Act2-9

「なまえ、僕の夢の話聞いてくれる?」


聞き慣れない一人称、優しくなった声色と視線に戸惑いを抱えつつ、私の頭で太い腕を下敷きにされながら頭を抱き込みまだまだ短い私の髪をくるくると指先で遊ばせる悟にされるがまま「夢?」と聞き返せば「うん、夢」と優しい視線の中に強い意志を見せた悟に少しだけ佇まいを正した。
とはいえベッドの上でお互いにひっついている現状、真っ直ぐ悟の瞳を見つめ返すことぐらいしか、できることはなかったけれど。


「うん、知りたい。悟の夢」
「……今の呪術界を変えたい」


悟の指先に絡んでいた髪の束がするんと解けて他の髪と合流した。馴染ませるように手櫛で何度も私の髪を梳く悟はただ真っ直ぐ私を見つめていたと思えば、真っ白の長いまつ毛を伏せて陰影の深い瞼が何度か上下を繰り返した。なんとなく、悟の胸元でスウェットに添えていた手を背中まで回せば私の頭を撫でる手に少しだけ力が入った気がした。


「……あいつが歪んだ気持ちも、理解できるんだ」


悟のその言葉に、ピクリと眉が跳ねる。自分が何かを発するのは今じゃない気がして、ただただ悟の言葉が紡がれるのを待つ。ゆっくり、ゆっくりと何度も瞬きを繰り返して私の髪を梳く悟はただ優しい瞳をこちらに向け続けた。


「あいつが言うやり方は絶対に受け入れられないけど、僕にもできることはあると思うんだ。…僕も、生き方を決めたよ」
「…それが、呪術界を変えること?」
「そう。現状腐った呪術界を一度どこかでリセットする。そのために強くて、聡い仲間を育てるんだ。…一人だけ強くても仕方ないからね」
「ハァ?悟だけ強いぃ?喧嘩売ってんの?」


むっとしてそう突っぱねてやれば悟は一瞬ぽかんとしてすぐに「たしかに僕たち二人なら上層部も御三家もぜーんぶリセットできるね」と笑った。

「でもそれじゃあ意味ないから」
「………うん、」
「僕たちで僕たちより強い味方を育ててこれからの世界を変えよう」


今まで後進を育てるつもりなどあまり見せてこなかった悟が仲間を育てると言い切ったことには確かに驚いたけれど、想定外の方向からやるせないほど打ちのめされていた私たちにはきっとそれが必要で、最善な変革のように思えた。


「……先生になるってこと?」
「そう。僕も当主になって諸々の根回しが一通り終わったら高専所属の教師になる。なまえも卒業後は僕と一緒に先生やろう。なまえはよく楽しそうに七海と灰原扱いてたから向いてる。きっと楽しいよ」
「…でも、私呪力がないんだよ?」
「…禪院甚爾アイツみたいに天与呪縛がこれからでてこないとも限らない。呪術界から見放されるには惜しい才能だ。現に禪院家に生まれた双子の片割れは呪力がミソッカスらしいし、そういう子にはなまえみたいな先生がいた方が勉強になるよ。それに今の術師は術式だけに頼った宝の持ち腐れが多すぎる。僕はなまえみたいなフィジカルでゴリ押ししてくる術師の方が嫌だしね」
「………先生かあ、うん、いいかも。……きっと、夏油も向いてたのに」
「……………うん、僕たち、何も見えてなかったね」


悟と、夏油と、私で先生やって、硝子が稽古で怪我しちゃった生徒の治療して、「お前らは手加減ってものを知らないのか」って怒る。はたまた、ちょっとした小競り合いがちょーっと大きいドンパチに発展しちゃって、昔みたいに高専の森の一部焦土にしちゃって、学長になった夜蛾先生にこってり絞られて「悟のせいだ」「傑のせいだ」「なまえのせいだ」ってそれぞれなすりつけて大人になっても夜蛾先生から拳骨食らう、そんな場面がすぐに想像できた。もっと早く、何かに気づいていたら、そんな未来もあったのかな。もう考えたって仕方がないことなのに、ありもしないたらればを考えて夢想しては寂しさで胸が押し潰されそうになる。ただただ寂しくて、もう一生埋められないその寂しさを慰めるように二人で抱き合ったまま眠った。夏油がまだ隣の部屋にいた頃もゲームをしたまま寝落ちしてはこうして夜を一緒に過ごしたこともあったが、同じような状況なのにこんな風に後悔しながら、寂しさを埋め合いながら眠る日が来るなんて思わなかった。








