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 かの人の御代はりに、明け暮れの慰めにも見ばや、と思ふ心深うつきぬ。
(「あのお方の代わりとして、毎日の慰めに見たいものだ」という考えが、強く起こった。)
              ――源氏物語『若紫』


 
 ――バタン!
 ドアを勢いよく閉めると、背中をドアにくっつけながらズルズルと崩れ落ちた。はあはあと息切れしながら、熱い瞼をぐいと拭った。だけどそれでも涙は止まらない。拭っても拭っても、溢れ出てくる。

 私を追いかける声はあった。だけどそれは花垣君のものだった。ココのものじゃなかった。追いかけてくれなかった。
 走って私を呼ぶ事すらしない。
 赤音さん≠フ為なら、四千万稼ごうとするくせに。

「……っ」

 悲しみと怒りがぐちゃぐちゃになって胸の中に混在している。歯を食いしばりながら熱く息を吐いた。
 
 やっと私の事好きになってくれたと思ったのに。本当に、本当に本当に嬉しかったのに。毎日寝る前に『私はココの彼女なんだ』と胸の内で唱えると、きゅうっと胸の奥が締め付けられて、それから少しだけ泣いた。毎日ココが私に言ってくれた言葉やしてくれたことを思い返した。どっちのワンピが似合うか訊いたら少し考えてから『そっち』って選んでくれたこととか、どっちを食べようか悩んでいたら『余ったら食ってやるからどっちも頼めば』と言ってくれた事とか、ああ、でも、そうだね。

『一生守る!』

 赤音さん≠フ時と違って、私には、いつも冷静だったね。

 小学生の頃、友達に『麻美ちゃんとココお似合いだよ!』と持ち上げられたり、自分の都合の良い方に物事を解釈する癖が強い私は、ココも私のことが好き≠ニいう根拠のない妄想に憑りつかれていた。あの頃と何も変わっていない。少し頭を冷やせばわかることだった。

 あの人に向けていた熱く真摯な眼差しを、私には、一瞬たりともくれなかった。

「――麻美?」

 ふと、上から聞きなれた声が降ってきて顔を上げると、そこにはお姉がいた。七つ年上のお姉は独り暮らしをしているけど、結構頻繁に家に帰ってくる。お父さんは出張中、お母さんは友達とライブに行っていたから、今日は家に私とお姉の二人だけだった。

「え。なに。どしたの。超泣いてんじゃん」

 身内の驚きの声に、固く強張っていた心がしゅるしゅると解けていく。ひくっと嗚咽を震わせると、ぷつんと理性を繋ぎとめている糸が途切れた。

「う、うあ、うわぁああああああん!!」
「え、ちょっ、うわアンタ鼻水…………!」

 泣きじゃくっている私に辟易しながら、お姉は私をリビングに連れて行った。二人で並んでソファーに座る。嗚咽を上げながら、お姉にすべて話した。

 ずっと好きだった人とやっと付き合えたこと。
 でも好きな人は私の事別に好きじゃなくて『許容範囲だから』付き合っていたということ。
 好きな人は、本当に好きな人にはもっと真剣になること。
 プロポーズまですること。
 私ばかり好きだったこと。

 嗚咽混じりに切々と悲しみを訴える実の妹に、お姉は言った。

「ふーん」

 ソファーに座って足を組みながら、そう言った。それだけ言った。

「…………は?」
「は? ってなに」
「お姉、私の話聞いてた?」
「ちゃんと聞いたからふーんって言ったんじゃん。要するにアンタのが彼氏好きって事でしょ。それが嫌ならやめればいいじゃん」

 私の切実な問題をお姉は『やめればいいじゃん』とあっさりと切り捨てた。開いた口が塞がらない。

「それができないからこんな泣いてんじゃん!! 私、何回も諦め………、」

 諦めようとしたまで言いかけて、はたと止まる。自分自身の行動を振り返ってみた。

 ココを嫌いになろうとしたことはあった。
 けど、ココと関わりを持つのをやめようとしたことはなかった。
 どういう形であれ、私は常にココに関与しようとしていた。

 黙りこくった私を一瞥すると、お姉はパンと両手を合わせた。

「はい、諦めよ。次いこ次」
「はぁ!? 無理に決まってんでしょ!」
「まだやってもないじゃん。ソイツ以外にも男はいんだから」
「ココ以上の男なんていない!!!」

 ヒステリックに声を荒げると、お姉は「ココォ?」と眉を潜めてから思案するように首を傾げ、目を丸くした。

「え、ちょ、ココって、もしかして、麻美が小学生の時遠足の写真全部買った男の子?」

 小学生の時、ココが映っている遠足の写真全部欲しいと親にねだったことをお姉はまだ覚えていたようだ。憮然として「そうだけど」と頷くと、
 
「えー! まだ好きとか! しつこ!!」

 素っ頓狂な『しつこ!!』は漬物石のように私の頭上に深く振り下ろされた。ただでさえ傷ついているというのにどうしてこの女は更に傷口に塩を塗りたくるような事ばかり言うのだろう。怒気を露に憤然と「ちょっと!」と噛みつく。

