……サイアク。

 塾の終わり。帰路を辿っている最中、自転車を少し漕いでいる内に、私は異変に気づいた。外れてほしい。けど当たってるような気がする。胸にしこりみたいな不安を抱えながらスタンドを立たせ、タイヤに触れる。空気が抜けてベコンベコンに凹んでいた。そういえば今思い返すと行きも少し怪しかった。けど塾に遅れそうだったから空気が抜けつつあるタイヤを見て見ぬ振りをした。そのツケが今たたったらしい。……サイアク。サイアクサイアクサイアク! はぁっと重い息をついて軽く舌を鳴らす。ママに車で迎えに来てもらおうか。ああ、でもママが来るまで待つのは億劫だ。早く家に帰りたい私は、自転車を押して帰ることにした。

 冷たい風が首筋を攫い、身震いする。……寒いな。今は秋と冬の境目の季節だけど、夜になると冬≠フ成分の方が強い。冬の夜特有の切れ味の鋭い空気が鼻の奥を尖らせた。
 いつもは自転車でサーッと帰っているけど今日は歩きだから当然時間がかかる。有効活用すべく支点力点作用点≠心のなかで唱えることにした。

 支点、力点、作用点ー。

「あれ、草壁さんじゃん」

 支点、力点、作用点ー。

「草壁って誰」
「同じクラスの子。おーい、草壁さーん」

 支点、力点、作用点ー。

「草壁さーん!」

 支点、力点、作用て――

「草壁さーーーーん!!!」
「うひゃあ!?」

 突然、横から花垣が現れた。金髪のツーブロックの男子のバイクの後ろに跨っている。花垣は驚く私に「のわぁっ!?」と驚いていた。

「え、は、はなが、き、なに……!?」
「や、草壁さんじゃんって思って声かけたんだけど。駄目だった?」

 声をかけられるは、嫌じゃない。熱くなった頬を心持ち少しだけそむけて「別に……」とぼそりと答える。さっきまで寒さで震えていた身体はいつのまにかじんわりと火照っていた。なんだか無性にそわそわする。無暗に手を動かしたくなって、私は顔周りの髪の毛を弄る事にした。

「夜に一人で歩いてんの危なくね? ほら、不審者情報回ってきたじゃん。チャリ乗って帰んなよ」

 花垣は今日先生から回された不審者情報のプリントについて言及しているのだろう。男がキモいのはこの世の真理みたいなものだし、毎日のように回ってきているので正直私は感覚が麻痺していた。ああ、と薄い反応を返してから、自転車を押してる理由を答える。
 
「パンクしたから。だから押して帰ってんの」
「マジ! ……んー、千冬。止めて。オレ草壁さん送ってくわ」

 え……! 心臓がほわんと宙に浮かび体の内側がそわそわと落ち着かなくなった。気持ちは別にいいと突っぱねたい気持ちと流れに身を任せたい狭間に揺られていたけど、体は硬直していた。あ、えっと、その、えっと。

「おいタケミっち浮気かー? ヒナちゃんに殺されんぞ」

 火照った体が急速に冷えていった。冷水を頭から被せられたみたいだった。

「ちょ……っ、千冬そーゆーこと言うなって! ヒナに聞かれたら殺される!」

 目をひん剥いた後慌てふためいている花垣を、金髪ツーブロックの男子はゲラゲラ笑っていた。金髪ツーブロックの男子は、顔立ち自体は可愛らしいけどどことなく荒削りな雰囲気を纏っていた。顔立ち自体は中学生だけど中学生とは思えないほど完成されている。イケてる£j子だ。クラスのアホとは違う洗練された空気に私は気後れする。花垣ってこういう男子と仲良いんだ。……そういや、いつか『僕たちはただの中学生じゃありません!』を前面に押し出した他校の男子達から授業中に遊びに誘われていたな……。強い存在感を放っている小柄な男子と大柄な男子だった。周囲を圧倒するカリスマ性を持っている人達から、花垣は気に入られていた。
 
 私は誰かから特別視された事なんて一度もない。最近眉毛を整えることをようやく覚え始めた。個性ゼロで、せんれんのせ≠フ字もない私は二人と同じ空間に存在することが居たたまれず、肩身が狭くなる。

