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スイートエモーション


稽古を終え諸肌脱ぎした上半身を軽く拭い、縁に腰掛けた斎藤がいつになく深いため息をついた。
太陽の光が降り注ぎ風は爽やかで、緑は鮮やかに濃く目に眩しい。そんな夏の午後である。
常にはきりりと背筋を伸ばし凛とした三番組組長であるが、着物を羽織りなおすのも忘れたようにぼんやりと遠くを見つめる。しばらくそうしていたが、胸筋を滑り落ちた一筋の汗に気づきもう一度丁寧に手拭いを使い、再びため息をつきながら身なりを整えた。
そこへ斎藤と同じく本日非番の平助が、盆に載せた茶を持ってひょっこりと顔を出す。斎藤の隣に腰を掛けて「茶でも飲むか」と気軽を装って盆を押した。

「ああ、すまない」
「なぁ、一君。退屈してるんじゃねえ?」
「俺は退屈などしておらぬ。先ほどまで身を入れてしっかりと稽古に励んでいた故」
「今ぼーっとしてたじゃん」
「ぼっとしていたのではない。しばしの休息を取ることも体調管理には必要なことで……」
「そうか? 俺の目には退屈そうに見えたけどなぁ。それともなんか考え事でもしてたのか?」
「……いや」

平助が置いた傍らの盆からおもむろに湯呑みを取り上げると、斎藤が何かを誤魔化すように茶を啜る。

「……ところでさあ、一君。なんか腹空かねえ?」
「空いておらぬ。今、茶を飲んでいる」
「茶で腹は膨れねえし。てか、夕餉まではまだ間があるじゃんか。俺は腹が減ったんだよなぁ……」
「勝手場に行けば白米の残りがあるだろう。源さんに断りを入れて握り飯でも……」
「そういういうことじゃないんだ。一君」
「なんだ」
「あのさ、……蕎麦、食いたくねえ?」

ゴフッ!
危うく湯のみを取り落としかけた。

「一君?」
「ゴホッ、ゴホ……ッ」
「大丈夫かよ? 俺なんか変なこと言ったか?」
「い、いや……、だ、大事ない」

焦ったように手拭いを口に当てる斎藤の切れ長の目元が妙な具合に赤く染まる。
しかし執拗に謎かける平助の目にそんなものは入らず、斎藤がこのやり取りのどの部分に反応して咳き込んだのかなどにも考えは及ばず、ただ自分の持ちかけた話に彼が乗ってくれるかどうかばかりに意識を向けながら斎藤を伺う。

「で、蕎麦なんだけどさ、どう思う? 食いたくねえ?」
「そ、蕎麦……か。特に腹は減っておらぬが……だが、うむ、蕎麦か……」

二人の胸中を占めた事柄はまるで違ったもののようでいて、そう大して違わないようでもある。
少なくともひとつだけ確実に共通して脳裏に上っていたのは蕎麦である。いや、もっと言えば蕎麦屋。それもどこでも良いわけでなく、はっきりと特定された或る蕎麦屋なのであった。