そんないつかのやるせなさを今になって思い出したのはきっと彼と約十年ぶりに再会したからだろう。いつかの任務でひどい損傷を受けめちゃくちゃに破壊した鳥居の上であの日と同じように眩しいくらいの夕焼けを傘で遮りながら山間に沈んでいくのをただ見送る。あの日は、悟が死んでしまった『あの子』を連れて夏油と一緒に帰ってきた。…あの日は色々あったから、今でも鮮明に覚えてる。悟が一瞬仮死状態に陥ったと思えば、今までと違う人に『成っちゃって』、夏油は帰ってきてずっと俯いて難しい顔をしてた。あの二人が初めて失敗した任務。なんとなく、あの日が全ての境界線だったんじゃないかな、ってたまに思う。日が沈んで蒼暗い景色が広がってもなぜか傘を下ろす気にならなくて、鳥居が連なる向こうを見つめ続ける。何時間待ったって待ち人はもう帰ってこないのは、知らない人のような生き生きした表情を浮かべた彼を思い出せば明白だった。


無知は罪だ。自分の頭が弱いことを何度後悔したか数え切れない。今まで興味がないと適当に切り捨ててきたものを後悔しながら拾い集めて、私もなんとか『真面』になった。


『弱きを助け、強きを挫く』


耳にタコができたセリフが何度も何度もリフレインする。弱い人間甘やかしすぎ、弱い奴が悪い、そんな風に跳ね除けていた言葉がいつしか魂に刻みつけられたように自分の指針になっていた。
…夏油が捨てるなら、私が拾って歩くよ。皮肉のように彼がいなくなってから彼の掲げていたズタボロになった矜持をひっさげる自分の愚かさに何度辟易したか覚えてさえいない。


「なまえ」


今一番聞きたくない声が耳の奥を揺らした。全然後悔も反省も見えない、意志の強い声だ。引く気がない、名前を呼ばれただけでそこまで聞き取れて私は私で振り返ることも声の主の名前を呼び返すこともしなかった。


「…………」
「…言っとくけど、何言われても曲げないからね」
「…………」
「なまえは京都に行ってもらうよ」


傘を持つ手に思わず力がこもった。柄がミシミシと音を立てて、今にもひび割れそうな程圧力がかかっている。


「…悟の言うことは聞かない」
「………聞き分け悪いな、戦力の分散、僕がいる場所にオマエはいらないつってんの」
「知らない」
「……京都に傑が出たらオマエがなんとかするんだよ」
「…………ハッ」


心にも思ってないくせに。夏油は絶対に新宿に来るでしょう。だって、だって、あそこは私たちが最後に袂を分った場所だよ。
……狙いが全く読めない無謀とも取れる百鬼夜行宣言のブリーフィングの後、高専内はバタバタと慌ただしく動いていた。夜蛾学長が宣言した御三家、アイヌ呪術連への協力依頼。まさに今まで見たことのない呪術界の総てを懸けた総力戦が始まろうとしている。いくら自分が特級だからって勝てると本気で思ってる?だけど何度も私たちを欺いてきたあの男が計画したからには、勝算があると踏んでいるのだろう。悟が言うように、戦力の分散、それで私が京都に追いやられるのはわからないでもない。だけど、絶対、悟はそんなつもりで私を京都へ送りつけるつもりじゃないことくらい分かりきっていた。


「……独りで決着つけるつもり?私を除け者にして。そんなこと絶対許さないから」
「いいよ別に許さなくて。一生僕のこと許さずに傑を殺す僕のこと呪い続けたらいい」
「……ふふ、呪う力もない私に呪えばいいなんて、すごい皮肉。性格悪いのは変わらないね、ほんと」


ハァ、と息をついて細い鳥居の上に立って振り返れば、いつもの趣味の悪い包帯を取り払った悟が口をへの字にして不機嫌そうに私を見上げていた。どこか出会った頃を彷彿とさせるその表情を懐かしげに見下ろして、あの頃のように挑発するように中指を立てた。




「いいね、久しぶりにやる?戦闘不能にして高専に縛り付けとくのもありだね」
「悟なんてぶっ殺して私は新宿に行く」
「やれるもんならやってみな」


好戦的に釣り上がった口元、余裕そうなその表情を歪ませてやりたくて右足を振り下ろした──。





ドガァァァァアン、隕石でも降り落ちたのかというほどの轟音と地響きが高専内に響き渡り、また夏油が侵入したのかと殺気立つ高専内が再び緊張感に包まれた。激しい戦闘の気配が漲る場へ急行した夜蛾は目の前で起きる惨事に頭中の血管が切れるかというくらい激昂した。


