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篠田麻美は良く言えば恋する乙女。悪く言えば恋愛脳の馬鹿女だった。
一に好きな男、二に好きな男、三に好きな男。
別の世界線では『私ココがいないと生きていけない!』とメンタルがヘラった女代表例のセリフを平気で口にしていた。
そんな人間が長年袖にされ続けてきた男と付き合うようになったらどうなるかというと。
「だーーーれだっ」
浮かれポンチになった。
九井の背後に立った麻美は背伸びして九井の目隠ししながら甘ったるい声で尋ねる。対して九井は平坦な声で「篠田」と答えた。
「えー! 声だけでわかっちゃうんだー!」
「こんな(馬鹿な)事する女オマエしかいねぇんだよ」
「ふふ、そーだよね! ココの彼女、私しかいないもんね! てゆーか寂しかったよー! 会いたかった……!」
涙目の麻美は真正面に回り込み、九井にぎゅっと抱き着いた。九井は真顔で言う。
「昨日も会っただろ」
「一秒も離れたくないのー!」
「無理だろ」
「ココ、知らないの?」
麻美は九井から少しだけ体を離し、上目遣いで覗き込んだ。潤んでいるため、きらきらと輝いている。
「ウサギは寂しいと死んじゃうんだよ?」
実はこの場にいた乾は思った。ぶん殴りてぇ。ぶっ殺してぇ。
麻美は九井以外の男はアウトオブ眼中の為、乾は視界に入っていなかったが実はずっといたのである。麻美が『だーーーれだっ』と目隠しするまで九井と駄弁っていた。ちなみに三人は駅前にいる。顔面偏差値高い三人が集まると少し注目を浴びていた。あの女の子可愛いけどすげぇアホなこと言ってんな……。つーか女の子見る金髪の人の目付きヤバ……。殺意マックスじゃん……。
「オマエ人間だろ」
九井は冷静に突っ込む。麻美は「うん!」とにこにこ大きく頷いた。
「私ココの彼女だからね! そーだ! あのね、今日調理実習でクッキー作ったんだー!」
麻美はスクバから透明の小さな包装袋を取り出した。真っ赤なハートのシールで留めてある。
「愛情たっぷり籠めて作ったんだよ、美味しくなぁれ美味しくなぁれって」
「篠田テメェその気色わりぃ喋り方やめろ」
乾は吐き気を堪えながら言った。麻美の焦点がようやく乾に合わせられる。
麻美と乾は犬猿の仲である。とにかく仲が悪い。あまりにも仲が悪すぎて西小のトムとジェリーまたはハブとマングースと名付けられていた。せんせー! イヌピーと篠田がまた喧嘩してるー! また!? あいつ等仲良くとは言わんが普通に過ごせんのか……!
麻美は負けん気が強いかつ乾が嫌いだ。気色わりぃと言われようものなら目を三角に釣り上げて『はぁ〜!? 私のどこが気色悪いの!! 頭だけじゃなく目も悪くなったぁ?』と怒涛の勢いで捲し立ててくる。今まではずっとその対応だった。そう。今までは。だが今は違う。
「乾気持ち悪いの? 大丈夫?」
九井と付き合うようになって心の余裕が持てるようになった、今は違う。
麻美からゴキブリのごとく邪険な対応を取られ続けてきた乾は優しい労りの対応に戦慄を覚え、全身にぞわっと鳥肌が立ち上がった。込み上がる吐き気を抑えるように口元を手で覆う。うぷっとゲップを漏らした。
「ココ。オレ帰る。ここにいたら吐く」
言うが否や、乾は早歩きでその場を去った。声をかける暇もなかった。「お大事にー!」と乾の背中に手を振る麻美。九井は乾をなんかゴメン≠ニ罪悪感の籠もった目で見送ってから続いて麻美に視線をスライドさせた。相変わらず顔の周りに花が舞っている。相変わらず浮かれていた。
「大丈夫かなぁ。今度お見舞い行こうっと」
「やめろ」
更に乾の容態が悪化することを懸念し反射的に止めると、麻美は目をパチクリと瞬かせてから嬉しそうに綻んだ。
「もう! ココったらヤキモチ妬きなんだから!」
麻美は木にしがみつくコアラのごとく、九井の腕に腕を絡ませる。九井はいやヤキモチとかじゃなく……と思ったが訂正も面倒なので放置した。
