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「この…………馬鹿!!!!!」

 頭に拳骨を落とされた。

「ちょっと死にかけた妹に何すんの!!!」
「大袈裟に言うな!! アンタ丸一日寝てただけでしょ!! てゆーかマジ馬鹿のひとつ覚えみたいに」

 お姉の言葉を遮って、私は声を張り上げる。

「ココはどうなったの!! ケータイ返せ!!!」
「起きてからそればっか……。はぁーーーー自分の妹が馬鹿過ぎて嫌になる……」

 ココのリンチ現場を目撃してから一日経った。後頭部に打撃をくらい気絶した私は命に別状は全くないけど、大事を取って一日入院することとなった。絶賛夫婦水入らずの旅行中の親に代わり(私の怪我を知ったお父さんが気絶したことで帰ってくるのに時間がかかっている)、お姉が私の下着持ってきてくれたりとかそういう面倒を見てくれている……んだけど。

「なんでケータイ返してくんないの!!」

 何故か、ケータイを絶対に返してくれない。
 
 もう一回吠えると、お姉は頭痛を訴えるようにこめかみに手を宛てながら盛大にため息を吐いた。「何その態度!」と激昂する私に取り合わず、お姉はパイプ椅子に腰を掛けて、私に視線を合わせる。小さく息を吐いてから「麻美」と厳かに私を呼んだ。

「ケータイ返したらどうすんの」
「ココに電話する」
「ほらそうする。駄目」
「はぁー!? なんでよ!!」
「ヤバい奴だからよ。アンタさ、ココのリンチに巻き込まれたんだよ? もう会わせない」
「…………は!?」

 あっさりと意味不明な爆弾発言を投下され、思わず間を空けてから反応してしまう。意味分かんないんだけど意味分かんないんだけど意味分かんないんだけど! 怒りという名の風船が破裂する寸前、お姉は見越したように言葉を淡々と足していった。

「妹には怨恨でリンチに遭うような男に関わってほしくないっていう姉心よ。ココにもそう言った」

 頭の芯まで、真っ白に染められる。
 ココ。名前を聞くだけで、胸の奥がぎゅうっと絞られる。訳もなく泣き出しそうになってることに気付き、お腹に力を入れてぐっと押し止めてから、お姉を睨む。

「……何ココに会ってんの」
「アイツが病院に来たの。そんで追い返した」
「なんでよ!」
「だから関わってほしくないからだって。てゆーか、アイツ絶対麻美の事好きじゃないって。私が無理難題言っても、顔色ひとつ変えなかったし」

『アイツ絶対麻美の事好きじゃないって』
 
 既にわかりきっている事実とは言え、声に出して言葉にされると、無理矢理ガムテープを心臓から引きはがされたような激しい痛みが走った。ひりひりとした痛みを訴える心臓をなだめるように、縋りつくように、私は入院着の胸元をぎゅっと握り締める。

 ココは私が好きじゃない。
 この事実に慣れることはない。ココを好きでいる限り、私を苦しめる――だけど。

「それがなに」

 喉元にせり上がっていた熱い塊を唾と一緒に奥底に追いやってから、低い声を落とす。

「そんなん、ココが赤音さん≠ノプロポーズしてんの見た時から、普通に知ってるから。私じゃない女を好きで好きで仕方ないの、なんっかいも思い知らされてきたから」
 
 ココは私が好きじゃない。その事実を一言一言紡いでいくと、傷口に指を突っ込まれているように胸が痛んだ。目の奥が燃えるように熱くなり、心臓をえぐるような痛みが広がっていく。あまりの激痛にほんの一瞬だけ歯を食いしばった。けどすぐに蓋をする。いちいち傷つくのも面倒になってきた。くよくよしている暇があるのなら、脅すなり追いかけ回すなりなんなりしてる方が効率良い。
 
