創作Short | ナノ


▽ B





青山には5つ年上の兄がいた。
彼は青山とは違って会社で実業団に入っており、帰宅の時間がまちまちだった。酷い時には何日も勤務先から帰らないこともある。
その姿を見ていると、いくら他人のことに興味が無い青山といえど気の毒に思えてきて、『手伝えることはないか?』と訊ねてしまったのだ。

兄には3歳になる息子がいた。
兄からすれば一番の気がかりは、息子のことだった。
兄の妻も看護師であり、両親ともに保育が困難な状況にあった。そのため息子は保育園に預けられていたのだが、そこでまた問題になったのが、誰が迎えに行くかだった。
延長保育は息子が辛いだろうと提案された時刻は、午後5時30分。ギリギリ延長保育に入らない時刻が選ばれた。
それはちょうど、青山が帰宅する時間と重なっていた。




それから一年が経った。

長いような短いようなこの一年で、保育園の大方のシステムは理解できるようになった。なまじ顔が良い青山が迎えに来ることで色めく先生たちの姿に青山が慣れてきたのと同時に、先生たちの方も、いつまでたっても自分に靡かない男に諦めが出てきた。最近ではお迎えにくる母親たちと同じように子どもの話をするだけになっていた。
しかしそれが二か月前のこと。
バイト生として入ってきた一人の青年によって、変わろうとしていた。


大学の実習の関係でやってきていた青年、名前を佐崎太一(ささきたいち)といった。彼は地方からの出身なんだろう、時折方言が漏れているのを聞く。
佐崎は基本、土曜日と金曜日の午後から入っている。その日の先生の人数によって入る組が変わると甥っ子に聞いた。今日みたいにちょうど甥っ子の組に入ることは少なく、それでも甥っ子が先生と遊んで楽しかったと言うのは、佐崎が土曜日の異年齢保育に入っているからだ。

できれば土曜日だって迎えに行きたい。
でも、そのための口実は、何にもない。土曜日になれば甥っ子の母親、つまり兄の嫁が迎えに行けるからだ。稀に両親ともに忙しくて青山が向かうこともあるが、それでもその回数はほとんど無いに近い。


(どうすればもっと、会話ができる……?)

元から人と話すスキルがお世辞にも高い方とは言い難い、青山のことだ。不自然に近づいてもボロが出る可能性がある。いやむしろ怒っているように見られがちな固い顔のせいで、佐崎の気分を悪くするだろう。

それをどうやって解決するのか、青山は兄に訊ねることにした。










「声のかけ方? そんなのスパっと話しかけてまくしたてれば、いけるいける!」
「……兄さんに聞いた俺が馬鹿だった」
「んだよ〜?」
「アイツは生粋の馬鹿だから、そういうことは聞かない方が賢明だよ」
麻紀(まき)さん」
「えー麻紀もコイツの味方かよ。じゃあお前ならどうすんの?」

そうですね……と考えるしぐさを見せる男性。伏せられた睫毛は長く、彼の美貌をより美しく見せている。
青山の兄に比べれば幾分背が低いが日本人にしては高い方だろう178cmの彼は、名前を青山(あおやま)麻紀(まき)といって、お察しの通り兄の嫁だ。
男だから女だからとは現代の日本に相応しくない……ということで外国で式を挙げ、また日本で苗字を変えたというアクティブ夫婦だ。もちろんすべて青山兄の働き掛けによるものだが。


「とにかく話し合っていきます」
「面倒じゃねえかよ!」
「貴方みたいな脳筋ばっかりじゃないんですよ、世の中」
「えーでもお前、それで俺と子ども作ってるんだから結構世の中馬鹿ばっかじゃねえの?」
「……」

(あ、麻紀さんキレたな)

青山はピーンときた。その瞬間、それに気づいていない兄の元にラケットが飛んでいった。兄が実業団で使用しているテニスラケットだ。
ガツン。
鈍い音を立てて脳天にヒットした。音から考えるにクリティカルヒットは免れられないはず。なのに当てられた本人はというと平然としていたのだから、やはり我兄ながら、脳筋なのかもしれない。
兄は声を荒げながら、ラケットを投げられた方向をがばっと振り返った。

