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 ココからの連絡は一週間、一度たりともなかった。


「そーゆーことよ」

 ココは諦めなと説いてきた一週間後、お姉は再び実家に戻って来た。お父さんとお母さんが二人で旅行に行く前、お姉に麻美の面倒見てやってと頼んだらしい。もしこれがココと付き合いたての頃だったら家にココを連れ込めるチャンスとばかりにお姉の来訪を突っぱねたけど、音信不通となった今は無感情で受け止めた。
 お姉は私の部屋に入るなり『ココ≠ゥら連絡あった?』と訊いてきた。ベッドの上で三角座りしながら無言を返すと『はいはい』としたり顔で頷く。通常時なら分かった顔してんじゃねーよと苛立つけど、今はその元気もなかった。

 一週間前、私はお姉に言われた。

『ココ≠ノ連絡すんの一週間やめてみな。麻美の事好きなら向こうから連絡取ってくる。けどそうじゃないなら、そーゆーことよ』

 お姉の言う通りに動くのは癪だった。でも断る理由はなかった。断ったら、認めるようなものだった。
 私が連絡しない限り、ココから連絡来ないんじゃないかと恐れている事を。

 毎日掛けていた電話もメールもやめると、九井一≠フ三文字はあっという間に履歴や受信ボックスから消えていった。
 まるで、最初からなかったみたいに、消えていった。

「……ココ、電話もメールも、あんま好きじゃないし」
「乾さんにはプロポーズまですんのに?」

 鋭く尖った氷柱で心臓を真っ二つに裂かれたようだった。お姉の情け容赦ない言葉が心臓の奥深くまで抉るように突き刺さり、息も絶え絶えになる。悲しみは瞬く間に怒りに変わりギラッと強くお姉を睨み付けた。同年代の子達は私に嫌われたら学校で生きていけなくなるので、私に睨まれた途端怯えて意見を私に摺り寄せてくる。うんうんそうだね、麻美ちゃんの言う通り。だけどお姉は違う。ふん、と鼻を鳴らして涼しい顔で受け流していた。このクソアマ……! と七つ年上のお姉を奥歯を噛みしめながら睨み続ける。

「言っとくけど。別に私、麻美の事虐めたい訳じゃないからね。てゆーか助けてあげてる方」
「っじゃあなんでひどいことばっか言うの!!」 
「これ以上ひどいことになる前に忠告してあげてんじゃん。望みのない恋愛なんか引きずってても無駄」
「知ったような口きくんじゃねーよ!!」
「知ってるから言ってんの。私も麻美と似たような事あるよ」

 一拍の空白が胸の中に垂れ込んで、ぽかんと呆ける。ミルクティブラウンのくるくるの巻き髪にばっちりと施された化粧のお姉を凝視した。私と似た顔立ちのお姉はもちろん素っぴんでも可愛い。
 お姉は何てことなさそうに淡々と続けた。

「頑張ったら落とせるっしょって思ったけど駄目だった。駄目なものは駄目だった。なんかもうどうでもよくなって全然好きじゃない奴と付き合ってみたんだよね。今の彼氏なんだけど。全然好きになれなかった。頼りないし、私の事でいっぱいいっぱいになってんのダサいし、そんなんで、ほんと……最初は全然好きになれなかった」

 お姉の声が丸みを帯びて、和らいだ。
 最初は≠ニ紡ぐ声は慈しみに溢れている。つまり、今は違うということ。

「好きで好きでしょうがなかった男諦めた方が、幸せになれた」

 お姉は言う。躊躇うことなく、はっきりと。  

「この人じゃなきゃ絶対無理! って事ないんだよね。そう思い込んでいたいだけ。麻美もココ≠ノ会わなかったら会わなかったで、他の奴好きになってたよ。たまたま振り分けられた水槽が一緒の魚の群れと同じ。たまたま同じ校区だっただけ」
「そんなこと、」
「そんなことあんの。それから、アンタがどんだけココ″Dきでも好かれないモンは好かれないの。
 何もねぇ、麻美だけじゃないから。みんなそれなりに失恋してきてんの。けどいつまでも報われない思いにしがみつかないでなんとか折り合いつけて他の男見て、幸せになるために頑張ってんのよ。麻美のやってることは悲劇のヒロインごっこ。だって他の男探そうとしてないじゃん。もういい加減夢見る夢子やめて現実見な。ココ∴ネ外にも男は山ほどいんだから。じゃないとアンタ一生可哀想なまんまだよ。
 幸せになりたくないの?」