 好かれなくて辛い悲しいと悲劇のヒロインやってても、アイツは私を好きにならないんだから。 
 
 悲しい≠ニいう感情に強引に蓋をし、挑むようにお姉を睨みつけてから、朗々と宣言する。
 
「一番大事なのは私の気持ち! ココの気持ちとか関係ないの!
 絶ッ対! 死ぬまで! ううん死んでも! 諦めないから!!!」

 ぱちぱちと瞬く度に、お姉の長い睫毛が揺れる。猫騙しを食らったように呆けた顔をしていた。頭の良いお姉を言い負かせたのはこれが初めてで、出し抜いてやったみたいで気持ちいい。得意げにふふんと笑ってみせると。

 ドアが静かに開く。

「一生ストーカー宣言じゃん」

 その先には朱色の紙袋を手下げているココが立っていた。

 ――あ。

 どくり、と心臓が大きく鼓動を打ち、胸が強く締め付けられる。私の細胞ひとつひとつが甘く切なく疼いていた。
 ココに呼ばれたい。ココの目で射抜かれたい。ココの手にふれられたい。ココにくっつきたい。 
 
 ココの傍にいたい。

 欲望は次から次へと一瞬にして無尽蔵に湧き上がり、涙となって溢れ出す。
 制御できない。酸素を求めるのと同じだ。

「……オマエ家族の前でよくやれんね」

 ベッドから降りてココにぎゅっと抱き着くと、呆れ返った声が降ってきた。取り合わず、私はココを堪能する。五感全てで感じられるように、ぎゅうっと抱きしめる。生きてる。生きてる生きてる生きてる。ココは生きてる。手当の後はあるけどココは無事だった。骨も折られてない。ココは、生きてる。胸の内で言葉にすると、目の奥が沁みるように熱くなった。

 ココが好きだ。
 どれくらいとか大きさとか量は全然検討がつかないけど、でも、ただ漠然と思う。

 私は、ココのことが好きだ。

「篠田、ちょっと離れて」
「……」
「おい、篠田」
「………………」
「おい、何嗅いでんだ。てか無視すんな」
「あんたもね」

 高圧的な声が、ココに鋭く向けられる。ココの胸に押し付けていた顔を離し横に向けると、腕を組んでいるお姉が冷たい眼差しでココを見据えていた。

「私、来んなって言ったよね? 耳ついてんの?」
「ちょっと!! 私のココになんて言い草してふがっ」

 お姉に食ってかかろうとしたらココに鼻をぎゅっとつままれ、豚みたいな鳴き声が漏れた。「なにすんのー!」と抗議の声をココは無視すると私を無慈悲に引きはがし、お姉の前に立った。

「お待たせしました」

 ココはにっこりと、慇懃無礼に笑う。ネットワークビジネスの勧誘でもしてきそうな胡散臭い笑い方だった。

「ご所望のものです」

 がさり、と朱色の紙袋の揺れる音が病室内に静かに響いた。紙袋には、馬車と人間とH≠フ頭文字を楕円が囲っているマークが記されている。なんだろあれ、どこかで見覚えがあるような…………?

「………………は?」

 お姉は口をあんぐりと開けて、紙袋を凝視していた。にこやかに笑っているココと紙袋を交互に見比べてなら、紙袋を受け取った。

「……点検する」
「どーぞ」

 お姉はパイプ椅子に座ると、紙袋から箱を取り出した。高級な材質で出来た箱だということはすぐにわかった。

「ねぇ、それな……」

 お姉に問いかけた瞬間、息を呑んだ。お姉は硬直している。
 お姉の膝上の空間だけ、きらきらと輝いていた。

 ハイブランドの中でも頂点に君臨する。一介の会社員には決して手が届かない代物。
 エルメスの真っ赤なケリーバッグが、お姉の膝上にいた。

「ちょっとーーー!! なんでお姉に貢いでんの意味わかんない意味わかんない意味わかんない!!! そんなに年上が好きなの!? 私だってココより少しだけ産まれるのはやかっふがっ」
「これで、条件クリアだよな」

