私がいかに異性としての魅力に乏しいかで盛り上がっている男子達の揶揄に塗れたはしゃぎ声を、息を潜めて聞き続けた。足は根が張ったかのように、一歩も動かなった。
 
 創作物の中で虐めに遭っている主人公を見ると『どうしてただ言われっぱなしなんだろう』と首を傾げていたけど、ようやく私は主人公の気持ちに共感する。他人から疎まれている事をまざまざと突き付けられると、自己肯定感がマイナスまで下がり、自分が消えていくような心細さの中に、ずぶずぶと沈み込んでいって、言い返すどころじゃなくなる。
 草壁ってマジねぇ。女子っつーかゴリラじゃん。好きでも何でもない、どちらかと言えば嫌い寄りの男子に言われて何を気にする必要があると脳みそは正論を説いてくるけど、感情は頷いてくれなかった。喉元に圧迫感を覚え、足元が戦慄くように震える。宇宙に投げ出されたような疎外感の中で、私はひとり虚しく立ち竦んだ。
 
 息を殺して私はその場を静かに立ち去った後、別ルートを使って部室まで行った。

 先輩に体調悪いから帰りますと告げると、先輩は『送ろうか?』と心配してくれた。やっぱり女子って最高。男子と違って細やかな気遣いができる。女子って細かくてネチネチしてるよな、と男子はせせら笑うけど私は女子の繊細な感受性で物事を捉え、他人に気遣えるところが大好きだ。男子なんていらない。女子だけの世界になればいいのに。
 どうせ花垣だって私の事、『ないわー』って思ってるんだろうし。
 『草壁ってないよな』と私を嘲笑う花垣を想像した瞬間に、私の胸が裂けて、細かく砕かれて、そこに冷え冷えとした風が流れ込んでいって、私という存在が消滅するような気持ちを覚えた。
 ほんとに、私なんか消えてなくなればいいのに。橘さんみたいな良い子の悪口しか言えずに、捻くれた言動ばかりの私なんて、消えてなくなればいい。楽に死ねる装置があるなら私は今すぐそこに身を投げ出している。でも消えてしまいたいけど自ら死ぬのは怖い私は、カバンを持って帰るために教室にUターンするしかなかった。男子はまだ教室で駄弁っていた。教室に入る勇気すら持てない。男子達が帰るまで、女子トイレで時間を潰す。息を潜めて時間が経つのを、ただひたすらに待った。

 




 冬は日が落ちるのが早い。橙色はすっかり消え失せ、代わりに濃紺が空を覆っている。一番星がうっすらと輝いている夜空の下、私は宙に浮かんでいるような心もとない足取りで帰路を辿っていた。私は校則に則ってケータイを学校に持ってこないから、ママには遅く帰る事を告げていない。帰ったら怒られるだろうな……。いつもならママのお説教を疎ましく思いながらも恐怖心を覚えるけど、今はどちらもなかった。なんだかもう、全てがどうでもいい。視界の端に『痴漢注意!』の看板が出ているけどどうでもいい。てか痴漢もこんなゴリラ襲わないだろう。襲うとしたら橘さんみたいに可愛い子だ。ああけど橘さんも大丈夫か。だって花垣いるし。きっと、花垣が守ってくれる。目の奥が燃えるように熱くなって、湿っぽい塊が喉元に蟠る。口内の肉を噛んで、何かを必死に堰き止めながら歩いていると、間の抜けた声を鼓膜が拾い上げた。

「――草壁さん?」

 なんで、今なんだろう。
 顔を見なくてもわかった。わかってしまうのが嫌だった。この何か月かずっと、奴の声に聴覚を研ぎ澄ませて聞き続けていたら、私は奴の声を奴だと判別できるようになってしまった。無視して歩き続ける私に、間の抜けた声は引き続き「おーい、草壁さーん!」と声を掛ける。無視してんだよ。わかれよ。

 花垣はスエット姿だった。髪の毛もセットしていない。完璧にオフのくつろいだ姿を初めて見て、胸が変な鼓動を鳴らす。無し。今の無し無し無し。今自分が抱いた気持ちに墨汁で『無し』とでかでかとバツをつけて無かった事にした。

