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まるでカメラがシャッターを切るみたいだった。
リンチの主犯格の股間を執拗に蹴り続けていた篠田が引き剥がされて、横っ面をぶん殴られる。下半身のバランスを失った篠田が背中から倒れていく様子は、カメラがシャッターを切るように、コマ送りで流れていった。
後頭部の位置は、花壇を囲んでいるブロックの隅だった。
ガツン、と鈍い音が鳴る。篠田は目を見張らせた。
さっきまで、一秒前までうるさかった声が止む。糸が切れた人形のように、動かなくなった。
「え、うわ、マジ?」
「死んだ?」
嬉々としてオレを殴り続けていた男達は興味深そうに篠田に群がった。
「やっぱ顔いーなコイツ。イカれてっけど」
男がしゃがみ込んで篠田を見下ろす目に、下卑た色が宿る。
うなじ辺の皮膚がぞわぞわと蠢き、頭の奥が一点火を灯されたように熱くなった。
首を前に振ってから、思い切り後ろに後頭部叩きつける。「ってぇ……!」と悲鳴が上がると羽交い締めにする力が弱まった。その隙をついて、篠田に触れようとしていた男を蹴り飛ばす。
「げ……っ」
「まだ動けんのかよテメェ……!」
そうだ動ける。動けるけど多勢に無勢でオレに勝ち目はないから無抵抗で殴らせてやった。目を見れば殺し≠ノ手を染められるかどうかはわかる。こいつ等の品のない目つきはクズさは滲み出ているが、殺しに手を染めるその粋までは達していなかった。
複数人相手に一人で抵抗したって無駄だ。今日は大人しく殴られるが、コケにされっぱなしは癪だし、妙な勘違いを起こしてオレを良いように使ってくる危険性がある。全員の顔をインプットしまた後日礼をしてやる……と殴られながらも冷静に段取りを立てていた。だから、全然平気だったのに。
馬鹿女、マジふざけんな。
荒い息を吐きながら、今にも崩れ落ちそうな足を踏ん張らせる。ふざけんなよ。オマエがしゃしゃり出なかったらこんな無駄な労力使わず済んだのに。計画がおじゃんだ。理解に苦しむ。喧嘩慣れした数人の男に一人でしかも女が突っ込んでいくとか頭沸いてんじゃねえの。脳味噌あんのかよ。どうこうできるわけねえだろ。
相手と自分の力量の差がわからないほどオレは馬鹿じゃない。
篠田みたいな馬鹿じゃない。
『私からココを奪おうとする奴は、全員殺す!!!!!!』
「コイツに手ぇ出したら全員殺す……!!」
馬鹿じゃなかった、のに。篠田に感化されているのか、できもしないことを口にしていた。
ピクリとも動かない篠田の前に立ちはだかって息を切らしながら凄むと、男達の顔が一瞬強張り固まったその時。
「逃げんぞ九井!!」
知らない男の声に呼ばれた。驚いて振り向いた先では、同年代の男が篠田を抱えあげている。誰だコイツ、いやどこかで見覚えが……ってんなことどうでもいい! 絶体絶命のピンチに現れた突然の来訪者を好機と捉えることにし、男の言うまま駆け出そうとしたら、「ふざけんじゃねえ!」と肩を掴まれた。チッ! と舌打ちが漏れる。
「離せク、」
「離せクソ」
今度は聞き覚えのある声が聞こえた。ガキの頃からずっと聞いている声はすんなりと耳に馴染む。
「ココわりぃ、遅くなった」
イヌピーは真顔で「よ」と言わんばかりに手を挙げる。足元には白目を剥いた男が寝転がっていた。
「三ヶ月前に賞味期限切れた牛乳飲んだら腹壊してさ……下痢してた。わりぃ。今仇うってやっから」
「それどころじゃねえよ! はやく病院行かねぇと!」
「あ? 誰だテメ……え」
イヌピーは目を細めて切羽詰まった声をあげた男を疑わしそうに見据えると、気絶している篠田の存在に気付き、目を丸くした。篠田を毛嫌いするイヌピーも気を失ってぐったりしている篠田に、心配までいかなくても何か思うものがあるらしい。
それもそうだ。今の篠田はいつもと全然違う。普段ピンクに彩られている篠田の頬から色が抜け落ち、病的なまでに青白くなっていた。目蓋を下ろしてだらりと力が抜けきっている様は、まるで、
まるで、
まるで、
――ウー! ウー!