九井と付き合い始めてから二週間。麻美は元々の恋愛脳に拍車がかかり、浮かれポンチとなった。
浮かれに浮かれた彼女はとにかく惚気、はしゃいだ。周囲に被害を与えるほどに浮かれた。
まず第一の被害者はナホコという少女。麻美が学校で一番つるんでいる人間だ。ナホコという少女は整った顔立ちをしている。そして華やかな空気を纏い、ノリと要領が良い。カースト上位者である彼女は友人と互いの恋愛の近況報告をし合うことが好きだった。だが自分が一番つるんでいる相手は告白してくる男を振って振って振りまくる。一度くらい試しで付き合ってみればいいじゃーんと言っても取り付く島もない。どうやら片思いの相手がいてずっと振られているらしい……と薄々察したがプライドがエベレスト級に高い麻美に『いつまでも実らない片思いに固執すんのやめなよ! 次行こ次!』と言おうものなら殺されそうな気がしたのでやめた。麻美のことはまぁ好きだ。気が合うし一緒にいると自分の価値が上がる。ナホコの友人の選出基準は顔≠ニコミュ力≠セ。
その麻美に彼氏ができた。驚き、そして喜んだ。これで麻美と恋バナができる――だがその悩みは泡のように消える。
とにかくずっと惚気を聞かされた。いや、付き合いたてはとにかく楽しい。彼氏との全てが幸せで惚気だらけになる。それはしょうがないということは交際経験がそれなりにあるナホコは知っている。だが、その……惚気のレベルがとにかく低い≠フだ。
『ココがメール返してくれた!』
ささやかすぎる。最初はウケを狙ってるのかと思いきやガチで心底喜んでいた。
『それ普通じゃね?』という対応も今まで九井から散々な対応を取られていた麻美にとってみれば奇跡のように尊い出来事だった。
なので第三者からすれば『で?』で終わる事も麻美はいちいち狂喜乱舞し『聞いてよナホコ!』と惚気てくる。だがナホコは『で?』としか思わない。メール返ってくるって普通じゃね? てか今までメール無視されてたんか……。
第二の被害者は千冬だった。麻美は九井を知っている人間にも九井との蜜月を知ってもらいと考えた。乾の連絡先は知らない。そして特に知りたくもない。花垣は彼女持ち。麻美は彼女持ちの男には不必要に声をかけないというルールを自分に課している。自分がされたら嫌だからだ。というわけで白羽の矢が立ったのは千冬だった。選ばれたのは、千冬でした。
『聞いてぇ、あのねぇ、ココがねぇ、昨日カレー二杯食べててぇ』
知るか――――――!!!! 心の底からどうでもいい九井情報を聞かされる羽目に陥った千冬はちゃぶ台をひっくり返して『知るか――――!!』と叫びたい衝動にかられた。一度『知らねぇし興味ねぇしどうでもいいから!!』と実際口にしたら麻美は目を見張らせてからほろほろと泣き出した。『ひどい……!』と舌足らずにぐすんぐすん泣き出した。千冬は人が良かった。それから場地に『女を泣かす奴はクソ』という教えを受けていた。あ、え、ちょ…………わーったよ! 聞けばいいんだろ聞けば! ということで、ほぼ毎日惚気を聞かされるようになった。ちなみに麻美が涙を流している時、丸めた拳の中に目薬があった。
麻美の両親も夜な夜な何かを思い出して奇声を上げながらベッドの上で転げ回ったり枕を壁に叩きつけて狂喜乱舞している麻美の被害者だったが、やはり最大の被害者は諸悪の根源でもあるこの男――九井一だった。
「オマエさぁ、いちいちベタベタすんなって。歩き辛ぇ。コアラかよ」
「違うもーん、人間だもーん、ココの彼女だもーん」
頭に花が咲いている麻美は、九井の腕にべったりしがみつく。付き合い始めてからずっとこれだ。麻美は九井にチューインガムの如くくっつき、でかい胸を押し付けてきた。が、九井は胸より脚派だった。あと、『押し付けてます!』を前面に押し出されているせいでイマイチ色気に欠ける。魂まで童貞の武道だったら鼻の穴を膨らませて興奮しただろうが九井は違った。逆に萎えんなと冷静に麻美を見下ろして観察する。麻美はにこにこと嬉しそうにピンク色の頬を綻ばせていた。付き合い始めてからずっとこの調子である。ただ一緒にいるだけなのに。