 ココはまた私の鼻をつまみながら、お姉に念を押すように問いかける。けど有無を言わせない響きがあった。
 てゆーか条件って何。怪訝に思いココの顔を下から覗き込むと、鷹のように鋭い目つきで、挑むようにお姉を見据えていた。真剣な色合いに思わず息を呑む。ぽかんとココを見上げていると、ココは静か瞳を動かし、私を捉えた。まるで射すくめるような強い眼差しに思わず気圧されてしまう。びくっと肩を震わせる私を見届けると、再度、お姉に視線を移した。

「…………はぁ」

 ココに値踏みするような視線を送っていたお姉は、観念したように溜息を吐いた。「なんでガキがケリー買えんのよ」とぼやきながら、ケリーバッグを丁寧に箱の中に戻して立ち上がる。

「しょうがない。約束は約束だからね。これに免じて今回ばかりは許可してあげる」
「は? 許可ってなに?」
「あざーす。次は何がいいです?」
「だ! か! ら! なんでそんなに貢いでんの!!! お姉なんて大学の時彼氏日替わりで変えてたクソビッ痛っ!!」
「アンタはいちいちいちいちうるさいの!! はぁ〜〜〜ったくお姉さまの親切な姉心を無碍にして……もう知らない」

 お姉は私の額を思い切り叩くと、エルメスの紙袋を片手に踵を返した。でもドアに差し掛かると、ピタリと足を止めた。

「こんなことに手間暇かける時間あんならメールくらい送ってやんなよ、その馬鹿に」

 背中を向けたまま言うと、お姉は病室を出て行った。ココは無言で、お姉の背中を見送る。

「痛い痛い痛い!! 痛いー! お姉が叩いた痛い!! おでこ叩かれた!! ほらああいう暴力女じゃんアイツ!! なんで貢ぐのなんでなんでなんでなんでーーー!!!」

 私だけがずっと喋りまくっていた。額を両手で抑えながら痛みとお姉の暴力性をココに訴えかける。ココは鬱陶しそうに私を見下ろすと、長く重たい溜息を吐いた。

「説明してよ! なんでお姉ぅわ!?」

 足がふわりと宙に浮いた。ココが私の腰と太ももに腕を回し、持ち上げた。甘酸っぱくもどかしい気持ちが胸の真ん中を占領し、息が詰まって、声が出なくなる。ココは私をベッドに下ろすと、さっきまでお姉が座っていたパイプ椅子に腰かけて、私をじっと見据える。

「今説明するから、大人しくしろ」

 まだ腰と太ももにココの体温が残っていてむずむずする中、ココに見られたら駄目だった。他の人間ならムカつく命令口調もココならムカつかない。それどころか、胸が高鳴る。なんでなのかと訊かれたら、好きだからとしか答えようがない。

「…………うん……」

 小さく頷くと、ココも「ん」頷いてくれた。相槌を打たれただけなのに、心が春のひだまりのようにほわほわと暖かくなる。喜びをあらわすように心臓がきゅうっと疼いた。

「大した理由じゃねえよ」

 ココは淡々と経緯を説明した。

「篠田の姉貴に『昔リンチだの暴力沙汰だの起こしてた男がうちの妹に二度と近づくな。それが嫌ならエルメスの赤のケリーバッグを一日以内に用意しろ』って言われたんだよ。そんだけ」

 …………………………………………へ。
 
「中古が論外なんはわかるけど、色と素材まで指定しやがってきてさ。カーフの赤とかふざけんなよマジで……」

 話している内に手に入れるまでの困難な道筋を思い出したらしい。「あー疲れた……」と苦々しい口調で呟きながら、パイプ椅子にだらしなくもたれる。
 なんでココがお姉にケリーバッグを買ったのか、その理由はわかった。わかったけど、わからない。

