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 ガキの頃、赤音さんに誘われて、赤音さんが通う高校の文化祭に行ったことがある。

「青宗! 一くん!」

 鈴を転がすような声を鼓膜が捉えた瞬間、心臓が大きく跳ね上がった。振り向かなくたってわかった。
 落ち着け、落ち着け。冷静に。バクバクと鳴っている心臓を宥めすかすように言い聞かせながら振り向いて「こんにちは」と挨拶する。

「こんにちは」

 赤音さんはオレの視線に合わせるように、少し身を屈めた。いつもより距離が近い。花のような匂いが鼻孔を掠め、胸の奥が甘ったるく切なげに疼いた。
 
「赤音、腹減った」
「はいはい。今たこ焼き食べさせてあげるから。こっちだよ」

 赤音さんは来て早々空腹を訴えるイヌピーに笑ってから、オレ達を誘導する。廊下を行きかう男達は明らかに赤音さんを意識していた。気にしていない素振りをしながらも実際は目の端で赤音さんをそれとなく捉えている奴。赤音さんが通った後隣のダチに「やっぱ可愛いよな」と耳打ちしている奴。睨みつけて牽制するもののオレよりも遥かに上背がある男たちはオレの視線など全く気にしていなかった。眼中に入っていない。だから、オレとイヌピーがいるというのに。

「ねぇ、君んとこのクラスの出し物なに?」

 平然とナンパすんじゃねえカス。

 赤音さんの高校の男の制服はブレザーだが、男たちは学ラン。赤音さんに馴れ馴れしく声をかけてきた男二人組は他校生のようだった。赤音さんは突然見知らぬ男に声を掛けられて困惑し、一拍遅れてからいつもより若干強張った笑顔を浮かべて「たこ焼き、です」と答える。

「マジ! オレすっげーたこ焼き好き! 作ってー!」
「ごめんなさい、私、今当番じゃないんです。この子達と回ってて……」

 男二人組がオレ達を観察するように見下ろした。見下ろされた事に怒りと羞恥心に似た悔しさが沸き上がる。

「コイツ等小5とか小6でしょ? 大丈夫だって!」
「ほら行こ!」

 男は笑いながら赤音さんの腕を無理矢理掴んだ。引っ張られてバランスを崩しかけた赤音さんは「きゃ……っ」と悲鳴を上げる。

 その瞬間、焼けた塊のような怒りが全身を貫いた。

「テメェ、何しやが――ココ?」

 イヌピーの不思議そうな声が、膜を隔てた向こう側にあるもののように聞こえる。怒りという名の膜で覆われたオレは、赤音さんと赤音さんに群がる害虫しか眼中に入っていなかった。
 赤音さんの腕を掴んでやがる男の手を強く掴み振り払う。赤音さんと男たちの間に割って入り、強く睨み据えた。

「赤音さん断ってんだろ。お呼びじゃねえんだよ、引っ込んでろ」

 声を低めて脅すように言うが、まだ声変わりは始まっていなかった。案の定中途半端に高い声は何の脅しもならないようで男たちは小馬鹿にしたように笑う。

「ボク寂しいのー? でもお姉ちゃん離れしようねー?」
「寂しいのはどっちだよ」

 ハンッと鼻で笑い返す。

「あしらわれてんのにしつこく食い下がってさ。超だせぇ」

 男達の顔色がさっと気色ばんだ。眉が吊り上がり「生意気なんだよ!」とオレの胸を強く押す。男達よりも一回り小さいオレは呆気なく吹っ飛ばされ、尻餅を着いた。

「ココ!!」 
「一くん!!」

 イヌピーと赤音さん同時に心配の声が降り注ぐ。有難いという気持ちよりも羞恥心が上回った。恥ずかしくて熱を帯びた顔を上げるのに躊躇していると「こらー!」と、野太い声が遠くから聞こえた。

「オマエら何やってる!」
「げ……っ」
「あーめんど! 逃げんぞ!」

 男達二人は慌てた声が聞こえ、顔を上げる。奴等は背中を向けて走っていた。

「ちょうどいい木の棒拾ってくるまで待てコラ……! あれがあったらオマエらなんて瞬殺なんだよ……!!」
「ふー……大丈夫か乾? というかこの乾によく似た少年は弟か?」