はっと我に返ると、サイレンのけたたましく焦燥感に溢れた音が鼓膜の中に飛び込んできた。「げっ、サツかよ……!」「逃げんぞ!!」と慌てふためく声が次々に上がり、慌ただしく駆け出していく。
「よかった、来てくれた……! ぅお!」
男が強張っていた頬を安堵でほっと緩めた瞬間、気も緩んだのだろう。篠田が腕から零れ落ちそうになった。篠田は華奢だが完璧に気を失っているから体に力が全く入っておらず、普段より重たくなっているに違いない。
男は「よっ」と呟きながら篠田を抱き直した。青白い顔が男の胸に預けられ、二人は密着する。
篠田は、男が嫌いだ。本人は全然余裕と強がっているが基本的に殆どの男が生理的に嫌いだ。好きな子イジメという低俗なからかいを受け続けた弊害。
そう。だから、これは単純な人助けのようなもの。
「ソイツ貸せ」
篠田はオレ以外の男に触られんの嫌がるんだから。
「え。いいよ、九井すげぇ怪我してんじゃん」
よくねぇから言ってんだよ。男の物分りの悪さに苛立ちが沸き上がる。起きた時オレ以外の男がベタベタ触ってたら絶ッ対ェうるせえんだよ、ソイツ――それに。
すうっと細めた目で男を見据えながら、単なる事実を告げる。自然と冷たい声色になっていた。
「人の女にベタベタ触んな」
オレと篠田は別れ話をしていない。だからただの純然たる事実。それ以上でもそれ以下でもない。だが事実は事実。
一応自分と付き合っている女が他の男にベタベタされてんのは、体裁が悪い。
ポカンとしている男から半ば強引に篠田を剥ぎ取る。何度か触れたことのある柔らかく吸い付くような肌は暖かかった。ココ、としょっちゅう腕を絡めてきたのを思い出す。
生きている。生きてる生きてる生きてる。
心のなかで事実を復唱すると、胸を切るような何かが込み上げてきた。心臓がぎゅうっと絞られているみたいに痛い。
オレとイヌピーと男――高梨は警察に事情聴取されることとなった。とは言っても、オレの場合ほぼ取り調べ。黒龍に入っていた頃しょっちゅうオレとイヌピーを追い回していた少年課の刑事に「よぉ、久しぶり〜。今回は傷害か〜」とハナから疑ってかかられる。刑事はオレとイヌピーとオレをリンチした奴等が仲間割れを起こし、高梨と篠田はそれに巻き込まれた被害者として捉えていた。今回はガチで被害者だっつの。何言っても信じてくれないので黙秘権の行使に移る。
だがその前に聞く事がひとつだけあった。
「相変わらず小賢しいクソガキだな……。オマエらとの鬼ごっこオレは永遠に忘れねえからな。高速ノーヘルで走りやがって……」
「篠田は」
「あ゛?」
「篠田は今どうなってる」
「ああ、あの女の子か。知らね」
すっとぼけた顔でしらばっくれる刑事をぶん殴りたい衝動に駆られたが公務執行妨害を取られる訳にはいかない。別件で逮捕してから本題の逮捕にこぎつけるのが刑事のやり口だ。芋づる式に今までの件を詰めていこうという算段が透けて見え再び黙秘権を使う。
欲しい情報は手に入れられなかったが、でも、ある意味丁度よかった。
何も話したくなかった。
血色の乏しい顔つきで目蓋を静かに下ろしているアイツの顔を思考から弾き飛ばす。だって考えたってどうしようもない。アイツが担ぎ込まれた病院の医者が今最善を尽くしているだろう。オレにできることはなにもない。
『……赤音が……』
イヌピーの涙声が脈絡なく脳裏に浮かび上がると、胸が裂けて粉々に細かく飛び散り、冷え冷えとした風が吹き散らしていくような感覚を覚えた。連なるように、篠田の生気に乏しい顔がフラッシュバックする。透明の蔦が足元に絡みついてオレを深い穴底へ引きずり込もうとしているみたいだった。
これ以上考えたって無駄だと頭では理解している。
だけど、でも、どうしても。
気付かれないように小さく深呼吸し、心を遠くに置いて、無≠ノする。感情を押し殺すことは得意だ。昔からずっと。一時の感情に振り回されるなんて馬鹿のやること。
「おい。おい九井。……ったく、相変わらず可愛げのねぇガキだな……あの好青年の爪の垢を煎じて飲ませてもらえ」
だから考えない。これ以上考えない。