「篠田。それ貸せ」
九井は麻美に向かって手を差し出した。麻美はきょとりと瞬いてから、ぱあっと顔を明るくする。
「ありがと!」
麻美は九井と付き合うようになってから、性格が丸くなり、礼を言う頻度が前より増えた。にこにこ笑いながら、九井にボストンバッグを渡す。九井はレディファーストというよりも女に重たい荷物を持たせている男の図はかっこわりぃな……という算段の元運んでやっているのだが、麻美はそれを優しさ≠竍愛≠ニ履き違えていた。
「おっも……何入れてんだよ」
「えっとー、パジャマとー、アイロンとー、」
九井の平坦な声色の問いかけに対し、麻美はでれでれと緩み切った声で返す。麻美は今日という日をとにかく待ち望んでいた。
今日という日。それは、麻美が九井の家に泊まる日である。
九井は両親の元には戻らなかった。金は腐るほど持っているので、自分で自分を養うのに十分な金は持っている。様々なツテを持っているため、未成年であるにもかかわらずマンションを借りることもできた。
麻美はかねてから『ココんち行きたい!』と始終せがんでいた。九井は麻美に住居を知られたら居座られそうだと危惧し突っぱねていたが『行きたい行きたいいーきーたーい!』と幼児よろしく駄々をこねられた。カフェでこの醜態を晒され続ける方が怠いと感じ、不承不承オッケーする。
『やった! いつ泊まりに行っていい?』
『おいいつ泊まる≠ノシフチェンした』
『いいじゃん! 私ココの彼女なんだから!』
麻美は事あるごとに『私ココの彼女なんだから!』を嬉々として繰り返す。この時もそうだった。きらきらと星空のように輝いている大きな瞳を緩め、相好を崩した。
九井は頭が切れ、人心掌握に長け、大抵の物事をそつなくこなせる。切れ長の怜悧な瞳は冷たい印象を与えるが、それ以上に彼の理知的な雰囲気を底上げした。細身の身体には洗練された空気を纏っている。だからか、異性から好意を寄せられることが多い。
九井に選ばれるということは、女としてのアドバンテージを高める。九井と関係を持った女達は皆一様に喜んだ。皆誇らしげだった。
だが麻美はその中でも別格だった。喜びようが突き抜けている。突き抜けすぎていた。
九井がメールの返信したらはしゃぎまくる。九井が食事を摂っている姿を頬杖つきながらこの世の何よりも尊い景色のように眺める。家まで送ったらいつも九井が見えなくなるまでずっと手を振り続ける。
九井が特に何もしなくても嬉しい≠前面に押し出した顔と声で『ココ』と甘ったるく呼ぶ。なんだよ、と返したら『呼んだだけ!』と笑う。何もねぇなら呼ぶなよと思ったが、喉の奥に留まらせた。何となく。
◆
「シャワーありがとー!」
シャワーを浴びた体は内側からじんわり暖まりほかほかしていた。心身ともに暖かい気持ちに包まれながら、くるぶしに羽でも生えているみたいな軽い足取りで、ベッドのマットレスに背を預けながらケータイをいじっているココの隣に腰を下ろす。私より先にシャワーを浴びたココからシャンプーの匂いがした。(先浴びていいと言ってくれたんだけど、ココの後≠ェよかったから後にした。)
ココの横顔を間近で見れている喜びに浸りながら「ねぇねぇ」とココの袖を引っ張った。
「髪乾かしてぇ」
「自分でやれ」
「ココにしてほしいのー!」
「オレ今忙しいの」
「じゃあ終わってからでいいからー!」
素っ気なくあしらってくるココの腕にしがみついてねだりまくると、ココは怠そうに小さく息を吐いて私からドライヤーを奪い取った。やった! ぱあっと自分の顔が明るくなり、幸せで頬が膨らんだのを感じた。嬉々として私はココに背を向ける。ココがドライヤーのスイッチをオンにし、私の髪の毛の間に指を入れた。男特有の角ばった指の感触を頭皮が受け取ると、心臓が喜びの舞を踊るように縦横無尽に暴れ回った。