 額の汗を拭いながら赤音さんを案じるジャージ姿の中年男はこの学校の教師らしい。がるるると唸っているイヌピーをまじまじと見つめている。

「先生ありがとうございます、ふふっ、はい、私の弟です。やっぱ似てます?」
「似てるけど似てないなー。すげぇ物騒な事言ってるし。というか君、大丈夫か? さっき突き飛ばされてなかったか?」
「……大丈夫です」

 オッサンの気遣いに、のそりと立ち上がりながらぶっきらぼうに返す。赤音さんを守れなかった悔しさと恥ずかしさがオレを蝕み、心がささくれ立っていた。畜生、たかが数年早く生まれただけの分際でガキ扱いしやがって。つーかオレも簡単に押されんなよマジだせぇ、畜生畜生畜生……! なんで守れなかったんだよ……!

 体中の骨が悔しさでねじ切れそうだった。ぎり、と奥歯を噛んでいるオレの上でオッサンが「この子も弟か? いや従兄弟?」と呑気に問いかけてくる。
 赤音さんとオレの年の差を鑑みればオレ達の関係性は弟≠竍従兄弟≠ニ見なす方が妥当だろう。だが彼氏≠ニいう選択肢を鼻から度外視したオッサンの発言に胸がずきりと痛んだ。的外れじゃないと理解できているのに、心の中で全然似てねえだろオマエの目は節穴かと毒づく。

「いいえ」

 赤音さんは否定する。オレは弟でも従兄弟でもないから当然だ。
 オレにとって赤音さんは弟のダチ。それ以上でもそれ以下でもない。

 当然の事実を胸の内で言葉にし拳をギュッと握ると。

「私のヒーローです」

 心に一拍の空白が垂れ込んで、頭の芯まで真っ白に染まる。勢いよく顔を上げて赤音さんを見ると、視線がばちりと繋がった。赤音さんは照れくさそうにかつ茶目っ気たっぷりに笑う。

「さっき彼が、一くんが守ってくれたんですよ。先生」
「えっ、そ、そんな、オレ……!」

 あんなの全然守った%烽ノ入らない。ただ割り込んで突き飛ばされて尻餅ついただけだ。
 けど赤音さんはオレの反論をゆるやかに遮り「ううん」と有無を言わせないように首を振った。赤音さんは物腰柔らかいけど時々頑固だ。自分の意志を明確に持っているから、駄目なことは駄目ときっちり線引してくる。儚げな見た目に反し、流されずにしゃんとしている。そういうところも、好きだった。

「一くんは私を守ってくれたよ」

 赤音さんはきっぱりと言い切ると、オレに視線を合わせるように少し屈んだ。

「ありがとう」

 赤音さんは微笑んだ。目尻が優しく垂れ下がり、長い睫毛が瞳を覆っている。

「すっごくかっこよかったぞ!」

 赤音さんの弾んだ声が、耳の中に入って、心臓まで響いて、いつまでもいつまでも強く反響した。

 この後、オレとイヌピーは当番じゃない赤音さんにお礼だということでたこ焼きを作ってもらった。ベンチに三人で座る。赤音さん手製のたこ焼きは、木漏れ日を浴びてきらきらと輝いていた。

「どう? 美味し?」
「普通」
 
 口の周りをソースだらけにしたイヌピーがもっさもっさと頬張りながら答える。高校生の文化祭で作るたこ焼きだ。しょぼい材料でプロが作るものより美味く仕上げるなんて不可能。頭ではそう理解している。けど、美味かった。死ぬほど美味かった。でも胸がいっぱいでいつもより食うスピードが遅くなった。

「うん。確かに青宗の言うとおりだねー。普通ー」

 赤音さんはたこ焼きを食べ終わると屈託なく笑った。ピンク色の唇にソースがついていて、目で追う。柔らかそうな唇は、桜の花びらみたいだった。強く見ていたのだろうか、オレの視線に気付いた赤音さんが頬を赤らめてはにかむ。

 心が震える。胸の奥がきゅうっと疼いた。赤音さんに気付かれないように、そっと視線を偲ばせる。「青宗口ソース塗れだよ」と笑っていた。

 ずっと見ていたい。
 この人の笑顔を、誰よりも近くで見て、ずっと守りたい。
 そう、思った。

 







「あ、ココ君とイヌピー君」

 イヌピーとラーメン食いに行く途中、呑気な声に振り向いたら花垣と松野が立っていた。

「おう。…………オマエなんだよその面」

 よ、と手を上げたら何故か松野が苦々しい顔でオレを睨んでいた。二年前の騙し討ちをまだ恨んでんのか?

