いちかばちかの





 一番になったことがない。
 
 オレより強い奴もオレよりデカい奴もオレより脚が速い奴もオレより頭が回る奴もそれなりに見てきた。
 オレの役目をこなせる奴は山ほどいる。オレじゃなければいけない事はこの世にない。誰かの何かの代替わり。名前の付け方だって長女の赤音が赤≠セから次に生まれた子供にも色をつけよう。そんな具合だ。
 向上心なんて無いしそれを悲しく思うほど感受性の強い人間じゃない。そういうもんかとなんとなしに受け止めている。

 一番≠ヘオレ以外の人間のためにあるもんなんだろう。

 だから吃驚した。

『今まで出会った全人類の中で、乾君がいっちばん面白い!』

 人生で初めて向けられた一番
 なかなか胸に馴染まずいつまでも反響を続けた。






「中野陽子。オレと付き合ってる」

 花垣やら松野やら三ツ谷やら八戒やらとにかく知り合いに会う度に隣の中野を説明すると、全員揃って雷に打たれたように硬直した。柚葉に至ってはしばらく呆然とした後、目をキッと吊り上げて『アタシの後ろに隠れて!』と中野の手を掴んで自分の背後にやったほどだ。あいつオレを何だと思ってんだ。

「イヌピー君、君は一体今まで何をしてきたん……」

 中野は『何かあったらアタシに連絡して』と真剣な顔の柚葉と連絡先を交換した後、しみじみと噛みしめるように問いかけてきた。その目はオレを見ているようでどこか遠くを見ている。

「黒龍入ってイザナの側近になって手当たり次第に」
「わかった! よしわかった! わからんけどわかった! てかまた新しい人出てきたな……!」

 中野は自分から訊いてきたくせに慌ててストップを掛けた。じゃあ最初から訊くなよ。と苛立ちが沸くがキレる程ではない。進んで語りだしたい話でもないし口を噤む。

 中野はオレをイヌピー君≠ニ呼び始めると、元々の快活さに輪を掛けて快活になった。以前はオレの発言に頬を膨らませて変な顔で必死に何かを耐えていたが、今では耐えることなく噴き出してひいひい笑う。『イヌピー君といるとなんか全部どうでもよくなる』と訳の分からない言葉を添えて。

 中野とは告られたから付き合っている。女と付き合えばココの気持ちが1ミクロン程度はわかるかもしれない、そんな期待を籠めて。もし中野以外の女に告られたらソイツと付き合っただろう。女なら誰でもよかった。

 初めて中野と映画を見に行った日の感想は無≠ノ満ちている。当たり障りのない会話をし飯を食いに行った。中野はちんたらと食っていたので置いて帰った。
 女と付き合うのクソつまんねえ。そう思ったけど一回目じゃ何もわからねぇかと思いとりあえず二回目も誘った。二回目は一回目よりはマシだった。黒龍の創設メンバーの話をするのはいつだって楽しい。シンイチロー君マジかっけぇ。 

 中野はひとりでべらべら喋り行先も自分で決めてくれたので楽だった。ココが赤音に抱いたような感情は未だ沸かないしこれからも沸く事はないだろうけど、堅気の女がどんなもんか気になるしとりあえず三回目も会う事にした。

 三回目は適当に渋谷ぶらついて四回目は遊園地で五回目は飯食いに行って六回目つまり今日は特に決めずに会っている。なんかよくわかんねぇけど会っている。どこにでもいる普通の女子高生に、なんとなく会い続けている。オレの行動ひとつひとつに目を丸くして『いやいやいや!』と声を上げた後、大きく笑うどこにでもいる女。なんとなく、一緒にいる。

「イヌピー君の人生ってめちゃめちゃ濃いよねぇ……。何をどうしたらこんなことに……。あ、そうだ! アルバムとかない? 私小っちゃい頃のイヌピー君見たい!」
「アルバムねえ」

 名案を思い付いたと言わんばかりに輝いた中野の目が強張る。黒くて濃い睫毛がぱちぱちと揺れていた。
 
「火事で全部なくなった」

 事実を告げると、中野はぶん殴られたようにポカンと虚脱状態に陥っていた。

「……あ、えっと……」

 中野の瞬きの回数が速くなり、瞳が定まらなくなった。忙しなく泳いでいる視線が一瞬オレの額を掠める。窺うような眼差しの意図はすぐにわかった。「あー」と頷きながら、顔の右側を指した。