「草壁さん早退してなかったっけ?」
「…………」
「体調大丈夫なん?」
「…………」
「…………草壁さん?」

 ひたすら無視を決め込んでいる私に、花垣は質問をやめておもねるように顔を覗き込んできた。『オレ何かした?』と焦りと憂いが滲んでいる。困らせている事に罪悪感がちくりと針のように私の胸を刺す。けどどうにでもなれという気持ちも依然としてあった。
 だって花垣、彼女いるし。あんないい子と付き合ってるんだし。だからちょっとくらい、困ればいいんだ。
 私が返事しないものだから、無言が続いて気まずい沈黙が横たわる。花垣は気まずそうに視線を明後日に泳がせてから「えーーーっと……」と強張った笑顔を浮かべる。

「送るよ。ここ、痴漢出るらしいし」
「いい」
 
 無言を貫いていた私が突然声を上げて即座に突っぱねたものだから、花垣は窮した。一瞬面食らった顔が間抜け面だった。でもすぐにまた「いやでもほらさ」と痴漢注意≠フ看板を指さしながら、ぎこちなく笑う。

「痴漢出るし」
「大丈夫」
「いやいや〜、ほらまた不審者情報のプリント回ってき、」
「大丈夫だって言ってんでしょ!!!」

 自分でもどうしてだかわからない。ただ、やり場のない苛立ちが一部の隙も無く体に充満した瞬間、金切り声が噴出した。

「私みたいなゴリラ、誰も襲わないし!!」

 目を丸くしてポカンと呆気に取られている花垣を憎々しげに睨んだ。橘さんと付き合ってるくせに。あんな可愛い彼女いたら、私なんてゴミみたいなものだろう。

「い、いやー草壁さん普通にゴリラじゃ、」
「ゴリラだし!! すぐ手ぇ出るしいちいちうるさいし!! ゴリラだもん!! 私ゴリラだもん!!」
「なんでそんなゴリラって言い張んの!?」
「うるさいうるさいうるさい!! 花垣にはわかんないよ!! 可愛い彼女いて!! なんかすごい人達に気に入られてて!! 選ばれてるアンタには絶対私の気持ちわかんない!!!」

 橘さん。金髪ツーブロックの男子。高身長の弁髪の男子。小柄だけど圧倒的支配者のオーラを纏っている男子。どれもこれも華やかな人達だ。花垣はそんな人に必要とされ、好かれている。
 私が、私なんかが、もし、少しでも特別な感情を向けたら、花垣だって顔をしかめて言うんでしょう?

『ぜってー無理』

 さっきの男子の言葉が花垣の声で再生されると、心臓に亀裂が入ったような痛みが私を貫いた。目蓋の下が固く盛り上がって、眼球に熱い何かが押し寄せる。もう、どうにでもなれ。私はひきつけを起こしたように息を吸って、ヒステリックな声を叩きつけた。

「どーせ私みたいな僻んでばっかのブス、花垣だってクズだって思ってんでしょ!!!」
「え!? 全然!?」

 間髪入れず、だった。一瞬も躊躇うことなく否定されて、猫騙しを食らったように一拍の空白をもたらされる。虚を突かれ呆然と見上げた先で、花垣が「いやいやいやいや!」と顔の前で右手を高速で振っていた。

「草壁さん、ぜんっぜんクズじゃねーから! マジ立派! つーかオレがマイキー君達とつるめてんのもなぁー……」

 花垣は視線を落とし、また私に焦点を合わせる。苦笑いを浮かべていた。

「ゲームで言うと二周目っつーか。知ってるからなんとかなってるっつーか……お助けキャラのおかげっつーか……」
「……はぁ?」
「うん、訳わかんねえよな。でもホント、オレは大した事ねえの。オレ自身の力だけだったら今普通に腐ってる」

