不意打ちにギャップ晒すのは卑怯

*パパ黒が平然と生理の話題に触れてきてますので苦手な方はご注意ください。





私が子供の頃から見ていたあれは、呪霊という呪いの権化らしい。世の中にはそんな呪いの権化と戦う術を持った人間が数多存在するらしく、そういった人々のことを呪術師というそうだ。


「じゃあ伏黒さんも呪術師?」


私がポロリと漏らした言葉に答えは返ってこない。突如流れた気まずい空気感に思わず顔を顰める。あぁ、これ、聞いちゃダメなやつか。また、線引きされる。─、別の話題を切り出そうとしたのに伏黒さんは鼻からゆっくり空気を吐き出してどうでもよさそうな表情を浮かべて口を開いた。


「ちげえ」


一言、否定の言葉だけだったけれど、相変わらずこの人のことはよくわからないままだけど、パーソナルスペースに一歩近づけたような、そんな気がした。…もう少し、にじり寄ってみてもいいだろうか。拒絶されないだろうか。跳ね除けられないだろうか。まるで野良猫との距離感を図るみたいだな、なんて思ってから、野良猫なんて可愛いもんじゃないなと思い直した。


「……ちがうんだ…あ、免許いるとか?」
「ハ?免許?」
「伏黒さん車もお金なかったから教習所通えなかったけど運転はできるとか言って平気で無免許運転してそうですよね。そんな感じ?あ、やっちゃダメですよ?」
「ふっ…お前と話してると力抜けるわ」
「…ええー…呪術師?じゃないのに呪霊?倒せるってすごいんですね、伏黒さん」


私の言葉にまたピタリと一瞬固まった伏黒さんは「すごくねえよ」と喉から何とか絞り出したような声で呟いた。寝ている恵くんを見下ろしている伏黒さんの目には長い前髪がかかっているからか、その声により陰鬱な空気が上乗せされているかのようだった。


「……私なんて逃げることしかできないですから。伏黒さんはすごいですよ。私、…恵くんも、伏黒さんがいなかったら、死んでた、かも。命の恩人ですね。ありがとうございます」
「……俺が助けたかったのは、お前じゃねえよ」


吐き捨てるような言葉は耳が拾うか拾わないか、くらいの声量でまるで化け物─呪霊をやっつけた時伏黒さんが持っていた鋭利な刀のようなものが自分の体の柔らかい何かに突き刺さった気がした。一瞬の痛みを感じたあとからじわじわ、じわじわと刺されたことを周りの神経が認識したみたいにいろんなところが痛みを訴え始める。─そのせいで、柔らかい何かが心のどこかに存在していたことに、気づいてしまった。だめだ、これ、見たら、気づいたらダメなやつだ。


「…あは、一宿一飯の恩もないんですか?でも、私は…恵くん、のついででも、嬉しかったので」


だらりと下がる黒髪、床にあぐらをかいて座り込み、丸まらせながらこちらを向く広い背中、抱き止めてくれた私の三倍ぐらいある太い腕。怯えることもなく慌てることもなくあっさり化け物を倒したこの人に、理由もなく助けてもらえる存在じゃないことくらい、わかってる。家族ごっこのようなことをしているだけで、私はこの人に庇護されるべき人間ではないことくらい、…わかってる。


「………これまでの家賃光熱費食費分ぐらいの働きには相当するんじゃないですか?褒めて遣わします!」


ズキズキ痛い体の一部に気づかないふりをして、いつもみたいにヘラヘラして笑ってみせた。こちらを振り返った伏黒さんの長い前髪の隙間から、驚いたように見開いた目が私を捉える。その視線の間で星が爆ぜたみたいな一瞬の感覚のあとすぐにぐっと寄った眉間の皺、下がる口角、また濁り出す瞳が私の目に映る─どうして、そんな悲しそうな顔するんだろう。冗談言ったんだから、少しくらい、いつもみたいに馬鹿にしたように笑ってよ。


「……何か反応してください。私がスベったみたいでしょ。ノリ悪いなあ、もう」


さすがに気まずくなって視線を落として居た堪れない空気を誤魔化したくて指先で手遊びをすると、「──は」喉にしていた栓を急に引き抜いたような空気の通る音が聞こえて思わず顔を上げた。


「─く、ふっ。はは。─あーっくそ。お前何でそんなに偉そうにできんだ?─ふ、何ださっきの顔。ははっ!」


笑っている。あんなに丸めさせていた背をのけぞらせて、お腹を抑えながら我慢できない、みたいな風に笑っていた。伏黒さんが、いつも私を馬鹿にするような上部だけの笑いじゃなくて、心から私で笑ってくれているような気がした。

ひとしきり彼が笑い終えるのを、私は呆然としながら見つめていた。そんな私の顔をチラと見てはまたブハ!と吹き出して「そのおもしれー顔やめろ」なんて言ってくるもんだから、だんだんと腹が立ってくる。

