この世には特殊能力者が割といるらしい

図書館で借りてきた育児書を読みながら恵くんがガン見している絵本のページをかれこれ十回ほど同じ台詞を読み続けている。なぜかページを捲ると怒り出すので同じページを永遠と読み続けているのだが、これは楽しいのだろうか。読み続けているとはいえ、赤ちゃんの絵本は文字数も少なくどれだけゆっくり読み上げても一ページ五秒あれば読み終わる。緩急をつけたり体をくすぐりながら読んでやればきゃははと笑う恵くんが天使すぎて気付けば鼻血を吹き出しそうである。このページに一体どんな魅力があるのか。一度恵くんの脳内を覗き込んでみたい。

片手間で読んでいる育児書によると、大体書いてある通りの成長を遂げている恵くんはどうやら平均よりも少し成長スピードが早いらしい。お父さんがアレだからかもしれない。……ハッ?!もしや恵くんも成長するとあんなゴリゴリマッチョに…?!こんなに天使が?!な…ナンダッテー!!??せ、せめてヒモにはなりませんように、真面目で、定職について、きちんと自分で税金を納める人間になりますようにと願ってしまいたい。さすがに自分の『豪運』は人の成長にまで作用はしないだろうとは思うけれど、今まで他人とは一定の距離を保って生活してきたせいで私の力がどこまで影響を及ぼすのかよくわかっていない。無闇矢鱈と『願い』を込めない方がいいということはなんとなくこれまでの経験で分かっているので独善的な願いを頭の中から彼方へと飛ばしておくことにした。


すっかりこの二人がいる生活に慣れてしまったが、もうすぐ私も大学の講義が再開する。つまりは夏休みが終わりに差し掛かっている。彼らが我が家に転がり込んできてもうふた月にも突入しそうだというのに相変わらず恵くんは私の家ですくすくと成長しているし、お父さんである伏黒さんも相変わらずマイペースに我が家で生活を続けている。最近の変化といえば食料やおむつ、ミルクという嵩張る物品の買い物を率先して行ってくれるようになった。…恐ろしい量の戦利品を軽々と持って帰ってくる様は圧巻で、これが正しい筋肉達磨ヒモの使い方かもしれないなどと思い始めるくらいには伏黒さんのヒモぶりを受け入れてしまっている自分がいる。
そんな伏黒さんは現在買い物に出かけているのだが、出掛けてから二時間ほど経過しており、またパチンコにでも精を出してるのかとため息をつきたくなった。
そう、あの男、働きもせず私のお金でパチンコに行っている。まあ、一週間に一度、買い物でやりくりしたお金で遊んでいるようで一時間くらいすると帰ってくるので少しのリフレッシュくらいはと私も大目に見ているのだが、今日は少し帰りが遅い。…自分のパチンコ代くらいはバイトするべきでは??と思わなくはないが相変わらず私は彼の闇に触れられずにいる。ふとした瞬間に憂いを帯びた表情を浮かべる伏黒さんに、なかなか深入りすることができなくて彼らがやってきて二ヶ月が経とうというのに、未だに出自不明・家族構成不明・定職なし前職不明のままだ。こんな二人を平然と養っている自分自身にたまに大丈夫か?と思わなくはないが『豪運』の関係で疎遠になった家族と浅い関係の友達しかいない私はどうやら寂しさを感じていたらしい。四六時中誰かと一緒にいる生活に満たされている部分がある。私が彼らに深入りしないのと一緒でこちらに深入りしてこない伏黒さんとの生活はそこまで悪くないと思っている自分がいる。

そんなことを考えながら読み込んでいた育児書によると定期的に予防接種が必要とのことだが、恵くんはきちんと接種しているのだろうか。ふむふむ、母子手帳にこれまでの接種の履歴があるのね…今度見せてもらおうかな。…いつの間にか母性のようなものが芽生えているのか、たまに自分でも母親の真似事のようなことをして何をしているんだと思わなくはないけれど、ハイハイしかできなかった恵くんが伝い歩きをし始めたり、離乳食がだんだん固形になっていく様を見ていると、流されるように受け入れたこの状況ではあったが今では成長を見守ることの楽しさを感じてさえいる。…このまま言葉を話せるくらいまで一緒にいたら、もしかしたら私のことをお母さんなどと言い始めたりするのではないだろうか…、きっとそれまでに別れた方がいいのだろうな、とは思っているけれど。


「お父さん、遅いねえ」
「…」
「……恵くんのお母さん、どんな人なんだろうね」
「……あー」
「…そうだよねー、わかんないよね。……私はお母さんじゃないからね、なまえちゃんって呼んでね」
「…んー!!」
「わ、お返事できた!すごーい恵くん天才かな?!」


