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 貯金残高――10万3,247円。
 ココが欲しい時計――21万円。

 残り10万6,753円。






「いらっしゃいませー!」 

 お客様は神様です! を心の中で唱えながら男子高校生の軍団を迎える。私を見て『おっ』と品定めする目つきが死ぬほどキモいけど心の奥底に隠して「ご案内しまーす」とにこにこ笑いかけた。好きでもない男に無理矢理笑いかけるのは初めての経験で表情筋が筋肉痛になりそう。でもこれも仕方ない。全てはお金のため、ココのため、ココの誕生日のため、そして、私のためだった。

 ココの誕生日が近づいてきたため、ココが欲しいものを知るべく、私はいつもに増してココのケータイを念入りにチェックした。そう。私はココのケータイを日常的にチェックしている。ケータイチェックに対し、たとえ彼女でも彼氏のプライベートに踏み込むのはいかがなものかという意見があるけど何生温いこと言ってんだとしか思わない。バレなきゃいいの、バレなきゃ。
 受信ボックスを開けて、メールを確認する。なんか難しい内容のメールはすっ飛ばし、乾とのメールを読む。うわあいつ誤字ってるダッサ。でも乾とのメールにもめぼしい情報はなかった。チッ、マジクソ犬使えない。
 次にネットの閲覧履歴を確認していく。すると、ピン、と直感が働いた。
 働いた場所は、高級ブランドの腕時計のサイト。長年一途に想い続けていたこともあり、私はココの大抵の好みを把握している。……女の趣味とかもね。フンッ!!

 だからわかった。ココは、これを欲しがっている。あげたらきっと喜んでくれる。何も言わずとも自分の欲しいものをわかってくれる出来た彼女として私の株も、上がる。
 ココは欲しいものを手に入れられて幸せ。私はココに好かれて幸せ。つまり、win-winというやつ……!

 そう思ったら、あとは稼ぐだけだった。

 誕生日まで大体一ヶ月。幸い、今まで基本的にお父さんや言い寄ってくる男に奢らせてきたから貯金自体はそれなりにあった。でもそれを使い果たしたとしても残り10万は自分で稼がないといけない。風俗で働けば一発だけど、私はココ以外の男と密に触れ合うことが生理的に無理だから、普通にバイトするしかなくて、普通のファミレスで働いているんだけど。

「ご注文はいかがされますかー?」
「はいはーい! お姉さんのケー番〜〜〜〜!!」

 うぜええええええええええええええええええええええええ死ねぇえええええぇえぇえええぇええ!!!!

 年下の男という最悪に嫌いな人種にウザ絡みされて私の怒りは最高潮に達していた。

「メニューにのっているものでお願いします〜〜」

 愛想笑いで酷使した表情筋がそろそろストライキを起こしそう。これがただの同級生とかナンパなら舌打ちして無視するけど客だからそうもいかない。

「お姉さんいつから?」
「ご注文をどうぞ」
「ねー彼氏いる?」
「ご注文をどうぞ」
「そっか! いないんだ! お姉さんフリーだって!」

 頭皮が蠢いて、ピキィッとこめかみに血管が浮かんだその時だった。

「篠田、あっちの注文取ってくれる?」

 ソイツが私のとなりに立った瞬間、初夏のような爽やかな風が吹き抜けた。あ、出た。特に何の感慨も沸かず、私はソイツを見上げる。

「失礼いたします。ご注文承らせていただきますね」

 白シャツに掲げられたネームプレートには『高梨』の文字が彫られていた。

 高梨君のナイスグッジョブにより、私はムカつく男子高校生達から逃れることができた。何の害もなさそうなダサめの女子中学生のメニューを取りながら、ちらりと高梨君に目を遣る。すっこんどけよとかお姉さんに変われと非難轟々を受けているけど、物ともせずに爽やかに受け流していた。

 時給が結構良くて、制服が可愛いからという理由で選んだバイト先には、私が三日間だけ付き合ったことのある元カレ、高梨君も働いていた。私は1ヶ月で10万稼ぐべくほぼ毎日出勤しているので、週四で働いている高梨君とは結構シフトが重なる。あれ、こいつなんかスポーツ推薦受けてたような気が……? 練習はどうしたんだろう。不思議に思い尋ねてみる。