「私の顔は、これがデフォです」
「かわいそーな人生だな」
「ちょっと?!年頃の女性に向かって可愛いなくらい言えないんですか?!」
「あー?カワイイカワイイ」
「適当か!」
「んだよ面倒くせェな」


さっきまでの陰鬱な空気はどこへやら、立っている私を見上げながらケラケラと笑っている彼と、普段通りのやりとりができていることにほっとする。
くぅくぅと小さく寝息を立てながら寝ている恵くんを挟みながらこそこそと話す私に対して配慮のない伏黒さんはいつも通りの低い声で空間を震わせる。


「そういえばお前、呪霊いつから見えてる?」
「…物心ついた頃から、ですけど」
「へー。よく今日まで食い殺されなかったな。悪運つえー奴」
「…、はい、運は、いいので…。というか、あれ、食い殺しにかかってくるんですか?」
「モノによって違うけどな。これからも気をつけるこったな。お前みたいなの遭遇した瞬間死ぬやつもいるぞ」
「ハ??なにそれハ?私の生きてる世界線の話?」
「だからおもしれー顔すんなって」



出会った時はまるで手負の獣のようで毎日ピリピリしていたのに、今となってはこんな風に穏やかに笑ってみせるのだから、人ってわからない。急につんとして一線引かれたかと思いきや笑ったり楽しそうにされたりして、気づいたらジェットコースターのように振り回されている。いつも口元だけを釣り上げてニヤって笑うんじゃなくて、目元に少し皺が寄って、涙袋を大きく膨らませて、広角を綺麗に上げて、白くて美しい歯並びと赤い舌を見せつけるように笑っている。この人、こんなふうに笑えるんだ。肩を震わせている伏黒さんから目が離せなくて、気づいたらドッドッドッと心臓が大きな音を立てる。耳から心臓が飛び出すんじゃないだろうかという勢いで跳ねている。馬鹿になった心臓は重点的に頭に血液を送ろうとしているのか、伏黒さんが思いっきり笑っている顔を見ただけだっていうのに、カアと顔に血液が溜まっていくのがわかる。やばい、なに、どうした私。まって、絶対今顔赤い私。いやまって、なんで?!こんなの、まるで、と、ときめいているみたいじゃないか…!いや、いやいやいや!違う。
これは、その、そう!ちっとも自分に懐いてくれなさそうな野良猫が腹まで見せてくれているような…そうだ。これはそういうギャップに戸惑っているだけであって、決してときめいているわけではない。断じて、断じて違う。



「…はー笑った。…あ?おまえなんか顔赤いぞ」
「は?何言ってんの?目おかしくなったんじゃないですか?!」
「……なんだ?ピリピリしてんな生理前か?…あーそういや周期的にそうか?」
「……は?!?信じらんない…!なんで伏黒さんが私の生理周期把握してんの?!」
「いや生活してたらわかるだろ。血の匂いする」
「?!?!?!は?!?!?!」


は???は???は?????何言ってんの?何言ってんの?え?何言われたの?私。
あまりのパニックでさっきまで沸騰したみたいに頭に上ってきていた血の気が一瞬でサァと引いていく。


「あー心配すんな。俺の鼻がいいだけ。
…おまえそれ冷えねーの?おら短パンやめてジャージ履いとけ」


靴下も履けよーなんて言いながらどうでもよさそうな顔で洗濯物の山からポイと投げられたそれに思わず眉間に皺を寄せる。まるで恵くんのオムツを替えるときのような声と顔と態度だ。あまりのいつも通りのその態度に意味がわからず腕の上に降ってきた伏黒さんがいつも履いてる長ジャージと自分の靴下をぎゅうと握った。……なんなんだ、この男は。私を娘かなんかと思ってんの?そんなに歳離れてないでしょ?もしかしてこの男の目には私は恵くんと同じくらいのようなものに映っているとでも?嘘でしょ?ていうか娘だとしても生理の話なんてタブーに決まってる。鼻がいいとか知らん。血の匂いがどうとか話題にされただけで普通ならドン引きだし、次の生理が来た時からどんな顔すれば良いかわかんないし、何てこと言うんだ!ってキレたいのに、あー生理前の女って面倒臭えなあみたいな顔されるところまで想像してグッと堪えた。─体冷やすなよ、なんて言われて朝晩冷えるときに履いてるもこもこの靴下を寄越されてようやっと落ち着いたと思っていた心臓がまた凄まじいスピードで騒ぎ出す。ちゃんと私が夜身につけてるもの把握してるんだ………いやいやいや、だから、伏黒さんのその態度は寝返り打った恵くんに布団かけ直すのとそう変わらないんだって。気にするだけ無駄、そう、特別なんかじゃない。無駄、無駄…。女の子の日に体冷やしちゃいけないこと知ってるくらい女性の扱いに慣れてるんだもん、きっとなんの気無しに平然とそういうことができる人なんだ。モヤモヤモヤ─…