「これ、火事の時の」

 もうすっかり体の一部と化した火傷の跡を指しながら答えると、中野は「そう、なんだ」と掠れた声で言った。無理矢理押し出したような声。場を繋ぐためだけの、意味の無い言葉。どう対応したらいいかわからずとりあえず愛想笑いを貼り付けた中野に白けた気持ちと少しの罪悪感を同時に覚える。余計なこと言っちまった。                                                                                        
 これで姉貴が死んだと言おうものなら更に顔を強張らせるだろう。今みたいに、言わなくていいことを言った時に、自分の口下手っぷりを痛感する。言うべきことはなかなか言えないくせに。

 霜が降りたように表情を固まらせている中野に言う。

「今のなし。忘れろ」

 そして、驚きと戸惑いに埋め尽くされた顔がいつもの笑顔に戻るのを待った。

 けど中野は、唇を喘ぐように震わせてから口角を上げた。無理矢理作り出された笑顔に、苛立ちがささくれ立つ。

 中野は笑った。だけどいつも馬鹿笑いとは違う取り繕った笑みに、心は落胆に沈み苛立ちが燻る。中野に向けてというよりはオレ自身へのものだった。なんでこう、オレは不器用なんだろう。きっとココやドラケンならもっと上手いこと立ち回れた。

 困らせてやりたい訳じゃなかったのに。

「あ、のね、イヌピー君!」

 気遣いにまみれた声に苛立ちがあおられ、八つ当たりだとわかっていても声が尖り「んだよ」と荒々しく返す。

「うちんち、ここから結構近いじゃん? 私のアルバム見にこない?」

 だが、斜め上の申し出に牙を抜かれる。きっと間抜け面であろうオレに、中野は「どうかな?」と笑って首をかしげた。





 中野の家のマンションのエレベーターに乗りながら「オマエ時々関西弁でんのあれなに」と聞いたら「えーマジ? 小三まで関西に住んでてさぁ。多分その名残」と返された。そんな風にクソどうでもいい会話をしている内にいつのまにか気詰まりな空気は消えていた。

「ただいまー……あ、いるなぁ」

 中野は玄関を見下し、何かを確認していた。「ちょっとうるさいかもだけど、いい?」と苦笑混じりに尋ねられ無言で頷いた時だった。キィッとドアが開く音が鳴り、なんとなしに視線を向ける。ドアの隙間から中野によく似た男のガキともうひとり男のガキがオレを凝視していた。中野は「あー、やっぱそうかー」と視線を合わせるように屈んで、柔らかく笑いかけた。

「いらっしゃい、ハジメくん」

 心臓が深く沈み込み、そして肋骨を突き破らん勢いで跳ね上がった。どくん、どくん、どくん。心臓が強く音を立て、首筋がざわざわと震えていた。唇の渇きを覚え、舌で湿らせながら『ビビってんじゃねえよ』と自分に毒づく。よくある名前じゃねえか。

 ハジメ≠ヘ「お、お邪魔してます……」とボソボソと挨拶した後、オレに視線を滑らせた。敵意の籠った視線。ガン飛ばされている。肌がびりっと痺れ、苛立ちがささくれ立った。やんのかコラ。
 応戦するようにすうっと目を細めて眼光を鋭く尖らせると、視線がぶつかって火花がばちばちと飛び散った。「イヌピー君あのその小学生にガン飛ばすのは……!」と冷や汗を掻きながら間に入った中野に、中野によく似たガキが能天気に問いかける。

「ねーちゃんそれ誰?」
「こ、こら! それじゃない! この子は乾青宗君。えーっと……」

 中野は一瞬だけ、ほんの一瞬だけハジメ≠ノ目を遣ると何とも言えない笑みを浮かべながら、オレに手を向けた。

「彼氏」

 その瞬間ハジメ≠ゥら生気が消えた。
 ハジメ≠フ目が多分最大限まで見張られていく。眼球の周りがぴくぴくと痙攣していた。「ハジメー?」と中野によく似たガキの呼びかけに答えない。しかしもう一度呼ばれるとハッと我に返ったようだった。弾かれたように肩を跳ねさせた後、中野を見つめ次にオレに視線を送る。

「〜〜〜っ」

 下唇をぎゅうっと噛み締めながら、憤怒の炎を籠めた眼差しでオレを睨むと踵を返して荒々しく部屋の中に戻って行った。中野によく似たガキはほうほうと頷いてから「よ! 男泣かせ!」と言い残し、そしてドアの中に引っ込んだ。