 情け容赦なくバッサリと切り捨てるお姉の言い分は鉄壁で、反論する隙を一部たりとも与えてくれない。私はわなわなと手を震わせながら、酸素を求める魚のように口をパクパクするだけ。反論したいのに、出てこない。昔から私はこうだ。本当に言い返したいこととなると理路整然と反論することはできずに、

「そんなん知らないし!!! 意味わかんない!!!」

 説き伏せる言葉を子どものように喚いて跳ねのけるだけ。
 ベッドから立ち上がり、お姉を押しのけて出て行く。足を強く踏み鳴らしながら階段を駆け下りていく私に「遅くなんなよー」とお姉の声が降ってくる。聞き分けの悪い子どもに言い聞かせるようなやれやれ♀エ満載の声は、更に私の苛立ちを煽った。





 家を飛び出した私は誰にも会う気になれず、ひとりで街を歩いた。けど、好きなブランドの店に入ってもタワレコに入っても本屋で雑誌を適当に読んでもクレープ食べても全く気は晴れない。ココから返ってこない連絡、お姉の意味わからない自分語り混じりの説教的な何かで蓄積された苛立ちとやる瀬なさは、

「ね、なんか食いに行こって! オレすっげー美味いトコ知ってっから!」

 羽虫にたかられたことで、大気圏を突破した。

「いいっつってんでしょ私用事あるから」
「えー! 絶対嘘でしょ! てゆーか今日じゃなくてもいいからさ!」 

 イライライライライライライライライライライライラ。オマエ如きに使う時間とか一秒たりともねえんだよ。

「じゃあケー番だけ!」
 
 男が喋る度に、苛立ちという名の風船が膨らんでいく。無視を決め込んで早歩きで立ち去ろうとしたら、「無視しないでよー」と二の腕を掴まれた。男特有の武骨な指にがしっとホールドされた瞬間、ぞわぁっと鳥肌が立ちあがる。ココにされたら嬉しい行為は、他の男がするとただただ生理的嫌悪を覚える。

「いい加減に、」
「お待たせ!」

 ……は?
 
 いい加減にしろこのカス!! と怒鳴ろうとした時だった。突然、同年代の知らない男が突然人好きのする笑顔で私とナンパ男の間に割り込んできた。そして物知り顔で「遅れてごめんなー」と私に申し訳なさそうに謝ってくる。私の知り合いを演じてナンパ男を遠ざけようという目論見なのだろう。でも、気負うことなく自然にやってのけているから演技している人間特有の胡散臭さが全くない。ていうかコイツ、誰――あ。

 男をじいっと見続けている内に、記憶の琴線が揺れた。

「腹減ったなー! 篠田何食いたい? あ、つかこの人誰?」

 男は目を細めて、ナンパ男を疑わし気に見据えた。男は気まずそうに「あ〜……」と視線を彷徨わせてから、舌打ちをする。「男待ってるなら言えっての」と捨て台詞と共にそそくさと去って行った。

 男と私が、二人残される。男は「言ったか……」と去って行く男を見届けてから、ふうと息を吐いた。じいっと見続けている私の視線に気づくと、照れ臭そうに笑った。

「久しぶり、元気?」

 男は――私の初彼、高梨君だった。

「……ぼちぼち」

 全く元気じゃないけど三日で別れた中学時代の初彼という知り合い以下の存在に近況を告げる気になれず、適当な事を言う。高梨君は「そっか」と笑った。そういやこいつモテてたな……。爽やかな笑顔を浴びるうちに、中学の頃の記憶がうっすらと浮かび上がった。