触れられたくない生理の話題をふるデリカシーのかけらもない一面を見せたかと思いきや、心配してる風でもないくせにサラッとそんなことできちゃうのやばくない?どういうこと?気遣いできるのかできないのかどっちなの?情報処理が追いつかない。自分の今の心の内がどの感情にジャンル分けされるべきなのかわからない。どうしても伏黒さんを今視界に入れると大変なことになる気がして右手と左手に乗るジャージと靴下を交互に見つめる。同じ洗剤と柔軟剤を使っているはずなのに、伏黒さんのジャージからは自分のではない香りが立っている気がして、クラクラした。

「早く履けよ」

伏黒さんの呆れた色を孕む声に、口を尖らせながらおずおずと履いていたショートパンツの上から長いジャージを履けば案の定だぼだぼでつま先が全くジャージから出てこない。なんだこれ。何度もくるくると裾を巻いていけば伏黒さんの膝丈くらいなのでは?というあたりで出てきた自分のくるぶしに愕然とした。足なっが。なにこれ。


「なんだおまえそれ」
「……伏黒さんの足の長さどうなってるんですか?ムカつく…!」
「マジでガキかよ…立ってみろよほら…、くくっ…」
「笑いすぎ!もしかして気遣うふりして辱めるつもりだったんですか?!」
「ふはっ…!あーもうほんと退屈しねえな」


美しく並ぶ歯が見えるくらい大きく口を開けて笑うと、口元の特徴的な傷が少し広がって見える。その傷、いつできたもの?伏黒さん、なんでそんなに筋肉ムキムキなの?─聞きたいことが毎日むくむくと膨れ上がってはそのどれもが空気を入れすぎた風船みたいに破裂して言葉にならない。─子供の頃から、人と一歩引いて付き合ってきたから、ちゃんとした人間関係の形成の仕方が、よくわからない。踏み込んでいい場所とそうじゃないところの線引きが難しい。
別に、前みたいにズケズケ言いたいこと言って、伏黒さんが答えたくないことは答えない、みたいな体でいいのにさっきみたいにまたあの冷たい目を向けられたら、と思うと─怖い。どうしてだろう。別に顔が怖いとか、纏う雰囲気が恐ろしいとか、もうそういうわけじゃない。顔はちょっと怖いときもあるけど、でもこの人は意外とよく笑うし、…なんだかんだ恵くんに愛のあるちゃんとしたお父さんだ。だけど、不用意に変なところに突っ込んだらすぐに私に線引きする。オマエはこれ以上踏み込むなって視線で語ってくる。─その線引きをされるのが、嫌だ。私が知らない『伏黒甚爾さん』になってしまうみたいで嫌だ。…私がこの人のことで、知ってることなんてごくごくわずかなのにそんな事思うのすごく傲慢かもしれないけど。


もし、私が私の秘密を晒せば、彼も心を開いてくれるだろうか。それとも、私の両親みたいに私を利用しようとするだろうか…─しそうだな。伏黒さんギャンブル弱いくせにギャンブル好きだから。「オイ次のレース何来るか教えろよ」とか平気で言いそう。…やっぱり、言わない方がいいんだろうなあ。伏黒さんにまで、あの欲に塗れた目で、見られたく、ない。



「………あ、そうだ、恵くん、お化け…えーっと、呪霊?見えてるとかないですよね?」
「……あ?」
「あのとき、私あの呪霊、と目を合わせなかったんですけど、『ミタ』って言ってたから…それに私があれ見つける前にいつもお散歩で泣いたりしない恵くん、突然ベビーカーの中で泣き出して…」
「………そうか」
「……、心配、ですか?」
「……フッ、……いや?─血って面倒臭えよな」
「……もう、また生理の話?やめてください。セクハラで追い出しますよ」
「…おー怖。生理前の女はめんどくせえ」
「あー!!もう!!それ以上言ったらほんとに怒りますからね!!!」



バシバシと硬い背中を叩けば視線を落とした伏黒さんは未だ健やかに眠る恵くんを見つめていた。
声色も表情も笑ってはいるのにどこか生気の感じられない投げやりな視線にまた疎外感を覚える。もう何度目かわからない急に蚊帳の外においていかれた感覚に、胸がズキズキと痛み始めた。─だめだよすぐに引き返した方がいいと私の中の何かが脳内で囁く。
引き返すって何から。伏黒さんの線引きの領域の向こうに行こうとしてること?それとも私の領域を見せようとしてること?それとも、このモヤモヤした感情の理由を知りたいと思っていること?
きっとこの正体不明の感情のジャンル分けが終わったらなんとなく、この奇妙な同居生活が終わってしまうような気がした。






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