わさわさと髪の毛の生えている頭を優しく撫でてあげれば、少しだけ笑みをこぼしてくれた恵くんが可愛い。

「…お父さん、迎えにいこっか」
「……」

お父さんと言うと途端とすんっとするの本当に何なの。








「こんにちは」
「……こんにちは」

家から出てすぐの共用部分の廊下で恵くんをベビーカーに乗せていれば、お隣さんがやってくるのが見えた。単身者であったはずの私が突然赤ちゃんを連れていることに最初は驚いていた様子だったが、流石都会というか特にツッコミを入れてくる人はいなくて、拍子抜けした。おそらく内心ではどういうこと?と思ってるだろうな〜でも私もどういうこと?って感じなんだよな〜なんて思いながら平然と挨拶をしてすれ違う。

伏黒さんがどこのパチンコ屋を愛用しているのかは知らないが、おそらくスーパーの近くのところだろう、とあたりをつけてベビーカーを押す。夏が終わってから、日が暮れるのが早くなった。すっかり時間は太陽が西に沈む黄昏時で、やけに紅い夕焼けが目に染みる。…パチンコ屋は、あまり好きではない。気持ち悪いお化けがよくいるからだ。とはいえそういう見えざるものをスルーするスキルというものも長年の経験から身についてはいるので大丈夫だろうと高を括っていた。目を合わさなければ大丈夫、なんて安易に危険かもしれないと少し考えればわかる場所に赤ちゃんを連れていくことの危うさなんて、ちっとも考えていなかった自分を殴りたい。


この角を曲がればパチンコ屋、というところで突然恵くんがベビーカーの中でわんわんと泣き出した、その瞬間に嫌な気配が背筋にぞわりと走る。あ、これ、ダメなやつ。見たら、ダメ。目があったら、襲ってくる。急いでベビーカーのセーフティーを外して恵くんを抱き上げた。


「あ゛ー!!!」
『ミタ?ミタミタミタ!…ミルナァァァア』
「っ!!」


背後から、聞き覚えのある化け物のような声が聞こえて全身が粟立った。
えっ?!うそ!なんで?!私、目を合わせてない…!いや、そんなこといい、早く逃げないと…!ベビーカーを道端に放置して私は必死に自宅に向かって駆け出した。無心で全速力で駆け出した瞬間に、さっきの育児書に赤ちゃんの頭を揺さぶってはいけませんと書いてあったことを思い出してしまった。まずい、めっちゃ恵くんの頭がくんがくんしてる…!恵くんの頭に振動が来ないように気をつければ前回逃げ出した時よりも全力で走れなくて、いや、でも今ここで逃げ遅れたら死んじゃうかもしれなくて、でも、私が揺さぶったせいで将来障害が残ったら?なんて考えが頭の中でぐるぐるぐるぐる回った。そんなことを考えながら走っていれば、お化けが後ろまで迫ってきていたのか、足が掬われるような感覚に血の気が引いた。やばい、恵くん抱えてるのに転んだら!必死に恵くんの頭を抱きこんで恵くんにだけは衝撃が来ないように来る衝撃に備えてぎゅっと瞼を閉じた。


「何してんだ」
「っ!」

今にもアスファルトにぶつかる!というタイミングで身体が浮いた感覚に思わず閉じた瞼をかっ開くと、見覚えのある硬い腕に恵くんを抱きこんだ身体ごと抱き上げられていて、目を剥く。軽々と言った様子でなんでもないように私たちを見やった相変わらず目つきの悪い男にお礼もそこそこに早く逃げて!と叫ぼうとして悲鳴を上げた。彼の肩にもまた、化け物が乗っていたのだ。あまりの恐怖にガタガタと体が震える。きっと伏黒さんはこれ見えてないんだ。どうしよう、たまに人に憑いてるの見たことあるけどやっぱりこれって人から生気吸い取ったりしてるのかもしれない。え、伏黒さんやばいじゃんどうしたらいいの?!伏黒さんの肩にいるお化けと、今にもこちらに迫りかからんとしているミルナお化けにサンドされてしまった。だめだ、こんなの、無理。どうやっても死ぬ。とにかく恵くんだけでもあのお化けから守らなくてはという使命感にも似たそれに頭が支配されていた。


「ふし、伏黒さん、降ろしてッ!おば、お化けが肩に…!恵くんだけでも逃がさないと…!」
「…なんだお前、見えんのか」
「……へ、」
「ちょっと待ってろ」


両腕で抱き上げられていたのに片腕で赤ちゃんでも抱っこするように恵くんをかかえている私を抱き直した伏黒さんが、彼の肩に纏わりつく芋虫のようなお化けから刀のようなものを取り出して私は卒倒しそうになった。じゅ、銃刀法違反…!?い、いや、その前に今お化けから刀が?!それ、お化けじゃないの?なに、何が起こってるの…!?


