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コンアモーレ


なまえの纏う艶のある紺色のドレスが、スポットライトを浴びて輝いていた。歓喜の声とスタンディングオベーションを一身に受け、優雅な所作で磨き抜かれたスタインウェイに左手をかけ、深く腰を折る。随分と距離があるのに、ゆっくりと上げた頬が紅潮し、咲き綻ぶ大輪の花のような笑顔を弾けさせるのを見た。
惜しみない拍手を送る観客の間で一人座ったまま、僅か膨らんだ左胸の内ポケットを押さえる。
なまえの誇らしげな姿を胸に刻み付け、足元に置いていた花束を取り上げて座面に残し、割れるような拍手の中を静かに立ち上がる。
此処が彼女の居るべき場所なのだ、と。




***




昼日中と言うのに煌びやかな照明に彩られた店内から、黒いスーツの店員に「お出口まで」と先導され、恭しげに差し出された小さい紙袋を手にして俺は分厚いガラスドアの外へ出た。
膝に顔がつくのではと言う程に、深く頭を下げた店員に見送られるのが気恥ずかしく、つい深い溜息が漏れる。このような状況に全く慣れていないのだ。
左に僅か歩けば正面に時計塔。
此処はなまえと再会したスクランブル交差点である。角ビルにあるカフェを見上げ、この二階で彼女を目にし、いつになく慌ててその姿を追いかけた自身を思い出す。横断歩道を渡ったところで見失ったと落胆した俺に、彼女が声をかけて来たのだった。
あれからもう二年が経った。
軽い感慨に耽りつつ、あの時とは別の方向に渡った俺の背後に声がかった。

「あなた、斎藤君。斎藤君でしょう?」

振り向いた先には小柄で身なりの良い年配女性。俺達が通った高校の音楽教師であり担任でもあった先生であった。この場所では本当によく人と再会するものだと驚きながら、ニコニコと笑う初老の恩師に、俺は一度固まった表情を緩める。

「お元気そうね。立派になって」
「先生もお変わりなく。今も教師を?」
「いいえ、もう退職して、今はドイツにいるのよ。ああ、そう言えばみょうじさんからあなたとのこと聞いたわ。先日、ピアノの事でお会いした時ね。彼女、どうかしら」
「どう、とは。なまえのピアノの事で、何か?」
「あ、あら? あらあら、ごめんなさい。いいえ、何でもないのよ」

彼女は俺が手に持ったものに一瞬目を走らせて言葉を濁し、腕時計を覗いて「こんな時間。では、またお会いできるといいわね」と俄かに急いだ様子で、青に変わった歩道を渡って行った。
提げた自分の手に眼を落とす。中身が何であるかなど、女性であれば直ぐに察しが付くのだろう。俺となまえとの関係を知っているような口ぶりだったが、それは不都合どころか歓迎して然るべきことである。いずれは恩師に報告する必要もあるのだろうから。
なまえは逢うたびに、日常の出来事を大小漏らさず語って聞かせてくれるのだが、高校時代の恩師と会った事実を話さなかったのは何故だったのだろう。偶々話し忘れていただけか?
恩師が言いかけて止めた言葉が、なまえとの今後に多少なりとも影響することになるなどこの時の俺に気づける筈もなく、少し気にはなったが然程の重大事には考えなかった。
コアビルの地下駐車場で自車の前でポケットを探る。イタリア製のレザーのキーケースは、なまえが一週間ほど前のバレンタインデーに、ビターチョコレートと共に贈ってくれた品だった。
光沢のある白い小さな紙袋を一度見つめつい緩んだ口元を引き締めて、脱いだコートと共に後部座席に置く。これは彼女への返礼のつもりもあるが、それ以上にもう一つの深い意味を含ませていた。
バレンタインデーは二度目になるが今年も幸福な時間をなまえと過ごした。呼びつけられて翌日実家へと赴いた時、姉がチョコレートをテーブルに置いて、厚かましく某ブランドバッグが欲しいと言ってのけた。

「何故、それを俺に言う」
「なまえちゃんのを一緒に選んであげるから、私のもいいでしょ。ねえ、何をあげるのよ。もう決めてあるの?」
「あんたに関係ないだろう。海老で鯛を釣ろうと言う魂胆ならば、このようなものはいらん」