半刻ほど後、二人はその或る蕎麦屋の前まで来ていた。
若干腰が引け気味の斎藤が軒先の縁台に落ち着こうとすると、「奥へ行こうぜ」と平助がこそこそ耳打ちをする。「いや、しかし……」と躊躇いを見せる斎藤の袖を平助が引っ張り、その手を払おうとする斎藤との間にひそかな小競り合いが起こる。
そんな二人に「いらっしゃいませ」と明るい声がかけられた。
咄嗟に動きを止めて二人同時に声の方を見る。暖簾ごしに顔を覗かせたのは愛らしい女子である。
「よろしければ、こちらへどうぞ」と店の奥からも涼やかな声が聞こえ、長い前掛けにたすき掛けをしたなまえが顔を出した。
艶やかな髪をきりりと結い上げた彼女は二人を見て「あら?」という顔をして微笑む。その姿を目にした斎藤の胸がどきりと音を立てた。なまえはこの蕎麦屋の娘であり、最初に声をかけてくれたのはふたつ下のなまえの妹である。いつ見ても美しい姉妹だ。
「いつもお世話になっています、斎藤さん、藤堂さん。奥へどうぞ」といざなわれ、斎藤は思わず左の胸に手を当てて唇を引き結んだ。そうしなければ何かが起こってしまうというか、先ほどから動きの怪しくなり始めた心の臓がいよいよ暴れだし、気を抜けば口から飛び出してしまうのではないかとの懸念を感じたからである。
実は稽古の最中も稽古が終わってからも彼の脳がその銀幕に映し出し、我知らずため息さえ吐かせていたのは誰あろうこのなまえなのであった。蕎麦と聞いただけで胸が一杯になるほどに、ここのところ彼の心を捉えて離さない女性である。
斎藤と同じようにやはり顔を真っ赤に染めて、どぎまぎと落ち着かない様子でいる隣の平助に気づくようなゆとりは、その時の斎藤の中のどこにもなかった。とりあえず勧められるまま二人は草履を脱ぎ、小上がりの奥へと足を運んだ。
店は小奇麗で誂えも品が良く、畳敷きに腰を下ろした二人の傍らには茶を載せた折敷がそれぞれ置かれる。まだ日は明るいが周りでは武士や裕福そうな商人などがぽつぽつと酒を始めていた。

「何にいたしましょうか?」
「俺はとりあえず酒一合! あと、かけ蕎麦!」

にこやかな問いかけに平助が不自然な大声で答えれば、壁の品書きに目をやっていた斎藤がゆっくりと口を開く。

「では俺は上酒を二合と……、あられ蕎麦をもらおうか」
「一君、ずりい! じゃあ、俺も二合つけてくれよ。あと、蕎麦はしっぽく蕎麦に変更……しようかな……」

斎藤の視線を追って品書きを見あげた平助の声が途中から失速する。しっぽく蕎麦もあられ蕎麦も三十文である。かけ蕎麦よりも、なんと十文も値が高いではないか。
巡察経路にあるこの店を二人はよく知っていたが、実は客として足を踏み入たのは初めてだった。
自分の財布の中身をめまぐるしく頭に浮かべた平助はいささか決まりの悪い顔になってくる。
「かしこまりました」と妹の方が下がってゆけば斎藤が平助をじろりと見た。

「張り合うな、平助」
「張り合ってなんかねーし! ……ってか一君、あのさ、言いにくいんだけど……ちょっとだけ金貸してくんねえ?」
「断る」
「即答かよ! なあ、頼むからさ、給金もらったらすぐに返すから」
「手持ちの金で足りるものを注文しろ」

と、そこへ今度は妹に代わり酒を盆に載せた姉のなまえが「お待たせしました」とやって来る。ハッと固まった斎藤が彼女に目を移す。

「お酒、こちらに置きますね。お蕎麦もまもなくお持ちします。他にご注文はありませんか?」

折敷に載せられた銚子と杯。白い手が優雅に動くさまを目で追う斎藤から思わず上擦った声が出た。

「で、では追加で、……て、天麩羅を頼めるだろうか」
「はい、ありがとうございます」
「ええええっ!」
「どうかしました? 何か、粗相でもしてしまいましたでしょうか、私……」
「い、いや、すまん、何でもない。あんたは何も悪くない。うるさいぞ、平助」

眉を釣り上げた斎藤が平助を睨みつけたが、平助は品書きと斎藤を見比べて目を剥いている。

まじかよ、一君のやつ!天麩羅って蕎麦なしで四十文もするじゃんか!てか、張り合うなっつっといて張り合ってんのはそっちだろ!
さては、一君もあいつのことを……?
くそうっ! それがわかってたら一君なんか誘わなかったぜ!

