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文字の半分を覆う水滴が封筒に落ちている。水分が紙に吸い込まれ、インクの細い線が曖昧になった。

なにが起きたのか。理解するよりもはやく、水滴がさらに落ちる。ぽたり、ぽたりと落ちるそれが涙だと把握できたのは、頬を滑る感触に気づいたからだった。

わたし、どうして。

自分でもわからなかった。

どうしてこんなに胸が締めつけられるのだろう。とまどいながらも、大粒の涙はとめどなく溢れる。

違う部屋には家族がいる。鳴き声なんて、聞かれたくない。

声を押し殺して唇を噛みしめる。

それでも止まらない子供のような涙は、次々と封筒に降りそそぐ。淡い桜に、惨めな色が染みていく。

にじむ名前をこすると、インクは薄く広がった。文字を書いたあとは残ったけれど、名前だとわかるような形跡は残らなかった。

名前が消えた。そう理解した瞬間。

膨れ上がるなにかが限界に達したのか、亀裂の走るような音が聞こえた。


そこから先のことは、よく覚えていない。

便せんと封筒をひとまとめにして、まっぷたつに引き裂いたことは朧げに覚えている。

ごみ箱が溢れるほど下書きをしたことも、文字を入念に調べたことも、押さえ続けてきた今日までの自分も。

全部覚えているのに、さらに大きな衝動に突き動かされたのだろう。

そうでなければ、細かくなるまで千切ったりしない。桜色の紙くずが山になったりしない。


頬の涙をぬぐい、呆然と見つめた。

桜に染まったはずのわたしの心が無惨な姿になっている。ひとつを手に取り指に乗せ、ふっと息を吹きかける。


ひらりはらり。

ゆっくりと舞い落ち、紙の山に戻った。

桜の花びらみたいだと、そう思った矢先。便せんに惹かれて仕方がなかった、出会いのシーンを思い出す。

ことりと胸が鳴った。

気持ちを伝えるために出会ったと思ったけれど、勘違いなのかもしれない。あの人の名前を書けなかったことが全ての事実をあらわしている。

過去や性格。情熱も好きな物も、名前に繋がっている。あの人の魂が名前に宿っているから、書けなかった。

見ないふりをしてきたけれど、これ以上、魂に近づけないことを知っていたから。

わたしには、自分の気持ちとあの人の名前を寄り添わせることは、できない。


細かくなった便せんを手のひらに集めて、おもむろに立ち上がる。

明日に渡そうと思っていた手紙はこんな状態になってしまったけれど、わたしはこれでいい。


腕を大きく振り上げる。ぱっと開いて紙が舞った。

最後の力を振り絞るように舞う様子は、まるで桜そのものだった。

静かな世界に桜が舞う。ひらりはらりと心が散る。

右へ左へ。屋外であれば通行人の記憶にさえ残らないような貧相な桜吹雪を、清々しい気分で眺めていた。決して本物の桜には叶わないけれど、わたしはそれをきれいだと思えた。

ありがとう。そしてごめんね。

はらり、最後のひとひらが落ちる。


- おわり -



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