これ以上思考を巡らせたら、どうしようもないもしも≠ノ行き着いてしまう。
もしもの世界なんて、オレは知りたくない。
だからただ時間が流れるのを待つ。
金稼ぎに没頭することであの人のことを考えずに済んだ頃のように、ただ、時間が経つのを待ち続けた。
「九井」
警察署を出るとあの好青年≠アと高梨に声を掛けられた。洗剤のCMに出てきそうな爽やかな風貌はオレの周りにいる男達からかけ離れている。物珍しさからパンダを見るように眺めていると、高梨は爽やかな顔立ちを痛ましげに歪めて近寄ってきた。
「お疲れ。長かったな。九井怪我してんだし明らかに被害者なんだから早めに切り上げてくれたらいいのに」
「元族にンな甘ぇ事考えてるようじゃ刑事つとまんねえだろ。日本終わるわ」
労わりに満ちたお優しいお言葉は胸焼けするほど甘く、辟易する。思わず小馬鹿にすると、高梨はきょとんとした。
「? でも今は違うんだろ? じゃあ、やらないじゃん」
澄んだ瞳で当然の如く言い切る高梨は、夜だというのにきらきらと眩しい輝きを放っていた。あまりの眩しさで目が爛れそうになる。皮肉に吊り上げた口元を強張ったのを感じた。
パトカーの中で『オレ、高梨っていうの。九井と乾と同中だよ』と自己紹介を受けた時、ああそういえば……と記憶の底が揺らいだ。ろくに中学に行かなかったオレですら聞き覚えと見覚えがあるから、相当目立っていたのだろう。爽やかな顔立ちから女ウケが良い事もわかる。
「乾はまだかな。何聞かれてんだろ。助けに来てくれただけなのに」
「昔の事根掘り葉掘りからのイヌピーぶち切れで長くかかってんじゃね」
「昔の事って……ああ、黒龍の時の?」
「そ。てか黒龍って、オマエみたいな良い奴≠ワで知ってるくらいなんだな」
良い奴≠ノイントネーションを置いて煽るように喋る。高梨といるとどうしてだか篠田を抱きかかえている光景が脳裏にちらついて、無性に苛立った。良い奴≠フ仮面を引き剥がしたいという衝動が腹の底で渦巻いていた。引き剥がしたところでオレにメリットなんてひとつもないのに。
「や、九井が入ってたトコだから知ってただけだよ。篠田の好きな奴だから興味あったし」
「何、アイツに惚れてんの?」
「うん」
茶化すように尋ねたオレとは対照的に、高梨は真剣にでもあっさりと頷いた。何も躊躇っていなかった。歯切れの良い口調は清々しいもののはずなのに、何故か覚えた居心地の悪さを「へえ」と笑ってみせる事で押し隠す。
「アイツ、顔はいいもんな」
「あーみんなそれ言うな」
オレは違うけど≠ニいう他人と自分の差別化を図った含みのある言い方が癇に障った。
篠田のことはオレのがわかってる
とマウントをとられたような不快感。
「他になんかある?」
苛立ちを露に尖った声で問いかける。だが高梨はビビることも気分を害することもなく、「確かに可愛い顔してるけどさ」とさらりと答えた。
「でも可愛い子ってたくさんいるじゃん。だから正直可愛いのはへぇーくらいしか思わないんだけど、
篠田って、超インパクトのある性格してんじゃん?」
『私からココを奪おうとする奴は、全員殺す!!!!!!』
整った顔立ちを歪めながら、額に青筋を立てまくってぶち切れている篠田がフラッシュバックし、深い納得と諦観が、胸の奥底まで染みわたった。…………アイツ…………なんつーか…………。
「篠田変わってなかったなぁ。オレがビビって警察来るまで待っとこ! って必死に止めたら『っるっせぇ! 邪魔なんだよ!』ってカバンで殴りつけてきて。相変わらずのゴーイングマイウェイ」
「……何やってんだあの女………意味わかんねぇ……」
馬鹿過ぎて頭が痛い。ズキズキと痛み始めたこめかみを抑えながら、瞑目した。
女が一人で喧嘩慣れしている男に立ち向かっても勝てる要素ゼロだ。高梨の言う通り、警察来るまで待つ方がどう考えても得策だというのに、制止を振り切って飛び出てぶん殴られて気絶とか愚の骨頂。
馬鹿過ぎて、あまりにも馬鹿過ぎて、どす黒い苛立ちが蜷局のように腹に蟠る。不快感から息を吐いた。
『ココ、何読んでるの?』
篠田麻美という女は、オレにいつも軽蔑と苛立ちをもたらした。