『高梨君サッカー部で忙しいんじゃなかったっけ』
『違う違う、バスケ部。靭帯切っちゃってさ。ドクターストップかかってやめた』
『へー。そうなんだ』

 そうなんだ以外の感想が特に浮かばずそう言ったら、高梨君は『篠田のそーゆートコいいよな』と笑った。どこに笑うポイントがあるのかよくわからない。でも馬鹿にされている訳ではないようだった。
 大学生になった今も爽やかな高梨君は、多分私以外の女の従業員全員から好かれている。へー。

 



 ……………………疲れた………………。

 棒のようになった足を投げ出して、ベッドにうつ伏せになって寝転がる。あ、寝転がっちゃった。お風呂に入りたいのに……でももう立ち上がれない……。
 夜の方が稼げるので、大学終わってから閉店ギリギリまで働いている。しかも今お父さんは長期出張中だから帰り迎えに来てくれず、お母さんは免許を持っていないので、防犯目的で自転車を超高速で漕いでいた。だから足がとにかく疲れる疲れる……。

 お風呂入らなきゃ……化粧落とさなきゃ……ああでも力がもう出ない……。ベッドの上で無意味な時間を過ごしていたら、ケータイが震え始めた。無視する。でもケータイは震えをやめない。舌打ちしてからケータイを開けた瞬間、目玉が飛び出そうになった。

「ココ!! どーしたの!?」
「…………声でけぇよ。鼓膜潰れかけたわ」

 驚き過ぎて大声で反応すると早速苦情を言われた。だってココから電話かかってくること殆どないんだからしょうがないじゃん!

「なに!? なんかあった!? はっ、い、今までの罪がバレて……! 待って! 私の親戚に超有能な弁護士がいるからその人に頼んで、」
「ちげぇよ」
「え。じゃあ何?」
「なんとなく」

 ココの淡々とした声が鼓膜を通り、そして細胞の一つ一つに染みこんでいく。久しぶりのココに体が歓喜の声を上げていた。ほぼ毎日バイト漬けなので、ココとは最近ろくに会えていなかった。ココからのお休みがないと寝られないと思っていたんだけど、バイトで疲れた体はベッドに入ったら電話をかけるまもなく三秒で寝落ちした。

 ココだココだココだ……! 喜びに弾んだ声で「もっと喋って! なんか話して!」とせがんだ。

「なんかってなんだよ」
「なんでもいいからーーー! はぁ、ココに会いたいよ〜〜〜!」

 ココの声をもっと感じたくてケータイを耳に擦り付ける。

「いいよ」

 すると、予想外の返事が私の思考をストップさせた。

「オマエ今家?」
「え、あ、うん」
「行くわ」

 ブツッ、ツー、ツー、ツー……。
 耳の中で反響しているコール音を呆然と聞きながら『行くわ』を噛みしめる。オマエ今家? と訊かれてうんと答えたら『行くわ』ってことは……つまり……つまり……!

 昂揚感に急き立てられながら、アイロンの電源を入れる。化粧ポーチを取り出し、あぶらとり紙でテカリを抑えてからパウダーを軽く叩いてマスカラを塗り直して……!
 力が出なかったのに、ココに会えるとなればどこからかわからないけど力が湧いてきた。あれしてこれしてあれして……! 鏡を見ながら髪の毛を巻いていく。鏡の中私の目は焦りと喜びで満ちていた。

