Act 2-8

針の筵のような視線がいくつも自分に突き刺さるように向けられるのは何度目のことか。視線と視線が合わないよう間仕切られた襖の向こうにいるのはこの世界で『偉い』らしい『血統のいい』呪術師たちだ。
誰からの視線も直接受けているわけではないのに侮蔑、嘲り、憐れみ、嫌悪、負の感情がこれでもかと向けられているのがありありと見て取れるが、さすがベテランの呪術師は負の感情を練り慣れてるなぁ、程度の感想で留めることができるのはここにいる誰一人として自分が『殺す』ことに時間を要さないであろう格下だとこちらが嘲っているからだろうか。

「(マジで時間の無駄、早く戻りたい…)」

所は高専内の総監部、というのも、先日まで単独行動で夏油の居場所をしらみ潰しに当たっていたことを報告するのを上層部どころか悟にさえも忘れていたせいで、その話をどこからか聞きつけてきた上層部に私は夏油との繋がりを疑われ、呼び出され晒し上げられた回数などもはや覚えてすらいない趣味の悪いこの部屋にまた呼び出されていた。


「夏油の居場所はどこだ」
「……それを調べるために毎日動いてたんですけど。大体夏油の居場所を掴めたら真っ先に殺しにかかってますから」
「それが嘘でないとどう証明できるッ?!」
「……さあ、信用してもらうしかないですね。私も一応『一級術師』ではあるみたいなので」
「女の分際で生意気な…!碌に呪力も持たぬくせに…ッ」
「─だから非術師の猿であるオマエなど『あの時』に処分しておけと五条にはアレほど…」
「……その割には貴方方は私を使いっ走りにしてますけどね。…私にとっては呪霊なんか祓うより人間殺す方がよっぽど手間がないことくらい今更ご存知でしょう?…それに私の場合『証拠』だって残らない」
「だからこそ『禪院の面汚し』同様オマエのような『特異点』は呪術界から消し去らねばならんのだッ!」
「五条め…、女狐ごときにたぶらかされよって…」
「………ふふ、全部五条頼みでいっそ清々しいですね。まあ、呪力封じも効かない私を殺せるのなんて五条くらいですもんね。実際禪院甚爾を殺せたのは彼だけですし」
「我々を愚弄するかッ?!」
「やだなあ、そういうつもりじゃないですよお。老い先短いんですから、あんまり頭に血を上らせると危ないですよ?…ああすみません、喧嘩を売ってる訳ではないです。心配してるんですよ、『弱者は助けてあげなきゃ』って、少し前から決めてますから」
「この無礼者が…!!誰のおかげで猿のオマエが呪術師でいられると思っている…!」
「貴方方のおかげですよ。天涯孤独の、呪力も術式も何も持っていない私を置いてくださって感謝してます。だからちゃんと働いてるでしょう。……報告を忘れていたのは単純にみなさんご存知の通り私の頭が軽いせいです。五条にも叱られました。申し訳ありません」
「……二度はないぞ」
「安心してください、この期に及んで猿の私が呪術界を引っ掻き回そうなんて、今のところ考えてません。…まあ生徒たちに何かあればその限りではありませんけど。では」


昔はよくわからなかった嫌味や皮肉、人が話す言葉の裏を十年以上散々この世界で生きてきたおかげで理解できるようになったのは成長なのか、それとも汚い世界に染まりすぎた弊害だろうか。…いや、『春雨』の元老たちもこれと対して変わりなかったのだろう、神威や阿伏兎たちもこんな嫌味には慣れていたんだろうか。今となっては神威の『殺しちゃうぞ』がぽんぽん口から飛び出していったのも納得できる。ぼんやりと輪郭が朧げになってきてしまった彼らが懐かしすぎて思わず目を細めた。

ぽつんとした灯りしかなかった暗い部屋から外に出て、冷気を伴う新鮮な空気を吸い込めばようやく身体に酸素を取り込めたみたいで強張っていた節々が弛緩していく。体内で滞留していた二酸化炭素を思い切り吐き出すようにハァとため息を吐けば、空気がすぐさま凝固して冬の代名詞のように白い息がゆらゆらと上がっていった。あー、また生意気な態度とって、なんて言われて休む間も無く任務入れられたり面倒な案件押し付けてきたりするんだろうなあ。今までに起こった数々の『面倒な出来事』を思い出して今度は頭が痛くなってきてこめかみを抑えた時だった。


「──っ?、うそ、なんで…?」


突然現れた見覚えのありすぎる気配に反応するようにぶわりと全身の毛穴が開く。忘れるはずもない、どうしようもなく懐かしくて、未だに私に優しく微笑みかける顔を一番に思い出してしまう男の気配だ。まさか、信じ難くて戸惑いながらも、気づけば足は地を蹴って駆け出していた。








なまえは高専内を最短距離で駆け抜けている間、何を考えていたのか、うまく思い出せなかった。気のせいであってほしい、だとか、何しにきたの、だとか、今度こそ殺さなきゃ、だとかもう支離滅裂でとにかくぐちゃぐちゃの思考回路が浮かんでは消えて、一緒に輝かしいほど楽しかった思い出が走馬灯のように頭の中に流れ入ってきてはかぶりを振って雑念を追い払うようにかの男の気配をたどる。高専正面玄関ロータリーにいる無数の術師の気配、その中に己の生徒たちがいることにも、現高専所属の手練れの術師たちが結集していることに気づいて厳戒態勢そのものに嫌な予感が予感ではなく現実であることを思い知らされたようでなまえは胸が張り裂けそうになった。