「姉妹揃って脅してくるとか篠田んちの教育方針どうなってんの」
「ココ」
「んだよ」
「なんでそこまですんの」

 ココはぶつぶつぼやくのをやめた。静寂が広がり、秒針の音がやけに大きく響き渡る。

 ココは唇を結んだまま、私を見据えた。馬鹿にするでも呆れるでもない、真っ直ぐな眼差しで私を射抜く。見つめられた箇所からちりちりと焦げていく。逸らすことを許さないような強い眼差しに、息が詰まる。全身が燃えるように熱くなって、体の内側から血液がぶくぶくと沸騰する音が聞こえてきた。
 どこか緊迫した空気の中、ココが唇を開く。
 何を言われるんだろう。何を言うんだろう。ココは私に、何を伝えたいんだろう。どくどくと激しく脈打つ中、固唾を呑んでココの言葉を待つと。

「…………なんでだろうな」

 ココは独りごちるように、そう呟いた。

「…………は?」
「考えまくったけどわかんねえの」

 ココはやれやれと言いたげに「お手上げ」と肩を竦めた。

「はぁーーー!? なにわかんないって!! 馬鹿なの!?」
「オマエに言われたら終わりだけどそうかもな。昔のツテ辿りまくってなんとか一個用意してくれって方々に電話しまくりながらオレなんでこんなんしてんだろってずーーっと思ってた。何回もやめようって思ったんだけどさ、」

 ココが目を合わせてきた時、どくんと心臓が揺れた。顔が熱くなったのを感じ、慌てて表情筋を引き締めた。絶対『何意識してんだよ』って馬鹿にされる……! 

「なんか、やめれなかった」

 だけどココは、馬鹿にしなかった。目にも声にもいつもの揶揄るような色はない。

「……訳わかんねぇよ、マジ」

 視線を少し下げながら、ぽつぽつと小雨が降るような口振りで、心の中にある思いをひとつずつ取り出すように言葉にしていくココは、いつもと違って歯切れが悪く、頼りない。年相応とも呼べる姿だった。

「ぎゃあぎゃあうるせぇし、ワガママだし、恋愛脳過ぎるし、脅してくるし」

 ココは視線を上げて、私に焦点を合わせた。矢を射るような真っ直ぐな眼差しに射抜かれる。 
 背筋に冷たい何かが落ちる。ココの瞳には、ぞくりと肌が思わず粟立つほどの、強い欲望が浮かんでいた。





 一くん。赤音さんに呼ばれると、別に好きでも嫌いでもない自分の名前が特別に響いた。特別に響くようになったのはいつからだっけ。オレはいつから赤音さんへの気持ちを恋だと認識するようになったんだっけ。
 いつからかなのかはわからない。でもいつからか、オレは赤音さんの気持ちを恋≠ニ名付けた。初恋だった。未知の感情だったのに、これは恋だとすんなりとわかった。

 顔を見るだけで胸が甘酸っぱく締め付けられるのは、赤音さんだけだった。だからオレは未知なる感情を、恋だと思った。恋とは、たったひとりにだけ向けられる唯一の感情だと思ったから。

 対して篠田麻美という女には、そんなこと思わない。心底くだらねぇと思う。軽蔑している。馬鹿にしている。
 
 どれもこれも、赤音さんには全く向けなかった感情。でも、種類は違うけど同じように、唯一の未知なる感情を抱いている。

 一生、オレのことで藻掻いて足掻いてほしい。
  
 お世辞にも綺麗とは言えない、エゴに塗れた独占欲。
 篠田以外の人間には、思わない。

 胸の奥底で巣食っている篠田への気持ちを胸の内とは言え、初めて明確に言葉にした。ふうと息をついてから、ぱちぱちと瞬きを繰り返すだけの生き物となった篠田から視線を外す。訳わかんねぇって面をしていた。そうだよな、オレもだよ。知能レベルが篠田レベルに低下したことに苦笑が零れる。

「……守りたいとかそういうのねぇんだよ」

 何を持って恋と呼ぶのか、偉人たちは巧みに表現する。最初のひと目で恋を感じないなら、恋というものはないだろうという言葉には、うまいことを言うと頷いた。ファーストインプレッションってのは人間関係の構築に強い影響を与える。