『オレ、篠田のこと好きなんだ。付き合ってほしい』

 ココに首を絞められて殺されかけた次の日、高梨君にそう告られた。
 
 ココに嫌われたという深い悲しみを憎悪に変えることで精神を保たせていた私は『わかった』と頷いた。ココ――九井なんか好きじゃない。だいっきらい。マジ死ね。他の男と付き合ってやる。逃した魚はデカかったって死ぬほど後悔させてやる。
 私からオッケーをもらうと、高梨君は丸い目を更に丸くして、何度も瞬きを繰り返してから『……マジ……!?』と声を上擦らせた。マジっつってんじゃん。苛立ちながら返すと、高梨君はお風呂上がりみたいに頬を赤くして『よっしゃあ……!』と整った顔立ちをくしゃくしゃにして、ガッツポーズしていた。

 バスケ部のエースで優しくて爽やかな高梨君。笑ったら幼くなって可愛いよね。中学時代のいつメンのひとりが言っていた。

 けど私は何も思わなかった。
 ココにどうやって復讐するか。そんなことばかり考えていた。だから喜んでいる高梨君に何の感慨も覚えなかった。
 三日後、私は高梨君を振る。手を繋ごうとしてきたから。
 高梨君の手が私に触れた瞬間、ぞくっと生理的嫌悪が全身を駆け抜け、鳥肌が総立ちした。『触んじゃねーよ!!』と怒鳴りつけ、その場を走り去った。
 

「……ありがと」
「いいよ、全然。てか篠田やっぱモテるなー」

 手を繋ごうとしてきたから≠ニいう理由で怒鳴りつけ振ってきた元カノに対し、高梨君は鷹揚に笑っていた。今のモテるな≠焜Jラッとした声色で皮肉ははらんでいない。

「彼氏いんの?」

『好きじゃねえよ』

 高梨君の質問を受けた直後、ココの平坦な声が頭の中で再生された。

 私の彼氏。私の好きな人。やっと付き合えた。腕を絡めても振り払われなくなった。キスをするようになった。それ以上のことだって、私が鼻血さえ出さなければ最後までしただろう。

 でも、ココは私のことが好きじゃない。
 付き合っているけど、彼氏だけど、私のことが好きじゃない。

 赤音さん≠ノは迷うことなく『一生好きだから』と言い切っているのに。

「アンタに関係ないじゃん」

 険のある声でつっけんどんに言い放つと、高梨君の笑顔が固く強張り、一拍、気まずい空白が垂れ込んだ。その隙をつくように、私は無言で踵を返す。お礼は言ったんだから、もういいでしょ。足を一歩踏み出そうとしたら「っ篠田」と、切羽詰まった声が追いついてきた。だっる。不快感を露に舌打ちすると、ちょうど前に回り込んできた高梨君が「しつこくてごめん」と眉を下げて謝ってきた。

「でも、危ないから送らせて。結構遅いし」

 高梨君の言う通り、外は夜に浸かり始めていた。葡萄色の四角い空には星が点々と瞬き始めている。
 
 ……たしかに夜になると、羽虫が増える。またたかられたらかなわない。さっきも高梨君が来てくれなかったら私はいまだに付き纏われてたかもしれない。けどコイツが私を送るという名目で邪な行為を働くこともあり得る。

 基本的にほとんどの男に対しての警戒心が強い私は、当然高梨君も警戒心を尖らせる。値踏みするように見据えると、高梨君は更に真剣な面差しになった。

「篠田が嫌がることは絶対しない。約束する」

 きっぱりとした声だった。目は真摯な光が冴え冴えと輝いている。

「……じゃあ」

 しょうがなく♀エを全面に出しながら頷くと、高梨君は明らかにホッとし「ありがと」と柔らかく微笑んだ。送る側が礼を言うとか、奇妙な事だ。


 高梨君は私と一定の距離を保ちながら歩いた。少しでも私に触ろうという素振りは見せない。穏やかに笑いながら、自分の近況や中学時代の友達の話を軽快なリズムで話題にしていく。バスケ部のエースだった高梨君はスポーツ推薦で今の高校に入学したらしい。けど、自己陶酔に塗れた『オレ活躍劇』として披露する訳ではなく、事実のひとつとして語っていた。

