掲げる店の門口から表へ出た。壬生方面に足を向ける。
梅雨がきていて幾分じめじめとしているが、彼女の足取りは軽い。
お父さんたら何も知らないのね、と歩きながら忍び笑いを漏らす。行く先は町で恐れられている新選組。
だけど本当はとっても気さくな方達なんだから。
御典医御用達で薬種を扱うなまえの父は世間をよく知っているようでいて、案外巷間の噂に流されているとなまえは思う。父から新選組にお届けを頼まれるのは、なまえにしてみれば逆に嬉しくてたまらないことだった。
今朝方までの雨が上がり澄んだ空気。鮮やかな若木の緑。路地に咲く紫陽花にもつい微笑みかける。
と、美しい花に似つかわしくない不穏な黒い影が、突然に脇から現れた。

「そいつを渡してもらおう」
「ひゃ!」

明らかに不逞の輩と思しき身なりの悪い男がやにわになまえの風呂敷づつみに手を伸ばした。
お金か何かと勘違いしてるのかしら?
不意のことに足が竦み、包みを抱きしめて小さく悲鳴を上げるしか出来ず目をぎゅっとつぶるが、なまえの身体にはなんの異変も起きず、代りにすぐに男の情けないうめき声が聞こえた。

「ううっ……いてててて」
「この娘に触れるな」

恐る恐る目を開けば目の前にいたのは、浅葱色の羽織を纏い端整な姿で表情を動かしもせず、男の腕を軽く捻り上げている斎藤であった。手を離さないままこちらを見下ろす。

「斎藤さん」
「大事ないか、なまえ」
「はい、ありがとうございました」

屯所につく前に会えたことが嬉しくて、たった今までの恐怖も忘れなまえは笑みを浮かべた。
巡察の途中だったのか後ろに従えた隊士に男の身柄を預け、目だけで「連れて行け」と指示をしてから斎藤が再びなまえに向き直る。引き取った三人ほどの隊士達は「早く歩け」「神妙にしろ」などと口々に言いながら機敏な動きで一足先に浪士を奉行所へと引っ立てていった。
なまえはほっと安堵の息をついたが、斎藤がかすかに眉を寄せる。

「あんたはまた」
「す、すみません」

随分前になるがいつかもこうして絡まれていたところを斎藤に救われたことがあり、それがなまえと斎藤との出会いだった。不逞の浪士を一瞬で締め上げる彼の凛々しい背に目を奪われたあの日から……。
思い出してかすかなときめきを感じ、反した決まりの悪さまたは照れといったものの綯交ぜになった気持ちでなまえは俯く。斎藤が声の調子を改めた。

「いや、咎めているわけではなく、心配をしただけだ。あんたのような娘は目をつけられやすい故、もう少し周りに目配りをしてくれ。時にその手の物はもしや、屯所への届け物か?」
「これから気をつけます……。これは、そうなんです、山南さんからのお頼まれ物で」
「ならばちょうどよい。俺達も戻るところだ」

斎藤以下三番組隊士達に護衛されるような形で伴われ、心密かに慕う人の隣をなまえは頬を染めて歩く。口端を少し上げかけ、すぐに引き締まった表情に戻した斎藤の目元もほんのりと朱を刷いていた。
あら? だけどどうしてこれが新選組へのお届け物と斎藤さんはわかったのだろう?
ふと目を上げる。

「あ、斎藤さんの隊服の袖、切れています」
「ああ、これは先ほど別の件で」

斎藤が自分の左腕にちらりと目を落とすと、心配そうななまえの視線を受けて小さく笑んだ。

「お怪我をしたんですか」
「怪我ではない。ただの打ち身だ」
「大切な左の腕を? 大変、あちらに着いたらすぐにお手当をします」
「いや、大丈夫だ」
「打ち身に良く効くお薬を持って来てるんです。貼るだけですぐに楽になる膏薬で……、」