 私から電話をかけてばかりだけど、一度、ココから出し抜けのように電話をもらったことがある。もう二度と会えないという絶望の底に沈んでいる時だった。

「着いた」
 
 もう一度電話が鳴って飛びつく。窓にへばりついて見下ろすと、あの時と同じ場所にココはいた。
 あの時と同じように、一目散に駆け出した。

「麻美何尻抑えてんの」
「………打った」
「は?」
「いいじゃん別に! それよりも!」

 これ以上追及されたら階段を踏み外してお尻を打ったことを暴露しなきゃならなくなる。強引に話を打ち切った。それにそんなことよりも大事なことがある。

「会いたかったーー!」
「AKBかよ。って、うわなんか嗅いでる」
「いいでしょー! はぁーーーココだ〜〜〜」

 ココに抱きつきながら、匂いを吸い込む。ココの匂いだ。嗅ぐ度に癒やされ、心がときほぐれていく。
 久しぶりのココだ。八日と三時間ぶり。ウサギのようにか弱い私は常にココを求めている。
 二年間会えなかった時は二度とココに会えないのかもしれないという有り得る現実に対し『そんなことさせるかーー! 何がなんでも会ってやる!』と息巻いていたけど、実際のところ、怖かった。寂しかった。悲しかった。苦しかった。怒りに変換させることで、会えない日々を無理矢理消化していった。

「ココ〜〜……」

 だけど今、ココは私のそばにいる。触れることができる。これ以上の幸せはな――、

 ココが私の背に腕を回した。

 ?????????????

 私からココに抱きつくことはあれど、ココから私を抱きしめることはほぼない。だから頭がはてなマークでいっぱいになり、そしてパニックになった。片思いを拗らせすぎたあまり、ココから何かされると頭が真っ白になる。
 抱き寄せられて更に密着した。え、ちょ、な、ん、そ、な、

「臭ぇ」

 ココの容赦ない指摘を受け、熱く火照った脳みそが瞬く間に冷え切る。冷水を真上から被せられたみたいだった。だけど怒りでまた沸騰する。

「ちょっとそれどーゆーことよーーー!! 私が臭いわけないでしょ!!!」
「臭ぇよ。食い物臭ぇ」

 ……化粧直すのに一生懸命で、匂いのこと忘れてた……!
 バイト終わり消臭スプレーもかけず、お風呂にも入っていない私は食べ物の匂いを撒き散らしているだろう。ココに気付かれるのは当然だった。

 ココは私の肩を掴んだ。見下ろす瞳には、静かな圧が滲んでいる。

「オマエ最近何してんの?」

 ココにサプライズでプレゼントを渡したい。だからバイトを始めたことを、打ち明けていなかった。


 


「マジかー。バレたんだ」
「そ。でもバイトしてることだけだから。ココにサプライズのこと言わないでよね」
「言わない言わない。てかオレ九井の連絡先知らないし」
「じゃあいい」

 高梨君にはココの誕プレのためにバイト始めたを話していた。というか見抜かれていた。『篠田がバイトはじめたのってもしかして九井のため?』と指摘された。なんでわかんの? と訝しがったら『篠田が動く理由っていつも九井じゃん』とあっけらかんと答えられた。
 口止めは済んだ。高梨君にもう用はない。テーブルでも拭いてやるかとフロアを歩いていたら、「すみませーん」と呼び止められた。声の先に視線を向けると、女子高生二人組みだった。自分もついこの間までそうだったというのに、今やだいぶ子供に見える。

「はーい。いかがされ――、」

 女子高生――ガキ二人は鋭い敵意の籠もった視線で私を睨んでいた。
 は? 何コイツ等。
 不良ならともかく同性の一般人に睨まれて臆するような柔な精神は持っていない。「いかがされましたぁ?」とにこやかに応えながらも目で『何ガン飛ばしてんだよ』と返す。眼力が強い私に睨まれてガキ二人は一瞬たじろいだけど、すぐに体勢を立て直して睨みつけてきた。

「アンタ高梨君と付き合ってんの?」

 こいつらの目は腐ってんの?
 斜め上の勘違いをしているガキ二人組みに目眩を覚え、そして怒りが込み上げた。ココ以外の男とそういう風に見られるとかおぞましすぎる。

「付き合ってません」
「ウソ! 高梨君、アンタにはなんかちょっと違うもん……!」

 ガキBが涙ぐんで食ってかかってきた。その顔には焦燥感が滲んでいる。普通にニコニコ笑っていたらそれなりの容姿だろうに、嫉妬にかられた今はただみっともなかった。はぁーーー嫉妬に狂う女ってやだやだ。

「高梨君と付き合ってないものは付き合ってない、」
「一名様ご案内しまーす」

 直感が矢のように駆け巡った。顔を見る前から察した。

「ココ……!? 来てくれたんだ……! あっ石田さぁん私がご案内しますねぇ私の彼氏なんでぇ!」

 ガキ二人を放置し、ココの腕にぎゅっと抱きついた。ココを案内している大学の吹奏楽ではフルートを担当している女子アナにいそうな顔立ちの石田さんを全力で牽制する。この女絶対まあまあココのタイプなんだよね…………! 嫌いじゃなかったけどそれだけで嫌いになってきた! あーーーココに近づく女みんな嫌い!