ムラムラと平助の心に闘争心が湧いてくるが、生憎平助の財布の中身は折角の彼の闘争心に応えてくれそうにない。何しろ給金前なのである。
一方の斎藤もこのあたりでやっと思い当たる。どういう理由で平助が突然に蕎麦屋に誘ってきたのかを。この様子から見てもしや平助もなまえに惚れているのではないか。これは油断がならない。ここは男として平助よりも余裕のあるところを是非とも強調しておきたい。
誰しも想いを寄せる女性の前ではいいところを見せたいと思うものだ。そういった気持ちはいつの時代も同じで、いくら堅物と言えども斎藤もれっきとした男でありその例に漏れなかった。
ふと見れば平助がジトリと自分を見ている。見返す斎藤の視線も自然と鋭くなる。気がつけば互いを見合う目の中に焔が熱く燃え盛っていた。
どちらも腹に一物抱えながらその後の二人は言葉少なに酒を飲み、屯所に戻ったのは夕餉の時間をはるか過ぎた頃だった。
玄関先で斎藤と平助を見つけ声をかけてきたのは左之で、彼の見たところ二人の間の空気がどうも剣呑である。

「お前ら珍しいな。喧嘩でもしたのか?」
「べっつに!」
「喧嘩ではない」
「ちょっと左之さん、暇なら酒付き合ってくんねえ?」
「なんだよ、飲んできたんじゃねえのか?」

斎藤が無言で自室へと戻ってゆく。平助もプイと背を向けて行ってしまう。
新選組幹部でも最年少組のこの二人は同い年生まれで、性質も性格も何もかも違うが日頃決して仲が悪いわけではない。悪意の全くない平助の底なしの明るさと、年齢の割に落ち着き払った武骨な斎藤とが組み合わさった時の、どこか噛み合わないやり取りを周りはそれなりに微笑ましくさえ思って見ていたものだ。
斎藤の消えた方向に一度目をやった左之が、しばし考えたあとで平助の部屋へと足を向けようとしたところ、ある人物に呼びとめられる。




「はーじめくん」
「勝手に開けるな」
「あれ、ご機嫌斜め?」

揶揄うような響きをもたせた声で斎藤の部屋の障子戸を遠慮会釈なく開けたのは総司だった。先刻の玄関での顛末をそっと覗いていた総司は何食わぬ顔で左之に声をかけ、これはいい退屈しのぎになるとわくわくしながら早速ここへやってきたのだ。
不機嫌そうな背中だけで一言返した斎藤は文机の前に正座をしていた。机上に書物を広げているにもかかわらずその実、書物の内容は頭に入って来ない。

「今日は平助と蕎麦屋に行ってたんでしょ」
「…………」
「僕も誘ってくれればよかったのに」
「…………」
「あの店にはたまに巡察で寄るけど、確か可愛い女の子がいたよね」

無視を決め込んでいた斎藤が顔を上げる。

「なまえちゃんて言ったっけ?」
「総司、あんたまさか」
「違うよ。彼女は僕の好みじゃないし。でも、平助はどうだろうね?」
「…………」

かくして斎藤にとっては誠に気が進まないながらさりとて聞き流すことも出来ぬまま、俄にその場が恋愛相談の様相を帯びてくるが、実際は総司が八割方独りで喋っていた。
いつの間にか総司に向き直っていた斎藤は先ほどまでの不機嫌はどこへやら、今や真剣に総司の話に耳を傾けている。

「とにかくね、頭で考えてても始まらないよ。勝負は昔から先手必勝って言うじゃない」
「先手必勝……」
「そう、君の居合と同じ。相手より先に動くこと。つまり平助より先になまえちゃんに気持ちを伝えるんだよ」
「そ、そのようなことは、俺にはとても……」
「へえ、なまえちゃんを取られてもいいの? 平助に」

それは嫌だ。斎藤が首を振る。
だがなまえの気持ちはまるでわからない。心を伝えたところでかえって迷惑になりはしないか。町人の中には新選組を恐れる者も多い。断られるどころかなまえに嫌がられでもしたら、暫くは立ち直れない気がする。