「ふーん」

 とは言っても興味ない男の話なのでそれしか言う事ない。髪の毛を人差し指にくるくる巻き付けながら不愛想に頷く私に高梨君は気を悪くすることなかった。

「篠田はどんな感じ?」
「普通。中学ん時と一緒」

 木で鼻を括ったような返事をした瞬間、あ、と気づく。速度を緩めると、高梨君に「篠田?」と訊かれた。

 私は答えず、ただ、公園を見続ける。
 私の家から少し離れたところにある大きな公園は、今日も人が少ない。あの時と一緒だ。

 あの時も今日と同じように、黒い夜の中から青白い月が浩々と輝いている。

『でも……、ココのやり方でお金集められても、赤音さんは喜んでくれるかなぁ?』

 あの時私は、そう問いかけて、ココに首を絞められた。
 激しい憎悪が籠った眼差しで突き刺すように睨まれながら、首を絞められた。

 いつも私の前では冷静なココが初めて感情を大きく表したのは、あれが初めてだった。

 ココは、私にはいつも余裕綽々で平然としているのに赤音さん≠ェ関わると人が変わる。真摯で、いっぱいいっぱいになって、情熱的になる。
 私にはキスする時もそれ以上の事をする時も、淡々と事務処理するようなのに。

「公園気になる?」

 赤音さん≠ニ私への態度の差を比較しているうちに、意識が奥深くまで潜り込んでいたようだ。高梨君の声でハッと我に返る。高梨君に焦点を合わせると、微笑みかけられた。

「思い出の場所?」

 好きな人に余計な事を言って殺されかけた場所って、そんな綺麗な言葉で飾り付けていいのだろうか。高梨君の言葉を無視し「こっち通った方がうち近いってだけ」と早口で言い切り、高梨君を置いて入っていく。高梨君は「そっか」と着いてきた。

「篠田さっきさ、中学ん時と一緒って言ってたじゃん」
「そうだけど」
「てことは、九井のことずっと好きなの?」

 高梨君と私は違う小学校だ。つまりココや乾とも違う。中学にほとんど来なかったココの存在を認識しているとは思わず、心臓が大きく飛び上がった。反射的に高梨君を凝視する。ていうか、知ってたんだ。私の内心を見透かしているのか、高梨君は苦笑する。

「うちの中学の奴等、多分全員知ってるよ。篠田興味ない奴とある奴で差ありすぎだし。ていうか九井以外全員どうでも良さそうだったじゃん。中一の時かなぁー、九井に話しかけてる篠田見た時マジ吃驚したの覚えてる。オレとか他の奴にはケータイ片手に話すのに、九井にはずーっと顔見て喋りかけててさ。目ぇきらきらしてるし。だからオレ、玉砕覚悟で告ったんだよね。そしたらまさかのオッケーでさ……嬉しかったなぁ」

 高梨君がしみじみと噛みしめている隣で、私は気まずさを覚えていた。オッケーしたものの、その三日後に『さわんじゃねーよ!』と振った。高梨君の穏やかな口振りに私を責める色はないけど、罪悪感が妙に騒いでしまう。

「高梨君さぁ、私のどこが良かったの」

 というわけで、少しでも罪悪感を和らげたい私は詰問することにした。どうせ顔とか胸とかそんなんでしょ。絶対そうに決まってる。

『オマエの長所なんて面と体しかねぇじゃん』

 ココだって、そう言っていた。

 ぎゅっと拳を握りながら高梨君を睨み付けると、高梨君はぱちくりと目を瞬いてから「んーそうだな〜……」と恥ずかしそうに視線を泳がせた。

「……人の話を聞かないところ、かな」

 予想だにしない返答に、一拍間を置いてから「は?」と漏らす。……馬鹿にしてんの? 私の顔に苛立ちが滲んでいたのだろう。高梨君は「あー違う違う!」と待ったをかけるように掌を顔の前に出した。

