その手をつかんで | ナノ

47.流れ着いた彼女をすくい上げる


お前、今日は帰った方がいいんじゃねえの、というジャンの気遣いに首を振って、僕は部活を休んで帰宅することにした。

制服のまま荷物をまとめていると、その様子を見ていたアニとライナーがそっと側に寄ってくる。

「帰るのか?」

「ああ」

「ルーラの様子、見に行くんだよね」

「そのつもりだよ」

「これ」

アニはひつじの形をしたアイピローを差し出した。

「ルーラに渡すつもりだったんだ。預けていい?」

「わかった。渡しておくよ」

「俺たちに何かできることあったら言ってくれ」

「うん。頼りにしてる」

二人がそう言ってくれることは僕としても嬉しかったが、彼らは彼らで気がかりなことがあるはずだ。

「…ベルトルトは、平気?」

僕が問うと、少し間の後、ライナーが小さく笑んだ。

「ああ、まあな」

「ルーラの記憶、たぶんもう戻ると思う。彼にももしかしたら負担が掛かるかもしれない。だから…」

「わかってる」

アニが答えた。

「あいつは大丈夫。安心して」

「そう。ならよかった」

ライナーが複雑そうな表情を浮かべて僕を見た。

「マルコ、お前…その、どう思ってるんだ、ベルトルトのこと」

アニがチラリとライナーに目をやる。

が、何も言わずに僕に視線を移した。

彼女も僕の返事を待つことにしたらしい。

彼らが何を聞きたいのかは、なんとなくわかった。

けれど、僕はあえて質問を返す。

「どうって?」

「その…だな、マルコは、昔のあいつらの関係は…知ってるんだよな」

「ああ、知ってる」

「高校入って、急にあいつが出てきて、どう思った?ジャンのやつは、お前より余程警戒して威嚇していたが…お前の反応はよくわからなくてな。お前はあいつのこともよく気遣ってくれるだろ。あいつのこと、何とも思わないのか?」

「何とも、というと?」

「だから、だな…」

「回りくどい」

アニが口を挟んだ。

「マルコはルーラが好きなんだよね。ルーラも今はマルコが好きで、ベルトルトを怖がってる。でもルーラが記憶を取り戻したら、ベルトルトのところに行こうとするかもしれないとは思わない?」