「なら、なまえちゃんを取られてもいいの? 平助に」

斎藤が再度小さく首を振る。
そのいつにない素直な反応に総司は吹き出しそうな笑いを必死で噛み殺しながら続けた。

「いつもの取り締まりの時みたいに毅然とするんだよ。男らしくね、一君」
「し、しかし……」
「なら、なまえちゃんを取られても……」
「わ、わかった」
「それに考えてもみなよ。もしもなまえちゃんも同じ気持ちだったらどう?その時から君たちは晴れて恋仲になるんだよ」
「恋仲……」
「恋仲になれば手を繋いだり、逢引したり、他にも色々と楽しいことがきっとあるだろうね。恋仲ってそういうものだからね」

総司がニヤリと笑う。
楽しいこと……楽しいこととは……?
斎藤はつい夢想してしまう。
なまえの美しくも愛らしい笑顔を目にし、透き通るように澄んだ声を耳に聴く。鼻先には甘い香りが漂って、それら全てが己のものとして隣にあったとしたらどんなに幸せか。細い腕が己の首に回され、あのたおやかな身体をこの腕で抱きしめたらどんなに柔らかいだろう。なまえの小さな形の良い口唇も思い出されてくる。触れたら甘いのだろうな。想いあうふたりであるのならば、触れるだけでなくそれ以上のことも……?それが、恋仲というもの。恋仲とはなんと魅惑的な関係なのだろうか。
急激に身体が熱くなる。斎藤の顔面は茹で蛸のように真っ赤になり今にも蒸気が噴き上がりそうだった。
いやいや、いかん! 俺はなんと不埒な想像を……!
総司の口車に乗せられて先ほどつい頷いてしまった斎藤ではあるが、ふと見ればニヤニヤと笑う視線にぶつかって我に返り、今度は羞恥に苛まれ額に汗が滲む。
想う人に己の心を告げるなどこれまでにしたことがない。というよりそもそも女性に懸想をすること自体が斎藤には初めてである。常に斬り合いの場に身を置く新選組幹部の彼ではあるが、彼にしてみれば不逞浪士の隠れ家に命がけで斬り込むよりもこれは敷居の高い行為に思える。
俺にそのような勇気があるのだろうか。

「総司、やはり俺には……」
「さっき、わかったって言ったよね、一君。武士に二言はないよ」
「……む、」

斎藤は言葉を翻すことを本来良しとしない一本気である。総司は厳しい目をして(内心では腹を抱えて転げまわりたいほどに爆笑していたが)斎藤の性格上の弱点を的確に突いてきた。
一体何故このようなことになったのだったか。事の経緯を脳内で遡れば、元はと言えば平助が蕎麦屋に誘ってきたことから始まった。
思い出せば胸を甘く苦しくしめつけるなまえの存在であるが、何も知らずにいれば巡察の際に時折見かけるだけで十分だったし、心の中で慕うだけで斎藤には満足だった筈なのだ。
そこへ総司が駄目押しをする。

「もしも平助が先に想いを告げちゃったらどうなると思う?」

だが、そうだ。全く総司の言う通りなのだ。よく考えてみれば先刻自分が想像したあの甘い夢は、場合によってはそのまま平助に浚われてしまいかねない。知らなければまだよかったがこうして平助の気持ちを知ってしまった以上、なかったことにはもう出来ぬ。考えているうちに平助がなまえに触れるさままでが想像されてくる。
離れろ、平助!
斎藤は目を見開いて大きく手を振り、頭に浮かんだ不吉な映像を追いやる。
その同じ頃、平助の部屋でもひそかに左之によるレクチャーが行われていたことを、この時の斎藤は想像もしていなかった。

