創作Short | ナノ


▽ A





「あさひ〜リビングの封筒、とってきて!」

姉貴の声だ。
廊下に出た瞬間驚いて俺の声が裏返る。

「そ、そんなの、自分でとればいいのに……めんど」
「あたしの部屋よかアンタの部屋の方が、階段に近いでしょーよ。ほら、行った行った!!」
「えぇ〜」

ドア越しに姉貴へとため息を吐き出せば無視された。なにこれ、不条理にもほどがある。弟は舎弟か何かだと勘違いしてるだろ、この人。
とりあえず姉貴の機嫌を損ねて殴り込みにこられる、ってことだけは回避しないと……。あー面倒だ。

憂鬱な気分になって後頭部を掻こうとしたとき耳元が急に騒がしくなる。
「あさひ」
最悪だ、忘れてた。何で廊下に出たのか。そうだ、こんなため息を吐いている場合じゃあない。
蛙は相変わらずゲコゲコ節を歌っていた。

「あさひ、あさひ、あさひ」
「はぁああ〜」

早く風呂場に着かないと駄目だ。うるさい蛙を鎮める方法といったら、それしか手段が思い付かない俺にはできることが他にない。
頭がおかしい俺の家族が、蛙の恩返しに胸を打たれてその恩返しを受け入れようとする前に、蛙を隠さないと。さもないと蛙が調子に乗ってしまう。それだけは死守しなければならないのだ。


摺り足ぎみに階段を下りていると、途中で「お願いしたかんね〜!」と姉貴がまた命令してきた。本当に人使いが荒い姉だ。てかうるさい。
一番風呂場に近いはずの俺の部屋からの道のりが、はじめて、酷くまどろっこしいものに感じた。

「あさひ、あさひ」
「……うるさいよ」

蛙だけが陽気に歌をうたっていた。







風呂場では声が響く。
外からも中からも音が溢れるもんだから、軽く祭りみたいになっていた。

「あさひ」
「はいはい。たしか湯はりの前に、フタしておくんだよな……フタどこだ」
「あさひ、あさひ」
「うわ濡れた。ほんとついてないんだけど……最悪だし、もお」
「海がいい」
「は?」

暢気な音楽が狂わされて戸惑った。不協和音をもたらした元凶、蛙を見やるともう歌っていなくて、むしろ大海を夢みる魚みたいに黒目に水飛沫を跳ね返らせて、俺を見ていた。

「海がみたい」
「えぇ……」
「ちっぽけなみずたまりじゃなくて、海がいい」
「―――アンタ海なんか知らないでしょ」

ふざけるな、蛙を沈めるなら別にどこだって構わないんだから。面倒なことを要求するなよ。それにアンタは知らないだろうけど、ここは盆地なんだから、海なんてものは遠くに行かないと駄目なんだって。

「ねえ……風呂でいいでしょ?」
「あさひ、海がいい」
「遠くはイヤだよ俺」
「あさひ」

なんで蛙に説教してるんだろう。
世にも奇妙な構図に頭が痛くなってきた。端から見れば馬鹿げた問答だったに違いない、それでも蛙なんかに負けなくないのも事実だった。
どうにかこの場で、大量の湯のなかで、蒼白い浴槽という舞台のなかで蛙のへこんだ首に指を回していけたら。……すべては、それで終わるのに。

「―――ねぇ、死にぞこない」

聞かん坊のワガママ蛙に、思わずポロッと話しかけてしまった。

「あさひ、おんがえしするぞ。海につれてってくれ」

脳がない蛙には届かなかったようだけど。これでも結構酷いこと言ったつもりなんだけどね、馬鹿蛙さん。
洗面器に入れていたせいで全身泡だらけの蛙の首根っこを、また人差し指と親指でつまんで持ち上げると、蛙の脚がぷらーんとなすがままになった。ちょっと優越感。このままなすがままにされてればいい。
自分の中の慢心が、満たされていく感じがした。







「あれ、もうお風呂上がったの?」
「うんン、うん、まあ」
「身体ちゃんと洗ったの? カラスの行水みたいよ、アンタ」
「ほ、ほっといてよ……」

廊下ですれ違った姉貴にたどたどしく口答えしながら、俺は右手をバスタオルで隠した。そのまま腰の後ろにそれを潜ませて階段を上る。こんなときだけだ、蛙が静かなのは。
ずっと静かならいいのにと思っていると、また蛙は賑やかになった。