「篠田はさ、周りがどうこう言っても自分がこう!≠チて決めたら突き進むじゃん。オレは結構周りの意見に左右されがちだからさ。すげーなって目で追ってたら……、」

 高梨君は照れくさそうに笑う。
 私は、ポカンと高梨君を見ていた。

 中身を褒めてもらえたのが初めてのことで、驚きのあまり、身じろぎひとつできない。

「気付いたらさ。なんか、笑った顔見たいとか、そんなんばかり考えるようになってた」

 コイツ私のこと、マジで好きだったんだ。

 今まで何回も人から好意を受けてきたけど、こんなにも体に染みわたるように感じるのは初めてだった。まるで泉が沸くように、暖かい気持ちが胸の内を満たしていくのと同時に、

『ほんと……最初は全然好きになれなかった』

 幸せそうに微笑んでいるお姉が浮かんだ。

「つーかさ、中学ん時、急に手ぇ繋ごうとしてごめんな。テンション上がり過ぎてた」

 ただでさえ驚いているところに何故か再び謝られ、更に狼狽える。面食らいながら「いいって、別に」とつっけんどんに返した。

 高梨君を振った時、いつメンに責めるように問いただされた。どうして。なんで。あんなにかっこよくて優しいのに。
 
『手を繋ごうとしてきたから』

 そう返したら、皆、『はぁ?』と言いたげに眉を潜めた。付き合ってるなら当たり前じゃん。何考えてんの。いつも私におべっかばっかりなくせに、理解できない苛立ちのあまり侮蔑の色が瞳に滲んでいた。
 私は潔癖すぎるらしい。今まで何回かその指摘を受けてきた。ちょっと男子に性的にからかわれたくらいで目くじらをたてるなと婉曲に諭されてきた。そんなことで嫌がったり傷つく方が自意識過剰だと失笑されてきた。

「よくない」

 けど高梨君は笑わない。
 
「篠田が嫌がることしたんだ。全然よくない」

 乾が自分の女を見る目。花垣君が彼女を見る目。
 ココが赤音さん≠見る時と同じ目で、高梨君は私を見据える。
 真摯なきらめきを宿した、情熱的な眼差し。

 私は少女漫画の鈍感な主人公じゃない。男には警戒心を抱くし好意を向けられたらわかる。今の高梨君の眼差しを受けて予感は確信に変わった。こいつ、今も私のことが好きだ。

「…………さっきの質問と似てるんだけどさ、聞かせてほしい。篠田って今、好きな奴いる?」

 高梨君は余裕のない真剣な顔をしていた。頬に薄っすらと赤みが差している。ココが赤音さん≠見る目と同じ眼差しで見られているうちに、思考がぼうっと霞がかっていった。次第に高梨君と付き合っていた三日間の出来事がゆっくりと脳裏を駆け巡る。

 一回だけデートした。荒っぽい奴に声を掛けられていたら、高梨君が割り込んでくれた。追っ払ってくれた後『緊張したー』とくしゃりと笑っていた。

『オレ喧嘩とかしたことないからさ。あ、でも! 篠田は絶対守るから! 何が何でも守るから!』

 ココをどうやって苦しめるか、ココの視線をどうやって私に集めるか。そればかり考えていたから高梨君の言葉は全く響かなかった。
 でも確かに、そう誓っていた。

 大切にされることは、幸せに繋がる。だから皆、無謀な恋だと悟ったら去り、そして自分を愛してくれる人に向かう。だってそうじゃないと大切にされないから。幸せになれないから。幸せになりたいから。
 