顔を叛ければ姉はクスクスと笑っている。どうせ揶揄われているのだろう。ホワイトデーは兎も角、俺には別に考えていたことがあった。ならばそれを機会にすればいいだろうとふと思いつく。
姉は全く苦手だ。しかしなまえの事を気に入っており、彼女の方も懐いているのか二人で出掛けたりもするらしい。言うに及ばず両親もなまえを可愛がっている。
高校時代やあの交差点で出逢った頃とは比較にならない程、この二年の月日は俺達の間を近づけていた。





二週間先に迫った発表会の為この土曜日も特別レッスンに生徒さんが訪れていた。実家の一部屋が防音のピアノ室になっていて、私はここで教えている。
最後の生徒さんをお見送りすれば、見慣れた一の黒いサイドゴアブーツが、シューズボックスの前に綺麗に揃えられているのが目に入った。今日はこれから食事に出掛けて彼の部屋へ行く予定になっていた。
慌ててリビングのドアを開けると父と一が何か話し込んでいた。父は役所勤務の公務員、彼は官公庁系のITエンジニアなので、話がよく合うようなのだ。私に気づいた二人は同時に顔を上げる。

「すまない。少し早く来過ぎて、上がり込んでしまった」
「待たせてごめんね。上着を取って来る」

踵を返しかけた私とソファーから腰を上げかけた彼に、父の声がかかる。

「今日はうちで食事をして行けばどうかね、一君。なあ、母さん」
「そうよ。こんな時間からわざわざ出なくたって」
「さっきの計算速度とコスト削減の話だがね、君の話は具体性があるからもう少し聞きたいんだ。酒でも飲んでな」
「ビール、すぐにお出ししましょうか」
「ちょっと、お父さん。一は車なんだからお酒なんて」

一人っ子の私をとても可愛がってくれた父だけど、実は昔からひそかに男の子を欲しがっていたようで、一は理想の息子像らしい。彼が迎えに来てくれるたびに引き留めようとする。
私と両親の間に挟まれて当惑する一の腕をそっと引く。ビールをお盆に載せて「泊まっていけばいいじゃないですか」と言う母の声に、一は「また次の機会に必ず」と頭を下げて私と一緒に廊下に出た。
両親が彼を気に入ってくれているのはとても嬉しいけれど、今日は二人で過ごしたい。
私にはずっと言えずに引き伸ばしてきた大切な話があった。今日こそは一に相談しなければ、もう時間がない。
すっかり定位置のようになった一の車の助手席に滑り込み、シートベルトを締めようとふと右に身体を捻った時、後部座席の白いペーパーバッグが目についた。それは私も知っている宝飾品店の紙バッグだ。いつもは綺麗に畳まれている彼のコートの下からはみ出している感じで、もしかしたら内緒のつもりだったのかも知れない。一の横顔を見ると気づいてはいなさそうだったので、何となく複雑な気持ちになって、私も気づかないふりをして顔を前へ向けた。
マンションの駐車場に車を置き、近くで軽くお酒と食事を済ませ部屋に戻る。コーヒーを淹れる一の横でカップの用意をする私に、何気ない口調で彼が言った。

「高校の時の先生に会った、今日」

どこで……、と聞き返す前に、キッチンカウンターの隅、畳まれた新聞の上に載っていたパンフレットが目につく。それはマンションのパンフレットで何種類かあるようだった。じっと見つめる私の視線の先に気づいた一が、背中からふわりと腕を回してきた。

「この部屋は、二人だけならいいが、すぐに手狭になるだろう?」
「え、」
「なまえさえよければだが、マンションの買換えを考えている。グランドピアノを置けるように」

私の後ろ髪に鼻先を埋めた一の囁きに胸が熱くなる。さっき車で見たペーパーバッグが思い出された。はっきりとまだ言葉にはしないけれど、一は私との将来を考えてくれている。
痛いほどの幸せを感じる反面、私は。
言わなければいけないことがある。それなのに彼に包まれたまま、この幸福な時間を失う怖さに、臆病な私は何も言えなくなる。涙の滲んだ私の目尻を親指で拭って「何故、泣く?」と覗き込んで、優しく見つめる一の瞳を見つめ返してしまったら、どうしても言えない。この穏やかな声に、温かな腕にずっと包まれていたかった。