小学生の頃はアウトオブ眼中で、中学生の頃は首を絞められて、二年前は私がひたすら脅していた。
それなのに今やココの部屋でココに髪の毛を乾かしてもらっている。
ココと付き合っている。
……幸せだなぁ。
体の奥底から、染みるような幸せが泉のように沸き上がる。血管の細部から内臓の裏側まですうっと行き渡っていった。やがてその幸せは心臓の中枢まで届き、胸を締め付けてくる。苦しくて、呼吸が浅くなる。喉の奥が湿っぽくなった。目頭が溶け出すようにじんわりと熱くなる。
もう一度思う。何度も思う。ココと初デートしたあの夜から何度も何度も螺旋をなぞるように同じことを何度も繰り返す。
私、ココの彼女なんだ。
「…………は?」
ドライヤーの音が途切れた。ココが私の顔を背後から覗き込んで、ぎょっとする。
「なに泣いてんのオマエ」
「え? あれ、ほんとだ……」
ココの声は戸惑っていた。というか引いていた。突然ほろほろと泣き出した私に眉を八の字に寄せて困惑している。鼻をすんすん鳴らしながら、私は興味深くココを見つめた。
「ココも困るんだね」
「普通に困るわ。つかなんで泣いてんだよ」
「私、ココの彼女なんだなぁ、って思ってたら、なんか、」
口にすると、更に胸の中が幸せ≠ナ溢れ返った。吃驚する。幸せに際限ってないんだ。
ココはぱちぱちと瞬きすると、少し私から視線逸らした。だから私はココの頬を両手で包み込んで、引き戻す。
「なんで目ぇ逸らすの」
「気分」
「駄目」
「オマエに駄目とか言う権利、」
私だけを見ててほしくて、ココにキスした。くちびるを離し、ココの顔を至近距離で見つめる。ココは平然としていた。冷静な眼差しで、ただ私を見据えている。ココにキスしたことで私の胸の中は熱く泡立っているのに不公平だ。私と同じようにドキドキしてほしくてもう一度キスしようとしたら、後頭部に手を回された。
「んっ」
深く深く合わされる。ココの舌が私の唇の割れ目に入り込み舌を絡み取ると、身体中の血液が沸騰し、びりびりと甘ったるい電流が駆け巡った。細胞の一つ一つが歓喜の声を上げている。さわってさわって、もっとさわって。
「下手くそ」
全力疾走した後のようにはあはあ息切れしていると、ココはべえっと舌を出してきた。ムカッとしてココを睨みつける。
視界の中で、ココの赤い舌が艶めかしく光っていた。
……なにが下手くそよ。挑発的に出された赤い舌に目に物見せてやりたくて、舐めてやった。そのままココの真似をして絡みつこうとする。でもやり方がわからず手こずっていると「マジ下手」と嘲笑われて、すぐ口を塞がれる。手本を見せてやるとばかりに口の中に舌を捩じ込まれて、深く深くキスされる。苛立ちはいつのまにか霧散していた。ココとキスしてるという多幸感で心臓が締め付けられて、胸がいっぱいになる。
「ん、ん、っ、はぁ……っ」
目の奥がまた熱くなって、涙がぼろぼろ零れ出てきた。ココの舌が頬に転がり落ちる私の涙を掬い取る。「しょっぱ」と呟いてから、またキスしてきた。舌の動きについていけず、私はただされるがままとなる。けど、もっとキスしてほしくて、ココのうなじに腕を回す。思考回路は熱に犯され、理性はぐずぐずに溶かされていた。
もっともっともっともっと。なりふり構わずココを求めていると、ココの手が私のキャミワンピの中に入った。冷たい掌の感触を受けた背筋がぴくりと反応し、ぞくぞくと恍惚感が駆け巡った。
するんだ。
私は処女だ。でも、知識はある。
彼氏の家に泊まることがどういうことかぐらいは、知っている。
するんだ。
ホックを外されて胸元に解放感が広がると、これからココに抱かれる≠ニいう実感が更に強まった。これからココとするんだ。するんだ。するんだするんだするんだ……!