 パタン……とドアが静かに閉まる音が響き、何とも言えない静寂が広がる。

「あいつオマエに惚れてんじゃね」

 心の中に浮かんだ言葉をそのまま投げると、中野は「あ〜……」と目を明後日の方向に泳がしながら、曖昧に笑った。気付いてんのか。まぁ気づくよな、と納得する。上擦った声に赤らんだ頬。数年前も見た表情だ。

 ココはガキの頃からクソ生意気だった。だけど赤音を前にすると頬を赤らめ『赤音さん!』と声を上擦らせる。そんなココを、赤音はどう思っていたんだろう。オレが気付くぐらいだから、気付いていたとは思うけど。

「イヌピー君、私の部屋こっち」

 眉を八の字に寄せながら笑う中野に案内されるがまま部屋の中に入る直前、針のように鋭い視線を感じた。振り仰いだ瞬間にドアが閉まる。ガン飛ばすなら最後まで飛ばせと苛立ちながら、数年ぶりに、女の部屋の中に入った。






『火事で全部なくなった』

 顔色ひとつ変えずに重い過去をこともなげに口にするイヌピー君に、私は何と返せばいいかわからず固まった。だけど視線はどこに置いたらいいかわからずにぐるぐる回る。けど視線がイヌピー君の額に差し掛かった時『ああ、だから』と納得が広がり、思わず視線を留めてしまった。だけどイヌピー君は不快だと眉を潜める事もなく『これ、火事の時の』とさらりと説明した。

 それにもうまく反応できなかった私は、ただ愛想笑いを浮かべた。どうしたらいいかわからなかった。辛い事や苦しい事から逃げ回り何かと真剣に向き合う事の無かった私はイヌピー君の語る過去にどう向き合えばいいか、全然わからなかった。

 何か言わなくちゃ、何か言わなくちゃ、何か言わなくちゃ。イヌピー君の澄んだ眼差しを受ける内に焦燥感が募り、募りに募った末に出てきた言葉は、何故か、

『うちんちここから結構近いじゃん? 私のアルバム見にこない?』

 なんでやねん。

 自分でも訳がわからない内にイヌピー君を家に誘ったけど、まさか乗られるとは思わなかった。イヌピー君の事だからアルバムにかこつけて真の狙いはヤる事という訳でもないだろう。イヌピー君は女子にあまり、否、全く興味を持っていない。イヌピー君が興味あるものはバイクとかかっけぇ先輩とかそんな感じだ。多分彼の精神は小五で止まっている。

「なんかこのアルバムすげぇチカチカする。なんでこんなベタベタセロハンテープ貼ってんだよ」
「違うよこれマステだよ………。だってこうした方が可愛いじゃん」

 テーブルの上に広げた中学の時のいつメンで作ったアルバムを二人で覗き込む。イヌピー君は私の注釈に対し『くだらねぇ』と顔で返した。普通にムカつくけど笑顔の下に隠し込み「次どんなんだったっけなー」とアルバムを捲る。

「わー、懐かしー」

 久しぶりに開けたアルバムは懐かしく、私を郷愁に浸らせた。2004年、中二か。今より幼い私と友達を微笑ましく思いながら次のページを捲る。

 ページを開き切った瞬間、私は固まった。
 中学生の私が隣の男子に寄り添いながら、嬉しそうにピースをしている。
 派手に飾り付けられた元カレとのツーショがでかでかと貼り付けられていた。

 私の口が止まると沈黙が降り立ち、場の温度が一気に下がった。や……っばぁ〜〜! 頭皮から汗がどっと拭きだし心臓はロックバンド並に騒ぎ始める。気まずい。最高に最悪に気まずい。今彼と一緒に元彼のツーショを見る。何をどう考えても気まずい事態に私の胃はしくしく泣き始めた。やばい。やばいやばいやばい。横たわる無言をどうにかしたくて「あ、あはははは!」と笑い声を無理矢理上げた。

「な、懐かしいな〜! えっと、まぁ、もう全然会ってないし! ほんと! 高校別々になったらメール返ってこなくてなんかおかしいなーって思ってたら彼女作っててさ! そんな感じで終わったからもうほんと全然会ってなくて!」

 事実なのにどうして言い訳がましい口調になってしまうのだろうか。焦りから声が上擦り早口になっていく。違う、これは違うんだ……! と浮気現場を取り押さえられた人間のように慌てる私とは対照的に、イヌピー君は落ち着いていた。硝子玉のように丸く静かな瞳を向けられているうちに、焦燥感はますます募っていく。