「いってー!! なにすんだよ麻紀!?」
「手が滑りました。そろそろご飯の時間なので広紀を呼んできてください」
「いやいや……目の前もずくしかねえんだけど!?」
「最近体重が増えたってうるさかったじゃないですか。総一郎くんがスーパーで安売りしてたから沢山買ってきてくれたんで、たんと食べてくださいね」
「もずく……」
「肉はお預けです」

その言葉にシュンとする兄。
威厳のある兄の姿がこうも小さくなってしまうとなんとも、こっちまで恥かしくなってくる。しかし麻紀の言うことはもっともなので口を挟む気にはなれない。

よし、今のうちに広紀を呼んで来よう。

そう思って立ち上がった青山だったが、二階に上がって子ども部屋を覗くとそこでは広紀が眠ってしまっていた。とても幸せそうなその寝顔に起こす気にもなれず、一階まで戻ってそれを麻紀に伝える。

「先に食べておきましょうか」
「俺、ほんとにもずくばっかなの?」
「そう言ってるじゃないですか」
「麻紀さん。兄さんが泣いてます」
「甘やかすと碌なことにならないよ総一郎くん」
「まあそうですが……見てて可哀想というか」
「頭が冷えるまでこのままで」
「冷えるかどうかは微妙ですが」
「確かに……」


「つーか、さあ」

青山と麻紀が兄について話している時だった。ふと低い声が発された。その張本人の方を二人が見ると、そこにはさっきとは打って変わって不機嫌そうに眉を寄せる兄がいた。
どうしたんだろうか……やはりもずくだけと知って、怒ってしまったのだろうか? 
それはそうとして、もう後に引けない麻紀は、内心ひやひやしていた。

「なんでお前らそんなに仲良いわけ?」
「は? ……何言ってるんだ、兄さん」
「貴方の弟でしょう。別に仲が良すぎるってわけでもないですよ」
「え〜ほんと?」

そんなことか、と青山は息を吐いた。しかし。


「無いとは思うんだけどよ、もしも、裏で何かイイことしてるとかだったらさ」

どーしようかと思ってな



無いとは思うけどな! そう言って笑う兄はもうニコニコでいつも通り溌剌とした、子どものような顔をしていた。下心のない男気に溢れたまるでヒーローのような人間。青山よりも数倍、ヒーローに近いのがこの男だった。
ただ目が笑っていない。
兄の向かい側にいた青山は、麻紀からお味噌汁をもらいながら意図的に視線を兄から外す。それでもずっと見られているのがわかる。彼の目は獲物を狙うそれだった。


「お、味噌汁はくれんだ。サンキュー麻紀! 愛してるぞ!!」
「……喉乾くと思いまして」
「さっすが麻紀は気が利くなぁ」
「兄さん。俺も腹が減らないから、これ」
「まじで? 総一郎が俺にものくれるとか、めっずらしい! あんがとなー!」
「気にしないでくれ」

アンタを怒らせたら碌なことにならないんだから。そんなこと、生まれたときから了承済みだ。
分かりやすくご機嫌をとれば、流石の兄も勘づくかと思いきやこの馬鹿、ただ喜んでるだけみたいだ。


「今日って俺の誕生日だっけな〜? すっげーみんな優しいじゃん! 俺って幸せ者だな!!」
「はあ……」

何が嬉しくてこんな馬鹿に……! と思うかもしれないが、侮ってはいけない。

不意に兄が麻紀を見る。
ありがとうと言った、先程までの笑顔を携えたまま、兄が口を開いた。


「誰にもやんねーから」

主語はない。
ただこれは、脅しの言葉であり……最大の愛の言葉であり……兄の子どもができる直前にも、麻紀に言っていた台詞だ。


「は、い」
麻紀は、小さく頷くしかできなかった。

彼はとても賢かった。その言動がこの場合の最善であり、兄を苛つかせないための正解であると、瞬時に弾き出したのだから。
しかしながらそんなこと、青山家には関係ない。

「ところでさあ麻紀」
「な、んですか」
「もう一人家族ほしくない?」
「………………」

麻紀の顔が青ざめる。


愛する者へ容赦がないのも、
青山の血筋では、当たり前の光景だった。




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