 花垣は現実に起こった事のようにきっぱりと言い切る。
 
「マイキー君やドラケン君と仲良くやれてんのは奇跡で。……ヒナと一緒にいられるのも、もう、マジで奇跡なんだ」

 続けて、一言一言に真摯な重みを籠めながら、噛みしめるように言う。私達はまだ十四年しか生きていないのに何十年分かのような重みが籠められていた。

「普通じゃありえねぇ奇跡の上でなんとか踏ん張ってるだけ。二週目みたいなモンなのにさ、まだフッツーに間違えるし。だから草壁さんみたいなさぁ、奇跡無しで中坊の頃からしっかりしてる子見るとマジ偉いなーってソンケーしちゃうんだよな」

 前も言ったけど、と付け足してから、花垣は後頭部で手を組んだ。ちらりと私を横目で見て、

「……なんかあった?」

 恐る恐るだけど迷子に『どうしたの?』と尋ねるような柔らかな口調で、そう尋ねてきた。そんな風に聞かれたら、もう駄目だった。
 凝り固まっていた黒い蟠りがときほぐれていく。
 目蓋の下で硬く盛り上がっていた涙が眼球に押し寄せ、決壊した。口内の肉を血の味がするほど噛みしめても止められない。花垣の慌てふためく声が鼓膜を震わせた。うるさいのに、嫌じゃない。


 男子が裏で私の悪口を言っていた場面に偶然出くわしたことは言えたけど、その内容は言えなかった。嫌いだけど同い年の男子に異性としての魅力に乏しいとこき下ろされていた事を言えなかったのは、私のプライドの高さと、花垣への思いが原因だろう。
 胸の中でひっそりとだけど確かに膨らんでいるこの想いに、私はもう目を逸らせない。逸らすには、大きくなりすぎた。

「庇う訳じゃねえけどさぁ……中坊んくらいの男ってマジ馬鹿なんだよ。いやオレはこの歳なっても、あっヤベッ、今の! 気にしないで!」

 花垣は突然慌てふためき顔の前で両手をぶんぶん振る。時折出る花垣の奇怪な行動を胡乱げに眺めている私から少し目を逸らし、「アハハ!」と乾いた笑い声を誤魔化すように取ってつけている。

「正しい事言われると反発したくなるっつーかさ。自分をかっこよく見せる事にとにかく必死で。オレもかっこつけたくて手っ取り早く他校に喧嘩売りに行った結果、とんでもねーことになったしさ……」

 ガクリと肩を落として項垂れ、花垣は力無く笑う。そういえば、と思い至る。夏頃、花垣にさして注目していなくてどうでもいい男子の群れの一人だったから正直記憶に乏しいけど、確か花垣と花垣の友達は皆目が落ちくぼみ、生気に乏しかった。だけどいつからか花垣の目に生気が戻り、大人びた言動が増えて、今に至る。
 
 私は花垣が今の花垣になってから気になるようになった。だけど橘さんは今の花垣も前の花垣も、どちらにも恋をしていた。タケミチ君と可憐な声で叱咤したり気遣ったり、いつもいつも、傍にいた。

「あいつ等も何年か経ったら、絶ッ対ェ、草壁さんのが正しかったってわかるよ。オレですらわかるようになったから。
 …………つーか、」

 花垣は諭しかけるような口調をやめ、じぃーっと私を凝視してくる。丸い目に真正面から捉えられ、顔に全身の熱が集まっていった。へ、え、なに。あ、私、顔、ぐちゃぐちゃ、やばい。今更とわかりつつも前髪を手櫛で整える。

「草壁さん、広瀬すずにちょっと似てね?」

 ……………………は?

 突然知らない人の名前を出されてぽかんと呆ける私を差し置いて、花垣は「うん! 鼻が似てる!」とひとりで納得して頷いてる。

「ヒロセスズ?」
「あっそっか! まだテレビ出てねーか! ヤベッ!」
「はぁ?」
「あーーえっと! うん! えーーーっと……アハハハ!」

 花垣はまた取ってつけたよつな笑い声を上げた。…………コイツ、マジで時々なんか本当におかしくなるよね……。ドン引きしていると花垣は「まぁつまり!」話をまとめるように声を上げた。

「草壁さんマジブスじゃねーから! ゴリラじゃない! 女子! 可愛い!」

 時間が止まったのかと錯覚を覚えるほどに、私の世界から音が消える。
 静まり返った中で、花垣の声だけが反響を続けている。

 ――可愛い!

