橘日向――橘さんを知らない子はうちの学校にいないだろう。

 少し垂れ目がちの、黒目がちの大きな瞳。柔らかそうな頬は、白桃のようだ。熟れた果実のように血色の良い、小ぶりの唇。顎に小さく添えられた黒子が、可愛らしい顔立ちに品のある色香を漂わせる。他校にも名を轟かせるほど可愛いのに驕ることなく素直で天真爛漫で優しい、らしい。
 
 私は彼女と喋った事ないから、ホントにいい子なのか知らないけど。



 理科Uの教科書を忘れた私は友達に教科書を借りた帰りの廊下で、橘さんを見つけた。友達と楽しそうに談笑し、頬を緩めている。橘さんがころころ笑う度に、ふわふわのボブが揺れていた。色素の薄い猫っ毛は、空気をはらんでいるみたいに柔らかそうだ。なんとなく、自分の髪に手を伸ばしてみる。硬くごわついている自分の髪の毛の手触りを確認すると、何とも言えない虚無感が雪崩れ込んだ。

 ……ホントにそんな良い子なのかな。じっとりと湿度の高い疑惑が浮かんだ私は、歩くスピードを緩めて、橘さんと橘さんの友達の会話に神経を集中させる。
 友達から聞いた橘さんの評判は、少しの不快感と意地の悪い衝動をもたらした。暴力を奮いたい訳ではない。でも少し、引っかき傷をつけてやりたい。


「んー。でもヒナはね、」

 ……自分の事、ヒナ≠チて呼んでるんだ。

 橘さんの一人称が自身の名前と知った瞬間、ぶりっこ≠ニいう文字が浮かんで、こっそり鼻を鳴らす。小さな子じゃあるまいし。ヒナ、だって。
 橘さん。花垣が気になるにつれて、彼女の存在も同時に深く圧し掛かるようになった。何のかかわりもないのに、彼女の事を思うと胸の奥底をざらついたものが摩っていく。

 私も昔は一人称が自分の名前だったけど、幼稚園児みたいでダサいから、小学校高学年にあがったらやめた。電車料金大人になった今も自分の事を名前で呼んでいるとかなんて幼いんだろう。大体、顔だってよく見れば、皆が言うほど可愛くない。

 真っ黒な靄が増殖し、心を覆っていく。橘さんの欠点を見つけ出そうと躍起になった私は、彼女の欠点をこじつけて拾い上げる度に、湿度の高い喜びが沸き上がった。不安定に揺らめきかけた自己肯定感がしっかりと根を張り、意識を正常に保たせる。
 花垣には好きな子がいる。氷柱のように鋭く尖った事実を心臓に打ち込まれても立ち上がるには、橘さんの欠点を見繕いでもしないと、やってられないということを、私は無意識のうちに悟っていたのだろう。口元を教科書で隠しながらほくそ笑んで、更なる彼女の欠点を求める。

 目が大きいだけで、バランスとかそんなに良くな――

 ちら、と橘さんに視線をさりげなく遣った時、不意に彼女もこちらを見た。視線が繋がってしまい私は慌てて顔を背ける。や、やば……! 焦燥感に追い込まれた心臓は早鐘を打ち始めた。理科Uの教科書をぎゅうっと握りしめて足早に去ることで、橘さんから距離を取ろうとすると。

 暖かく柔らかい掌が、私の腕を掴んだ。

 ……え?

 振り向いた先では、橘さんが真剣な顔で私をじっと見つめていた。まさか心の声が漏れていたのだろうか。いや、そんなはずは――頭の上に大量の疑問符を並べていた私の耳元で、橘さんは神妙に囁いた。

「生理始まってる」

 ――え。

 あと一週間後に始まるだろうと踏んでいた私は、当然パンツにナプキンを貼り付けていない。ということは、つまり。

 頭から冷水を浴びせかけられたように、全身から血の気が引いていった。

「やだ、だって、まだだって……!」
「うん。急に始まると吃驚するよね」
「だって、私、いつもちゃんと……!」
「うんうん。そうだね。とりあえずトイレいこっか」

 スカートに染みがついたであろう状態で廊下を歩いていた。今の自分の状態を頭の中で整理すると、身体の内側で、私の血が恥ずかしさで沸騰する音が爆音を轟かせ始めた。恥ずかしくて居たたまれなくて目の奥が熱い。感情が昂ると泣く事で調整を図ろうとする女子の通例に従って、眼球に涙が押し寄せていた。

 橘さんは私をさりげなくトイレに誘導すると「ちょっと待っててね」と柔らかく微笑みかけてから、トイレを出た。小走りで戻ってきてくれた後、スヌーピーの小さなポーチを広げた。

「いつも使ってるのある?」

 橘さんは私にポーチの中身を見せる。いつも私が使っているナプキンは無くて首を振ると「ごめんね」と橘さんは眉を潜めて謝った。橘さんは何も悪い事してないのに何故謝るのだろう。そう言いたかったけど、情けなさと恥ずかしさで頭の中がぐちゃぐちゃにこんがらがっている私は何も言えず、ぶんぶんと首を振るだけ。

「じゃあ、これとこれあげるね」
「い、いいよ……!」
「いいからいいから! あとはスカートだよね……。体操服だと目立っちゃうし、なんで? って聞かれちゃうよねー……。保健室行こっか! 替えのスカートあると思う!」

 橘さんは今初めて喋った女子の粗相に真剣に考え込んでくれた。しかも「そのままじゃ歩きにくいよね」とセーターを脱いで私の腰に巻き付けてくれる。私は小さな子のようにされるがままだった。どうして橘さんがモテるのか、まだ喋って十分にも満たないけど深い納得が胸の中で浸透する。