赤音さんが亡くなった後も金稼ぎに固執し経済書を読み込んでいるオレに、図書館には場違いな華やいだ声が降ってきた。焦点を合さずともわかった。恋愛脳で女のサル山の大将の篠田麻美という馬鹿女。元々どうでもいい存在だったけど赤音さんが亡くなってからは更にどうでもよくなった。
どうでもいい存在に返事するのも煩わしく無視すると『ひどぉーい』と甘ったれた声が返ってきた。椅子を引く音が続く。
『難しそう、私全然わかんなぁい。てゆーかまた学校休んだでしょ! 駄目じゃん! ココんちにプリント持ってった時にココのお母さんと話したんだけど超心配してたよ!』
鳴き喚いている小型犬の方がまだマシだ。黙るか死ぬかどっちかにしてほしい。
『ねぇココ。今度、』
『あのー……お嬢さん? ここ図書館なの。静かにね?』
案の定べらべらまくし立てていた篠田は司書に咎められた。自分が悪いというのに、篠田は膨れっ面で不機嫌になる。『ウッザ。ちょっとくらいいいじゃん』とふてくされていた。少し黙ってから席を立つ。そしてファッション雑誌を持って戻って来た。
まだ居座る気かよ。
これだけオレに無視られているというのに、それでもしつこく固執する。
篠田は無意味な行為を繰り返し続ける、馬鹿で、しょうもない。
『私からココを奪おうとする奴は、全員殺す!!!!!!』
どうしてオマエはいつもそんな馬鹿なんだよ。どうして無意味な事ばっかすんだよ。勝てる訳ねえだろ。
オマエの事好きじゃねえつってる男のことなんか、
「大丈夫だって九井!」
突然、高梨がオレの両肩を強く掴んだ。泥のような何かに沈み込んでいた思考が鮮明になり、はっと我に返った視界の中で、高梨が真剣な顔で必死に言い募っていた。
「刑事さんから篠田はまだ目を覚ましてないって聞いたんだけどさ、でも、でも……っ、大丈夫だよ!」
高梨は苦痛そうに眉を八の字に寄せてから鼓舞するように、右手をぎゅっと握りしめた。
「オレ達の好きな子は、すっげぇタフだから!!」
……………………だから。
イヌピーに引き続きコイツもか。一日に二回も同じ誤解を受けてるオレの身にもなれよ。
「うん、そうだよ。篠田なら大丈夫……! 絶対そうだよ……!」
高梨は、自分自身に言い聞かせる意味も含めてもう一度同じことを唱える。ぎゅっと握られた拳が細かく震えていた。
……コイツ、マジで篠田に惚れてんだな。篠田への切々とした思いに当てられ、何とも言えない感慨が沸き上がる。
数年前の、赤音さんに惚れているオレもこんなんだったんだろうか。
その人のことになると余裕が消え失せて、狼狽えて、どうしていいかわからなくなる。ガキの頃から要領のいいオレは何でもそつなくこなせた。だけど赤音さんのこととなると駄目だった。
そうだ。恋ってそういうもの。
だからオレの篠田への思いは、
「だから九井もそんな思いつめた顔すんな!」
………………だーかーらー……。
訳の分からない世迷言を再度ぶつけられて、肩から背中にかけてどっしりと疲労感がのしかかり、はーーっと盛大にため息をつく。だが高梨はオレの溜息を全く意に介さず、ひとり安心したようなそれでいて寂しそうな微笑みを浮かべていた。
「篠田よかったな。九井とようやく両思いになれて……」
「……待て」
「正直すげぇ寂しいけど、でも、オレやっぱ篠田には幸せになってほしいし、篠田は九井の傍にいる時が」
「待てって。なんでオレが篠田に惚れてるって考えになんだよ」
当然の疑問を投げかけると、高梨はきょとんとした。そして1+1は何になるでしょうかと問いかけられたような、そんな顔つきで答えた。
「だって九井、篠田に手ぇ出したら全員殺すっつってる時の顔、すごかったよ。篠田に負けてなかった。篠田と同じだった」
篠田と、同じ。
非力なくせに『私からココを奪おうとするやつは全員殺す!!』とギャンギャン吠え立てる馬鹿女と、同じ。
顔以外何も取り柄がない、あんな奴と。
「さっきも言ったけど、オレ、篠田の顔は可愛い顔してんなーくらいにしか思わないんだけど、
……でも九井と一緒にいる時の篠田の表情とか仕草とか、そういうトコは可愛いなって思った。ホントに好きなんだなって、伝わってきて。