先刻斎藤に守ってもらった風呂敷包みを抱えなおし、微笑みかけたが斎藤は無表情に応えた。

「大丈夫だと言っている。後で薬を服用しておく」
「もしかしてそれ……、」
「なんだ?」
「それってお酒と一緒に飲む、あれ……」
「何か不都合か」
「…………」

たった今まで柔らかだった瞳がにわかに細まり、斎藤の声が少しだけ低くなる。なまえはハッと言葉を飲み込む。不都合というのとは違うけれど……。
斎藤は優しい人だがこの件に関してだけは誰の意見も聞こうとしない。なまえが食い下がって言い合いになったことさえある。これ以上何かを言って悶着が起こるのは嫌だ。なまえも少しは学習をしているのだ。
黙りこんだなまえに斎藤がちらりと視線を寄越す。

「大きな水たまりがある。足元に気をつけろ」
「……はい」

いくらか口調を和らげ気を利かせたつもりで自分へ引き寄せようとした斎藤の腕を、なまえは気づかないふりでついと避けた。

「…………」
「…………」

言い争いにはなっていないが、つい先程までの華やいだ気持ちが萎んできている。斎藤もまた黙りこむ。
なまえの店からこうして薬を届けるようになって久しいが、これまでに彼女の知る限り斎藤が彼女の届けた薬を使ってくれた試しはなかった。最も斎藤は細身の割に身体は強く特に病にかかるということもないのだが、捕物の時に小さな傷や打ち身などはしばしば出来るだろう。しかしどのような症状においても誰がなんと言おうとも譲らず、信頼してやまない例のあれを彼は一貫して使うのだ。
……石田散薬。
それは斎藤が心から尊敬する新選組の副長土方の実家にて製造されている薬である。
なまえは無論、石田散薬にも土方副長にも一切の恨みはない。しかし斎藤が賛美してやまないその薬に、実は少しばかりの反感を持っていた。
何故ならなまえの父の調合をした薬は正真正銘の万能薬だ。何しろ御典医のお墨付きだ。これを彼の役に立ててほしい、そう思うのに。
私がお父さんを手伝って丹精込めたこの薬より、土方さんの石田散薬を斎藤さんは選ぶのだもの。
私の薬と土方さんの薬のどちらが? などと言えば、それはまるで私と土方さんとどちらが好きなんですかと問うているのに似て、とてもじゃないがそんな滑稽な言い方を出来るわけがない。
出来るわけはないけれど、やっぱり土方さんの方なのかしら……。
悶々と彼女は考える。初めて会ったその日からなまえは彼への想いを育ててきたが、斎藤の方も自分を憎からず思ってくれていることを薄々知っている。彼女はそう鈍い女子ではないし、顔見知りになって良くしてくれる新選組の他の幹部の皆の口振りからも察せられる。
しかし斎藤とはっきりと想いを伝え合う以前に、すぐにお互いの間にこうした穏やかでない空気が漂ってしまう。こうなるとどうしてよいかわからなくなる。そしてその理由となるのが常にその石田散薬なのだ。
ぼんやりと考え事に耽ってしまったなまえは、ふと上げた目の先に綺麗な藍色が迫るのを見た。少し腰を折るようにして斎藤が彼女の顔を気遣わしげに覗きこんでいる。

「気に障ったのか?」
「あ、……いいえ」

白々しい、と思うのが普通なのかもしれないが、斎藤に限ってはどんな時でも空言など言わないとなまえにはわかっている。
彼の瞳は尚もなまえを見つめる。芯が通っていて誠実で、信念を容易く曲げたりせず貫き通す人だ。だからこそこの人は心から信用できる人であるわけで、だからこそ好きになってしまったわけで。
なまえが小さく息をつく。
彼女の表情が曇ったことに斎藤は斎藤で本気で困惑していた。




その日は山南に呼ばれていたのでなまえは真っ直ぐに山南の私室に向かった。
頼まれていた生薬の類を届けて少しの間話をして出てくると、ちょうど皆が稽古をしているところだった。
真剣に打ち合う姿に気後れを感じしばらく黙って見つめていたが、一息ついた雰囲気に小さく「こんにちは」とかけた声にいち早く反応をしたのは平助である。
「よう、なまえ。来てたのか」と満面の笑みで身体ごとこちらを向いた平助の頭上に、それまで相手をしていた斎藤の木刀がぴしりと振り下ろされた。