月が替わるまで何かと忙しく過ごし、運悪く週末に仕事が入ったり、なまえの方の都合がつかずでなかなかゆっくり逢えずにいた。
それは三月半ば所謂ホワイトデーの日だった。面映ゆかった所為で特に約束をしてはいなかったが金曜日の事でもあり、なまえの生徒の発表会も無事に終わっていた為、当然のように俺は彼女に逢うつもりでいた。しかし自宅に来客がある為時間が取れないとの連絡が入った。
スマフォの通話を切って、今日渡すつもりでいた白い紙袋を手にし逡巡する。想定外だったのだ。高揚した気持ちが萎えかけた俺は、渡すだけならばといつになくこの日に拘っている自分に戸惑う。我ながら少女趣味だと一度ソファーに腰掛けるが、思い直して立ち上がりコートと車のキーを手にした。後から考えればそれは、何かを予感していた所為だったかも知れない。
なまえの家まで車を飛ばし、インターフォンに応えて出てきた彼女は、俺以上に困惑の表情を浮かべた。

「少しの時間でいいのだが、なまえに渡したい物が、」
「なまえ、先生がお見えになったの? あら、一さん?」

なまえに続いて玄関に出て来た彼女の母親が目を丸くするのを見て、俺は我に返り自身の子供じみた行動を恥じた。顔に熱を上げたまま狼狽えて頭を下げる。

「すみません、お忙しいところを。お客さんが見えるのでしたね。俺は出直します」
「待ちなさい。一君にも同席して貰えばいいだろう。彼にも大いに関係することだ」

踵を返しドアを開いたところで聞こえたのは、なまえの父親の声だった。眼を見開くなまえが何かを言おうとしたが、直ぐに門前に車が近づく音がして、目の前にシルバーの高級車が停まった。降りてきたのは高校の恩師と、見知らぬヨーロッパ人の男性だった。



***




そこからの話し合いの内容を、私はよく記憶していなかった。
高校を卒業後私は音大に進んだ。恩師と個人レッスンを受けていたピアノ教師の出身大学でもあり、学内コンクールでそこそこの成績を修めていた私は、二人の恩師の有力なコネクションのおかげで紹介を受け、様々な幸運の積み重ねでモスクワ音楽院に留学する機会を得た。私の憧れたラフマニノフをも輩出した由緒ある学校であり、有頂天になった私は一年間必死でピアノとドイツ語を勉強しドイツへと渡ったが、最初の一年の予備コースの間に体調を崩してしまい帰国した。残念な結果にはなったけれど、決してその経験を後悔はしていないし、現在の仕事に誇りも持っている。日本に戻ったおかげで一と再会することも出来た。そこまでの経緯は勿論彼も知っている。私は全てに満ち足りていて十分に幸せだった。
だからドイツ在住の筈の先生が二カ月ほど前に突然訪ねて来た時は驚き、その言葉を聞いてあまりに想像を超えた内容に思考が止まった。

「夫がコンマスを務めるドイツの小さな交響楽団なんだけど、ピアニストを探しているの」

交響楽団のピアニスト探しは、グレードとギャラとの兼ね合いからとても大変だという事は聞き知っていた。様々な演奏会や指導者協会まで洗いざらい回っても、気に入った弾き手が見つからずにいたところ、先日偶々私の所属する協会のチャリティーコンサートでの演奏を聴いて、先生のご主人が私に眼を留めてくれたのだそうだ。私が弾いた曲はラフマニノフの前奏曲3-2番『鐘』だった。

「オーディションを受けるだけでも、どうかしら。急な事で申し訳ないけれど、決めてくれるなら三月いっぱいでドイツに発ちたいの。全てのお世話は私が引き受けますから」

もしもオーディションに受かれば、私は再びドイツの地で約一年の猛レッスンを受け、常任ピアニストとして受け入れて貰えると言う。コンマスのご主人はすっかりその気なのだと。ドイツにおける日本人演奏家はとても数が少なく、先生も私を連れて行くことを強く希望しているようだった。
一度はプロを目指したピアニストにとってそれは信じがたい程の幸運であり、二十代半ばを過ぎた私には二度と訪れないチャンスでもある。
けれど。
この話を受けるという事は、一との別れを意味するのだという事実に私は躊躇った。幼い頃からの夢と最愛の人との間でどうしても心を決めかねて、一に相談することさえずっと出来ずにいた。発表会が終わるまでは返事を待って欲しいとお願いして、その日が最後の結論を出す約束の日だったのだ。