「なんだよ、じゃねーんすよ。あんたの彼女なんとかなんねーの」
「篠田なんかやってんの」
「毎日毎日毎日毎日ココ君との日々をブログよろしくオレに電話とかメールしてくんだよ」
「へー」
「へー……じゃねんだよ! なんとかしろ! ココ君がカレー二杯食おうが三杯食おうがどーーでもいいんだよ!!」
「そういや言いじゃん」
「言ったら泣かれんだよ!!」
「その調子であのクソアマ泣かせろ」
「イヌピー君ホントに麻美さん嫌いですよね……」

 イヌピーの篠田嫌いっぷりに引いている花垣を、イヌピーはじろりと睨む。

「たりめーだろ。つーかなんで花垣はあの女に甘ェんだよ」
「甘いっすかねぇ? まぁ麻美さん可愛いし。……え、イヌピー君のその目何? オレそんな不思議な事言った?」

 イヌピーは篠田を蛇蝎の如く嫌っている。花垣の『麻美さん可愛いし』がとにかく理解できないようで信じ難いものを見る目をした後、「不思議なんてもんじゃねえ」と厳かに言ってから、オレに含みある視線をちらりと寄越した。その目は『なんであんな女と付き合ってんのか』と物語っている。

「だから告られたんだって。イヌピーだって告られたんだから付き合ったんだろ」
「ココは食えって言われたら糞も食うのか」
「待ってくださいイヌピーの中で篠田さんウンコなんです!?」
「嫌いにも程があんだろ……」

 花垣と松野はイヌピーの篠田嫌いっぷりに引いていた。ややあってから花垣が「でも、その」とごにょごにょと切り出した。

「麻美さん、ココ君のことマジで好きなんすよ。なぁ千冬。さっきもさ」
「あー……」
「何、アイツと会ったん」
「本屋でばったり会ったんすよ」
「へー」

 篠田は『一秒でも離れたくないの』と言うだけあって毎日会いたがるが、今日は『用事がある』と言ってきた。篠田が本屋。珍しい。参考書でも買いに行ったんだろうか。篠田はこの前『ココ、勉強教えてぇ』と舌足らずに頼んできた。どこがわからないのか聞いたら『なにがわかんないかわかんない』と馬鹿丸出しの発言をかまされた。呆れて物も言えず、適当に流すことにした。頭に花が咲いている篠田は『ココはやっぱ頭いいね』と緩んだ頬を両手で包みながらオレの説明をアホ面で聞いていた。

「いやマジよかったっす。麻美さんの思い通じて。両想いになれて」

 花垣がしみじみと感じ入るように呟くと、イヌピーが顔をしかめた。マジ嫌い過ぎてウケる。

「イヌピーマジ篠田嫌いだよな」
「たりめーだろ。あの女のどこがいいんだ」
「あ、それオレも気になります! や、イヌピー君的な意味じゃなくて、今まで素っ気なかったのにどうして急にオッケーしたんすか?」

 花垣の質問にオレは答える。

「告られたから」

 さっきと同じ回答を繰り返した。

 花垣がぱちぱちと瞬きする。『え? そんだけ?』と言いたげな顔をしていた。

「とりま付き合ってみるってヤツ?」松野が聞いてくる。「そんなもん」と頷いた。

「別に好きとかじゃねえけど、まぁ心機一転するかってとこで告られたから付き合ってる」

 花垣と松野が何とも言えない表情を浮かべて、オレを見据えた。妙な沈黙からコイツ等が若干引いている事が伝わってくる。不誠実だと詰りたいのだろうか。別にコイツ等に軽蔑されてもいいが、そんな軽蔑されるような事でもなくね?

「オマエらだってあんだろ。告られてまぁイケるって思ってオッケーすんの。イヌピーだってそうじゃん」
「……あー……」身に覚えがあるらしき松野は数度顎を引いて頷く。
「まぁ……そうっすけど……。でも今は好きなんすよね?」