「……ちょっと待て、平助。そりゃ確かなのか?」
「ん……?」
「先ずは斎藤にそこんとこを確認するべきだな」

平助と左之の間で交わされていた会話。それがこの部屋でたった今彼が総司としているものよりも幾分、いや、かなり真っ当な内容であったことなど、勿論斎藤にわかるわけがなかった。




あれからこの日まで平助と斎藤はまともに言葉を交わすことがなかった。幾度か斎藤に声をかけてみた平助であったが、すべてが不発に終わった。斎藤が頑なであり何か信念を持ったら最後、決して折れないことはよくよくわかっていたが、これでは左之に言われた例の件を確かめようがない。
斎藤としては「抜け駆けでもされたら大変でしょ。告白の日までは平助に話しちゃいけないよ」との総司の言葉を忠実に守っていただけだったが、平助はとりつくしまのない斎藤に困っていた。彼には伝えたいことがあったのだ。

「なあ、一君……」
「俺は今忙しい。話なら後にしてくれぬか」

そそくさとその場を去ってゆく背を幾度見送ったことだろう。
そんなこんなで迎えたこの日は斎藤が勇気を振り絞る決行日であるのだが、再び平助の非番と重なっていたのは斎藤の意図したことだった。斎藤は平助を出し抜くようなことは端から考えていない。これまでは目を合わせるのを避けていたが、今日は平助にきっぱりと告げる。

「平助、蕎麦屋へ行かぬか。いや、共に来てもらう」
「は?」
「場合によってはあんたの飲食分を立て替えてもよい」
「え?」

突然の申し出に平助が目を丸くする。

「あのさ、その前に確かめておきたいことがあるんだけどさ、一君、」
「…………」
「ちょっと、待ってくれよ、一君てば!」

あの日と同じような午後、しかしあの日よりも決然とした足取りで平助の前を歩き、またしても自己の世界に沈んでしまったかのように黙り込んだ斎藤は、もはや平助の呼びかけにも応えずにどんどんと進んでゆく。愛おしい人のいる蕎麦屋に向かって。
彼の心の中は本日行うミッションのことでもういっぱいいっぱいになっているのだ。
今一つ状況がわからないながら、だが考え方を変えれば今日は斎藤の驕りで酒が飲める。そして蕎麦屋へ行けば彼女にも会える。まあ、いいかと思いながらとりあえず平助はついてゆく。

「いらっしゃいませ」

あの日と同じように涼やかな耳に心地よい声で迎え入れてくれたのはなまえであった。
ああ、今日も愛らしいのだな、あんたは。
斎藤の目元がじわりと朱に染まり、既にうるさく打っていた鼓動がより一層激しく打ち始める。

「お、奥に、よいだろうか……」
「はい、どうぞ」
「さ、さ、酒を、頼む」

力みすぎて変に掠れた声を出す斎藤の様子に気付かずに、平助は誰かを探すように落ち着かなくあたりをキョロキョロと見回す。

「あれ? 今日は、いないのか?」
「ふふ、おつかいに行ってるだけですからすぐに戻りますよ。お酒、お持ちしますね」

これまたあの日と同じように平助と共に斎藤が座敷に座を取ると、傍らになまえの手で折敷がすっと置かれた。その白い手を見つめながら心の臓をどきどきと高鳴らせ、うっかりとこの手を握りしめる自分を想像してしまい斎藤は眩暈に似た気分に襲われる。
今日は小上がりに他の客の姿は見えなかった。
一度調理場の方へと消えたなまえが銚子を載せた盆を手に戻ってくる。他の客がないのでゆったりとした物腰で二人の脇に膝をついた。
なまえの頬には愛らしい笑みがのせられている。この表情を見るだけでも斎藤はくらくらとしてくる。何も言わなくとも時折こうして彼女を眺めるだけで十分だったはずなのに。
しかし今となってはもうやるかやられるか、それしかない。鈍りそうな決心を必死で繋ぎ止める。
そうなのだ。斎藤はなまえに想いを伝えること、平助にも誠心誠意頭を下げてなまえを諦めてもらうこと、この二つを決行すべく一大決心のもと本日ここへやって来たのだ。