「痛え! 痛えよ、一君!」
「打ち合いの最中に余所見をするあんたが悪い」
「だからってさあ、稽古で不意打ちはねえだろ! でかいコブが出来ちまったじゃねえか」
「稽古であろうが本気を出さねば実戦の役に立たぬ」

ぶつぶつと言いながら頭を押えてその場にしゃがみこむ平助に向けた眼差しは醒めていたが、斎藤は懐に手を入れながらおもむろに近づく。自分が急に声をかけたからこんなことになったのだと、なまえも慌てて駆け寄り持っていた風呂敷包みを解いた。

「平助」
「平助君!」

斎藤となまえ、二人の手はほぼ同時だったが、腕の長さの違いのせいで斎藤の石田散薬の薬包がより近くずいっと平助の眼前に差し出された。平助は二人の気迫に押されてたじろぐ。

「これを飲むといい」
「これは丁字や桂皮を材料にしたお薬で、炎症を抑えたり鎮静する効果があるんです」

なまえも負けじと丸薬を平助に押し付けようとする。斎藤が横目でなまえを見た。

「石田散薬では不足と?」
「そんなことは言ってませんけど……」
「でもさ、石田散薬って多摩川っぺりのただの雑草が材料だよね」
「総司!」

横合いから総司がにこにこと笑って言えば、斎藤は鋭い目で今度は総司を睨みつけた。慌てたようにその場をとりなそうと平助がやせ我慢をして立ち上がる。

「ちょ、総司、余計なこと言うなよ! ……えーと……あれ? コブが引っ込んできたみたいだぜ。もう薬はいらないかな……あははは……」
「だってほんとのことじゃない」
「沖田さん、もうそのことは……、」
「いや、これははっきりさせるべき事柄だ。大層な名のついた薬草でなくとも、石田散薬の薬効については俺の身体で証明されている」

また繰り返すのは御免だと話を終わろうとしたなまえを斎藤が見た。
ああ、またこうなってしまう。彼女はすっかり軽くなった風呂敷づつみとは別に、先程山南に渡されたある物を収めた懐を知らず知らず押さえた。

「私は石田散薬が効かないって言ってるんじゃないですってば! ただ私の薬を試してみてくれてもって……」
「え、石田散薬なんて効かないよ、普通の人には。偽薬効果は恐ろしいね、一君?」
「総司、言いたいことはそれだけか」

斎藤の全身から殺気に似た焔が立った。
俄に喧しくなったそこへ、右手に筆を持ったままの土方が足音荒くやってきて「てめえら、うるせえぞ! 仕事の邪魔だ!」と眉間に深い皺を寄せ一喝する。
……が、そこにいた全員が一斉に自分を注目してくるのに、土方は刹那ポカンとした顔になった。

「な、何見てんだ雁首揃えやがって。俺の顔になんかついてるか?」
「副長」
「なんだ、斎藤」
「俺は副長を信頼しています」
「あ? ど、どうした、藪から棒に……、まあ、そりゃあ……ありがとよ」
「それ故、ご実家で生成されたこちらも無論……、」
「ちょっと土方さん。いい加減に一君の呪縛を解いてあげたらどうです?」
「総司、いったい何の話だ」
「石田散薬のことですよ。はっきり言って効きませんよね?」
「今更なに言ってやがる。あたりめえだ。そもそも多摩川の河童に作り方を教わったってえ胡散臭え話もあるぐれえだしな。当然、効かな……」

言いかけて土方の顔が急に強張る。ふいと視線を当てた斎藤が、今までに見たこともないような剣呑な表情でじっと自分を見据えていた。
つい言葉を途切れさせた土方を真っ直ぐに射貫く斎藤の薄い口唇が僅かに開いた。そして底冷えのするような低い声がゆっくりと押し出された。