 好きかどうか。その問いかけに、オレは答える。

「いや?」

 付き合ってほしいと頼まれたら『付き合える』。
 ヤれるかどうかなら『ヤれる』。
 好きかどうかなら。
 
「へ」

 口を半開きにした花垣に、補足を追加してやる。

 篠田の声を聞くだけで心臓が飛び跳ねる事も、
 篠田の前では格好つけたいと思う事も、
 篠田の笑顔を誰よりも近くで見て守りたいと願う事も、全部、ない。

「好きじゃねえよ」

 それらの要素はつまり、オレが篠田を好きじゃないってこと。

「ココ、篠田に惚れてるんじゃねえのか。気ぃ狂った訳じゃなかったんだな」
「気ぃ狂うって」イヌピーの散々な言いように笑う。
「救いようのねぇ馬鹿女だろ、あいつ」

 やはり散々すぎるイヌピーの篠田評を受け、ここ最近の頭に花が咲いている篠田が浮かんだ。甘えた口調でねだってくる篠田は理知的≠フ理≠フ字もない。ウサギは寂しいと死んじゃうと信じられないほど馬鹿なことも言っていた。

「確かに」

 深く共感し、笑いながら同調した。

 ――ドサッ

 何かが落下する音が聞こえ、オレの向こう側を見ている花垣と松野の顔色が変わった。禍々しい殺気を感じ取り、一歩下がった瞬間に何かが高速で飛んできた。放物線を描いた後に地面に荒々しく落ちたそれは、青い表紙の英単語集だった。
 
 振り向いた先には、憎悪で目をぎらぎら血走らせている篠田が立っていた。

 うわー……。流石にタイミングが悪すぎて頬の筋肉が引き攣り乾いた笑い声を上げると、篠田の整った眉毛が更に吊り上がった。

「何笑ってんの!!」
「だってコレ最悪のタイミングじゃん。つーか用事どした? なんでここいんの?」
「ココが乾とラーメン食べに行くって言ってたから、いつものとこだと思って……! ていうかなに! なんでそんな冷静なの!! なんか、なんかないの!!」
「だってまぁ、事実だし?」

 視界の端で花垣がぎょっと顔を引き攣らせ、松野が「うわぁ……」とドン引きしていた。イヌピーは「いちいちうるせえ女だな」と毒づいている。イヌピーは好きな女以外には相変わらず厳しい。
 類は友を呼ぶって言葉を考えた昔の人間は観察力の鋭さに敬服する。オレもだからだ。
 オレも、好きな女には優しくしていた。

 篠田はデカい目を、眼球が零れ落ちそうなほど大きく見張らせた。ピンク色のグロスに彩られた唇を喘ぐように震わせて俯いた後、猛々しい怒りを籠めた目でオレを強く睨み、落ちた紙袋の取っ手を掴んでまた本を取り出し、次々と投げつけてくる。

「よけんじゃねーよ!!」
「当たったら痛ぇじゃん。落ち着けって」

 確かに好き≠ナはないし馬鹿にもしている。だが篠田といて気詰まりに思ったことは一度もないし会話もそれなりに弾むというか交わせる。篠田の根性には舌を巻いているし、それに、時々、時々、

『いつにする? いつでもいいけど! はやく行きたいね、楽しみだね!』

 少し思うもんがある。だからさっきの発言を全て丸のみされるのは少しばかり心外で、落ち着いて話し合いたい旨を何度伝えても、篠田はただただキレるばかりだ。
  
「ふざけんな!! よけんな!!」
「あー落ち着けって。話聞けって。おい篠田」
「うるさい黙れ!!」

 篠田が怒鳴った瞬間に薄く張っていた涙が崩れ落ち、頬を伝っていった。整った顔面が憎しみと涙でぐちゃぐちゃに崩れていた。

 大袈裟なんだよ。げんなりする。付き合いなんて、どちらも同じくらいの熱量で始まる方が珍しいだろう。どちらかがどちらかを見初めて口説く。口説かれた方は『イケる』と判断したら同意するし無理だったら断る。オレも『イケる』と判断したから乗った。それだけだ。
 篠田がどこどこ行きたいっつったら連れてってやってるし、荷物も持ってやるし、帰りも送っている。篠田以外に女も作っていない。彼氏≠ニしての義務はきっちりと果たしているのに、たかが好きじゃない≠セけでまるでオレが何股もかけているようにキレて大袈裟に喚き散らすとかマジだるい。額に手を宛てがいながら重く息を吐くと、篠田の肩が戦慄くようにびくりと跳ねた。ややあってから、拳に丸めた両手をわなわな震わせて、更に怒鳴り立ててくる。