「何になさいますか」
「一君、俺、天婦羅食ってもいい?」
「ああ」
「あと、卵焼きも」
「ああ」
「一君の払いで」
「ああ」

この時既に斎藤の頭の中は沸騰しすぎて正常な回路が何本か切れていた。

「あと、しっぽく蕎麦は大盛りにしてもらおうかなあ」
「はい、かしこまりました。斎藤さんは何を召し上がります?」
「お、お、俺は…………」
「はい」
「俺は…………、あ、あんたを、」
「は?」
「なまえを……」
「あの、斎藤さん?」
「お、俺は……、俺はなまえを欲しい」

その場に一種異様な空気が流れた。平助は呆けたように口を開き、なまえの手からはポロリと盆が落ちる。平助もなまえも斎藤から放たれた言葉の意味を瞬時には理解出来なかった。何となれば斎藤本人でさえ緊張のあまり自身の言ったことをよく把握しきれていなかったのだ。

「さ、斎藤さん?」
「な、何言ってんだ、一君?」
「平助、すまん」
「へ?」
「俺は平助を認めており、尊敬もしている上、大切な仲間と思っている。だが、しかし、こればかりは譲ることが出来ぬのだ。故に頼む、わかってはもらえまいか。なまえのことは、なまえのことだけは諦めてくれ」
「は? 諦めるって……」
「俺は、どうしてもなまえを欲しいのだ」
「さ、斎藤さん? 落ち着いてください。おっしゃる意味が……」

そこへ顔を出したのは。

「お姉さん、ただいま戻りました。あら? 藤堂さん、いらっしゃいませ。斎藤さんも」

平助を見てパッと頬を染めたなまえの妹であった。想いを告げ恋仲になったばかりの可愛らしい人がやっと現れて、平助もまた嬉し気に目元を赤くする。




斎藤は酔っていた。もうグズグズに酔うしか彼にはその場に居たたまれなかった。

「なーんだ、やっぱり左之さんの言った通りだったのかあ」
「…………」

同じ相手に懸想したとばかり思いこんで平助を牽制していたが、実は誤解だったとわかった時にはもう遅かった。斎藤があまりにも恥ずかしい告白を一方的にやらかして挙句にこの展開となったのは誰の所為でもないが、パクパクと料理を食べ酒を飲み傍らに侍るなまえの妹と幸せ感満載で仲良さげにしている平助がどことなく恨めしい。さんざん煽った総司のことも少しだけ恨めしい。
事の次第を悟った途端、肝心のなまえは顔を真っ赤にして俯き、調理場に引っ込んでしまったのだ。
帰りたい。
斎藤は銚子に残った最後の酒を呷る。

「なんか、俺ばっか……ごめんな」
「……いや」
「で、言いにくいんだけどさ、給金前だから俺、金あんま持ってねえんだけど」

斎藤は息を吐くと懐から財布を出して平助の前に置いた。確かにここへ誘ったのは己である。
恋には破れたが少なくとも友情の方は保たれたのだ。本日のところはそれでよしとするべきだ。しかし心が痛い。千々に乱れた胸を抑え項垂れて小座敷を下りる。

「俺は先に戻る、」
「いいのか? わりいな、一君」
「…………」

平助から向けられる同情の視線すら背に痛い。
満身創痍といった風情でひたすら落ち込み肩を落としとぼとぼと夜道を歩く斎藤は、度を越した恥ずかしがり屋であるなまえが、彼女なりに決心を固めこの後自分を追いかけてくることをまだ知らない。
実はなまえの方も、時折巡察で顔を出し気遣いの声をかけてくれる凛々しい武士に、ひそかに想いを寄せていたのであった。斎藤の夢想した以上のなまえとの目眩く世界がまもなく手に入る。幸福はすぐそこにあるのだ。
ことほど左様に恋というのは複雑なようでいてなかなか単純なものであり、しかしやはり難しいものである。