 初めて異性から投げられたその言葉は、花が咲き誇るように体の中でぶわぁっと広がる。胸の底で小さく熱いものが破裂し、ぶくぶくと泡立った。息が詰まってうまく呼吸できないし逃げ出したいほど恥ずかしいのに、嫌じゃない。

「……草壁さん? おーい! 草壁さん!? ハッ、これセクハラになんのか……!?」

 頭を抱えて見当違いな懊悩を始める花垣にぎょっとすると、散り散りに散らばっていた思考回路が慌てて動き始めた。声を張り上げて、必死に言い募る。

「そ、そんな訳ないじゃん! てかセクハラって何そのオッサンみたいな思考回路!」
「オッサン……!? やっぱ中学生にとって26ってオッサン!?」
「は……?」
「あっいやえーーっと! ほら! マイキー君とかに言われたら嬉しいと思うけどさ!」
「マイキー……君?」マイキー君が誰を指すのかわからず、首を傾げる。そういえば先も言ってた。
「ほら、授業中オレを遊びに誘いに来た人」
「ああ……」

 あれがマイキー君≠ゥ。突然授業に割り込んできた小柄な男子を思い出しながら頷く。確かに猫のような大きな目が特徴的な整った顔立ちをしていた。小柄な体躯からは食物連鎖の頂点に聳え立つようなカリスマ性が溢れかえっていて、男子も女子もかっこいいと色めきだっていた。彼には本能的に人を惹き付けるオーラがあるのだろう。授業中に遊びに誘うだなんてと鼻白んだ私でも正直彼に可愛い≠ニ言われたら間違いなくテンション上がる。だけどそれは特別な人間にちやほやされて自分は周囲と違う選ばれた人間だと思いたい浅はかな考えが源だ。マイキー君≠ノ可愛いと言われて嬉しいんじゃなくて特別な人間≠ノ言われたから嬉しいということ。

「…………別に」

 花垣≠セから嬉しいのと全然違う。

「マジ……?」

 コクリと頷く。花垣は「草壁さんって変わってんなぁー」と珍しい動物を見るような眼差しでまじまじと私を見た。

「別に珍しくないでしょ」
「えーそっかなぁー」
「……橘さんはマイキー君とかに可愛いって言われるよりも、花垣に言われた方が嬉しがるでしょ」

 花垣はぱちくりと瞬かせてから、でれっと頬を崩した。「やーそっかなぁー!」と声を上擦らせ、後頭部に手を宛がっている。見るからに調子に乗っている姿を醒めたで見ながらも、胸はチクリと痛んでいた。
 『橘さんは』じゃなくて『私は』だったら、こんなに喜ばなかっただろう。
 
「……日本は今すぐ彼女持ちの男子は他の女子に優しくするなという法律を作れ」
「……ん? ごめん、草壁さん今何つった? 早口すぎて聞き取れなかった」
「独り言」

 怪訝そうに私を見てくる花垣の間抜け面を眺めながら、ああでも無理だろうなぁと諦観がじわりと染みるように広がっていく。たとえ国が規制しようが、コイツは好きな子じゃなくても泣いていたらその原因を探り心を砕いてくれる。
 そういう奴だから私はこんな感情を抱くようになったのだ。きっと、橘さんも。

「橘さんのどーゆートコ好きなの」
「……はいぃ!? や、藪から棒に……」
「へ、減るもんじゃないしいいじゃん」
「えーーー……恥ずいな………」

 花垣は頬を赤らめてボソボソと籠った声で語り始めた。胸の内に仕舞い込んでいた言葉を、大事に大事に取り出すように。

「……草壁さんはオレちゃんとしてくれるっつったけど、オレ、ほんと、すぐ投げ出すような奴なんだよ。ヒナの前ですっげー情けねぇ姿晒してだっせぇ事言ってガキみてぇに駄々こねた事あんだ。でもヒナはさぁ……」