「だから違うって思った」
 
 篠田なんて取るに足りないバカ女。なんかいつの間にか好かれていた。顔は良いがその顔も別に好みじゃない。

「理由もねぇし」

 思い出も散々だ。クソ無神経なことをほざかれたり、ストーカーされたり、脅されたり、そんなんばかりだ。篠田にキレた回数は両手じゃ収まらない。互いに相手の急所を抉るような暴言をぶつけ合った。 

 一生好きだとか一生守るだとか、死んでも四千万作るとか、誓う気はない。ガキの頃のオレが今のオレの選択を知ったら頭沸いてんのかと眉を潜めて『そんなわけあるか』と異議を唱えるだろう。好きな相手の為ならなんでもできるし、そんな利己的な歪んだ思いは違うって。
 でもいくら違うと否定したところで、離れられるとクソムカついて、無性に落ち着かなくなる。
 
 視線を上げて、篠田を見据える。デカい目は依然として、ぱちぱちと瞬きを繰り返していた。間抜け面を見据えながら、一言一言に思いを籠める。

「……ちゃんとした言葉は、もう少しだけ、待っててほしい」

 オレの殆どを作り上げるあの人しか抱かなかった感情と同じ名前を、他の誰かにつけるのにはまだ抵抗がある。
 自己中すぎる欲望に、言ってて辟易する。
 
『ココなら人殺してもいい』

 でも、法律を度外視した発言を易々とする篠田に比べたら、全然マシだ。
 だから、あと少し、もう少しだけ時間が経ったら、ちゃんと言葉にしてみせるから、
 今はこれだけを言わせてほしい。

 すうと息を吸い込んで、今のオレの一番の欲望を告げた。
 

「オマエを他の奴に渡したくない」


 時間が止まったような静けさが降り立った。

 篠田は目を最大限に見開いていた。唇を喘ぐように震わせてから、下唇を噛む。寄る辺に縋るように胸元をぎゅっと握りしめながら俯くと、息を吐いた。華奢な肩が小刻みに震えている。

 ……泣いてんのかよ。青臭い言葉を吐き出した気恥ずかしさからの掻痒感が加速した。手持ち無沙汰に頬をかきながら、小さく震え続けている篠田を見つめると次第に、胸の奥がキュッと狭まるような切なさを覚えていった。

 篠田に向かって手を伸ばす。細い背中に腕を回そうとしようとした時だった。















 

 
「ふざけんじゃねーーーーーー!!!!」

 グーパンを横っ面にぶつけられた。



 宇宙まで背負投されたような衝撃に襲われる。頬にズキズキと痛みが走るが、狼狽が遥かに上回った。巨大な疑問符に脳味噌を埋め尽くされながら、茫然と正面を向き直した。

「マジいい加減にしろ……!!! ふっざけんな!!!」

 篠田は怒気のはらんだ目でオレを強く睨みながら、胸倉を掴んできた。拳が高く振り上げられてぎょっとする。振り下ろされる直前に手首を掴んだ。

「離せーーー!! あと百発殴らせろ!!!」
「ちょっ、おい、落ち着け、待て!!」
「待つかーーー!!!」

 篠田はベッドから身を大きく乗り出した。乗り出しすぎて、ベッドから落ちる。オレを下敷きにして。パイプ椅子ごと背中から床に倒れ込んだ際に、篠田の手首を思わず離してしまうと、篠田はオレに馬乗りになってまた殴り始めた。篠田は非力だが拳で殴ってきたら普通に痛い。

「だから!! 待てっつってんだろ!!!」
「待たない!! なんで私がココの都合に合わせなきゃなんないの!! いつもいつも振り回してきやがって……!!」

 篠田はひくっと嗚咽を震わせてから、声を張り上げた。

「またそうやってぬか喜びさせようとして!! もう騙されないから!!!!」
「………………は?」

 もう騙されないからの意味が分からず間の抜けた声を漏らすオレを、篠田は憎々しげに睨んでいた。好きな男に対する目つきじゃない。

「何言ってんのかぜんっぜんわかんないけど! つまり私だけが結局好きってオチでしょ!!」

 ポッカァーンと思考が停止する。だがオレの優秀な思考回路はすぐに起動し、答えを出した。

 篠田はオレの言葉を、全然信じていない。

 強烈な眩暈がオレを襲い、ぐらぁっと視界が揺れた。嘘だろこのクソバカ女。どれだけこっぱずかしい事を言ったと思ってんだ……!! 憤りと羞恥心が綯交ぜになり、頭皮が蠢いた。オレのこめかみには無数の青筋が立っているのだろう。