「ー我々は百鬼夜行を行う!」


張り上げられたその澄んだ声で紡がれたのは、少し距離があるのに間近で聞いているかの様な高らかな、大胆で無謀とも取れる宣言だった。
遠目に見える黒。かつてなまえと彼がその視線をかち合わせた最後の日のようにだらりと下りる麗しいほどの黒髪が風が吹くのに合わせてサラサラと揺れていた。見覚えのない袈裟姿、見覚えのない呪霊、見覚えのない仲間と思しき何人かを引き連れる夏油は、もうすっかりなまえの知っている夏油でなくなっているような気がして、過去の美しい記憶が黒く塗りつぶされていくみたいだった。高専の上空にたなびく冷たい風がそのまま自分たちの関係性を揶揄しているように感じられて、駆けながらそんな風を切るなまえはきつく口を引き結んだ。

「─思う存分、呪い合おうじゃないか」

夏油の目の前に五条がいるというのに、ちっともあの頃の楽しげな気配なんて微塵も感じさせない空気感。きっとこれを宣言しているのが夏油でなければ、何を世迷言を、と笑い飛ばしてしまうような信じ難い犯行声明。
だがそれを宣言したのが『夏油傑』だったから、集まる数多の術師たちの緊張感が高まっていくのがなまえの目には見て取れた。

「夏油…、」

思わず漏れてしまったなまえの声がたまたま追い風のように吹いた風に乗って聞こえたのか、それとも彼女の気配に気づいたのか、なまえの思考をいっぱいに占めていた男が振り返る。脳裏にいつも過ぎる見守る様な優しい微笑みではなくて、悪戯そうに笑う瞳と目が合った。地上に降り立ち、なまえは不安そうな表情を浮かべる生徒たちをチラと一瞥して、目立った外傷がないことに内心で安堵しながら五条同様夏油と生徒たちの間に立ちはだかるように前に出た。


「なまえー!君もいたんだ─相変わらず『人間離れ』してて気配が薄くてわかりにくいね……君も悟も怖い顔。久しぶりの再会なんだから笑ってくれよ」


口角を釣り上げて軽薄そうな笑みを浮かべてこちらを煽る夏油をなまえは驚きのまま凝視してしまう。何その話し方。まるで悟じゃないか…、かつての夏油のように口調を変えた五条、かつての五条のように不遜な態度を取る夏油、あの頃がまんま反転したような二人になまえはぎり、と奥歯を噛み締めた。


「………ふざけてるの?今自分がどこにいて、どういう状況なのかわかってる?」
「おや、見ない間に少し聡くなったかい?…それに随分こちらの世界に馴染んだ」


ずっとあのままというわけにはいかないのは皆一緒だね、そう漏らしながらクスクス笑う夏油は、数多の実力のある術師に警戒されているとは思えない、あまりにも余裕然とした態度を貫く。
勝手に消えてひさしぶりに姿を表したと思ったらこちらを舐め腐ったその態度…、なまえは隠すこともせず殺気を漲らせれば五条に制止された。


「─そこは今も変わらないんだね……なまえは本当にあの世界を捨てて君を選んだのか。よかったね、悟」


なまえを制止する五条の拳にぐっと力が入った。かつての同級生三人のやりとりが理解できず、この場に控えている術師の中に少なからず困惑が生まれていた。未だなまえが『別の世界』からきたことを知るのは四人だけ。まだ未熟な学生だった彼らの間をなんとなく縛って繋がっていた『秘密』を易々と曝け出そうとする夏油に、五条は包帯の向こうの眉間に数え切れない皺を刻んでいた。
ずっと薄く笑っている夏油と対照的に顔半分が隠されているとはいえ、夏油の言う『久しぶりの再会』には相応しくない厳しい表情を浮かべる五条との間にはどうやっても近づけない長すぎる距離があった。
五条の呪力がゆらり揺らめいた瞬間、その場に流れていた瞬きさえできない緊張感を打ち破るような場違いな快活な声が響く。


「あーーー!夏油様、お店閉まっちゃう!」


今時の若者然として緊張感なくスマホの画面を見つめていた色素の薄い髪を後頭部でまとめた女子の絶叫に、夏油が醸し出していた張り詰めた空気が一瞬で緩んだ。自分たちの生徒と変わらない年頃の女の子の言われるがまま退散を決めた夏油を制したのは言わずもがな五条だった。なまえは今にも夏油に襲い掛からんと殺気を滾らせている。いつも優しく微笑むばかりだった見たこともないなまえの姿に生徒たちの背筋が凍った。


「やめとけよ」


ひやり、さっきまでの薄ら笑いは何処へやら、先程の犯行声明が似合いすぎる『呪詛師』の一面を垣間見せる呪力の揺らぎとともに学生を囲む無数の呪霊が一瞬で顕現する。チッ、なまえの舌打ちが響いた。


「可愛い生徒が、私の間合いだよ」


先程の宣言からして、数二千以上の呪霊を従える夏油に対して、どう考えたとて、ここにいる力のある術師の総力をもってしても生徒たちを無傷のまま救出することは難しいことがすぐにわかって最悪の場合『里香』が出かねないことも憂慮しなまえと五条は夏油をこの場に留めることを優先順位から繰り下げた。


「それではみなさん、戦場で」


次に相見えるときは殺し合う、そんなことを露とも感じられないほどの笑顔を携えて夏油はペリカン型の呪霊に乗って呪術師こちらになんの未練も残すことなく飛び立った。それを黙って見送ることしかできなかった術師の間に名状し難い空気が流れる。



「夏油の馬鹿…、」



ポツリ、小さく開いた口から漏れたその声を拾ったのは同じく夏油が飛び去り小さくなっていくのを見守っていた五条だけだった。






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