「効かな……なんでしょう?」




その夜。なまえは天井を見つめたまま、寝床の中でいつまでも寝つかれずに思い悩んでいた。
薬をすり潰す乳鉢やら秤やら、らんびきと言った蒸留器のたぐい、はたまた何やら様々な硝子瓶などの沢山置かれた山南の部屋を訪れた時のこと。屯所への道すがらでの斎藤との間のモヤモヤを話してしまった。山南の穏やかな雰囲気につい口を滑らせてしまったのだ。
そうしてなまえは顔を横に向け、部屋の隅の化粧台に目をやる。抽斗に今収まっているのは山南に渡されたものだ。その時の山南の言葉を思い出す。

「石田散薬を信奉するのはよいのですが、みょうじさんにこんな顔をさせては。全く斎藤君も融通の利かない人ですね。巡察に出る前からそわそわとしていたくせに」
「え?」
「あなたが今日こちらに来られると私が言ってしまったので」

なまえはわかりやすく赤面した。だから斎藤さんはあの場所にいてくれたのかしら? 些か都合のいい考えが頭を過ぎった。
そんな彼女を見つめ、眼鏡の奥で目を細め微笑んだ山南が差し出したのは、口の広い小瓶に入ったねり飴のようなものだった。瓶の中身に顔を近づければほんのりと甘い香りがしている。

「薬を商うあなたにお勧めするのもおこがましいのですが、これを試してみては如何でしょう」
「これは」
「惚れ薬……とでもいうのでしょうか。こういったものはみょうじさんのところで扱ってはいないでしょう?」
「はあ……」
「古代から使われているナルコユリの根茎が主な成分です。身体に悪いものではなく、むしろ滋養強壮……特に強精にも効果はてきめん…………」
「え、」
「いいえ、なんでもありません。甘くて美味しいものですよ。これを斎藤君と一緒に、薬などと言わずにおやつだと思って」
「…………」

山南の眼鏡がきらりと光った気がした。それに幻惑されるように思わず受け取ってしまった。
惚れ薬とはどう考えても怪しいが、まさか新選組の総長が幹部を命の危険に晒すなどということはないだろう。ちらりと聞こえた『強精』という言葉にかなりの動揺と羞恥を覚えなくもないが、今のままでは斎藤との間にこれ以上の進展は望めそうにない。女子の身で恥ずかしい考えだろうか。あまりにもはしたないだろうか……。なまえの逡巡は夜遅くまで続いた。
そしてその翌日のこと、背に腹は替えられない気持ちにまで思いつめたなまえは再び屯所を訪れた。この日は斎藤の非番と聞いていたからだ。
昨日はうきうきと眺めた紫陽花も、露に濡れたような景色も澄んだ空気も今日の彼女の目には全く入らず、勢いだけでこうして来てしまったもののどうにも落ち着かず、胸は張り裂けそうにどきんどきんと動悸を打っていた。何を口実に声をかけたらよいのか、会えたら会えたでどう切り出せばよいのかと、いやその前にまた来たのかなどと斎藤に眉を寄せられたらどうしようとまで思いは至る。
いつだって薬屋の父の名代として来ていたのであり、これまで直接に斎藤を訪ねたことなどはなかった為、ここまで来ておいてなまえはまた迷ってしまった。前日と同じ時間帯だったが門の内側から稽古の声も聞こえてこず屯所は静まっている。やっぱり勇気が出ない。
『新選組詰所』と掲げられた表札の少し手前で足が止まったきり、俯いて躊躇い続けた挙句ついに踵を返しかけた時。

「なまえか? そこで何をしている?」
「さっ、斎藤さん……」

彼女を呼び止めたのは会いたいと思った当の本人だっだ。飛び上がりそうなほどに驚いて振り返れば、これからどこかへ出かけるところといった風情の斎藤も驚いたような顔をしてなまえを見ていた。

「屯所に……何か、用事か」
「え、えーと……、と、通りかかっただけ……と言いますか、あの、斎藤さんこそ、どちらかへお出かけですか?」

斎藤の手に見慣れない小さな包みを認め、わずかに肩を落としながらなまえは聞き返した。なまえの視線が自分の手に持ったものに注がれていることに気づくと、斎藤がうろたえたように目を泳がせる。