***




ホールの客電が暗転し、ざわついていた観客が静まり返る。
やがて拍手に迎えられたなまえが僅かにぎこちない足取りでステージに現れた。彼女は目を閉じて左胸に手を当てていた。それは俺の癖でもある。いつの間にか俺達はどこかが似てしまったのかも知れないと、ふと思う。
このコンサートが終わったらなまえを日本に連れて帰る、そう決めていた俺の内ポケットには、帰りの航空券が彼女の分も一緒に収まっている。俺も左胸を押さえた。
観客を見渡し深々と頭を下げた後、ピアノにつき呼吸を整えて、見上げた瞳を指揮者と合わせたなまえは、頷いて見せた。
彼女の指先がゆっくりと鍵盤に載せられる。
ラフマニノフのピアノ協奏曲第二番だ。
なまえの指先から紡がれる荘厳なピアノの独奏和音が徐々に力強い鐘の音になっていった。アルペジオに続いてオーケストラの音が彼女の音を彩り始める。協奏曲はセンチメンタリズムを持ち、美しく華やかなピアノの分散和音は魅力的であり圧倒的だ。
彼女がドイツに発ってから、俺は幾度も繰り返しこの曲を聴いた。
一年前の三月。なまえの家に駆け付けた俺は、彼女を訪った高校の恩師の科白に衝撃を受けた。それがついこの間の事のようにも感じる。
この一年間。
彼女が練習を終える時間は日本では深夜帯であった。平日の二時でも三時でも毎日のようにスカイプで話した。俺は彼女の泣き言も何もかも、一言一句漏らさずに聞いた。少しでも長く声を聞いて居たかった。彼女はよく泣いていた。その泣き顔さえもずっと見つめていたかったのだ。
言葉が通じない国。学生時代、彼女は留学の為必死でドイツ語を学んだ。しかし長い期間を置いて居た上、音楽の繊細なニュアンスを伝えあうには足りない語学力が現在の彼女を苦しめ、そしてこれまでとは比べ物にならない練習量をこなす日々。なまえの苦悩と疲弊は傍で見なくとも手に取るように解った。
何度も抱き締めたいと、迎えに行きたいと思った。しかし「ドイツに行かない」と言った彼女の背を押したのは、他の誰でもない、俺なのだ。
だが、もういいだろう?
彼女は出来る限り頑張ったと思う。だから、これを終えたら。
ドレスのノースリーブ型の肩からすらりと伸びた細い腕がしなやかに動き、その指は奇跡のように速度を上げていき、第一楽章が終わった。
第二楽章が始まれば趣が変わり、どこか懐かしさを感じる旋律が抒情的に流れる。深い湖を想わせる旋律はやがて艶やかさを増していく。ステージ上の彼女は登場した時の硬さが取れ、唇は薄っすらと弧を描いているようにさえ見える。
あの日なまえは先生とご主人であるコンサートマスターの切実なオファーに対し、暫く口を閉ざしていた。彼女の両親は娘に全てを委ねる姿勢だったが、俺の意見を無下にはするなとだけ娘に言った。そしてややあってからなまえは両親を見、次に俺を見つめてからゆっくりと先生と先生のご主人に向き直り、少し震える声でそれでもはっきりと答えたのだ。

