明日。手紙があの人の元に届く。
容易に想像できるくすぐったい光景が、色あせた天井を鮮やかに染め上げる。だけど、いつまでもこうしてはいられない。体を机に向けて、やっと便せんに手を伸ばした。
突然の手紙ごめんなさい、とことわりの文章からはじまるのが、なんともわたしらしい。下書き用のルーズリーフと見比べながら、文字を綴る。
なんども書いたのに、あの人がこの紙に触れて、この文字があの目を通るのだと思うと、下書きとは比べ物にならないほどの気力が必要だった。
聞き慣れた、ありふれた言葉なのに、この気持ちが生まれてから今日までの自分を込めるのだと思うと、なかなか手を進めることができない。
たかだか手紙を書くという、それだけの行為をとても困難にさせる。
埒があかないと深呼吸をしてあの人の顔を思い浮かべた。
記憶の枠を飛び越えて体中の隅々まで焼きついた、朗らかな笑顔。あの白い歯を見られるだけで、くすんだ日常が色鮮やかに移り変わった。
首筋の汗を拭う姿も、授業中の寝ている姿も、あらゆる光景を目で追いかけた。頭に存在するだけで胸がつまってしまう。
全身を渦巻く感情が制御できないのに秘めていたくて、今日ここまで閉じ込めてきた。
そんな気持ちを手紙にまとめようとしているのだから、完成させられないのも仕方がないのかもしれない。だけど、この便せんが前に進めと背中を押してくれた。
桜が、わたしと向き合う勇気をくれた。
再びペンを走らせる。下書きを写し取るように、だけどゆっくり心をインクに塗り込む。嘘も偽りもない、わたしの生の心。
桜色の紙に乗せるたびに、心も桜色に染まる。文字は黒いのに淡い色を帯びていく。
一心不乱にペンを滑らせ、ついに最後のひと文字を書きおえた。
その勢いのまま封筒に手を伸ばす。ここにあの人の名前を書けば出来上がりだ。
今日一番の緊張が、握ったペンを揺らした。いったんペンを離して、再度握る。今まで書いたこともない文字でも書くかのように、一画一画、丁寧に書いた。
ひと文字。
ペン先にあの人の背中を思い浮かべて名前を書いたけれど、ふた文字目にさしかかったところでペンが止まった。
触れた紙にインクが染みるのを目にして、机に近づいていた顔を離す。
なにをやっているのだろう。名前さえ書けば完成するのに。
封筒に目を落とす。彼の名前を書ききるにはまだまだ足りない、ひと文字だけの漢字が桜の封筒に書かれている。あまりにも不完全な漢字と、脳裏の顔が重なる。その時だった。
じわりと名前が滲み出した。