 私は私の幸せの為に、ココを追い求めた。でもどれだけ追いかけても、ココは私を好きにならない。
 
 ココを好きでいる限り、私は幸せになれない。
 凪のように落ち着いた悟りが、私の心の中で静かに波紋を広げていく。
 
 思い返せばココを好きでいて幸せだった時の方が短い。両思いだと誤解している時は無限大の幸せに打ち震えたけど、それは偽物の幸せだ。紛い物はあっけなく壊れる。
 キスもセックスの一歩手前も嬉しくて、胸を締め付けるほどの多幸感に悶えて泣きそうになったけど、でもいつも最後に手ひどいしっぺ返しを食らった。私をからかうだけのキス。性欲処理だと笑われる。嫌いじゃねえよと言われたけど、それで終わりだ。付き合ってからの行為も義務のようなものだったんだろう。だって冷静だった。ねぇ赤音さん≠ノキスする時は、もっといっぱいいっぱいになってするんでしょ?

 幸せになりたい。人間なら誰しも抱えている欲求が最大限に膨れ上がる。

「私は、今、」

 ココの冷めた目が脳裏に浮かぶ。私を見つめる瞳はいつもそういうものだ。焦ったり熱くなったりしない。平然と取り澄ました、温度の低い眼差し。

「好きな人、」

 ――っ

 木々のざわめきの間を縫うように、痛みに耐える声が鼓膜の中に紛れ込んだ。

 ぼんやりとしていた意識が覚醒し、心臓がどくんと跳ね上がる。生きていることを伝えるように、どくどくと強く鼓動を打っている。

「……篠田?」
「声、聞こえた」
「……声? え、篠田!?」

 高梨君の焦ったような呼びかけを無視し、公園の奥へ入り込む。

 聞こえた。絶対にそうだ。
 私が間違えるはずない。

 太陽が東から昇るように。夜になると月が出るように。それと同じ原理だ。
 私がココの声を聞き間違えることは、絶対ない。

 声は途切れ途切れに鼓膜に流れ込んできた。ドカッとかバキッとか下卑たはしゃぎ声も一緒に流れ込んでくる。
 近い。
 公園の奥へ奥へ入り込んでいくと、淀んだ空気が濃くなった。角を曲がろうとした時、一際大きな破裂音が響き渡る。思わずビクッと肩が跳ね上がって、

「ほらほら〜九井君ちゃんと立ってよ〜」

 全身の血液が凍りついた。

 角を曲がった先には鬱蒼とした茂みが広がっている。数人の男が誰かを取り囲んでいた。奇抜な髪型で、ダボダボのスエットやらジャージに身を包んでいる。ココがこの前までいた世界の男達だとすぐにわかった。
 大柄な男がしゃがみこんで、誰かを無理矢理立たせる。艶のある黒髪が月光を受けていた。

 ココ。

 私の立ち位置からだと距離がそれなりに離れているから鮮明にはわからない。でも、二年前、乾の言うことしか聞かなかった頃のような怪我を負っているのはわかった。
 男達はココを嬲ることに夢中になっているから、私の存在に気づいていない。耳障りな大声は私のところまで聞こえた。

「元気だしてよー。マイキーとか乾いないからってさー」

 男はココの胸ぐらを掴みながら馬鹿みたいな猫なで声を上げて、それから、ココの顔面に拳を打ち付けた。

 それを見た瞬間、凍っていた血液が沸騰した。
 目の前が血のように赤くなった。
 理性がぶちぶちと音を立てて切れて、思考が飛んだ。

「篠田! ストップ!」

 駆け出そうとしたら、背後から右腕を掴まれた。振り向くと、高梨君が「危ないって!」と血相を変えて小声で私を諫める。

「今警察呼ぶから! 来るまで待っとこ!?」

 は? なんで?