『ミルナァァァア…!…アっ?』
「あーキモ」

ぶんと彼が一振りでお化けを一刀両断にすれば、お化けだったものはさらさらと砂のように消えていく。見たことのある光景にまさか伏黒さんも見える側の人だったのか、あの人形を操っていたおじさんと同じく特殊能力者だったのか、と自分の『豪運』がどういう意図を持って彼を私の目の前に連れてきたのかがわからなくて混乱する。え、え?!伏黒さんを養うことになったのは株の運のツケ払いで、でも伏黒さんは私が宝くじでのツケ払いで死にかけた時に助けてくれた『豪運』が連れてきたおじさんと同じ何かの力を持ってる人で、え?え?どういうこと?どっからどこまでがツケ払い?え?これもしかして私ツケ払いでもなんでもなくてただただボランティアしてたとかない?ない、よね?私の身に起こる変な事象は大抵この『豪運』関連だったし、伏黒さんみたいなイカレた人ツケ払いくらいじゃないと出会うことないって!


「…あー、大丈夫か?ガキ連れて大変だったろ」


混乱のあまりフリーズしていた私に向かって相変わらずの仏頂面ではあったがいつもより数倍優しげに私に話しかけてきた伏黒さんの様子に意識を引き戻された。
刀に付着した何かをぶんと振り落としてから再びお化けに刀を収納?したあとにいつもより近い距離にある彼の視線が、いつもの鋭いものではなく、…どうでもいいと全てを諦めているような無気力なものでもなく、私を心配しているように見えたそれに少しだけ、心が揺れた気がした。


「ふし、ぐろさん」
「…あ?」
「…こわかった、です」
「…そーかよ」


ぽんぽん、と恵くんを撫でる時のように私の頭を撫でつけた彼は少しだけ面倒そうに私を見てすぐに険しい顔をしてぽりぽりと頬をかいた。「ガキ守ってくれて助かった。……あいつに任されたもんだから」と聞こえるか聞こえないかくらいの小さな声でつぶやいた彼の言葉に、ぎゅうと心臓が絞られるような思いがした。なに、これ。
あいつが指す人物なんてこの場では一人しかいないことがすぐにわかった。恵くんのお母さん。ーこの人の、奥さん。遠くを見据える伏黒さんの瞳は恐ろしいほど美しい茜色だけを反射していて、その瞳にはそれ以外何も映っていなくて、きっと何も映すつもりがないことがわかってしまって、さらに胸が痛んだ気がした。


「あ゛〜ッ!」


抱きしめていた恵くんの泣き声でハッとすれば、ボロボロと涙をこぼしていて、今までに見たことのない泣き方で泣き喚いていた。そういえばあのお化けは、私は見てもないのに『ミタ』と言って追いかけてきたことを思い出し、もしかしたら恵くんにもあれが見えてるのかもしれないと思うと怖がらせてしまったことを深く反省した。子供を連れてあんな危ないところに連れていったのが間違いだった。「ごめんね」と泣きそうになりながら背中をさすればため息をついた伏黒さんにようやく地面に足を下ろされ、どこかへ行ったと思えば私が放置していたベビーカーと、どこへ置き去りにしていたのか買い出ししてきたであろう物品を回収して戻ってきた。いつの間にか肩に乗っていた化け物もいなくなっている。いったいあれはなんなのか、とか伏黒さんは化け物退治を生業にしてるの?とか、それこそ『あいつ』って奥さん?とか聞きたいことは山ほどあったのに、声に出そうとすると喉が締まってうまく言葉にできない。
逡巡している間にこちらに近づいてきた彼はいまだに泣き続けている恵くんを一瞥して呆れたように笑う。さっきまでお化けを背負ってお化けと戦っていた知らない人みたいに見えた彼がいつもの様子に戻っていることに、少し安心している自分がいた。


「…まだ泣いてんのか。男ならピーピー泣くな」
「、ふふ、赤ちゃんなんだからそんなこと言ってもわかんないですよ」
「…帰るぞ」


ベビーカーの上に買い出しした袋を勢いよく乗せ、ガタイのいい大きな男が小さなベビーカーを背中を丸くさせながら押していく様は、何度見ても面白くて先程まで恐ろしい目にあったことなんて忘れて思わず笑ってしまう。帰るぞと言って歩き始めた伏黒さんはなんの迷いもなく私の家に向かっていく。それだけのことで、あれだけさっきまで感じていた謎の胸の痛みが少し和らいだ気がした。まあるく丸まった背中を見つめていれば、また呆れた様子でこちらを振り返って早く来いと急かされる。未だギャンギャン泣いている恵くんの背中を摩ってあげながら、世界一ベビーカーが似合わない男に寄り添って帰路につくことにした。




「そういえば今日はどこ行ってたんです?パチンコ?」
「…競馬」
「えー!そんな大荷物持って遠出したんですか?!勝ったの?」
「…………」
「……伏黒さんギャンブルやってて楽しいですか?」
「うっせーな」



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