「え、あ、そーなんだ。篠田さんの彼氏なんだー」
「はい! 将来を誓った仲、」
「なんか変なの乱入してきましたねすみません案内してくれます?」

 ココは外面感丸出しの綺麗すぎる笑顔を浮かべながら私を引き剥がした。ひどい! 私はまた抱き着く。ココは今度は引き剥がさなかった。代わりに小さく息をついた。

「もういい。案内しろ」
「うん! あそこの窓際のソファー席にしよっか!」

 いつも通り母親の背中にしがみつく子供コアラのように、ココの腕に腕を絡める。ああ訳の分からないいちゃもんをつけられていた怒りが消えていく……! って、あれ、何のいちゃもんつけられてたんだっけなんかどうでもいいことガキに聞かれてたような……まぁいっか!

「見て見て、制服似合うでしょ? 可愛いでしょ? ね? ね? ね?」
「本日のおすすめパスタってなに」
「キノコとベーコンのペペロンチーノーー! ねぇーー! 可愛いって言ってよーーー!」
「あいつも働いてんだな」

 ………………あいつ?
 首を傾げたらココは「あいつだよ」と、高梨君に向かって顎をしゃくった。

 ああー……。

 高梨君と同じバイト先ということは私の人生に置いて些細すぎることで、ココに言っていなかった。ココは中学ろくに通っていなかったから、高梨君と友達って訳でもないし。いやまともに通っていてもココと高梨君仲良くはならなさそう。
 ていうかなんで高梨君にばかり注目してるんだろう。私という一途で健気な彼女がいるというのに!
 
「高梨君なんかどうでもいいじゃん!! そんなことより私を見てよ!! 可愛いって言ってよー!」 
「お、やっぱ九井だ」

 ココの肩を掴んで揺さぶっていると、清涼な風が吹きぬけて、高梨君が現れた。私の気も知らずにまたなんか爽やかに笑っている。

「篠田のテンションここまで上げんのは九井だろうなーって思ってたら、ドンピシャ」

 ココは高梨君の登場を確認するように、すうっと目を細め、口角を上げた。

「久々。元気?」
「元気元気」
「へー。よかった。麻美に吸い取られてなくて」
「は!? なんでそうなんの!」
「あはは、うん、マジでそんなことないよ。てか逆。篠田見てるとくよくよ悩むのはやめようって元気出てくるんだ」
「へえ。てかコイツちゃんと働けてんの? クレーム殺到してない?」
「ちゃんと働いてるから!! ココは私をなんだと思ってんの!!」
「働いてるよ。混雑しても落ち着いて対応してるし、お客さんにしつこく声かけられても笑顔であしらってるし。あっ、でもナンパ遭ってたらオレとか他の奴等フォローしてるから!」
「そ。なら何より」

 ココが私の仕事ぶりに対し言うことは、それだけだった。
 ……いやまぁ、確かに、ココ以外は基本的にどうでもいいから平常心でいられるだけだし、ナンパも慣れ故にさばけているだけだし、本来ココにバイトしてること言うつもりなかったから、褒められたいとか頑張ってるなとか思うほうがお門違いなのはわかってるんだけど……ムカつく!

「ちょっとココ! 『そ』ってなに! なんかないの!」
「篠田、そろそろ戻ったほうがいいよ。店長がヤバい」
 
 ココを睨みつけていると、高梨君に諭された。高梨君がさりげなく視線を遣った方向に目を向けると、店長が私をガン見していた。客用に愛想笑いを浮かべているけど目に凄みが滲んでいる。チッ、流石にこれ以上は無理か……。
 
 高梨君が、私ちゃんと働いてるって言ったのに。私たくさんナンパされてるって言ったのに。
 それでもココは、何も思わないんだね。
 ………………慣れたけど! あーこの悩み百億回目くらい! 飽きた飽きた!
 
