▼ 03
「どうして、此処に……」
私を捉える其の強い双眸が、ただ『恐い』と思った……。
『阿近さんは只の睡眠不足だったようで、大丈夫でし、た……。あの、仕事に戻りますっ』
簡単に報告だけを済ませ、失礼しますと言い捨てるように告げるだけ告げて、
『おいっ 待……四宮っ?』
呼び止めようとする制止の声は聞かずに技局を飛び出していた。
『紗也…………』
「っ……」
耳に媚び付いて離れない阿近さんの声を振り払うように駆けて、飛び込んだのは隊舎内の人気の無い旧書庫だった。
「どうして……」
壁に凭れ掛かるようにズルズルと沈んで、震える躯を抱き締めるように蹲る。
私は……。
知らないはずの声音を知っていた。
低く、切なげに掠れた、私を呼ぶ声を、躯が憶えている気がした……。
一人になって、は――…っと息を吐き出しながら、脈打つ鼓動を静める事に専念する。
「絶対に変に思われた……」
阿近さんの部屋で起こった事が理解出来ず、混乱の中で、私はとにかく逃げ出す事を選択したらしい。
正直、どうやって戻ったかも憶えていない。
気付けば技局の、相変わらず不気味な門の前に佇んだまま、リン君に声を掛けられるまで放心していたとか有り得ない。
『お前が……』
「だからっ……」
未だ蔓延る声を消したくて、グシャリと耳を鷲掴む。
自分が信じられなかった。
されるがまま、抵抗すらも忘れて、辿る熱を茫然と受け入れて……
阿近さんから解放されるまで、彼が眠りに堕ちるまで。
私の中には、逃れる選択肢なんて無かった……。
*
「やっぱり、此処か」
「っ…、阿、近さん……っ?」
バン と開かれた扉に、ヒッと小さく悲鳴を上げて凝視してしまった。
扉の前に立って居たのは阿近さんで、出来れば今、一番会いたくない人で。
滅多に人の来ない此処に、私以外の誰かが来るなんて、況してや私が此処に居る事を知っている人なんて居ないはずで……。
何故、どうしてと、云いたい事は沢山有るのに、さっきまで寝ていたはずの人物を前に、混乱を極めた頭では、何一つ上手く言葉になんか成らなかった。
「……どうか、されましたか?」
とにかく、成るべく普段通りに。一歩ずつ、無言で近付く阿近さんに動揺を覚られないようにと、露程の可能性を願って言葉を紡ぐ。
『俺には一切関わるな』
異隊して直ぐに挨拶に上がった私に、一瞥もくれずに言い放った此の人が、敢えて此処に来た理由なんて一つしかないと知っていても……。
「っあ、の。私は隊務に……っ」
息が掛かる程に寄った距離に耐えられず、すり抜けようとした所を躯ごと捕らえられて息を呑む。
「逃げても、意味無ぇぞ」
背に当たった軽い衝撃で、逃げ場が残されて居ない事が解っても、其れでも、此の空間から逃げ出したいと何かが叫ぶ。
震える私を追い詰める阿近さんが、怒っている訳ではない事は判る。
どうしてかは解らない。
けれど、其れが解って居ても、今は目の前の此の人が怖い。
「っ……」
不意に抱き締められた事に困惑する私に構わず、スル と袴の裾から浸入した掌が内腿を辿った。
「あの、何、をっ……ちょっ……」
這い上がる手から慌てて逃れようと捩った躯は、いとも簡単に抑え込まれて浸入を許した。
「…厭っ……」
「……っ」
グチッ と鳴った水音に小さく舌打ちした阿近さんが、埋めた指先を奥へと捩じ込む。
「俺……、だな?」
「っ……」
カッと染まった頬を隠しもせずに、何で、とキツく睨み付ければ、意図せず在った苦し気な表情に言葉が続かなかった。
「……っつーか俺じゃねぇっつーなら、ソイツを殺るけどな」
「……え?あっ、厭、だっ、待っ――…っっ」
何でっ……
再び浮かんだ疑問は意図を持って蠢く指に、音にならないまま掻き消されて、意味を成さ無い音に変わっただけ。
今の彼は不覚とも攪乱とも違う。
なのに、躊躇う事なく私に触れる此の人は、本当は一体誰なのか。
逆らう事の出来ない此の熱を、私は知っている気がした……。
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