 花垣の声が掠れて、尻すぼみに弱まっていく。目がうっすらと赤く染まっていた。すんっと鼻を鳴らしてから息を吐いた後、ハッと我に返ったのか慌てて言い募る。

「あっ今のはちょっと目にゴミが入って!」
「いいよ、もう、言わなくて」

 途切れた言葉の先は、二人の大切な思い出なんだろう。誰も入る事が出来ない。無理矢理割り込んだとしても虚しいだけだ。

「大切な思い出なんでしょ。言わなくていいよ。橘さんを好きになるの普通にめちゃめちゃわかるし。……すっごく良い子だよね」

 ただの事実を口にするだけなのに、一瞬、喉の奥で言葉が足踏みした。助けてもらったのに私はまだ彼女に蟠りを抱いている。

「……うん、そうなんだ。オレには勿体ねぇ」

 目覚めた時のように一瞬目を大きくしてから、ふわりと笑う。目は口程に物を言うって本当だ。花垣の目には、橘さんへの思いで溢れ返っている。

「……そんなことないって思うけどな」
 
 小さく独りごちると、鳩尾が締め付けられたように息苦しくなって、気付かれないように浅く息を吐く。本心なのに、苦しい。
 
「ん?」
「……なんもない。もう遅いし、私、帰るね」
「お、ほんとだ。大分暗いな。……送った方がいいと思うんだけど……いい?」
「なんでそんなきょどってんの」
「や、さっきすっげー嫌がられたから……」
「い、嫌がってないし!」

 ――あ。思わず本音が飛び出て慌てて口を塞ぐ。花垣はぱあっと目を輝かせた。

「嫌がってないか! やーよかったー! 草壁さんに嫌われたらマジつれーもん!」

 ……………………日本国憲法に今すぐ『彼女持ちは彼女以外の女子と喋る時考えてから物を言え』を追加してほしい。
 少女漫画のヒーローがよく『オマエが可愛すぎるのが悪い』と自分が制御できないのを主人公に責任転嫁しているけど、まさに今私はそれとほぼ同じ気持ちだった。こっちがどれだけ耐えているのかも知らずに。ふざけるな。

 花垣と肩を並べながら夜道を帰る。冬の冴え冴えした空気の中、花垣が喋る度に息が夜を白く染めた。まるでそれが魔法のように私の目にはきらきらと輝いて見える。花垣にとって私はただのクラスメイトで、私が歩こうが喋ろうが何の感慨も持たないのに。

 困らせてやろうか。ちりっと胸の奥がささくれ立った。真っ黒とまではいかないけど、灰色の物思いが胸の中で靄のように広がる。

 困らせてやろうか。私の気持ち全部ぶちまけてやろうか。そしたら花垣は自分にそういう感情を抱いている女子と二人で夜道を歩いた事になる。もしかしたら橘さんに浮気判定されるかもね。関係に罅が入って少しずつ少しずつ崩れて行って、
 そしたら、
 そしたら花垣は。

「草壁さんちってこの角を曲がったトコだよな?」
「うん。ねぇ、花垣」
「ん?」

 私より十センチ程度上にある花垣の顔が少し斜めに傾いた。私の声を聞き取ろうとしているのだろう。
 一直線に見つめられると、身体がぶるりと震えた。とくんとくんと心臓が甘やかな旋律を奏で、雲の上に佇んでいるみたいに足元がふわふわと覚束なくなる。頬が内側も外側も火照って、花垣がそこにいるそれだけの事実が私を作り上げるすべての細胞を息づかせる。体全体が心臓になってしまったみたいに、つむじから足の爪先までどくんどくんと振動していた。

 すうっと息を吸い込んでから、一思いに告げる。

「もういい」

 乾燥している冷たい空気が、口内に流れ込んだ。

「え……? あれ、草壁さんち、もうちょい先じゃなかったっけ?」
「うん。いいよここで」

 心の中で『ごめん』とこっそり謝罪する。花垣の事困らせてやろうと思った。すんでのところで留まれたのは私が良い子だからじゃない。
 花垣の困った顔を見たくない。
 花垣にはずっと笑っていてほしい。
 どれもこれも、私の為の理由だ。