「そうやって馬鹿にして……! ふざけんな!! ふざけんなふざけんなカス!! 馬鹿!!! カス!!!」 
「篠田てめぇココに喧嘩売るならオレが買うぞ」

 横から口を挟んできたイヌピーを、篠田は射殺さんばかりに睨み付けた。「あ゛?」と睨み返すイヌピーに一切気後れしない。自分より格下と見なした相手ならいびれるが、年少に収監された事のあるイヌピーに本気で睨まれたら『なにその生意気な目!』と怒鳴りながらも臆していた篠田が一歩も引いていなかった。猛々しい怒りが、篠田のデカい目の中で轟々と燃え盛っている。

「んだよ。言いたい事があれば言えよ」
「その顔で私に話しかけんな」
「あ゛?」
「うっさい!! 喋んな!!」 
 
 強く怒鳴ってから、篠田はオレとの距離を詰め胸倉を掴んできた。
 右手が大きく振りかぶられる。あ、はい。まぁ今回ばかりは甘んじて受け止めようと目を閉じる。だが、衝撃はいつまでも飛んでこない。
 
 目を開ける。視界の中で、篠田は俯きながら、骨をなくしたようにだらりと腕を垂らしていた。

 突然だった。
 予備動作無しだった。何の脈絡もなかった。

 茫洋とした声が、風に乗ってやってくる。

「どうしたら、」
 
 突然、燃え盛った炎が消えたみたいだった。篠田らしからぬ覇気のない生気に欠けた声に、思考が停止する。

「どうしたら、すきになってくれる?」

 俯いている篠田の頬から透明な雫が落ちた。雨のように、地面に吸い込まれていく。

 不意に『ココ』とオレを呼ぶ篠田が浮かんだ。なんだよと訊いたら『なんでもない』と笑う。

『呼びたかっただけ』

 デカい目を細めてピンク色の頬を緩めながら、嬉しそうに笑う。
 返事をしただけで、嬉しそうに笑っていた。

 ほんの一瞬ぼうっとした隙に、篠田は興味深そうにオレ達を見つめていた人混みの中に飛び込んだ。その時、本屋の紙袋が落ちた。紙袋から滑り出した中身を捉えた瞬間、全身が硬直した。

 北海道とか、京都とかのガイドブックが数冊床に投げ出されてる。付箋が何枚も貼られていた。

「篠田さん!!」

 オレが目を見張らせて固まっている隙に、花垣が篠田を追って雑踏の中に続いていく。一切躊躇わずに追いかけていった。あっという間に見えなくなる。
 
「追いかけねぇの」
「この人混みじゃ無理だろ。花垣もよくやる」

 人だかりを見渡しながら、松野の問いかけに答えた。うん。やっぱり無理だ。花垣と違い状況を冷静に把握できるオレは、今飛び込んだところで徒労に終わることを悟る。街は人でごった返している。この中に飛び込んでも篠田は絶対見つけられない。それに今の篠田とは冷静に話し合えない。オレも、少し動揺している。お互い頭を冷やしてから連絡を取り合うほうが効率的だ。
 だから今は駄目だ。今は。言い聞かせる訳ではないが、心の中でそう繰り返す。
 
 松野は少し黙ってから「あの人さ」と続けた。

「オレとタケミっちに修旅どこが楽しかったか聞いてきたんだよ。参考にしてぇっつってさ」
「へえ」

 相槌を打ったら、松野から鋭く尖ったオーラを感じた。ぎらりと睨みつけてから大仰にため息を吐き、肩を怒らせながら去っていく。あいつら、こういうことに潔癖そうだと察していたけど案の定か。東卍に潰されるまでの黒龍とか関卍の大多数は女を泣かせれば泣かせられただけ男の勲章的な考えのとこあったから新鮮だ。

「じゃ、行くかイヌピー」

 一連の騒動に披露を覚え食欲は萎えたが今更引き返すのもなんなので、ラーメン屋に促す。

「ココ」
「んー?」
「オレはアイツがどうなろうがどうでもいいけど」
「イヌピー、とことん篠田嫌いでホントウケるわ」
「ココは嫌いじゃねえんだろ」
 
 顔をイヌピーに向けると、イヌピーと視線が繋がった。イヌピーはじっとオレを見ていた。オレの奥底まで深く、見透かすように。

「嫌いじゃねえだけだよ」

 ふいと視線を反らし、舌を出して笑う。イヌピーはそれ以上何も言わず、代わりに腹を鳴らした。締まりない音に笑う。けど頬はあまり上がらなかった。

 

 



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