暗い足元を見つめながら足を運ぶ斎藤の背後からかすかな足音が聞こえた。刹那警戒した斎藤が、左手を右の腰のものに触れつつ足を止めれば、その足音も止まる。
動きを止めた彼の背にややしてから再び聞こえる足音は、ぱたぱたと頼りなく軽く、そして少しずつ距離を縮めてくる。腰から手を離し、しかし振り返れないまま斎藤はそこに立ち尽くしていた。
どういうわけか振り返るのが怖いと思った。期待をしすぎてはならぬ。
だが足音に混じる乱れた息遣いは、ここまでの道のりをその人がずっと走ってきた所為と知れた。
あとわずか数歩の距離でまたその足音が止まる。

「…………」
「…………何故」
「あのままでは、もう、二度と貴方に、お会い出来ないと思って……」

息を乱しながらの声はやはりなまえのものだった。

「店は……」
「藤堂さんと妹が、見てくれています」
「そうか」
「あの、私……」
「…………」
「……私、」
「…………」

なまえが口ごもる。
こんな時にこそ何かを言わねばならぬのに、目まぐるしく脳内を血が駆け巡るのに、それなのに。大切な場面で気の利いたこと一つ言えぬ俺のような男が、こうして追ってきてくれた彼女に応える資格などあるのだろうか……。
斎藤の酔いはすっかり醒めていた。先ほどの勢いは失せ果てて、正気に戻った彼はここへ来て逡巡する。
ああ、しかし、何かを言わなくては……。
気だけが焦る。

「お、俺は……」
「斎藤さん」
「…………」
「私も……、私もなんです。ほんとうは、」

なまえの声は切羽詰まっていた。切なげで苦しげで、悲しいくらいに愛おしい声が必死に訴えた。

「ほんとうは私も、貴方を、あの……お慕いしてたんです」
「…………は、」
「初めて、お会いした時から……」

夢のようななまえの言葉に、ついに振り返った斎藤の胸へふわりと甘い香りが飛び込んできた。反射的に抱きとめたその身体は柔らかく、想像したよりもずっと得難い儚さで、感無量となった斎藤はもう頭で何かを考えることなど放棄して、強く強く掻き抱くように抱きしめ直す。
細い首元に埋めた唇でやっと言葉を押し出した。

「俺の方が、俺の方がずっと、ずっとあんたに惚れている。初めて出会った時から」

単純なようでいて難しき恋というもの。
だがそれは、ただ互いが素直になりさえすれば、ただそれさえが出来るのならば、これほどに幸福な感情は他にないのかもしれないと、こうして愛しい人を抱きながら斎藤は知るのである。



2016/07/13

▼久雨様

くーちゃん、このたびは100万打企画にご参加くださりありがとうございました。くーちゃんには『はじめくんとほのぼの甘めなお話が読みたいです。あわよくば平ちゃんをちらっとだしてほしいなぁ』というリクエストをいただいてたんですが、すみません、このようになってしまいました。現代とどちらでもという事で幕末設定にしてみましたが、幕末の一君は格好良く!と長年ポリシーを持っていた私なのにアレレ?何だかアホっぽい一君になってしまったよ。何故でしょうか(笑)
ほのぼのと言うよりはギャグめ、しかも甘め一歩手前でお話終わってしまった。ごめんなさい〜!書きながらへーちゃんが幸せになったところでもうこれでいいじゃん的な気持ちになってしまいました。あの後一君も幸せになりますから!(笑)
でも最年少組二人の絡み、書いててとっても楽しかったです。ドラマCDとかでも一君とへーちゃんとのシーンが可愛くて大好きなんです。
ではでは、大変お待たせしちゃいましたがくーちゃんに少しでも楽しんでいただけたら嬉しいです。この度はリクエストくださってありがとうございました。





MATERIAL: SUBTLE PATTERNS / egg*station

AZURE