 胸の奥底で、ぐるぐると靄が疼いている。けど今更のことだ。いちいち傷つくのも怠い。
 寂しさを胸に、後ろ髪を引かれるような思いでココから離れようとした時だった。

「麻美」

 ココが私を呼んだのと同時に、手を引っ張られる。高梨君じゃない。高梨君だったら瞬時に鳥肌が立つ。何も高梨君に限ったことじゃない。私はココ以外の男から触られたら、自動的に生理的嫌悪が沸き立つ。

 体がよろめいて、思わずココの肩を掴んだ。ココの瞳の中に、ぽかんと呆け面の私が宿っている。それくらい近かった。
 ココはじっと私を見据えてから、昼間の猫のような目を緩めた。

「偉いじゃん」

 ココの手が、私の頭に乗せられた。頭の形に沿うように撫でられる。ファミレスをキャバクラだと誤解している酔っ払ったサラリーマンに『夜まで働いてて偉いねー』と撫でられた時は殺意を抑えるのに大変だったのに、ココだったら甘酸っぱい気持ちで胸がいっぱいになった。

「可哀想になぁ。麻美、オレ以外の男無理なのに。あんま我慢すんなよ」

 胸がいっぱいになるあまり声が出なくなり、無言でこくこくと頷いた。ココに褒められた。心配された。お酒を呑んだ時みたいに気分が酔いしれていく。

「てか似合ってんじゃん、制服。可愛い」

 そして、心臓をバズーカで撃ち抜かれた。

「今日の虫よけはこれで大丈夫だろ。麻美何時上がり……っておい、麻美。あー駄目だ。高梨コイツ今日何時まで?」
「えっ、あ、えーっと……ラストまでだから……帰れんの大体11時半かな……」
「オッケー。ありがと。わりぃな、コイツ、すぐこうなんの」
「え、そうなの。オレ篠田のこんな姿初めて見たよ」
「マジ? オレの前ではこんなんばっかだけどな。――麻美」

 ココに呼ばれて、朦朧としていた意識が蘇った。ハッと我に返った視界の中で、ココがすぐそこで笑っていた。

「帰り、一緒に帰ろうぜ。オレ今日ここでレポートやってくから」

 もう一度撫でられる。頭の中で天使がラッパを鳴らした。

 その後のことはよく覚えていない。ただとにかく働きまくった。なんかいちゃもんつけてきた女子高生に料理を運んだら、今度はいちゃもんつけられなかった。「あの人絶対弄ばれてるよね……」「可哀想……」なんかヒソヒソ話が聞こえてきたけど幸せの摂取量が多すぎてラリッている私はその言葉をただ音として処理した。
 




「お先でーーーす! お疲れ様でしたーーー! あ」

 女子更衣室をハイテンションで出たら、高梨君も丁度出てきたところだった。「お、篠田」とにこやかに笑いかけられる。最高に上機嫌の私は「お疲れー!」と笑顔で手を振った。

「良かったな、今日九井きてくれて」
「うん! 絶対来ないって思ってたから吃驚したー! はぁ〜〜格好良かった……」

 ココは何か飲んでるだけで格好良かった。座っているだけで格好良かった。くしゃみしているだけで格好良かった。トイレに向かう背中も格好良かった。

「篠田はホントに九井が好きだよなぁ。てかこんだけシフト入れてたら誕プレ代余裕じゃない?」
「は? んな訳ないじゃん。残り大体7万なんだから。てか7万でも足りない。ココの誕生日は新しい服でお祝いしたいし。美容院行きたいしネイルしたいしまつパしたいし」
「へぇー女の子ってたいへ……7万!? しかも足りねぇの!?」