「花垣さぁ、橘さん以外の女子から好かれたらどうすんの?」
「………えっ!? な、何急に!?」
「も、もしも話! ……どう思うの?」

 花垣は何拍か置いた後、素っ頓狂な声を上げた。「えーーーっと!」と目玉をきょろきょろ動かせながら、鼻の穴を膨らませている。ああ、やっぱり。

「しょ、しょーーじき……すっげぇ嬉しい……」

 頬を崩しながらでれでれと笑ってる花垣を白けた目で見上げると「えっ駄目!?」と花垣はショックを受けていた。

「あったり前じゃん。サイッテー! 橘さんカワイソー!」

 大きく身振り手振りしながら慌てふためいて弁解する花垣の姿は見苦しく、自然と眼光を鋭くしてしまう。花垣は「その目やめて!」と泣き声を上げた。

「だってさ! オレの事好きって思ってくれてんだよ!? オレの事見てくれてるって事じゃん! そんなん普通にすげぇめっちゃテンション上がるよ!」

 ……こういう奴なんだよなぁ。真剣に切々と訴えかけてくる花垣を呆れながら眺める。眺めている内に、きゅうきゅうと心臓が疼いた。こういう奴。こういう奴なんだ。橘さんの事大好きすぎて他の子からの好意を受け取れないくせにその気持ちを無碍にできない奴なんだ。誰かの一生懸命な思いを笑わない奴なんだ。
 だから。だからだからだからだから。

「あ、あの、草壁さん、その、この事ヒナには内緒で……」
「どーしよっかな」
「あああああああああ草壁様お願いします!! お願いしますお願いしますお願いします!! 殺される!!!! あの! これ差し上げますんで!」

 口止め料にとポケットからハイチュウを取り出してきた。「しょぼ!」と思わず声に出す。けど「マジお願いしますお願いしますお願いします!」と必死過ぎる花垣の剣幕がウザくて、しょうがなく受け取った。
 一瞬花垣の掌の部分に指が触れた。硬くて厚い感触が、指先に強く残る。

「……じゃあ、私帰る」
「うん。……あの草壁さん……」
「言わないから! ……花垣、」
「ん?」

 花垣の目を真っ直ぐ真正面から捉えて、地面に足をしっかりつけて、私は言った。

「ありがとう」

 送ってくれて。
 正しいって言ってくれて。
 可愛いって言ってくれて。
 私にこの感情を教えてくれて。

 ありがとう。だから、困らせたくないから、言わないよ。

 五文字に色んなお礼と決意を籠めると、花垣はぱちくり瞬いてから「どいたま!」と大きく笑う。何故か鼻の奥がつんと尖った。こういう感情って不思議だ。ただ言葉を交わしているだけで胸が苦しくなって、逃げ出したくなって、泣き出したくなる。だけど決して嫌とかじゃない。

「草壁さん、またなーーー!」

 花垣は私に向かってぶんぶん大きく手を振ると、背を向けた。月光と街灯を受けた金髪がきらきらと輝いている。馬鹿みたいに光って見える。じっと眺めている内に、金色がふやけて溶けていった。熱くてしょっぱい液体の量はどんどん勢いを増し、とうとう目蓋を支えきれず下ろしてしまう。だけどそれでも目蓋の裏側で、点滅を繰り返していた。

 私のこの気持ちは、いつかはわからないけど、きっとなくなる。大人になる頃には今日の出来事を振り返って『そんなこともあったなぁ』と微笑ましく笑っているのだろう。
 どうせいつかなくなる思い。陳腐でありふれたものだ。だけどちっとも無駄に思えないんだ。何も成し遂げられなかったのに、何かが、私の中で息づいている。
 
 どうかもう少しだけ縋りつかせてほしい。だってすごく誇らしいんだ。他の誰でもなく花垣にこの感情を抱いた自分の事が、好きなんだ。妬んで、ヒスって、めちゃめちゃみじめで嫌な女になったけど、だけど好きなんだ。

 ごめんねとありがとうをたくさん籠めて、ひっそり二文字の言葉を口の中で唱える。熱くて湿っぽい感情が喉元にせり上がった。ふーっと息を吐いて、花垣が消えて行った方向を見据える。

 雪のように儚く淡い思い。いつか溶けてなくなる。
 
 だから、だから、どうか、それまで、いつかその日が来るまでは、好きでいさせてね。


 
 

 


I will think about you until the day comes.



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