創作Short | ナノ


▽ C



 *



「いッ……たぁ」

油断したと気づいてすぐに右半身をかばったけど、少し遅かったみたいだ。布団についた方の手がジンジンと痛みだす。放っておけば治りそうな傷も、こうも痛むと気になってしょうがない。

保育園のバイトを休んでまで行っていた実習先で掃除のときに使っていた薬品が肌に合わなかったようで、俺の手のひらはすっかり赤くなっていた。
近いうちに病院、この場合は皮膚科にでも行って薬をもらわないと、と思いながらはや5日が過ぎた。





「きょーね、おじさんおむかえなの」

お昼寝から目覚めた子どもの一人が、
「はやむかえなの。でも歯医者にいくからやだ」
と寝ぼけながら口にしたから大変だ。
子どもたちは我先に話を聞いてもらおうと、自分の寝ていた布団を放置して俺の背中にしがみついてきた。

おいおいまた叱られんぞ、と思っていると案の定、保育士の先生が声をかけてきた。
「あれ〜年長さんが一番畳むの遅いよ? きょうは土曜日でお友だちが少ないから、沢山おやつ食べられるのにね。食べなくていいかな?」
「!」
「綺麗にまきまきしてね」

はっとした表情になった子どもたちが、話している場合じゃないというように自分の布団に走っていく。そこでまた先生が先を見越して、急いで畳んで汚くならないように言葉をかけていた。
流石ベテランの先生だと感心しながら、まだ意地汚く眠りこけている子どもの肩を揺すった。


そこで言われたのが、上の台詞だ。

小さな声で内緒話をするように口を開いたのは広紀だ。敷布団と掛け布団を合わせて畳んでいた広紀はそう言うと、俺の目を見つめた。
そして話し続ける。

「なんでさいきん、こなかったの?」
「別のところでお勉強してたんよ。みんなの先生になるお勉強をね、たくさんね」
「ふーん」

気のない返事をした広紀がふと、膝に頭をのせてきた。眠たくなったのか膝にしがみつくようにしてくる広紀に驚いて固まる。
しかしながらすぐに、
(もしかして……寂しかったんか?)
と思い至った。
うわっなにそれ、可愛いな。
父性本能というか心がきゅうっとして、目の前の子どもがいつも以上に愛しくなってきた。
そして思わず、こっちの方から遊ぶ約束を持ちかけてしまう。

「おやつのあとに一緒に遊ぼっか」
「ほんと? 先生いっつもおそうじだけど、あそんでくれる?」
「あー大丈夫! たぶん!」
「やった……」

広紀はやんちゃな子どもだけど、そのくせ本当に嬉しいときはその喜びに耐えるように小さくしか喜ばない。もっと身体で表現してもエエんやで……とも思ってはいるけど、強制するのも違う。
拳を握って腰振りダンスをしてみせる広紀に笑いかけながら、布団を片していった。

おやつは牛乳とビスケットの盛り合わせ。いろんな種類のビスケットに、子どものテンションは高くなる。
「もっと! もっとー!!」
変な盛り上がりに一人がなると、大抵みんなこうなる。言葉の意味がわかっているのかいないのか、赤ちゃんまで口々に「もっも〜」と歌うなかで、別のことを呟く子どもがいた。

「おじさん、くるからね」
「ん……どうしたん広紀くん? おじさん来てくれるの嬉いんかな?」

牛乳をコップに注いでいっていると、広紀に話しかけられた。
不思議に思ってたずねるが、どうやら的外れだったようで首をすごい勢いで横に振られる。

「ちがうって、おじさん来るんだってば」
「うん来るんやんね。あのカッコいいおじさん」
「……かっこいいって、おもう?」
「おん?」
やけに食いついてくるので頷くと、広紀はホッとしたように肩を落とす。
「じゃあ好き?」
「え、広紀くんのおじさんのこと?」
「うん」
「あーえー、うーん……好きかどうかで言われたら、そりゃ好きやで?」

確かに広紀のおじさん青山さんは格好いいと思う。これは本心だ。
しかしながら、それは容姿について素直に感想を述べただけであって、それ以上にもそれ以下にも青山さんのことをみてはいなかった。

そんななかで『好きか』なんて訊ねられても正直、答えようがなかった。とはいっても子どもの大切な家族のことである。間違っても「嫌い!」はないし、また「興味ないぜ☆」も子どもを傷つけかねない。
そうなると、好き、としか答えようがなかった。

まあ本当に嫌いじゃないし別にいいか。子どもの聞くことだから、と甘くみていた。
幼い広紀が勘違いを起こして、
「先生もおじさんが好きなんだ」
などと本人に伝えようとしていたとは予想だにしていなかった。