 スタッフ用のドアを開けている途中で、高梨君は素っ頓狂な声を上げた。ぎょっとして私は慌てて「ちょっと!」と声を荒げる。

「こっち側で待ってもらってんの! 聞こえたらどうすんの!!」
「マジか! ごめんな。気を付ける。は〜……にしてもすごいな……。なに買うの?」
「腕時計」
「…………えーーっと、それ、は……九井が欲しいって言ってきたの……?」
「は? んな訳ないじゃん。ケータイ見たの」
「え」
「でもやっぱ30万のにしよっかなぁ」

 今日のココを思い返すと、胸の奥がきゅんと高鳴った。心配されたし褒められちゃった。バイト代30万も貯めたんだよ! と告げたらもっと褒めてくれるかもしれない。甘やかしてくれるかもしれない。期待と欲望が風船のように膨れ上がる。
 
「そーなるとあと20万……。ガルバなら触りナシでいけるかな? どう思う?」
「ガルボ?」 
「ちげーよ。ガルバってのはあっココーーー!」

 ココの姿を見つけた瞬間、声が自然と一オクターブ上がった。壁にもたれながら腕を組んで、じっと私を見据えているココに「お待たせー!」と抱き着いた。今日は消臭スプレーをかけたので匂いは大丈夫だ。はぁーーーココの匂い………! ファンデがつかないようにココの胸元に顔を寄せてすうーっと嗅ぐ。こういうことしたらココは『嗅ぐな』と嫌そうに言ってくるんだよね………って、あれ? 言ってこない。

 不思議に思い顔を上げると、冷然とした視線に捉えられた。
 吃驚して、息が詰まる。

「九井……?」

 ココの冷気に高梨君も気付いたようだ。私の勘違いじゃないらしい。
 ココは高梨君に視線を滑らせる。
 絶対零度の眼差しを受けて、高梨君がたじろいだ。三月なのに、真冬のような寒さが空間を支配する。
 息をするのも憚られるような張り詰めた空気の中、動けるのはただひとり。
 
「オマエら、何コソコソやってんの?」

 ココは薄く笑う。だけどそこに温度はなかった。

「な、何にも……?」
「あ゛? しらばっくれてんじゃねえよ」

 困惑しながら答える高梨君の言葉に被さるように、ココは言った。唸るような声を受けて、高梨君の肩が少しだけ跳ねる。私の記憶の限り、高梨君は好青年を絵に描いたような男だ。後ろ暗いことなど何もないだろう。
 問題は私だった。ココに隠れてコソコソやってることが普通にあった。

 ケータイチェックがバレた……!? それとも寝顔の盗撮!? 

 バレなきゃいいじゃんと罪悪感ゼロでココのケータイを弄り倒した記憶が頭の中を走馬灯のように駆け抜ける。思い当たる節が普通にある私は冷や汗が頭皮に滲みやがて背中に伝っていった。やっばい、マジでやばい、どうしよ……!

「オマエも何黙ってんだよ」
「へ? え? あ? 別に?」

 明後日の方向に視線を泳がせながらすっとぼける。すると、顎を掴まれて無理矢理顔を持ち上げられた。ぎらついた鋭い眼差しに射すくめられ、掴まれた顎からピリピリと肌が麻痺していく。

 怒ってる。

「何隠してんだよ?」

 めちゃめちゃ怒ってる。

 はたと気付く。さっき、ココのケータイをチェックしてる事を、高梨君に言った。聞こえない距離感だと思ったけど、違ったようだ。

 確信が、すとんと落ちてくる。
 ココに、気付かれてしまった。

「なぁ、言う事あんだろ?」

 ケータイチェックする彼女に対しどう思うかアンケに99.9%の男は否定的な意見だった。信じられてないのかとショックだし、彼女だからってプライバシーの侵害はどうかと思うと。

『マジ無理。別れる。 東京都在住 二十代男性』

 そんなこと言われてもだって気になる。私はココのすべてが知りたい。他の女の影がないことを確認して安心した石あったらあったで一秒でも早く潰さないといけないし、だからしょうがないこと、だけ、ど。

