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「紗也!」
と、強く、はっきりと呼ばれた名前。
たゆたう意識から、一気に引き戻された視界に映った姿に瞠目した。
「見えてんだろ……っ」
「…………」
未だ覚束無い思考の中で、何処か不安を、怒気を孕んだこの人の瞳の意味を、量りかねて揺らめく。
「忘れて、無ぇなら……、何か言えっ 紗也!」
「っ……」
私、は……。
辛いだけの想いなら、いっそ忘れてしまえば良い。
そう、思ったんだ……。
『阿近、さん』
あの時、私はどれだけ悲壮な顔をしていたんだろう。
『……もう、良いのか』
いつになく優しい口調で阿近さんは訊いた。
『……はい』
本当は、全然大丈夫なんかじゃなかったけれど、私はその言葉にもう十分ですと泣き笑いで返した。
そうしたら、少しだけ困ったような顔をした阿近さんが、とん と優しく私の胸に触れた。
『それでも、こっちの痛みは消えねぇぞ……』
『っ……』
触れられた胸の奥の奥。
私の中の想いが悲鳴を上げたけれど、ギュッと奥歯を噛み締める事で堪えた。
『……っとに』
それでも、次から次へと溢れ出す涙を止められない私に、しょうがねぇなと苦笑う。きっと言いたい事も有っただろうと思うのに、
『約束は約束だからな……』
多くは語らず、溜め息と共に了承をくれた。
ああ、やっとと。これで開放されると思った脳裏に意図せずして浮かんだ顔は、少し朧気だと言うのに一層強く胸を締め付けては私を苛む。
『 』『っ……』
脳裏に響いた名前は確かに私のモノだったけれど、あの人が私の名前を呼んだ事なんて数えるまでもない。
あの日あの時、ただ一度きり。だからこれも只の記憶の断片に過ぎないと知っている。
『…………っ』
俯く私の頭にポンと置かれた手。
その後直ぐに私を包んだ強い光はいつかの光に良く似て、私はまたゆっくりと意識を手放して行った。それさえも、現実の事だったのかそれともいつか見た夢だったのか……。微睡み行く意識の中では思考の集約は困難だ。
だけど大丈夫。その答だって、次に目覚めた時には消えている。
私が望んだ願いは、阿近さんが叶えてくれた。
はずだったのに……。
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