 ……それに。

 ふわふわのボブスタイルが脳裏に浮かんで、胸の奥が抓られたみたいに痛んだ。

「いい。私一人で帰れるから」

 花垣と金髪ツーブロックの男子から目を逸らし、速歩きする。

「え」

 花垣の間抜けな声を置いて歩みを進める。心臓は依然、親指と人差し指で抓られているみたいだった。ものすごく痛いわけじゃないけど、でも少し痛い。その痛みから意識を反らすため、私は花垣の悪口を思うことにした。バイクでニケツとかしちゃいけないのに。まだ中二なのに。掃除ちゃんとしてて偉いって思ってたのに。ヘルメットも被ってなかった。悪いことがかっこいいとか思ってんのかな。やっぱ男子って馬鹿だ。ほんと馬鹿。あーー馬鹿馬鹿。花垣も所詮男子、

「草壁さーーん!」
「のぎゃあ!?」
「のわっ!?」

 またしても花垣に背後から突然呼び止められ、私は驚きで飛び跳ねる。何故か声を掛けた超放任の花垣まで驚いていた。

「な、なに!?」

 私の心臓は依然ささくれ立っていた。声を荒げて尋ねると、花垣は少したじろいでから「や、送ってこうかなって思って……」と後頭部をかきながら下手くそな愛想笑いを浮かべた。どうせ花垣も私の事怖いとかゴリラだとか思ってるんだろう。

「いいって言ってんじゃん! 私一人で帰れるから!」

 ハリネズミの如く声を尖らせる私に花垣は「でも危ねぇし」と小さな子をなだめるように言う。

「危なくないから!」
「いやいやあぶねぇって。草壁さんは女の子なんだから」

 全方位に尖っていた心が、みるみるうちに丸みを帯びていくのがわかった。暖かくほわほわとした何かが私の身体を満たしていく。
 夜なのに、私の瞳に映る世界が鮮やかな光彩を放ち始めた。

「……草壁さん? おーい」

 花垣に目の前でひらひらと手を泳がされ、ビクッと肩が跳ねる。距離が、近い。ぱっと顔を背ける。夜でよかった。多分今、顔赤い。

「……お礼とか、何も出せないからね」

 どうしてこんな可愛げのないことばかり言ってしまうんだろう。だから私はゴリラなんだ。自己嫌悪に浸る私を掬い上げるように、「オレ、女子中学生にたかるように見える!?」と間抜けな声が響き渡った。



「草壁さん何してたん?」
「塾」
「はぁ〜〜、塾。偉いなー。草壁さん頭いいしなぁ」
 
 花垣に感心したようにしみじみと呟かれ、口の中がムズムズする。同い年の男子から臆面もなく褒められる事は滅多にない私は、どう対応していいかわからず「べつに……」と素っ気なく返してしまう。
 昔から不正が不真面目な事が嫌いな私は、いわゆる学級委員長<^イプで、男子からは目の上のたん瘤として煙たがられていた。私も私で馬鹿でガサツな男子なんて大嫌いだから煙たがられたところで痛くも痒くもない。
 男子なんて皆馬鹿。皆嫌い。私が勉強していたらがり勉と馬鹿にし、ちゃんと掃除しろと注意したらうるせえブスと罵ってくる。

「……別によくないよ。地頭良くないから、毎日必死に勉強して、なんとかしがみついてるだけだし」
「いやいいから! つか毎日コツコツやってんのが偉いよ! は〜……草壁さんはちゃんとした大人になんだろうなぁ……」

 それなのに、花垣は大袈裟に私を褒めてしみじみと感心するものだから、調子が狂う。人間一人分を挟んだ花垣との間にある空気がもどかしく、痒く、くすぐったい。口内の肉を必死に噛んで、緩みかける頬を必死に抑えた。

「べ、別に、当然だし。来年受験だし」
「や、偉い偉い。オレなーんも考えてなかった。……マジ、何も考えてなかった」

 花垣の声のトーンが落ちて、ふわふわと宙に浮いていた私の心は固まる。花垣を直視することがなんだか恥ずかしくてずっと斜め下に向けていた視線を花垣に合わせた。いつもの能天気面はそこになく、代わりに苦み走った自嘲を浮かべていた。

「オレさ、いつも逃げる事しか考えてないの。だから草壁さん見てるとマジ偉いなーって思う。あーこういう子はちゃんとした大人になって立派に働くんだろうなーって。……って、ゴメン。何か急に自分語りしちまった。歳取るとつ……あっなんもない! なんもない、」
「花垣、ちゃんとしてるよ」

 花垣の訳の分からない弁明を遮り、私は声を張る。花垣とちゃんと目を合わせるのは恥ずかしくて、私は花垣から少し目を逸らす。声を張れたのは最初だけだった。花垣が私の話を聞いているのだと思うと、心臓がぎゅうぎゅうと熱くなって、声が尻すぼみに消えていく。
 