 一人称が自分の名前だからと侮蔑したり、よく見れば大した顔じゃないと嘲笑した私がどうしてモテないのか、
 花垣とただのクラスメイトなのかも、すごく、納得する。

 納得は染みのようにどんどん広がり、やがて眼球まで押し寄せた。下唇を噛むことで耐えていたけど橘さんの「生理って急に来るから困るよね」と唇を尖らせた表情が私の中の何かを大きく揺らした。涙が決壊する。溢れ出た雫は熱い頬を濡らしていった。

「ごめん……!」
「大丈夫大丈夫! ヒナもねー、昔お気に入りのスカート汚しちゃったんだ」

 違う違う違う。ふるふると首を振って否定する。声に出しては言えなかった。つい十分前まで、私は一度も喋ったことのない橘さんを上辺だけの情報で知ったようになり薄暗くてじめじめした、底意地の悪い言葉を連ねていた。
 
「ごめんね……!」

 泣きながら必死に謝る私に「大丈夫だよ」と優しく語りかける橘さんの声は、私の背中を擦るてのひら同様優しくて温かい。
 この子は私のように、誰かを不当に貶めて、醜く浅はかな泥のついた物思いを蠢かせることはないのだろう。
 だって橘さんは、花垣が好きになった女の子なんだから。





 放課後、私は水の中を歩くような重たい足取りで廊下を歩いていた。

 六時間目の授業に、私は出なかった。

 六時間目の始まりを告げるチャイムが鳴っても私の涙は止まらず、先生は『今回だけね』と呆れながら滞在を許してくれた。
 橘さんは最後まで私を労わってくれた。
 罪悪感が私を締め上げ、喉に鉛を押し込まれたように息苦しくなる。橘さんはすごく良い子だった。言葉遣いこそは少々幼いけど、イレギュラーな事態に慌てる事無くテキパキ行動する姿は大人びていた。『だって』や『やだ』を多用しパニックに陥るだけの私とは大違いだった。

 花垣、女子見る目あるじゃん。

 ただの事実を心の中で唱えると、身体の内側が砂のように乾いていくのを感じた。

 ……さっさと教室戻ろう。部活、遅れてすみませんでしたって謝らなきゃ。

 多分クラスの友達が部長に私の体調不良を告げているだろうけど、けじめはつけないといけない。生理痛自体はないんだから、全然元気だから、だから、部活には。

「やっぱ橘だろ!」

 教室まであと数歩というところで、窓から男子のはしゃいだ声で飛び出てきた。タチバナ≠フ四文字は私の脚を竦ませ、止まらせるだけの効力を持っていた。

「隣通った時さぁー、すっげー良い匂いしたし!」
「それ顔関係なくね?」
「総合で見てんのオレは!」

 ……ああ。男子数人の会話を少し聞くだけで全て察すると、白けた気持ちが心を染め上げた。同時に苛立ちが沸き上がる。ホント、男子って馬鹿だしデリカシーない。

「顎にさぁ、黒子あんのエロくね?」
「あーあれいいよな! 橘童顔なのにってギャップがさぁー!」

 大丈夫大丈夫、と私の背中をさすってくれた柔らかい掌の感触がまだ残っている。白く小さなてのひらが、男子の発言で汚れていくような気がした。わざと音を立てて入ってやろうと足を踏み出そうとした時、

「つかさっき、草壁と絡んでたよな。あれ何?」

 私の名前が突然出てきて、怒りに猛っていた気持ちの勢いが削がれる。出鼻をくじかれた私は足を中途半端に浮かせたまま固まっていると、ひとりの男子が「知らね」と返してから

「並んだら、差ァやばかったよな」

 私を、せせら笑った。

 下から蹴り上げられたように心臓が飛び跳ね、縮み上がる。喉の奥がヒュッと鳴って、頭皮から脂汗が噴き出した。体内に氷水を流し込まれたように体温が冷えていくのを感じた。

「ぎゃはは! 確かに! 正反対だよな!」
「草壁さぁ、すぐ手ぇ出るしババアみてぇにうるせえよな。オレ、あいつだけはぜってー無理!」

 揶揄に塗れたぜってー無理!≠ヘ氷柱のように鋭く尖り、杭を打つように私の心臓に刺さる。心臓を中心に、身体が凍りづけられていった。
 私は愚弄し蔑まれているのだから『ふざけんな!』と怒鳴り込む権利を有しているはずなのに、何故かそうしようという気が全く起きない。強い衝撃を受けてろくに動かなくなった思考回路では、何かを考える事、何か行動を取る事ができなくなっていた。

「草壁に惚れる男とか、ぜってーいねぇよ」

 男が嫌いだ。

 デリカシーないしガサツだし悪いことがかっこいいとか思っていて、性的な事への興味が女子よりも遥かに大きくて本当に気持ち悪い。男なんて皆死ねばいいのにと願った事は両手じゃおさまり切れない。
 だから好都合だ。私も男が嫌い。男も私が嫌い。両思いだ。同じ気持ちが重なり昂揚した気分になってもおかしくないのに、何故か酸欠さながらに息苦しい。

 橘さんはこんな風に、男子から『ぜってー無理』って言われる事ないんだろうな。

 霞がかったように不明瞭な思考の中で導き出した答えは、地動説のように正しく理に適った正解だったのだろう。
 水に落とした一滴の墨汁があっという間に広がるように、簡単に、私の心を塗りつぶしていった。


 

No man can become rich without himself enriching others.



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