……あーあ! オレが失恋するのって最初から決定してるみたいなもんだよなー! 九井マジ羨ましい!」
高梨は寂しそうに微笑んでから大仰におどけてみせるが、高梨の言葉はオレの耳から耳を通り抜けていった。だってコイツが篠田に振られようが振られまいがどうでもいい。それよりもオレの気持ちを曲解していることが問題だ。
そう言いたい。そう説いてやりたい。
だけど。
『ずっと強請るから。あんたがどうなろうと、私はこれからも変わらない。ずっとこのままだから』
『私は代用品なんか立てない! ココが死んだとしても、絶対立てない! アンタが死んだら墓暴いて骨盗んで今度こそ私のものにする!!!』
『いつにする? いつでもいいけど! はやく行きたいね、楽しみだね!』
だけど、なんでか、篠田との綺麗でも何でもない取るに足りない思い出がこびりついた脳味噌が、否定の声を発することを拒否している。
そんな訳ない。違うと言おうとしたら、殴られた際に切れた唇の端が更に切れた。思わず「っ」と吐息混じりに呻くと、高梨が眉を八の字に寄せて「九井、大丈夫?」と心配してきた。
「超殴られてたもんな……。ゴメン、オレ、ビビって、助けに入れなかった。警察来るまで待てばいいって思ってた」
「オマエ喧嘩したことねーだろ。それが普通だから」
髪型も服装もすれたところが見えない。育ちの良いちゃんとした%zだって事は見ればすぐにわかる。そんな奴がしゃしゃり出てきても無意味どころか邪魔なだけ。つーかコイツ良い奴過ぎて話すの嫌になってきた。無免もノーヘルも恐喝もやらない真っ当≠ネ世界で生きてきた同年代の男との接し方とかイマイチ掴めないし。高梨の爽やかかつ真っ当さ加減に辟易していると。
「あのクソ刑事……いつまでもいつまでも疑いやがって……チッ」
だぼだぼの蛍光色のジャージを肩からずりさげているイヌピーはかったるそうにうなじを掻きながら警察署から出てくると、忌々しそうにぺっと痰を吐き捨てた。それやめろといつもなら眉をひそめるが今はホッとした。あまりのガラの悪さに逆に心が洗われる。
「あ! 乾! さっきは助けに来てくれてありがとう! ホントに強いんだなぁ。オレも見習わなくっちゃ」
「………………オマエ洗剤のCM出て柔軟剤入れてないとか言ってたりする?」
「出てないよ。あはは、乾は面白いなぁ」
高梨は爽やかに笑うと「じゃーな!」と手を振り、去って行った。向かう先は自分の家だろう。誰にも後ろ指をさされることのない生き方をしている高梨は、生まれ育った自分の家へ帰り、明日には普通に高校へ向かう。
爽やかで優しい。そんな奴に惚れられるという奇跡を、あの馬鹿はドブに捨てる。
「あいつ篠田のこと好きなんだって」
高梨が去って行った方向を眺めながらそう言うと、イヌピーは「趣味悪」と即切り返してきた。速答っぷりからイヌピーの篠田嫌いが伝わってきて笑う。
「だよな。なぁイヌピー」
「なに」
小さく息を吸ってから、何気なく尋ねてみる。
「オレ篠田が好きなんかな」
篠田への気持ちを好意として言語化したら、胸の中で奇妙な静けさが波紋を広げていった。
赤音さんの時は好きだ≠ニ認識する度に、胸がぎゅうっと締めつけられてだけどそれでいて幸せな気持ちになったというのに。
「好きになる理由、全然ねえけどさ」
実感が沸かない。ピンとこない。だって別にアイツに笑っててほしいとか思わない。幸せだって願ってない。一生かけて守るとかも思わない。
むしろ真逆だ。
篠田の狼狽えている顔やオレの事でキレてる顔のが見応えを感じる。キスの時の酸素を求めて息苦しそうな顔の方がぞくぞくした。
篠田といると、灼け付くような加虐心が胸の奥でひりつき始め、エゴに塗れた独占欲が心を支配する。
全然綺麗な感情じゃない。そんなの恋と呼べるんだろうか。呼んでいいんだろうか。
オレはアイツのために四千万稼ごうと決意できるんだろうか。
イヌピーはいつもの仏頂面のまま、オレに焦点を合わせた。赤音さんに似た面差しで、イヌピーは淡々と言う。
「ココってハンバーグとかラーメン好きなんも理由あんの?」
「………………今食いモンの話ししてねぇんだけど」