 ココが殴られているというのに待つという選択肢を出してくる高梨君に強烈な理不尽さと怒りを覚える。話にならない。無言で腕を振り払って駆け出そうとしたら、またしても腕を掴まれた。

「危ないから!! マジ今だけは言う事聞いて!!」

 頭皮が蠢くほどに血管がこめかみに盛り上がったのがわかる。
 なんで私の邪魔すんのコイツ。

「痛い? 痛いよねー、九井くーん! でもオレ等は君にもっと痛めつけられたんだよなー!」
「ほら命乞いしろって! ごめんなさいって! 僕は虫けら以下の存在って言ってみ!」
「ひとりじゃ何もできません! 強い奴に従うだけの卑怯者ですって言ってみ!」

 羽虫の羽ばたきのような耳障りな声や殴打音が遠くから空気に乗ってやってくる度に、怒りで全身の骨がねじ切れてしまいそう。もう一度高梨君の腕を振り払うと、また掴まれた。高梨君は必死の形相だ。それから、再び遠くから男達のはしゃぎ声が上がる。

「篠田が助けに行ってもどうにもなんないって!」
『幸せになりたくないの?』

 高梨君の切羽詰まった声と何故かお姉の諭しかける声が重なった瞬間、

「っるっせぇ!! 邪魔なんだよ!!」
 
 私の中の何かを留めていた蝶番が音を立てて吹っ飛んだ。

 ハンドバッグを高梨君の顔面にクリーンヒットさせると、高梨君は「いっ!」と目元を抑えながら悲鳴を上げて、私から手を離した。

 解放された私は、弾丸のごとく駆け抜ける。高梨君に大切にされるという未来が、走る度にぼろぼろと落ちていった。

 高梨君と付き合ったら姫のように大切にされて、友達との恋バナでマウント取れるだろう。私の彼氏、私の事好きすぎるんだよね。困った体を装いながら、自慢する。
 ココとだったら絶対出来ない。私からメール送って私からデートに誘って私からキスとかセックスしたがる。彼氏からメール返ってきたと嬉々として告げた時のナホコの顔は驚きと憐れみが浮かんでいた。
 
 きっと私はみじめで可哀想。誰からも羨ましがられない。

 だけど言える。

『ココ≠ェ乾さん以外の人間を見る事があっても、どっかに乾さん要素を残した人間だよ。ココ≠フ中で恋と言ったら乾さんになってる。だから絶対に、麻美を好きになることはない』
『私はおすすめしないけどね。追いかけてばっかの恋愛ってしんどいし』
『原点の女は超えられないよ、絶対に』

 お姉の正論≠ノだって言える。
 世界中に響き渡るように、大きな声で堂々と言ってやる。

 で? それがなに?

 ココが私のことを好きじゃない。そんなこと言われなくてもとうの昔に知っている事実だ。
 けどそれのなにが、私がココを諦める理由になる?
  
 ああ、数分前の腑抜けた自分をぶっ殺してやりたい!! 自己嫌悪で奥歯を噛み砕かんばかりに強く噛みしめる。
 幸せになれない? それがどうした! 今更ビビってんじゃねーよ!!

 たかが振り向いてくれない。それだけのことだ。
 どうにもなんないとか幸せになれないだとか、そんなことどうだっていい。
 
 そんなことよりももっと大事なことがある。
 譲れないものがある。

「……は?」

 後ろから羽交い締めにされているココが、唇の端から血を垂らしながら茫洋とつぶやく。
 目を最大限に見張らせて、私を凝視していた。腫れ上がった目蓋は開けづらそうで見るからに痛々しい。
 全身に怪我を負っていた。遠目で見た通り、二年前と同等のものだった。

「お! かわいー!」

 ハァハァ息切れしている私に向かって、ココの胸倉を掴んでいた男が近づいてきた。するとココは血相を変え「おい!」と声を荒げた。が、男はココの存在を丸ごと無視する。するとココは矛先を私に変えてきた。怒りに猛った瞳で私を強く睨み、「何のこのこやってきてんだよ!」と怒鳴りつけてくる。