「この偏差値マイナス30の馬鹿女………! だ! か! ら! オマエがそんな風に馬鹿だからアウトオブ眼中じゃなくなったって認めたくなかったけど認めたっつってんだよ!!」
「馬鹿じゃないしココがわかりづらすぎるだけだし!! てゆーかわかってるし!! わかった上で信じられないっつってんの!!」
「なんでだよ!!」

 篠田の眉が更に吊り上がった。目が血走り過ぎて真っ赤に充血している。

「私のいたいけな乙女心を馬鹿にして『好きじゃねえよ単に告られたから付き合っただけ』って言ったのはどこのどいつ!!」

 正鵠を射られて思わず言葉が詰まり、ばつの悪さから視線を若干逸らした。篠田のくせに痛いところをついてきやがって……と心の中で理不尽に毒づいてから誤った反応を取ったことに一拍遅れて気付く。ぎこちなく視線を篠田に戻すと、ひくっと頬が引き攣った。案の定、違うと即答しなかったことで、篠田はぎりぎりと歯噛みし真っ赤な目に涙を浮かべながら、オレを串刺しにせんばかりに睨んでいた。

「待て篠田。ちげぇんだって、あの時はその、なんつーかまだ、意地張ってて」
「何が違うよ! てゆーか違わないなら好きって言ってよ!!」

 うぐっと喉が詰まる。篠田のくせに正論言いやがって。いつも無茶苦茶なことばっか言ってるくせに……。確かにその通りだ。言えばいい。言ったら信じてくれるのなら、言えばいい。
 けどそういう感情を抱くのはあの人だけだと凝り固まっているオレの脳味噌は他の誰かにその感情を向けることに、未知のものを前にした時のように躊躇っている――それに。
 
「この地球上の誰よりも愛してる! 麻美がいないと生きていけない!! って言えーーーー!!!」

 …………………………こういうこと言ってくるような馬鹿女に、そういう感情を抱きつつあるっつーのが………………………………。

 肩から背中にかけてどっと疲労感が伸し掛かり、意識が遠のきはじめた。マジ、なんでこんな女を……。もうちょっとこう……あんだろ……。自分自身に引いているとふわんふわんと頭が靄がかり清らかな光を纏った赤音さんが『もう、いいんじゃ「余所見すんな!!!」

 視界が篠田でいっぱいになると、顔を両手でさながら平手打ちする要領で強く挟まれた。ばっしぃーん! と小気味よい音が空を切り裂き、同時に悶絶する。

「いってぇな何すんだコラ!!」
「ココがどっか見てるからでしょ!! いーい!? ココはねぇ!! 私だけ見とけばいいの!!!」

 何もかも焼切るような熱い眼差しが、一直線をオレに貫く。何度も受けてきた視線を間近に感じると、強風のような何かがオレの心臓をなぶるようにさすっていった。篠田の無茶苦茶な理屈は優しさの欠片もない。だけどオレの心臓を強く穿ち、波紋を残していく。
 
「てゆーか!! やっぱ言えないじゃん! もう騙されないから!!」
「だからちょっと待て、」
「待たない!!」

 待てと何回頼んでも、篠田は梃子でも首を縦に振らない。あまりの偏狭っぷりに辟易する。篠田はいつもそうだ。我儘で自己中で、オレの思い通りになんて動きやしない。

「私はねぇ、自分の幸せが一番大事なの! ココが幸せならそれでいいとか死んでも言わないから!!」
『ココがカワイソウとか不幸とか知らないから、私は私が幸せならそれでいいの! だから、ココはずっと私の傍で、私と一緒に生きるの!! そして死ね!! ばーーーか!!!』