キスがやんで、ココは私を抱き上げた。まずそれがテンションを突きあげるのに、ココが私に覆いかぶさると、駄目だった。じいっと私を見下ろす怜悧な瞳に捉えられると、心臓がずきゅんと撃ち抜かれた。幸福感と昂揚感と恍惚感が綯交ぜになり、眩暈が起こった。お酒を呑んだあとのようにくらくらと酩酊していると、ココが私のキャミワンピのストラップに指をかけた。
「わっ、ちょ……っ」
慌ててココの肩を押すと、ココは不可解そうに眉を上げた。
「脱がさねぇとヤれねんだけど」
「そ、そうかもだけど!」
一度胸を見られたことはあるけど、ココに裸を見せるのはやっぱり恥ずかしい。嫌悪感はない、けど。でもただただ恥ずかしい。明るい部屋で私だけが裸になるって……そうだ!
「ココも脱いでよ! 私だけなの不公平!」
閃きが宿り当然の権利を主張するとココは私の上に跨ったまま、腕を交差してTシャツを一気に脱いだ。
心の準備なしに、上半身半裸となったココの姿が突然視界に入ってきて、息を呑む。心臓が大きく飛び跳ねた。
小学生の頃の体格と、当然だけど全然違う。お腹が割れている。細いけど、腕にしなやかな筋肉が備わっている。
どくん、どくん、どくん、どくん。
脳みそがを持ち、こめかみは激しく脈打っていた。
私の強い視線をココは真正面から受け止め、舌を出して笑う。
「変態」
興奮と昂揚感が迸り、全身の血液が一瞬にして熱く煮だった。瞬く間に顔に収束し、頬が燃えるように熱くなる。
「だ、だって、ココのはだ、わぁっ」
「はいこれでビョードー」
ココが私のキャミワンピを再び脱がしにかかる。問答無用でストラップをずらされた。可愛いルームウェアは脱ぎやすい。脱がされやすい。ストラップを肩からずり降ろされると後はするすると滑らかに脱げていった。あっという間に胸が見えて、脱がされて、私は一糸まとわぬ姿となる。
心臓がいつ爆発してもおかしくない。目の前はぐるぐる回っていた。
だけど動揺する私を置いて、ココは着実に事を進めていく。半裸のココが私の上に覆い被さり直すと、もう一度キスしてきた。お互いの素肌が触れ合う中、舌の絡み合うキスをする。といっても私はキスの仕方がよくわからないので絡み合うというか絡まされるのみ。
全身が、顔が、舌が、血管も細胞も何もかも溶けるように熱い。
溶けて、溶け合って、ひとつになるんだろうか。
ココと。
私がずっと好きだった人と。
体も、心も。
体温が更に急上昇する。
その中でも一際顔が、
鼻が、熱い。
「……は?」
不意にどこか間の抜けた声が聞こえる。至近距離からだった。ココからだった。潤んだ視界はココの顔を不明瞭にし、どんな顔をしているかよくわからない。何をそんなに驚いているんだろう。熱に覆われた脳みそでぼうっと考えていると。
「鼻血」
「……へ」
ココ以上に間の抜けた声を漏らしながら、ココの言葉を頭の中で反芻する。はなぢ。
ココは私の上から退いて、ヘッドボードからティッシュを取った。数枚抜き取ったティッシュを私に向ける。
「鼻血出てる」
どこか呆れたような声と一緒に。
「…………………………………………へ!?」
「あー垂れてる垂れてる」
ココは私の鼻に問答無用でティッシュを押し当ててきた。その拍子にふがっと豚の鳴き声みたいな声が漏れる。
「続き」
「無理」
「つーづーきー!」
鼻にティッシュを詰め込んだ状態で続きをせがむ私をココは無感動に一瞥すると、噴き出した。
「無理だって……! く、くく、はは、はははは! っべぇーウケる!」
「何ウケてんの!!!」
「オマエ鏡見てみ? やべぇ間抜け面! ははははは!」
ココはお腹を抱えながらげらげら笑う。目尻には涙すら浮かんでいた。学校では姫的な感じでチヤホヤされている私がこんな風にお笑い担当になるなんて……! あまりの屈辱に歯噛みして「だって!」と声を攻撃的に跳ね上げさせる。
「ココのせいじゃん!」
「出た責任転嫁。まぁ今回はガチでそうだな。ゴメンな、興奮させちゃって」