「いや、急ぎの用向きではない。時に……その、無理にというわけではないのだが、あんたが、もしも、もしも今、急いでいないのならばだが、その……」
「はい……?」

いつもの斎藤らしからぬひどく言いよどんだ口調であったが、なまえ自身も緊張のために尋常ではない心持であった為それに気づかず、それどころか「よければ茶でも、の、飲んでいかぬか」という想像もしなかった言葉に、自分の耳が信じられずにしばらくぱちぱちと目を瞬いていた。
それから四半時も経たず、斎藤の部屋にちんまりと座ったなまえは、彼の淹れてくれた茶を前にしきりと自分の風呂敷包みの中を気にしていた。昨日山南に渡された例の惚れ薬がそこにある。
これを、これを……何と言って斎藤さんに口にしてもらえばいいのだろう。ただでさえ彼は薬と言えば唯一石田散薬しか認めない人なのに。いいえ、薬とは言わずおやつと言えばいいと山南さんは言ってくれた。だけども斎藤さんはお酒を嗜む方だし、こんな甘いものなど嫌がるかもしれない。ああ、どうしたらいいの……。

「なまえ」
「…………」
「なまえ?」
「は、はいっ!」
「あ、あんたは、甘いものは、その、好きか?」
「……は? 甘い、もの……ですか?」
「こ、こ、これなのだが……」

名を呼ばれても気づかずに上の空で自分の思考に陥っていたなまえは、再三の呼びかけにやっと我に返る。戻した目の先にいた斎藤は、これがあの冷静沈着眉目秀麗な三番組組長斎藤一かとついうっかり一瞬疑ってしまうような大赤面顔で、食い入るようになまえを見つめていた。
湯呑みの茶は未だ手つかずで、しかし正面に座っていた斎藤はそれを脇へ除けて一膝近寄ると、どこから出したのか小瓶のようなものをなまえの前に突き出した。それを目にしたなまえは衝撃を受ける。
何故!?
思わず傍らの包みに手をやれば、ある。いっそ風呂敷の中に手を突っ込んで何度探ってみても、瓶の手触りがある。確かにそれはそこにあるのだ。

「どうして、それを、斎藤さんが……」
「甘い、み、水飴だ。あんたに是非、……是非とも、是が非でも、賞味してもらいたい。む、無論、俺も食す」

昨日受け取ったものとそっくり同じ瓶を呆然と見つめていたが、やがてなまえはゆっくりと悟った。
斎藤も同じだったのだと。恐らく自分に言ったのと同じような言葉で山南がこれを彼に渡したに違いないと。
斎藤は早くも瓶の蓋を取り、大きく一匙を掬う。なまえの口もとまでその匙を差し出すが、なまえは目を見開いたまましばし固まる。中身がなんであるかを勿論なまえも知っているからだ。

「少しだけで、構わぬ、これを……」
「……ま、待って、ください」

なまえは一度目を閉じると息を整え、自分の包みの中から取り出したものを斎藤の瓶の隣にそっと並べた。手にした匙の行方に困りつつなまえの細い手の動きを見守っていた斎藤が、それを見て息を呑む。
斎藤は昨日の揉め事のあと彼なりに悩み迷った。なまえのかけた声に元気よく明るく返事を返した平助にさえ軽く嫉妬に似た感情を持ってしまい、あの場で木刀を振り下ろしてしまった自分に辟易もしていた。なかなか彼女に想いを告げられないのは誰の所為でもなく己の不甲斐なさでしかないというのに。
夕餉時に珍しく塞いだ様子の彼に声をかけてきた山南から巧みに聞き出され、詳細は避けつつもわずかに気持ちを吐露してしまったところこれを見せられ、そうしてなまえの想像した通り彼女と同様に藁にも縋る思いで受け取ってしまったのだ。
言うまでもなくその時の山南の台詞はなまえに伝えたものと全く同じだった。