「せんせーみてみて! て、て!」
「お、キレイですね〜石鹸さんつかった?」
「ふん!」
「だからピカピカなんだ。あきちゃんは手洗い名人やねえ」

2歳児の手を後ろから持って洗う手伝いをしていたところ、トイレの外、つまり左側を見ると4歳のあきちゃんが手をパーにして見せてきた。
そういや前に手洗い名人の話をしたな〜。そう思い出しながら褒めてやると、したり顔をして彼女は「兄ちゃんも上手なんだ」と言った。たしかあきちゃんのお兄ちゃんの名前は―――。
考えながら子どもの手洗いを済ませる。
もうすぐ16時だ、外遊びの時間に入ってしまう。それまでに排泄と手洗いを済ませてやらないと。
「他のお友だちもみんな、トイレ行った〜? 外いく前に、」

ドンっ

「を!?」
濡れた手を拭こうと、紙を取りにトイレから出た時だ。部屋に入ってきた誰かとぶつかった。ちょうどトイレは部屋の入り口に直角に設置されているのだ。

「……」
「すみませっ――あ、青山さん! すみません!」
「……いえ」

まさか保護者の方とは!! 
咄嗟に頭を下げて謝る。そのため視線は下がり、相手のズボンが視界に入った。珍しく私服な青山さんに驚きながらも、もしもこれが子ども相手だったら怪我させていたと反省する。

「広紀くんのお迎えですよね? いまトイレなんであと少し」
「て」
「へ?」

聞き間違えか。固まった。
簡単なひらがな一文字。意味がわからずに思考回路が混乱して口を開きっぱなしにしていると、青山さんが人差し指で俺の手を差してきた。
“て”
―――ってその手か!

「すみません洗ってて! 服、濡れませんでしたか?」
「どうしたんですか」
「いや、子どものトイレを手伝っててそれでー」
「……赤い」

服が濡れてたら大変だ、と思って棚からすぐに手拭きペーパーを引っ張っていると「赤い」と言われてしまう。
あかい、と聞いて目を落とすとそこには見事にリンゴみたいな手の平があった。ああ、その話をしていたんだ。腑に落ちる感じがした。
そういやずっと、ジンジン腫れたようなむず痒いような感覚がしていた。これのせいだったのか、納得だ。
それにしてもこんなに悪化してるとは思ってもみなかった。本人ですら気付かないことを青山さんはすぐに気づいた。ものすごい観察力だ。さすが大人の人だな〜。
未だに俺の手の平を凝視している彼に「実は……」と話す。

「前日まで実習がありまして。そのときに使ってた洗剤が、どうにも合わなかったみたいでして」
「だから―――てっきり俺の、とき、のかと思った、か、んだな」
「あの……?」
「なんでもないです」

部屋の奥で泣きはじめた赤ちゃんの声で、青山さんの声がとびとびにしか聞こえない。訊ね返しても首を振られてしまえば、詮索するのも野暮な気がした。

「どうも肌が弱いみたいですね〜俺。もっと強くならないと!」
「掃除のとき、手袋とかしなかったんですか」
「したかったんですけど、結構厳しい園だったので」
「……」
「実習生は実習生らしくしろって言われちゃいまして……。文句言えませんよね」


「―――消えろ」

「へ、」
どこからか地を這う声がした。罪を裁く閻魔大王のそれのようでありながら、どろどろと流れる溶岩のような声だ。
肝が冷える冷たい声には怒りが籠っていた。
まさかと思いながら前を見ても、そこにはいつも通り無表情な能面顔の青山さんしかおらず、彼がそんな反応をするとは到底思えなかった。一応背後を確認してみても、年長さんの子どもと広紀くんが手を洗っているだけだ。
……気のせいだろうか?

俺は焦りを誤魔化すように、
「そ、そろそろ広紀くん来ますよ!」
と子どもの名前を呼んだ。
青山さんにも広紀くんのことを伝えようと振り返ったとき、手が触られた。
―――握られてる、と気付いたのは2秒後のことだ。

「……あの、」
「痛そうだ」
「えっと」
「手相も消えてるな」
「これでも少しは直ってきたんですが……じゃなくて、あの」

だからなんで手を握ってるんですか、そう訊ねるより先に俺の手の平を開いて凝視する青山さん。おい貴方、そんなに楽しいですかそれ。
相手は大切な保護者の方だから無理に振りほどくわけにもいかず、されるがままにじーっとしているうちに広紀くんが紙を取りに来た。
そして、当たり前のように見つかった。