「身に余るお話ですけどやはり辞退させて頂きます。私はブランクがあり、コンチェルトの経験を持たないですし、自信がありません」

肩を落とす先生と瞠目したご主人の深い溜息が終わる前に、俺の唇が俺の意思を離れて動いていた。

「……なまえ、行け。ドイツに」
「一?」
「やってみる前から何故諦める? 夢だったのだろう?」
「どうして? どうして、そんなこと言うの?」

なまえの瞳からずっと抑えていたのであろう涙が零れ落ちた。あの涙をずっと、忘れることが出来ない。目を閉じてあの日のなまえの涙を思い浮かべる。俺が彼女の背を押したのは間違いだったのかと、あの日から絶えず何度自分に問い続けただろう。
やがてなまえのピアノが豊かに奏でてゆく。その音色に魅了された観客の溜息を俺の耳が拾った。
管弦楽の序奏がテンポよく始まる第三楽章は最初からドラマチックである。彼女の指が紡ぎ出すピアニスティックなメロディは、美しさと迫力に溢れている。
帰りたいと泣いていたなまえ。「一に会いたい」と何度も言ってくれた。「帰って来い」と思わず口走りそうな自分をどれ程抑えたか。だが、俺は本当に間違っていただろうか。
ピアノの三連符と柔らかなクラリネットの心地よい音が耳を擽り、抒情性を感じさせる旋律がやがて大きく盛り上がりを見せる。この演奏がどれ程に円熟したものであるのかが、俺にも解る。
何度も聴いたのだ、この曲を。なまえが日本を発ってから毎日のように繰り返し何度も。
勢いを持ってコーダに向かっていく。なまえが全身で奏でる美しい旋律は更に勢いを増し、全楽器を持って華やかに展開し、圧倒的な迫力で魂を揺さぶる重厚な音色が劇的に奏でられた。クライマックスだ。
気づけば俺の頬がひやりとしていた。手を触れて自身に驚く。音楽を聴いて涙を流すと言うのは初めての経験だった。ましてや覚え込んでしまう程に何度も繰り返し聴いたこの曲を。
俺は間違ってなどいない。なまえを此処へと送り出したことは間違ってなどいなかったのだと、今はっきりと理解した。
インパクトのある堂々たる終わり方だった。
一拍の沈黙の後、嵐のような拍手と喝采が湧き起こる。スタンディングオベーションだ。指揮者とコンサートマスターが満面の笑顔で、両手を指し出し何度も頷きながらなまえの手を握り肩を叩く。
俺の隣にいた銀髪の老紳士が、覚束ない脚を踏み鳴らし、頭上高く掲げた手を叩きながら「ブラーヴォ!」と「アンコーラ!」を繰り返していた。
なまえの華々しいデビューだ。俺は静かに悟る。彼女は俺が独占して良い人ではないのだと、感動と諦念の中で席を立った。





「一」

空港の第二ターミナルのコンコースを、航空会社のチェックインカウンターに向かい歩いていた。
行き交う旅行者のごった返す中、振り向く俺の目が信じられない人の姿を捉えた気がした。
コンサートホールから真っ直ぐ此処へ来たのだ。忙しい仕事を調整し、何とか時間を作って訪れたドイツ、ホールに到着したのは開演の直前だった。俺はなまえの楽屋を訪れる暇さえなかったのだ。見たのはステージ上の彼女だけだ。
傷心の余り幻でも見たかと自嘲して顔を戻し、再び足を踏み出す。

「一ってば!」

なまえである筈がないと思うが、でも再度振り返ればそこに、なまえが微笑んでいるのだった。

「……何故、」
「もう、独りにしないで」
「何故ここにいる?」
「だって一は慣れてないから。一応一年此処に住んでたんだもの、私の方が解ってる。空港へはタクシーより電車の方が早いの」

そう言って悪戯っぽく笑う。確かにとんでもない渋滞の中、空港までの道のりは果てしなかった。それよりも、なまえが何故ここに居るのかが解らない。その笑顔にすぐにでも手を伸ばしてしまいたいが、俺は動けなかった。状況が飲み込めないのだ。

「そういう意味ではなく、何故、」
「この恰好? だって、一と日本に帰るんだもの。あ、それ、」

彼女は見るからに旅に出るかのようにきちんと支度をしていた。俺の手に持ったものを見て目を瞠る。俺は二人分の航空券を手にしていた。





なまえは遣り尽したのだと言った。最初で最後のコンサートを成功させたら帰国する、初めからそのつもりだったと。ドイツに来て直ぐに楽団とそう約束をしたのだと。次のピアニストももう決まっている。だがそれを口に出してしまったら、すぐにでも帰りたくなる。だから俺にはやり遂げるまで黙っていたのだと。