「今日、あんたのところへ行こうと思っていた」
「……本当に?」
「今日こそ、伝えたいと……」

匙で掬ったまま先ほどからずっと我が手に持っていたものを、もう躊躇わずに斎藤が自分の口に含む。
言葉ではこれ以上何も言わなくてもいいような気がした。言葉よりももっと深く伝え合うことの出来る方法があるのだ。同じ想いでいたなまえは黙ったまま斎藤の仕草を見守っていた。
目を見開いて自分を見つめるなまえを見つめ返し、斎藤がゆっくりと顔を近づける。わずかに首を傾けると、その桜色の口唇に己のそれをそっと押し付けた。「ん……」と小さな声を漏らす口唇が斎藤の訪いを受けて薄く開けば、舌と一緒に密のように甘い媚薬が斎藤からなまえの中に流れ込んだ。密やかな水音を立てながら少しの間二人の間を行き来した後、互いの喉に半分ずつ流れ落ちていった。
間違いなく同じことを思っていたのだと二人は共に理解する。本当は、一番の薬は互いにとっての互いなのではないか。だったら互いの心の手当は互いの身で行うのが正しい。
甘い薬がとっくに咥内から消えても、甘さを求め合うように口づけは深く長くいつまでも続く。無我夢中でなまえの唇を貪っていた斎藤が、やがて息を継ぐためにやや顔を離し、吐息のような声で囁いた。

「あんたを、好いている」

なまえの頭と背に回された力強い両腕に支えられながら、ゆっくりと身体が後ろへ倒されていくのを夢見心地で感じながら、天井を背にした斎藤の再び重なってきた口唇に身も心も酔わされてなまえは潤んだ瞳を閉じた。




一方同じ頃の山南の部屋では、土方が呆れたような感心したような、何とも形容しがたい顔つきでため息をついていた。

「ほう、この薬がなあ」
「いつの世も男女の仲に悩みは尽きませんからね。町方では大層な人気ですし遊郭などでも喜ばれるようです。ナルコユリが手に入ったので見よう見まねで作ってみたのですが、土方君もどうです」
「いや、俺は間に合ってる。しかし山南さん、斎藤となまえにゃこんな媚薬のようなもんは少々早えんじゃねえか?」

土方が言うと山南は「ふふふ、」と含み笑いを漏らした。土方が手にとってしげしげと見ていた瓶とよく似たもう一つの瓶がそこに並べられる。

「斎藤君達に渡したのはこれじゃなく、こっちです」
「これは?」
「ゲンノショウコを水飴に練り込んだもので、これには催淫作用などありません。単なる整腸剤みたいなものです」
「整腸剤だ?」
「偽薬効果で十分。信じて服用することが一番大事ということですよ」

山南が尚もくくくっと笑うのに、一緒になって笑いながらも、内心で土方は「この人は敵に回したくねえな」とつくづく思うのであった。



2016/06/15

▼春様

春さん、このたびは100万打企画にご参加くださりありがとうございました。春さんにいただきましたリクエストのあらましは『石田散薬信者斎藤さんと薬屋夢主さんがお互いに好きなのにお互いの信念(薬?笑)が邪魔をしてなかなか素直になれず、山南さんの劇薬がキューピッドになる』というものでした。かなりギャグ風味のお話なので後半で斎藤さんが挙動不審になるのが目に見えていまして、前半は少しクールな斎藤さんを意識してみました。幕末と現代どちらでもということでしたが山南さんの薬と言えばやはり幕末かなと思いこのようになりましたがいかがでしょうか。
春さんには懇切丁寧な内容でいただきましたので、今回もまた非常に長くなりまして、裏の有無もどちらでもということで匂わす程度に抑えています。
斎藤さんにとっての石田散薬というのは確実にプラシーボ効果のなせる業だと思いますが、薬ってそもそもそういうところありますよね(笑)最後の山南さんの台詞は私の持論でもあります。そして石田散薬を頑なに信じる斎藤さんが大好きです(笑)でもでもヒロインさんのことも石田散薬に負けないくらいとっても大好きだったんですね、彼(*´艸`)あ、それと余談ですがわかる方にはわかってしまうと思うのですが、一部に公式のドラマCDの斎藤さんの台詞を使用させていただいています。シチュエーションは少し違うのですがそのCDの斎藤さんの半端ないキレッぷりがとても大好きでして、使ってみてしまいました。というわけでお待たせしてしまいましたが、春さんには少しでも楽しんでいただけると嬉しいです。このたびは楽しいリクエストをありがとうございました。





MATERIAL: SUBTLE PATTERNS / egg*station

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