「い、いや、アニ、俺は何もそこまで…」

アニは視線でライナーを黙らせる。

「色々あったみたいだけど、私から言わせれば、あの頃のあの子はひたすらあいつのこと――」

言葉を切った。

さすがに僕に気を遣ったみたいだ。

でも、ここまで言われてしまえば、先は聞かなくてもわかる。

それに、そんなことは僕自身もよく知っていた。

「それでもいいの?それとも、そんなことはありえないって言い切れるほど自信があるってこと?」

小気味よいストレートな問い掛けに、僕は苦笑した。

あれだけライナーが躊躇っていたのが間抜けにすら思える。

ライナーもそれは同じだったようで、大いに苦笑いしていた。

「そうだな…」

僕は何と答えようかと言葉を選ぶ。

「自信なんか、あるわけないよ。それに、ルーラは僕のことが好きなわけじゃない。僕が何度、彼女が無意識にベルトルトの名を呼ぶのを聞いてきたと思う?」

二人は目を見開いて、息を飲んだ。

「でも…僕は、ルーラが記憶を取り戻すことが必要だと思ってるんだ。ルーラにとっても、ベルトルトにとっても、僕にとっても」

「必要…」

呟いたアニに僕は頷く。

「その結果、僕らの関係がどうなっていくのかはわからない。でも、これは必要なんだ。避けては通れない」

そして、と僕は人気のなくなった教室にポツンと言葉を落とした。

「僕にとっては、賭けだ」

そう、これは僕が決めた覚悟だった。

ルーラときちんと向き合うためには、これしかない。

何度も迷いながら、僕が辿り着いた答えだった。





家のドアを開けると、待ちかねたように母が出迎えた。

「マルコ、お隣に行ってらっしゃい」

僕は頷いた。

それだけで意図は十分伝わった。

母にもそれがわかっている。

僕は母に鞄を預けて踵を返した。

「チャイムは鳴らさなくていいそうよ」

「わかった」



クローゼ家の家の門扉を開けて、玄関の前に立つ。

一応軽くドアをノックしてからノブに手をかけた。

ドアを開けると、音を聞きつけたのだろう、おばさんが駆け寄ってきた。

僕はお辞儀をして家に上がらせてもらう。

「ごめんなさいね、疲れてるのに」

「いえ。僕も心配だったから。ルーラは?」

「部屋にこもって出てこないのよ。入って来ないでの一点張りで、鍵まで掛けちゃって。簡単に開けられる鍵ではあるんだけど、それも躊躇われてね。でも、マルコくんならきっと大丈夫だから、話を聞いてやってくれる?」

僕は頷いた。

「少しお時間いただきます」

おばさんは目に見えてホッとした表情で胸を撫で下ろした。

「よろしくね」

僕は階段を上がってルーラの部屋のドアを見つめた。

久しぶりだな、ここに来るのは。

控えめにノックをする。

返事はない。

「ルーラ?マルコだけど。開けてくれないか?」

やはり返事はない。

が、拒絶の返事もなかった。

僕は10円玉の縁の部分を鍵の溝にあてがう。

そうして捻ってしまえば簡単に開く、申し訳程度の鍵だった。

「…入るよ」

小さく解錠音がしたのを確認して、ノブを捻る。

ゆっくりとドアを押すと、徐々に視界が開けていった。



中に足を踏み入れて、僕はギョッとした。

一瞬、部屋が空っぽに見えたからだ。

多分そこにいるだろうと思っていたベッドに姿はない。

それどころか、マットレスには枕しか乗っていなかった。

普段は掛け布団に覆い隠されてほとんど見えない白いシーツが剥き出しになっている。

人気の無さと相まって、なんとなくゾッとさせられた。

だから、部屋の隅に目を向けて、安心した。

いつもはベッドにあるであろう掛け布団は、そこに山のようになって盛り上がっていた。

僕はゆっくりとその塊に近づいていく。

そっとしゃがみ込んで、丁寧に布団を剥がしていった。

中からは涙で顔をグシャグシャに濡らしたルーラが出てくる。

僕はホッと笑みを落とした。

「ルーラ…」

ルーラは勢いよく僕にしがみついた。

加減をする余裕はないらしく、力いっぱい締め付けてくる。

少し苦しかったが、僕はそれを甘んじて受け入れた。

彼女の体は小刻みに震えている。

僕はそんな彼女の背中を昔母がそうしてくれたように一定のリズムで叩いた。

小さいな。

武道部の倉庫でも感じたが、ルーラの体は思いの外華奢だった。

兵士だったあの頃よりも丸みを帯びているようにも思う。

当たり前だ。

体を鍛えているとはいえ、それはあくまでスポーツをするためのものなのだから。

ルーラはしばらくその姿勢のまま動かなかったが、やがて顔を上げて、僕の瞳を覗き込んだ。

絶望と歓喜を同時に表現しようとするとこういう表情になるのかもしれない。

彼女の瞳の奥には底知れぬ闇が広がっており、冷たい澱が蠢いている。

気を緩めれば引きずり込まれてしまいそうだった。

が、表面に溜まった涙は希望の光を放ち、爛々と輝いている。

闇が溶け込んだ希望の光が溢れては流れ、溢れては流れた。

「よかった。マルコ…生きてる…よかった」

ルーラは僕の額に口づけた。

そのまま、瞼に、右頬に唇が触れていく。

不思議といやらしい気持ちにはならなかった。

この行動が、彼女の切実な確認行為だとわかったからだ。

僕はルーラの背中をゆっくりさする。

「ルーラ。大丈夫。僕は大丈夫だよ。今、ここにいる」

今、ここで生きている。

彼女が上ずった泣き声を漏らした。

「マルコ…私…」

「思い出したんだね。あの頃のこと」

彼女は頷いた。

何度も何度も頷いた。





(20140706)


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