「いやほんと、もう見事に私捨てられてさ!」
「オマエなに笑ってんだ」

 静かだけど、矢を放つように切れ味の鋭く、真っ直ぐな声だった。直接心臓を叩かれたように、胸の奥がびりっと震え、声を失う。笑ったまま硬直しているであろう私を、イヌピー君は不愉快そうに目を細めて、睨むように見ていた。

「裏切られたんならムカつくだろ」

 そんなこともわかんねぇのか。聞き分けの悪い子どもを前にしたような苛立った声は、逃げる事を許さないような圧がある。まるで池の中に投げ込まれた石のようだった。泥が舞い上がって池の中がすうっと透き通っていくように、当時感じたムカつくとか、悲しいとか、無理矢理封じ込めていた負の感情が姿を表す。

 最初からここにいたと、主張するように。

「……ムカついた、けど」

 ぽろり、と声が漏れる。いつの間にか膝の上に置いていた手をぎゅっと拳に握っていた。

「でも、私が怒ってもどうしようもなんないし、気持ちが離れちゃったものは、仕方ないし、」
 
 ボソボソと声が籠り始めた事にはたと気付き、私は慌てて、でも内心の動揺を悟られないように笑みを作って「終わっちゃったものは、終わっちゃったしね!」と明るい声で完結させた。終わり良ければ総て良し。笑って適当にやり過ごせば、イヌピー君もこれ以上言及することはないだろう。
 悲しいとかムカつくとかそんな負の感情を他人に見せるのはみっともない。大体フラれて追い縋るとかそんなの超絶ダサいし、駄目なら駄目と切り替えてさっさと次へ向かうのが得策だ。少し感情に蓋をすれば効率よく生きていける。私も周りも、嫌な思いをせずに、

「あ?」

 イヌピー君は眉を潜める。だからなんだと一蹴するように。

「オマエだけ我慢すんの変だろ」

 さも当たり前だと言わんばかりに、そう言った。

 単純明快な、何の計算も施されていない、馬鹿みたいにド直球の言葉。少年院に収監されていた事を開けっ広げに告げ、犯した罪状までご丁寧に教えてくれた。カッとなったら本能の赴くままにキレて、衆人の中掴みかかる。上手に生きる事よりもその時その時の感情に従い生きていくような単細胞男子の言う事なのに、何故だか、どうしてだか、熱くて湿っぽい何かが、私の胸の中に押し寄せ、喉元まで広がっていった。

 熱い塊を押し戻すように唾を飲み込む。イヌピー君から目を逸らして「そうかなぁ」と声を震わせないように笑う。すると視界の端で乾君が「おう」と力強く頷き、ぎゅっと拳を作った。

「裏切り者にはシメあるのみだろ。やってきてやろうか」

 なんでそうなる……! 
 自分の発言になんらおかしい点はないと信じ切っている曇りなき眼のイヌピー君を前に、胸の中を巣食っていたじゅくじゅくとした熱い思いは瞬く間に霧散した。

「いいから! なんでいちいち暴力沙汰にしようとすんの!」
「この前殴った詫びだ。遠慮すんな」
「ほんっとにいい! ほんっとにいいから! 遠慮とかじゃなくてほんっとにいいから! ていうか捕まるよ!? もう更生したんじゃないの!?」
「後ろからやればバレねぇ」
「だから後ろからはあかんってばーーー! 前からもあかんけど!」
「あ、関西弁出た」
「そこ注目しんくていい! とにかく! シメはなし!!」

 ぜえぜえ息を切らしながら必死に『やめろ』と説くと、イヌピー君は「訳わかんねえ……」とぼやきながら不承不承に頷いた。いや君のが訳わからんから。多分全人類の九割が私に共感するから。疲労感が肩にどっと圧し掛かり項垂れる私の隣でイヌピー君はまたアルバムに視線を戻し「オマエこの頃今よりデブだな」と失礼過ぎる感想を漏らす。ここまでくると怒りよりも呆れが上回る。この子整備士になった時口の悪さでお客さんを逃すんじゃないだろうか。性質の悪いお客さんに出くわし0.1秒でキレるイヌピー君を思い描くと何とも言えない疲労感が圧し掛かり、脱力感に襲われた。だけど、どこか爽快感も感じていた。