『別れる』

 東京都在住の男のコメントがココの声で再生された。

「えっと、九井。多分ってか確実に勘違いしてる」

 高梨君がココの肩を掴むと、ココは私の顎から手を離した。腕を組んで、酷薄とした笑みを浮かべながら高梨君に相対する。
 
「へぇー。何をどう勘違い? オマエには言えてオレには言ってない事がある事の何が勘違い?」

 怒ってる。怒ってる怒ってる怒ってる。
 何か急にキレ始めた時のココは怖い。氷みたいに冷たくて、神経を凍りづかせていく。ココにとってケータイチェックは許せないものだったらしい。

 いつのまにか自分が特大級の地雷を踏んでいたことに気付き、焦燥感が津波のように私を追い立てる。どうしたらいいか、必死に頭を回らせる。

 開き直る? 『そーよケータイチェックしました悪いけど私を不安にさせるココが悪、『もういいワ、別れる』
 駄目だ別れるコースに直行する……! 
 や、でもココが別れたいって言っても私が『うん』って言わなかったら別れるってことならないし! 別れてないから! と言い張ってくっつけばいい。

「篠田は、その……オレから言うことはできないんだけど……」
「その篠田さんはさっきからずっと黙りこくってんだけどね。オマエにはベラベラ喋ってたけど」

 篠田呼びに心臓が痛くなった。でも、前までずっと苗字で呼ばれていた。前に戻っただけ。

 ココと別れた≠アとになっても、前に戻るだけだ。

「ガルバってさぁ、なに?」 
 
 喋りかけても無視されるか、ウザがられるだけ。
 せがみまくったら、気まぐれでキスとかセックスしてくれるかもしれないけど、気持ちは籠っていない。性欲処理なだけ。
 
 性欲処理という単語を頭の中で浮かべると、胸が締め付けられたみたいに痛くなる。そう言われた時の絶望感が足元に蹲った。

 今までの私達はそうだった。私ばかりが一方的にココに思いを向けていた。それが私達だ。キスをしても、私ばかりいっぱいいっぱいだった。

 絶望感がどんどん冷たい泡のように膨れ上がっていく。泡の中に閉じ込められたみたいに、息が苦しい。

 冷然としたココ。澄まし顔のココ。私からあっけなく去っていくココ。

 私の事なんかどうでもいいココ。
  
 そんなココに戻るだけ。
 前に、戻るだけ。

「オレもそのガルボ? わかんないんだよ。てゆーか篠田、もうこれ言った方が……、」
「やだ、」
「いやこれ以上拗れる前に、」
「やだぁ…………!!」

 なんか言ってきた高梨君の声を、私の小さな子どもが駄々をこねた時のような甲高い声が掻き消した。

「やだ、やだやだやだやだ! やだぁ…………!」

 顔を手で覆いながらぶんぶん左右に振り「やだぁああぁ〜〜〜……!」と泣いた。子どもみたいな泣き方。きっとココは馬鹿にしてくる。わかっていても止められなかった。

「だって、だってだってだってぇ……!」
「……だってじゃわかんねぇんだけど」

 頭がいっぱいで、ココの真っ当な問いかけに答えられない。ただしゃっくりを上げながら泣きじゃくる私にココは「おい」と問いかける。

「泣いててもわかんねぇんだけど」
「えぐっ、ひぐっ、えぐっ」
「なぁ、わかんねぇって」 
「九井、そんな言い方ないだろ。篠田泣いてんじゃん」

 めずらしく怒っている高梨君に諫められて、ココは「あ゛?」と唸った。でも高梨君は動揺しつつも、一歩も引いていなかった。

「泣き止めって言ったって泣き止むもんじゃないだろ。彼氏なら落ち着いて彼女が泣き止むのを余裕持って優しく見守れよ」
「流石好青年。言う事が違う」

 ココはハッと忌々しそうに鼻で笑うと「できるわけねぇだろ」と吐き捨てるように言った。

「……んなキャパ今ねぇよ」

 やる瀬なさの滲んだ声が空気に馴染むと、ココと高梨君の間に漂っていたピリピリしたムードが消えていった。

「篠田、九井の誕プレ買おうと頑張ってんだよ」

 高梨君の暴露発言が、私の涙を止める。ぎょっとして顔を上げると、高梨君はココを見据えながら、淡々と暴露を続けた。

「ほぼ毎日働いててさ、九井が欲しがってる20万……いや30万だっけの腕時計を買おうとしてる。ガルボ? とかで掛け持ちしようとしてまで」
「ちょっと高梨君!! アンタなに暴露してんの!?」