「花垣、絶対女子にブスって言わないじゃん。掃除もちゃんとしてるし。合唱コンの練習も、花垣だけ真面目にやってたし。だから、ちゃんとやってる。
 花垣は、ちゃんとしてる」

 ボソボソと籠った声で言い終えると、全速力で走った後のように、心臓がバクバクと動き始めた。……ま、マジのトーンで男子を褒めてしまった。い、いやでも、普通の事なんだけど。ブス呼ばわりしない事も掃除をちゃんとすることも合唱コンの練習に参加する事も普通で当然で当たり前だ。やらない奴等がおかしい。でも花垣はちゃんとやっている。面倒ごとから逃げずに、ちゃんとやっていた。

 心の中で本音を言い訳のように並べ立てて、今の発言は声に出すべきものだったと納得させる。だって事実だ。空は青いだとか夜になると月が見えるとかそういうのと同じただの事実だ。だから恥じることなどひとつもない。
 花垣が自分のことを悪く言っているのがなんか嫌とか、そういう思いが加えられているのだとしても、事実なんだから、言うに値する言葉だ。
  
「……草壁さん」

 真剣な声色に心臓がどくんと動く。恐る恐る焦点を少しだけ花垣に合わせると、声同様に、真剣な眼差しで花垣が私を見ていた。緊張感が私の身体を蝕み、心臓を締め付ける。どくん、どくん、どくん、どくん。耳元に心臓を押し付けられているみたいに、鼓動の音が聞こえる。

「いい子だなぁ………!」

 私の緊張感を一気に打ち崩すような情けない声が少し上から降ってきて、何とも言えない虚無感が胸に垂れ込む。今度こそ焦点を花垣にきちんと合わせると、花垣は目にうっすらと涙を浮かべていた。

「草壁さんマジ良い子! ほんっと良い子! いやー親御さんに大切に育てられたんだろうなぁ! ちゃんとしてるしなぁ!」
「べ、別に普通の事、」
「いやいやいや! ありがとな! オレ今すっげー救われた! うん、オレ……頑張る!! なんったって草壁さんのお墨付きだしな!」
 
 私は男子から煙たがられている。小姑だとかガリ勉だとかゴリラだとかそんな風に悪口を言われてばかりだ。
 だけど何故か花垣は喜ぶ。私に少し褒められたからって「黒龍がなんだー!」と調子に乗って叫んでいる。いや黒龍ってなによ。単純すぎる思考に辟易しながらも、胸の奥はもぞもぞと震えて、悪い気分じゃなかった。花垣が、元気そうに笑っている。

「……単純」

 男子は馬鹿だ。馬鹿は嫌いだ。だけどこういう馬鹿さは、嫌いじゃない。だから不覚にも、口元が少しだけ緩んでしまった。








「美月、さっきの子彼氏?」

 ハンバーグを噴き出しかけた。慌てて飲み込んで、ママを睨みつけた。

「ば……っ、違うに決まってんじゃん! なんでそーなんの!」
「んー、そうだったらいいなーって。あの歳で女の子のことお嬢さん≠チて言うのいいじゃん。あれよあれ、ギャップ萌えってやつ」

 私の真向かい側に座りながり、ママは得意げに若者言葉を使う。うっざ……と心の中でげんなり独りごちながら味噌汁をすすった。

 塾だったからケータイをマナーモードにしていた私は、ママからの連絡に気づかなかった。連絡もつかずなかなか帰ってこない私をママは心配し、玄関まで出ていた。事情を知ったママは花垣にお礼を述べる。
 すると花垣は締まりなくへらへらと笑った。

『あっいえいえ〜お嬢さんにはいつもお世話になってるんで……』

 ……………………お嬢さん…………。

 人生で初めてお嬢さん′トばわりされ、体温が5度上昇した。ゴリラだとかブスだとかそんな風に罵られてばかりの人生でお嬢さん≠ヘきらきらとひかる。まるで夜空に浮かぶ、一番星のように。

「狙っちゃえば?」
「なんでそーなんの! てかアイツ超かわいい彼女いるし!」

 ママと特定の男子の話をするのが居たたまれなく早く話を終わらせたい一心でそう言うと、途端に鉛玉を放り込まれたように胸が重たくなった。熱くて痒かった頬が一気に冷め、ハンバーグが喉でつっかえる。

「あ、そーなんだ。残念ね」

 残念と言いながらもママはさして気落ちしていなかった。もう花垣の話題に飽きたらしく「ねねね、今日のデミグラスソース手作りにしたんだけどどう?」と料理の感想を求めてくる。

「…………いんじゃない」

 そう答えながらも、あまり味はしなかった。



 

A real loser is somebody that’s so afraid of not winning, they don’t even try.



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