「悟゛ーーーー!!!!なまえ゛ーーーー!!!!!オマエらはこんな非常時に何をやっとるー!!!!!!!!」


大声を張り上げながら何やら言い合いをしながら揉めている風のなまえと五条は、誰も手出しができないほどのスピードと威力の痴話喧嘩殺し合いを繰り広げていた。夏油の来訪を危惧し、その場に現着した術師は百鬼夜行を前に一足先にこの世の終わりを見た。名実ともに現代最強の特級術師がジャーマンスープレックスをキメられる瞬間をこの目で拝む瞬間が来るとは思わなかった、と目の当たりにした彼らはのちに語る。軽々あの巨体を持ち上げぶん投げるなまえと、一応恋人関係であることを公にしているはずのなまえの顔面を掴んで鳥居にぶつける五条の姿に、二人から距離をとって群がる術師たちの背筋に冷たいものが走った。








「オマエらはアホか?」

なまえはこれ以上ないくらい雑に手当てされた額を抑えていてて、と顔を顰めた。そんななまえを見下ろして当たり前だ馬鹿、と吐き捨てた家入は隠しきれないクマを浮かばせ、憂いを帯びる目元をこれでもかと歪めた。


「痛いで済んでるのが奇跡だね」
「やー、途中マジで傑傑煩いからイラついてきて本気出しちゃったけど死なないんだからマジでやばいよね、なまえ。マジで化け物…ああごめんそもそも宇宙人だった」
「どこが本気よ。大体私の顔で鳥居壊すなんてマジで信じらんない。私のことなんだと思ってんの?」
「あれで頭割れないんだからなまえの体ってほんと丈夫だよねー僕久々に腕折ったなー」
「おい馬鹿共、大人しくしてろ。…呪力温存しなきゃいけないってときにお前は…」
「悟、今回のは私が勝ちなんだから私新宿ね」
「は?負けてませーん大体使ったらオマエなんて瞬殺だもんね」
「は??あんな的のでかい技当たるわけないでしょ?ほらちゃんと見て?私ほぼ無傷、あんた骨折。ププ、負け惜しみオツーーー」
「あ゛?もう治ってんだよこっちは、もっぺんやるかコラ」
「ふんっ、今度こそぶっ殺してや─ぐえっ」


なまえのギャンギャン喚く口を塞いだ─いや、首を絞めたのは顔中に青筋を浮かばせた彼らの元担任で現上司の夜蛾だった。なまえを拘束する右腕は筋が浮いて本気でシメにかかっていることが見て取れた。


「はは、ウケる。こんな歳でまだ怒られてや〜んの」
「悟、お前もあとでシメてやる」
「ついに鉄拳制裁やめたんですね」
「…なまえ相手だと腕が何本あっても足りん」
「ちょっと二人とも〜助けてあげようとかないの?」


首をガッチリ固められている割に余裕そうななまえに夜蛾はハァ、と深すぎるため息をついてこれでもかと締め上げていた腕を緩めれば、なまえは猫のように拘束からするんと抜け出した。
薄く透けるサングラスの奥の瞳で夜蛾は毎日のように問題行動を起こしては説教三昧の毎日だったかつての教え子たちを目の前の成長した三人に重ねて目を細めた。


「…… お前たち・・・・ はいつまで経っても世話を焼かせる。前代未聞の問題児共め」
「……うーん、言い返せるポイントが見つからない…」
「うっそー?僕こんなにいい先生に成長したのに?ほら見てよ僕の生徒たちの姿。みーんないい子でみーんな優秀!それもひとえに僕が生徒思いの最強で最高のグレートティーチャーだから!」
「………私、とばっちりでは?」
「堂々と未成年喫煙かましてたくせにそれはないよ硝子」
「…………さて、まだ学生気分が抜けきってないらしい最大の問題児がかましてくれた厄介事に備えて備品発注しとかないと」



わざとらしすぎる家入の話題逸らしになまえは堪えきれずに腹を抱えて笑った。ひとしきり笑った後、あまりに面白くて・・・・・・・・ 目尻に浮かべた涙を指で払いながらそんななまえを訝しげに見つめる五条に向き直った。



「悟」
「……ん?」
「邪魔しないから、そばにいさせてよ」


憂いなんて知らない蒼い晴れた青空のような瞳が細められた瞼の中からじいと五条を貫いた。見覚えのあるその表情─、初めてなまえが己に嘆願した日のことを思い出した。『はやく当主になって』、その時と同じように眉を下げて、同じように『そばにいたい』と願うなまえに五条は敗北宣言のように両手を上げ、長すぎるため息をついた。


「……はぁぁーーー……おまえ、ほんとずるいね」
「ふふ、うん。大丈夫、悟のことは私が守ってあげるからね」
「………心強いよ、ほんとに」


僕のこと守ろうなんて言うの、お前くらいだよ─、そう呟いた五条になまえはへへへ、と非常時なんて感じさせない能天気さを浮かべて笑ってみせた。思わず気の抜けてしまう雰囲気を醸し出すそんな二人に充てられて、家入も夜蛾も知らず知らずのうちにこれでもかと強張っていたらしい身体から少しだけ力が抜けるのを感じた。




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