 そのままでいてほしいと、思った。

 私が『面倒くさいからいいや』となあなあにやり過ごしている事をあっさりとやってのけるその姿に、呆れと羨望と、眩しさを覚えた。

「私もイヌピー君みたいになりたかったなぁ……」

 イヌピー君に釣られてか丸裸の本音が思わず漏れる。イヌピー君からの返事はなく、一拍、空虚な間があいた事で、私らしくないしんみりとしたテンションだったことにようやく気付いた。はっと我に返ると、イヌピー君が驚いたように私を見据えている。水晶玉のような瞳が真ん丸になっていた。

「あ、えと」

 イヌピー君の食い入るような視線に気恥ずかしさを煽られた私は、居たたまれない空気を一新すべく「そ、そうだ!」と明るい声を上げる。無理矢理過ぎて空々しい響きをはらんでいたけど、強引に押し通した。

「写真撮ろうよ! アルバムないなら、これから作っていけばいいんだし!」

 ケータイの内カメを起動してイヌピー君に近づくために座り直す。腕を取るか取らないか一瞬悩んで――取らない方が不自然だと思い、イヌピー君の腕の中に自分の腕を滑り込ませた。
 まあ、付き合ってるんだし。……それに。
 私と元カレのツーショに対し顔色一つ変えなかったイヌピー君を思い出すと、いつの間にか胸の奥に生まれた小さなしこりが疼いた。目の端でいつも通りスンッとした真顔のイヌピー君を捉えると、更にモヤモヤが増殖する。

 私達、一応付き合ってんのに。

「うーん。もうちょっと寄らないと」

 頭の中で電卓を叩きながら、イヌピー君にさっきよりも寄り添ってみた。思考回路を的確に巡らせた上での、計算の末のボディタッチ。柔らかく触れる程度に胸を押し付けた。偶然当たりました、という演出。

 口の中が異常にむず痒い。
 心臓がばくばく騒いでいる。こんなの今まで何回もやったのに。やっぱ、元ヤンが相手だからだろうか。

 カシャッとシャッター音を切ると、私はイヌピー君から離れた。いつまでくっついてんだと凄まれたら怖いし、何より、心臓の音がいよいよ誤魔化せそうになかった。

「これ送っとくね!」

 仏頂面のイヌピー君と笑顔の私が映った写メをイヌピー君の目の前に翳す。イヌピー君は写真と同じ仏頂面だった。「ん」と頷く声も、いつも通りの一本調子だ。イヌピー君は実直だ。少年院に入っていた過去を堂々と口にする程度には、実直。だから、こずるい私のように小手先の技を使う事はしない。無理して真顔なんじゃない。本当に、何とも思っていないのだろう。

 ずくり、と何かが疼く。凶暴と呼ぶには生温く、かと言って友愛に溢れた優しい感情でもない。
 
 ただ、どうしようもなく。

「ねーちゃーーーーん!」

 念には念をと完全に閉じ切らず少しだけ開けておいたドアの隙間から、弟がひょこっと顔を出した。驚きのあまり私はびくっと弾かれたように飛び上がる。

「な、なに!?」
「四人でスマブラしよーぜー! ハジメがねーちゃんの彼氏ぎたぎた、もごご」
「馬鹿! ちげーし! ただボコボコにしてぇだけだし!」

 弟の口を両手で抑えたハジメ君は私の目を見ながら「ど、どうでしょうか!」と必死に言う。私は別にいいけど……。ちらっとイヌピー君に視線を滑らす。すると私に釣られてかハジメ君もイヌピー君を見た。私と話している時に輝いていた目はイヌピー君に移るが否や、ギラギラと嫉妬心を燻らせ、串刺しにせんばかりの勢いで睨み始める。ああ、あかん。今までの彼氏だったらいいけど、今の彼氏にそれやったらあかん。

「あ、あのね、ハジメ君、イヌピー君は、このお兄ちゃんはちょっと、その、堪え性が、」
「いいぜ」

 イヌピー君は静かに頷く。そして、すくっと立ち上がり、男子小学生を冷たく見下ろしながら言い放った。

「全員ぶっ殺してやる。特にオマエ」

 売られた喧嘩は全部買う。そう豪語してやまないイヌピー君は、案の定、小学生相手にも全力だった。思わず頭を抱える私の隣で愚弟が「イヌピー持ちキャラ何ー?」と呑気に聞いている。「フォックスに決まってんだろ」いや決まってはないやろ。


 ただ、どうしようもなく、困らせてやりたくなった。





(こうかはいまひとつ 1マス進む)



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