「海はきらきらしてるんだぞ」
「もういいよ、うるさいって……」

どっと疲れが押し寄せてきてベッドに寝転んだ。その拍子に投げるようにして、蛙を段ボールめがけて放り出した。
蛙の陽気な歌はとまらない。
スイッチひとつで消える電気をありがたく思いながら、本当にこの蛙をどうしようか悩む。スマホで蛙の飼い方なんかを探す方がよっぽど楽なのかもしれない。暗闇で見つけた蛙のサイトに、ため息を吹きつけた。
「ないわー」
面倒なことになった。ほんと、ないわ。呪文のように何度か溢していると目が痛くなってきた。ちょっとスマホをベッドに仰向ける。
すると、蛙がにわかに騒ぎだした。

「海だ、あさひ! 海があるぞ!!」
「はあ?」
「きらきらしてる海だ……きれいだな」

ベッドの下の段ボールを覗き込むとふと蛙と目が合った。……いやいやいや、暗くて目なんか合うわけないんだけど。
蛙がいっていたのは天井の金粉のことだった。昔の家には壁やら天井やらに、紙吹雪よりも小さな金の紙が入っている。それがスマホの明かりに照らされて身体を輝かせていたのだ。それこそプラネタリウムにある、暗がりを彩る無数の星のように、輝いていた。
でもこれは海じゃない。

「違うよ」
「きれいだなあさひ!」
「違うって、これは、海じゃない」
「海はこんなにちいさかったんだ!」


ああやっぱり彼は蛙だ。
話の通じない暢気で馬鹿な、脳なし蛙。
彼は覚えていないんだろうな。一カ月前にも母校である小学校に連れて行ってプールに入れた時にも、同じことを言っていたことなんて。

「……ねえ」

それってなんだか悔しい気がする。声を蛙にもう一度かけるが、それでも返事なんてものはなくて、逆に笑える。俺の言葉なんて聞いてくれないくせに恩返しをしたいだなんて、あんまりにも傲慢じゃないだろうか。俺の考えすぎ? いやいや、そうじゃない。……はずだ。

「アンタにはどんな世界が見えてんスか」

これでどうだ! って質問も無視されてしまえば何の意味も持たないってことを、酷く感じさせられる。こんなときに口が達者な人間はどう切り返すのだろうか。コミュニケーションをする努力を碌にしてこなかった俺には、そんなことすらよくわからない。
ベッドの上に寝転がると世界は水平に広がっていった。
低い位置にあった段ボールはフェイドアウトしていって頭だけがチラッと見える。それでも煩わしい歓声は段ボールの世界に響き渡っていて、開けっ放しのフタから俺のところに伝わってくる。焦点のズレた、気味の悪い独り言。蛙の妄言が延々とつづいていくのを、どこか夢心地で耳にしていた。
そのうち蛙は眠ってしまったのか声を出さなくなり、代わりにすーすーと息をし始めてしまった。

「はじめからそうしてれば、俺も放っておいたのに……」

なんでわざわざ騒がしくするんだろう、無神経にも人の家で。それがまた意味不明な蛙の生態だ。度し難い、って感じで。
それに話を聞いてくれないのも腹が立つ。なんというか自分勝手だ、この蛙。俺も大概だって周囲に口を揃えて言われるけど、こいつに比べたら一ミリもそうじゃないと思う。ほんと、どうにもこうにも話が通じない相手だ。


「まるで蛙みたいだ」

ぽつりと零す。
寝ている相手に向かって悪口は言うもんじゃないけど、本音は漏らしてもいいはずだ。

「蛙は家に帰れ、ってね」

さあ、蛙を水に帰してあげよう。寝ている間に。
殺すのか? ―――それは、まさかの発想だ。確かにうるさい蛙は水に沈めるに限るけど、それは蛙の場合であって、彼の場合は上手くいく手段じゃないだろう。なんせ彼は蛙であって蛙でない。まあ本人にはそう言ってやらないけど。
いつかまた後輩の忠告をちゃんと聞けるようになったら、伝えてやろうと思う。

「とりあえずお風呂に入れてから、家の方に連絡しておくッスよ」

聞いてないだろう相手に律儀に話す俺も、俺だと思う。どんなに話しても聞いてくれないだろう相手を家に置いて、こうして寝床を与えてやっているのだから。
しかしながら蛙はどうも、元に戻るまで長そうだ。
明日また病院に行くことを蛙の親に勧めるとしよう。



「おやすみなさい、先輩。―――もう事故なんかしないでくださいよ」

じゃないと、今のアンタを見ていると気が滅入りそうだから。





END.

  

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