 フラッシュを焚いたような鮮烈な光が目の前を走ると、顔の下半分を歪めて嘲笑を浮かべた篠田と、何故か、大人の篠田が重なった。なんだ、今の。愕然としていると、シャツをぎゅうっと握りしめられた。視線を向けた先で、篠田がオレのシャツを皺がつかんばかりに掴んでいる。小刻みに手を震わせながら、勝ち誇った笑みを必死に作り上げていた。

「アンタが彼女作っても結婚しても絶対絶対離れないから!! ココが好きになる女って可哀想だね! 私にずっと虐められんだから!!」
「篠田、」
「結婚式乗り込んであることないこと言いまくってやるし新聞に犬のうんこなすりつけてやるし無言電話しまくるしピンポンダッシュしまくってやる!!」
「おい、」
「でもそれくらいいよねココに好かれてるんだし!! 私が虐めてもその女ココに泣き付けばいいんだからいいじゃん!! ココにオレが守るよとか言われたらいいじゃん!! そんで二人で私の悪口で盛り上がって……!!」

 トランス状態に陥ったかの如くまくし立てていた篠田は一時停止すると、ひきつけを起こしたように息をすうと吸い込んでから、ぐいっと赤い目を拭った。熱く湿っぽい息を吐いてから、ギラッとオレを睨み付ける。

「私の告白受けたのがココの運の尽き……! ココが私の事どうでもいいとか嫌いとか思ってたって……!!」

 低く唸るような声を途切れさせてから、篠田はオレの顔をがしっと掴んだ。凶暴的な目がすぐそこにある。けどすぐ閉じられた。
 
 そしてただ、ぶつけるだけのキスをされる。下手糞過ぎて、快感は何ひとつ生まれない。

「絶っ対! 別れないからね!! こーゆーことし続けてやる!!!」

 べえっと挑発的に舌を出して「ざまあみろ!!」と笑いながらもその顔は真っ赤で、何にも煽られない。それどころか。

「……ちょっと! なにその遠い目は!!!」

 虚無しかなかった。

 篠田は遠い目をしているオレが気に食わないらしくきゃんきゃん吠えたててくるが、うるせぇと怒鳴る気力も沸かない。何これ。何この馬鹿女。マジ全然人の話聞かないじゃん。確かにオレも信じろと言えるような誠実な行動を取って来たとは言えないが、それでも信じなさすぎだろ。オレこれからコイツに言い聞かせなきゃなんねぇの? この理解力ゼロの馬鹿に? は? それなんつー無理ゲー? つーかこういうの目を見ればわかるとかそういうのあんじゃねえの? ココの目を見ればわかるとかそういう……。

 ……………………ねーな。
 
 幻想的な夢想をしかけて首を振る。篠田がそんな物分かりのいい女だったら、完璧に脈無しだと悟りオレの幸せを願って大人しく去っただろう。篠田はそんな良い女じゃない。一緒にいてもメリットなんかないと冷静に説いてくる理性が腹立たしい。わかってんだよンなこと。メリットどころかデメリットばかりだ。自分の幸せが一番大事だとのたまう最悪の自己中女。でもだからこそオレにしつこく食らいついてきて、だからこそオレはこんな羽目になった訳で、でも最悪の自己中馬鹿女で、あー、なんで、こんな、クソ、こんなんに固執してるとか、
 
「………………人生詰んだ」
「また遠く見てるーーー!! もうマジ許さない!! 退院したらディズニー行くからね!! 絶対だからね!! ココが嫌って行っても絶対だから!! ココに拒否権ないから!!」
「篠田……よかった……! すげぇ元気そう……!!」
「いやあの誰か知りませんけど爽やか君注目するのそこです!? つーか元気過ぎません!? 千冬なにこれどういう状況なの!? なんで篠田さんココ君襲ってんの!?」 
「オレに聞くなよ……つーかなんか篠田さんエロめの少女漫画の男みたいな台詞言ってんな……」
「だから言ったろ。こんなクソ女の見舞いに行く必要ねえって」



 




END?



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