「なにしてんの、そーいちおじさん?」
「て……手相占い?」
「てそう?」

青山さんの奇行に広紀くんが不信感を抱かないように、と言った言葉が逆に広紀くんのハテナを生んだようだ。眉を寄せて首をかしげていた。
すまないね、広紀くんよ。君のおじさん、なんか人の手の平見るのが好きみたいやわ。
内心謝りながら遠い目をしていると、突然ヌルっとした感触がした。
「ひッ」
驚いて手を見ると誰かの後頭部が見えた。
「な、え、え……?」
その誰かに訊ねるわけでもないけど「え、」を繰り返していると、もう一度舐められた。
ジンジンする。
皮膚の上を棒で叩かれているみたいな痛みが続く。そのせいか舐められているっていう感触はあんまにしない。けど、それでも背中がソワソワする感じがする。
―――てか、そうじゃない。
ちがう、なにこれ、都会の人ってこういうのが当たり前なの? ほんまに?
都会怖い! ……じゃなくて。

「あおや、」
「大切にしてください」

ちゅっ

リップ音を鳴らして見えていた後頭部が離れていく。あ、つむじ発見。髪上げてるからあんまり気付かなかったけどあそこか〜。……じゃないって。

「あ、あの」
「次からは手袋してください」
「ここは手袋させてくれるんで大丈夫です……て、いやその」
「―――広紀いくぞ」
「うん!」

おむかえきたの〜。という広紀くんの元気な声で、ほかの先生達は気づいたように部屋の入り口を向く。そのうちの担任の先生が青山さんに声をかけにきた。
俺は邪魔になると思ってすぐに部屋の中に入る。入り口にいた青山さんは持って帰るカゴを探すためにロッカー前にやってきては、そのまま振り返って会話をつづけはじめた。
完全に訊くタイミングを失った。
ってことだけはよく分かる。けど、他は何にもわからない。分かりやすく言うと『なんも分からん』ってこと。なに言ってんだろう俺。

(……濡れてる)

開きっぱなしだった手の平を見ると濡れていた。そこは青山さんが舐めたところだ。……なんで舐めたんだろう。痛そうだったから、とか?
それってあり得るのか?
だって普通、他人の手なんて舐めない。というか身体のどこでも舐めない。たぶん。
感覚的には犬が人の手を舐める的なやつなんだろうか?
まてよ、青山さんは犬って感じでもない。あえて言うとしても堅実な警察犬っぽいし、人懐っこく軽々しく手を舐めるとかしなさそうだ。

(だったらなんで、あの人)

わからない。


用意を終えた広紀くんがリュックサックを背負うのが見えた。部屋の真ん中で立ち尽くしていた俺は、ここも邪魔になりそうだなと移動しようとした。しかしながら俺の足元で赤ちゃんが「あ〜わ〜わ〜」と声を出しながらしがみつき遊びをはじめて、全くもって動けなくなった。
広紀くん……と青山さんの見送り、は諦めようと足元を見ていると声をかけられる。

「せんせーさようなら!」
「あ、はーい! さようなら!」

「ありがとうございます」
「っえ、あ、さような、ら!」

あからさまに言葉を詰まらせながら挨拶をした。
俺が広紀くんに手を振ったあと、青山さんの顔が見えたからだ。冷静の代名詞のようであり、彫刻のような表情のない顔の青山さん。その彼の口元が少し上がっていた。
でも笑っていなかった。
どうしてそう思ったかは全然わからない。けど、少なくとも俺はそう思った。
たとえ、ほかの若い女性保育士さん達がキャーキャー言い始めても、俺は違うと言いたかった。
彼の目の下の隈のせいだろうか?
薄暗い表情にしか見えなかった。……それはまるで何かを慈しむような目をして、いた。

「さあきせんせー!! おりがみしたいー!」
「……おり、あ。……うん」
「どうしたの?」
「……なんでもないよ。おりがみ? いいよ!」

棚から箱、出してくるね! と声をかけてくれた子どもに話しながら棚に向かった。トイレとは逆方向だ。
帰っていく青山さんに背を向けたところで俺は、完全に笑顔が消えていた。
ダメだとは思う。
保育士として、その見習いとして。笑顔が消えることはなによりもいけないことだと思う。
でも、ほんの一瞬だけ。
その一瞬……本気で笑顔すら忘れるぐらい焦っていた。

(あの目が、怖い―――)


そう思ってしまったから。










太一が聞き逃したのは、果たしてどうでも良い台詞だったのか。


“てっきり俺のこと気付いたのかと思った、そうか、違うんだな”




(つづきます)

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