「何その言い方! しつこいじゃなくてい・ち・ずなの!!!」
「あのね、麻美。世の中には事実しかないの。それをどう受け取るかは聞き手の自由な訳よ。アンタが小学生の時からココ≠好きっていう事実は私にはしつこい≠ナしかない訳。
 つーかココってプロポしたんだ。ガキの分際で」

 お姉がふんと鼻を鳴らした瞬間、目の前が真っ赤に染まる。

「いるよねー、なんの経済力もないくせに守るとか言う奴。生きてくいくには金がいるんですけどって話」

 一瞬で、怒りが最高潮まで達した。

「ココを馬鹿にすんな!!!」

 ソファーから立ち上がってお姉を怒鳴りつける。怒りが全身を貫き、身体がわなわなと震えていた。

 ココがあの人にプロポーズした場面は、私にとって悪夢でしかない。いや悪夢ならまだよかった。けどあれは紛れもなく現実。頬を赤く染めながらいっぱいいっぱいになってあの人にプロポーズするココを思い出すだけでの喉の下がぎゅうぎゅうと膨れて、胸の中に重たい膜が垂れたみたいになって、呼吸ができなくなる。
 
 好きな男が私以外の女にプロポーズしている。地獄のような光景。
 だけど、でも、それでも。

「ココは真剣に言ってたんだから!! ちゃんと、ちゃんとあの人、大切にしようとして言ったんだから!! ガキの分際じゃねーよ!! ココ、頑張ってたもん!!」

 ココは赤音さん≠ノ真剣にプロポーズしたとい私に苦しみしか与えない事実を、何故か私はお姉に息を切らしてまで怒号混じりに伝える。こんなこと、わざわざ言いたくないのに。ココが赤音さん≠好きだったことなんか私に何の幸せももたらさないことを、何故か声に出していた。案の定、心臓に亀裂が入ったような痛みを覚え、涙腺が刺激される。肩を怒らせながら吐き出した息が、唇から肺を一斉に焼いた。心臓が燃えるように熱くて、痛い。

「頑張ったし、ココ、頑張ってたし、赤音さんの火傷、なんとかしようとして……!」
「……あかね?」

 私の剣幕に呆気に取られていたお姉がようやく反応した。けど頭が怒りで沸騰している私はお姉の変化を取るに足らないものと見なしこのクソババアと罵ろうとした時だった。

「あかね、って、赤音? 乾赤音?」

 お姉からその名前が出てくると、怒りで煮えたぎっていた頭が急速に冷えて行った。どうして、お姉がその名前を。眼球の周りの筋肉が硬直し、固く強張った眼差しで茫然と凝視する。

「……ビンゴか。そっかー……へぇー……あの少年、乾さんをねぇー……」

 お姉は数度顎を引いて頷きながら、しみじみと呟いた。赤音さん≠乾さん≠ニ呼ぶことから、お姉と赤音さん≠フ関係性が知人のものであることに気付く。そういえば、お姉が中三の時赤音さん≠ヘ中一だ。

「……お姉、あの人と喋った事あんの」
「ないよ。けど知ってる。入学してきた時、男子超沸いてたし。私ん時ほどじゃないけどね」
「聞いてねえよ」
「麻美」

 無駄にプライドの高いお姉の発言にツッコミを入れると、やたらと真剣な面差しのお姉に厳かに名前を呼ばれた。私によく似た顔立ちのお姉は、一言一言に重みを籠めて言う。

「ココ≠ヘ諦めな。アンタの事、絶対好きにならない」

 一拍の空白が胸の中に垂れ込んだ。突き飛ばされたような衝撃を覚え、目を見張らせる。けど驚きはすぐに怒りに変わった。どうして何も知らないお姉にそんなこと言われなければならないのか。火柱のように怒りが燃え滾る。

「なんでお姉にそんなこと言われなきゃなんないの!」
「だって乾さん好きだったんでしょ」
「それがなに!!」
「麻美と正反対じゃん」

 お姉の声は私の心臓の奥深くまで刺さり、一瞬、呼吸の仕方を忘れた。息の根を止められたみたいだった。
 お姉はソファーに深く座り直し「人にはねぇ、タイプ≠チてもんがあんの」と諭しかけてくる。