「ボサッとしてんじゃねえ!! さっさと逃げ、」
「はい余計なこと言うなー」

 ココが横っ面をぶん殴られる。「うっ」と呻いてから、血を吐いた。

 限界地点に到着していたはずの怒りは更に大きく膨れ上がると、大気圏を突破し、宇宙に突入していた。
 私の身体の中で、まるで生き物のように怒りという名の炎が轟々と燃え盛っている。

「……じゃねえ」 
「なになにー? 君誰? どした――、」

 男の胡散臭い笑みが固まった。
 声にならない悲鳴を上げながら、股間を抑えてしゃがみ込む。

 男の旋毛を見下ろしながら、猛々しい憎悪を叩きつけた。

「ふざけんじゃねえ!! 私のココに何してんだよ!! このチンカス!!!!!」

 そしてもう一発、股間を蹴った。

「死ね!!! ざけんな!!! 死ね!!!!! 死ね!!!!!!!」
「っう、あ……っ」

 一発どころか何発も御見舞する。芋虫のように蹲って股間を抑えている手も一緒に、八センチのピンヒールで空き缶を踏み潰すように何度も踏みつけた。
 
 両思いになることよりも、幸せになることよりも、譲れない。

 ココが好きなこと。
 ココを好きになったこと。

 ココ――九井一。
 
 皮肉屋で打算的で、赤音さん∴ネ外の女に興味なし。もしかしたら乾よりも馬鹿かも。だって死んだ人間のためにお金稼ぎ続けるとか馬鹿でしょ。無意味。しかもわざわざ違法行為に手を出してまでさぁ。捕まったらどうするつもりだったんだろ。
 器用に立ち回れていると思ってそうなのが質が悪い。上手に生きるのが絶望的に下手糞なくせに。
 
 そういう奴が、私の好きな人。
 他の女のことばかりで、私を好きになってくれない。

「私のココなの!! 私のなの!! 何手ぇ出してんだよ!!」

 けどそれが何だと言うんだ。どうしてそれがやめる≠ノ繋がるの。
 だって、好きだ。好きだ好きだ好きだ! 大好きだ!! 

 私は思考停止の恋愛脳で悲劇のヒロイン気取り。だから一生この恋に固執していく。他の奴を好きになる幸せ≠ネんか、熨斗つけて送り返してやる。ていうか絶対振り向かせるし、

『赤音さん! オレ…一生好きだから!』 

 でも、諦めないけど、でも万が一、両思いになることなくても、
 
 ――でも、

「私からココを奪おうとする奴は、全員殺す!!!!!!」

 突然仲間の股間を蹴り続ける女の登場に呆気にとられていた男達ははっと我に返り、慌てて私を引き離しにかかってきた。強面の男達に距離を詰められ、普段なら臆するところだけど、怒りに魂を支配されている今は全く怖くない。手首を捕まえられてもじたばた暴れた。

「離せクズ!! 死ね!! 全員死ね!!」
「っいい加減にしろ!!」

 男の拳が大きく振り上げられた次の瞬間、叩きつけられる。横っ面に拳がめり込んだのがわかった。
 
 頭の中で脳みそがぐわんぐわん揺れている。

 下半身が感覚を失うと、よろめき、立つことすらままならない。バランスが崩れると足元がふわりと浮かんで、

 ガツンッと後頭部に強い衝撃が走った。

 頭蓋骨を裏側からハンマーで叩かれているような激痛が熱と共に襲ってくる。目の前はチカチカと高速で白黒に点滅していた。

「――篠田」

 目を大きく見張らせているココが、茫然と私を見ている。いつもの冷静で取り澄ましたココはいない。

 そういう顔、私にもできるんだ。

 薄れゆく意識の中、珍しい事もあるんだなと思う。目蓋がひどく重い。耐え切れずに下ろすと、意識は深く深く奥底へ潜りこむ。いつのまにか白黒の点滅は黒の割合が多くなっていた。

 視界が真っ黒になる。
 乱暴に電源を落とされたテレビのように、私の意思は消えた。


 

 



- ナノ -