「ピアニストになるのが夢だった。だけど、私はもう一つ新しい夢を見つけた」
「……俺の所為で、心を変えたのか」
「違うよ。夢は叶ったって自分で弾いてみて解ったの。本気でピアノ教師をやり直したいと改めて思ったの。私は演奏家としてはダメダメだけど、名選手が名監督ってわけじゃないもの。私は私のような子をもっときちんと育てて、ドイツに沢山の日本人ピアニストを送り出したい。先生もコンマスも解ってくれた」
「…………」
「一が背中を押してくれたから私は夢を一つ叶えられた。そう伝えようとしたら、会場にもう一がいないんだもの。三年前のあの日、あなたが私を追いかけてくれたから、今度は私が追いかける番だと思って」

なまえはそう言って俺の首に縋りつくように腕を回した。何も言えずに俺も彼女の背を抱き締める。密着させた二人の身体の間の一か所に異物感を感じたのか、彼女がふと身体を離し目を落とした。
それは俺の左胸にあった。
俺の右手が取り出した内ポケットの中身は、ベルベッドの小さな箱だ。こいつも随分長い間待っていてくれたのだと、その蓋を開けてみる。
覗き込んだなまえの唇が綻んでいく。先程スポットライトの下で見たよりもずっと綺麗な幸福そうな笑顔に、つられて俺の頬も緩んでいった。
もう二度と離さないと強い想いを込め、なまえの身体をもう一度抱く。なまえの左の薬指にやっと収まることの出来た指環が、空港の照明に煌めいた。





2014/02/26


▼えり様

この度は20万打企画にご参加いただきましてありがとうございました!
大変大変長らくお待たせしました!←もうお約束。
えり様に頂きましたリクエストは3万打リクエストを頂いた『ラヴァーズ・コンチェルト』の続編で甘ということでした。このお話には並ならぬ思い入れがありまして、その続編としてプロットを作るのに長い時間がかかりました。そして結果出来上がったお話の長さときたら(;д;)またしても過去最長です。削りに削って最長です。
そして例の如く言い訳と言う名の解説を加えさせていただきますね!
なまえさんはピアニストを諦めてピアノ教師になった過去がありますが、現在教師をしている方でそう言う方は少なからずいるのではないかと思います。(ですが私は実際に教師ではありませんし、お話は全て想像と捏造の上に構築されています、念の為)
其処に降って湧いた幸運は、それぞれの家族の理解も得て一さんとの幸福な将来を考え始めたなまえさんには、手放しで喜べない状況でありました。けれど一さんの性格からして「行くな」などとは絶対に言えない。彼女と一さんの苦悩の部分を字数の関係で書き切れなかったのが残念です。短編に収めるには少し内容を盛り過ぎてしまいました。
ドイツに日本人演奏家が少ないのはどうやら本当らしいです。演奏家がたった一度の成功で燃え尽き症候群になるというのもよくあることらしいです。
しかし学生の頃留学経験があってもブランクのあるプロピアニスト志望者がオーケストラの常任ピアニストになれるというのは、実際には極めて難しいことと言わざるを得ません。ですが、あくまでもこれは夢小説という事で、どうか厳しいご意見は…グッとお腹に仕舞っていただけるとありがたいです(;∀;)
ラフマニノフの交響曲第二番は私が恐らくこの世で一番好きな曲です。聴きながら書きました。しかしですね、CDで聴いただけの一さんの曲の解説…(;∀;)(;∀;)(;∀;)アハッ!!
最後の空港の件もかなりご都合主義で全く申し訳ない限りですが、どうかそのあたりについても寛容に受け取って(生暖かく見過ごしていただけますと)大変嬉しく思います(*ノノ)
最後にタイトルの『コンアモーレ』についてですが、これは音楽用語で『愛情を持って』と言う意味です。最初は『アモローソ』としたのですが、こちらには同じ愛情でも若干セクシーな意味がニュアンスとしてあるので、コンアモーレにしました。
一さんもなまえさんもそれぞれお互いへの深い愛情をもっていたが為に遠回りしましたが、きっと二人は幸せを掴んでいくことと思います。
改めましてえり様、この度は素敵なリクエストありがとうございました( *´艸`)

aoi




MATERIAL: SUBTLE PATTERNS / egg*station

AZURE