「これから他の女好きになるとしても乾さん系列だよ、絶対。優しそうとかほわっとしてるとか、そういう感じの。はい、麻美と正反対。あんた今まで生きてきて一回でも『優しそう』とか言われたことある?」
「あ、あるにきま…………」
 
 ………………………………………………。

 今まで、耳にタコが出来る程見た目に関して褒められてきた。でも、可愛いとか綺麗とかスタイル良いとかは言われた事はあっても、優しそう≠竍ほわっとしてる≠ニ言われたことは一度もない。
 お姉は二の句が継げない私を一瞥し「うちらそーゆー女じゃないでしょ」としみじみと呟いた。

「服だって音楽だって好きな系統あんじゃん? それと真逆のものって好きにならないじゃん? それと一緒。麻美だって好きな男のタイプあんでしょ。その逆嫌いでしょ」
「そ、れは、」

 反論したい。わかったような口きくなと声を荒げたい。でもできない。
 その通りだと、理性は深く納得している。

「しかもさ、乾さん亡くなってんじゃん。もうね、乾さんはココ≠フ中で女神になってるよ。あれよあれ、源氏物語の光源氏といっしょ」
「……私古典苦手なんだけど」
「あーそっか。まぁ手っ取り早く言うと、初恋の女の藤壺をいつまでも引きずって、他の女に手ぇ出しながらもその女の影を永遠に追い続ける話。光源氏が次に執着すんのが若紫って言うんだけどその理由が『藤壺に瓜二つだから』なんだよね」

 大昔に書かれた架空の話など取るに足りないと切り捨てたいのに、心臓が締め付けられたみたいに苦しくて、声が出ない。縋りつくように胸元をぎゅっと掴むと、乾にキスしているココが脳裏に流れ込んだ。

 ココはあの人の欠片を乾から必死に見繕い、影を追っていた。

 乾は乾でしかなくて、男で、あの人じゃない。
 ココより遥かに偏差値の低い私ですらわかること。
 だけどココは私ですらわかる無意味な行為に、必死に、縋りついていた。

 ただ、一心不乱に、あの人を求めて。
 
「ココ≠ェ乾さん以外の人間を見る事があっても、どっかに乾さん要素を残した人間だよ。ココ≠フ中で恋と言ったら乾さんになってる。
 だから絶対に、麻美を好きになることはない」

 お姉はきっぱりと淀みなく言い切ると、立ち上がった。私の視界の隅で、お姉は冷蔵庫からオレンジジュースを取り出し、背を向けたまま喋り続ける。

「まぁそれでもいいなら付き合えば? うちのお父さんとお母さんもさぁ、お父さんのがお母さんの方好きだけどなんとかうまくやってるし。あーでも、女のが男好きでうまくいってんの私見た事ないわ。逆は結構見るけど。なんでだろうねー。でもそれが男女なんだろうねー」

 つらつらと喋るお姉の言葉を鼓膜は受け取らず、耳から耳を通り抜けていく。ケータイの内カメを起動し、自分の顔を真正面から見据えた。

 赤音さん≠フ顔はうっすらとしか覚えていない。確か乾とよく似ていた。

 自分の頬に触ると、画面の中の私も自分の頬を触っていた。虚ろな眼差しは、どこまでも続く深い穴を彷彿させる。

 余計な肉がついていない小さな顔の中に、たっぷりの睫毛に縁取られた大きな目、小さい鼻、血色の良い薄い唇が的確な位置に置かれている。この顔のおかげで、女同士が傷の舐め合いのように使う可愛い≠カゃなくて、本当の可愛い≠手に入れてきた。

 だけど、あの人には似ていない。ちっとも、少しも、全く。
 私の顔を見ても、あの人を見出すことはできない。

「私はおすすめしないけどね。追いかけてばっかの恋愛ってしんどいし」

 ジュースを注いだコップを二つ持って、お姉は戻ってくる。ひとつを私に渡そうとしたけど、私が受け取らなったから、ローテーブルに静かに置く。
 置かれた拍子に振動が走り、グラスの中で揺れているオレンジジュースを眺めながらぼんやりと思う。

「どれだけ尽くしても、めちゃめちゃ好きでも、好かれないものは好かれないし」

 お姉もあったのかな。

「好きになってくれた男選んだほうが楽だし、それに、幸せになれる。それだけは言える」

 私より数年長く生きている、お母さん曰く私より少しマシな気質のお姉は淡々と言う。

「原点の女は超えられないよ、絶対に」




 



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