べえっと舌を出して笑われる。ムカつくけど、実際その通りだ。これは思春期の男子よろしく興奮からの鼻血だ。ココの半裸にくらくらして鼻血噴き出した。
「なんで私だけ鼻血出てんのー! ココも出してよ! 私の裸に興奮してよ!!」
「鼻血自由にコントロールできるか。つか騒ぐな大人しくしろまた鼻血出んぞ。オレも寝るから」
ココは私の返事を待たずにさっさと横になった。本当に今日はもう何もしないらしい。うう、ううう……。恨めしげに睨むと、ココは呆れたように目を眇める。
「どんだけヤりてぇんだよ」
「ち、違うし! 続きしてほしいだけだし!」
「ヤリたがってんじゃん。やべぇな一緒に寝たら襲われそう。怖」
「違うし!! 襲わないし!! 私は襲われたいの!!!」
「気ぃ向いたら襲うわ」
「そーゆーのじゃなくてー! もっと辛抱できねぇって感じで襲ってほしいのーー!」
「篠田」
ココの声は、いつだって私の心の奥深くまで潜り込む。深く捉えて離さない。
ココは肘をついて寝転んだまま、布団をポンポンと叩きながら、小さな子どもに諭すように言った。
「寝ろ」
…………うぐぅ……。
なんの強制力もないはずなのに、私は催眠術にかけられたようにココの言う通り動いた。望みをまくしたてるのをやめて、ココの言う通り、ココがポンポンと叩いた箇所で寝転ぶ。ココは自分の思い通りに動く私に対し特に気を良くするでも軽蔑もせず、ただ淡々と受け入れていた。ココにとって私が自分の掌の上で踊ることは空気のように当たり前のことなのだろう。
……ていうかココが隣にいるのに寝られるわけないんだけど……。無理難題を突きつけられて、恨めしくて、ココを横目で睨む。ココは目を閉じて寝る体勢に入っていた。すんなりと寝ようとしていることにぎょっとする。わ、私はこんなにドキドキしているというのに……! 不公平だ!! 憎々しげに睨む。でも滅多に見られないココの目蓋を下ろした表情に怒りはみるみるうちに萎んでいった。いつも隙のないココが、少し無防備になって、あどけなくなる。
「……なんか修学旅行みたいだね」
「行ったことねぇからわかんね」
ココは目を閉じたまま、木で鼻をくくったような返答をする。やっぱり起きてた。無視しないでくれた。喋れることが嬉しくて、声の調子が上がる。
「そーだよ! ココ小学校の時も中学の時も行かなかったよね! せっかく同じ学校だったのに!」
ココがいない修学旅行は味気なく、突き抜けるような青空も色づいた紅葉も水面に映る金閣寺も私に何の感慨も与えなかった。修学旅行の時に撮られた写真の中の私はつんと澄ましていて面白くない≠ニ顔に書いている。
「ねぇ、京都行こうよ。修学旅行やり直そ」
ココは十代の殆どを青春≠ゥら程遠い後ろ暗いことに手を染めるか、図書館に籠って難しい本を読むかのどちらかだった。感情の抜け落ちた顔で経済書を読んでいるココの隣に座り『お昼一緒に食べようよ』とか『学校行こうよ』と誘ったけど全部無視された。
あの時、ココにとって私はただの同級生だった。だけど今は違う。
「金閣寺とか伏見稲荷とか行こ! あとそれからユニバも! 楽しい事たくさんしよ!」
今の私は、ココの彼女なんだから。
だからココも私を無視しない。焦点を私に当てて、きちんと真正面から私を見据えている。
「あ、そーだ! 私の高校、修旅で北海道行ったんだよね! 今度二人で行こうよ! 制服で! ちょっと誰かから制服借りてくるから!」
「コスプレの趣味ねんだけど」
「17でしょ! 制服着てんの普通だから!」
ココの未来の中に私がいる。そう思うと声が自然と華やいだ。
「いつにする? いつでもいいけど! はやく行きたいね、楽しみだね!」
ココは子どものようにはしゃいでいる私を見据えていた。皮肉めいた笑みは浮かべていない。ただじっと私を見据えながら、口を開く。
「ティッシュ変えろ。鼻血吸えなくなってる」
「え゛っ」
「ダッサ」