 高梨テメェこのヤローーーーー!!! とばかりに高梨君に憤然と食って掛かる。でも高梨君は平然としていた。マジふざけんじゃねえと掴みかかろうとしたら、視線を感じた。ココが、私を凝視していた。

「ち、違うから!」

 顔の前で大きく手を振りながら、必死に言い募る。

「今の、高梨君の嘘! なんか虚言癖あるっぽい!」
「……や、オマエさっき暴露≠ツってたじゃん」

 ココは呆れたように言う。さっきより雰囲気が柔らかくなっていた。

「え! そ、それは……てか私ココの欲しいもの知らないし!」
「わかんだろ。麻美、オレのケータイずっとチェックしてんだし」

 頭の中に巨大な空白が流れ込んだ。

 宇宙に放り出されたように呆然としている私に向かって、ココはべえっと舌を出す。
 
「知ってるっつーの。麻美の爪の甘い監視に気付かねぇ訳ねえから」

 絶対零度の冷たさはない。いつものココに戻りながら、いつものように私を小馬鹿にした。

「……へ!? じゃ、じゃあ、なんでキレてたの!? ケータイチェックに怒ってたんじゃないの!?」

 あまりの衝撃に喉が塞がれて、涙腺が止まった。ぽかんと呆けてから食って掛かると、ココはいけしゃあしゃあと言いのけた。

「身の丈に合わねぇことするから」
「はぁーーーー!? 意味わかんない!!」
「ほらそーゆーとこ。いいからオマエは分不相応な事すんな。あれでいいわ、肩たたき券」
「やだそんなの! 父の日じゃん!」
「いいから」
「やだー!」
「いいって。普通に一日一緒にいて、」

 ココは不自然に言葉を区切ると、少し黙ってから「オマエに甲斐性とか期待してねぇから」と鼻を鳴らした。

「はーー!? ココは私をどんだけ馬鹿にしてんの!? マジ許さな――、」
「はは、あはははは!」

 からっとした笑い声が私とココの間に流れ込む。目を遣ると、高梨君が爆笑していた。「ごめ……っ」と謝りながらもお腹を抱えて笑っている。

「二人とも、はは、おっかし……! てか九井って意外と……! なぁ、篠田」
「なに」
「ごめん、ちょっと」

 高梨君に手招きされる。なんで私が動かなきゃなんないのとムカッとしたけど、さっきみたいにまた爆弾発言を落とされたらかなわない……。渋々近寄って「なに」と再度つっけんどんに問いかけたら、高梨君は背を屈め、声を潜めた。

 …………………………………………、

「楽しそうじゃん。何の話?」

 粘着質な声に、顔を向ける。ココが薄く笑っていた。笑いながら怒っていた。相変わらずひんやりした空気を纏っていて怖い。否、怖かった。でも今は、高梨君から聞いた今は。

「ごめんねココ〜〜〜〜〜〜!!」

 テンション上がった私はきゃぴっと声を高めながら、ココにぎゅっと抱き着いた。

「よーちよちよち! もう大丈夫でちゅからね〜〜〜!」

 ココの胸元に頬をすりすり押し付けながら、ぎゅうぎゅう体を押し付ける。いや、包み込む。
 末っ子の私は自分より年下の生き物との付き合い方がいまいちつかめない。母性とかそんなものもないし。守りたいとかなによそれ、女は守られる生き物だ。
 でも、ココは違う。ココは、私のすべてを使って包んであげたくなる――それに。

「え、あ、は……?」
「いいんでちゅよ〜〜〜無理しなくてぇ〜〜〜〜!」
「その喋り方やめろキモい高梨てめぇ何言いやがった……!」
「んー? ただの事実だよ」
「ちげぇだろ絶ッ対ェ……!」
「ココ〜〜〜! よちよち〜〜〜!」 

 



 
『九井、まだ誕生日来てないから子どもなんだよ。篠田のがお姉さんなんだし、許してあげたら?』
 
 それに、私の方がお姉さんだしね!





- ナノ -