一生懸命生きてるね


『年少入ってたし、中学ほぼ行ってねえ』

 乾君が事実を淡々と告げた時、私はドン引きしながらも感心していた。もし私が乾君だったら少年院に入っていた過去をひた隠しにし、あの綺麗なお顔を使って合コンを謳歌しただろう。
 だけど乾君はそれをしなかった。周りに引かれるかもとか怖がられるかもとか臆することなく、一切躊躇わず、あまつさえ『殺しとレイプ以外はやったな』と手に染めた犯罪まで申告する始末。ほとんどやっとるやないかい。

 ドン引きしながらも、絶対に関わりたくないと思いながらも、ほんの少しだけ。小匙一杯にも満たないような思いだけど。
 ユカリはちゃんと周りと喋れてるかな。私はまたナナコに悪口言われてないかな。
 そんな風に周りの目を気にしてばかりでええかっこしいの私は、我関せずと堂々と生きる乾君が少しだけ、眩しく見えた。






 夢と現実のつなぎ目で揺蕩っていると、何かの気配を感じた。何かが、誰かが、じいっと食い入るように私を見つめている。あまりにも見られすぎてそろそろ針程度の穴が開きそうだ。「んん……」と掠れ声を漏らしながら目蓋をこじ開けると、視線の主と目が合った。

「起きたか」

 さっきまでブチ切れていた乾君がすぐそこにいた。

 ……この人感情の波の差が激し過ぎやしないか……とぼんやり乾君を眺めている内に意識が覚醒し、見慣れない部屋が目の前に広がっている事に気付いた。乾君は床に直接座りながら私に何か、冷たいものを押し当てている。乾君はそれを私から離すと「少しマシになったな」と独りごちた。そうしてやっと、乾君が私の頬を氷で冷やしていたことに気付く。

 そして、乾君の肘鉄を食らった事を思い出した。

 サァーッと血の気が引いていくのを感じながら、乾君から距離を取るべく起き上がる。脊髄に氷水を流し込まれたように身体全体に寒気が走り、歯の奥がガチガチと合わなくなった。恐怖で完璧に目が覚めると口の中が切れている事に気付き、思わず顔を顰める。鉄の、血の味がする。

 乾君はじいっと私を見つめていた。さっきまで怒気に燃え上がっていた瞳は驚くほどに静かで、何を考えているのか読み取れない。ただずっと、私の事を見ている。何を思ってるんだろう。ここに私を連れてきてどうしようと言うんだろう。

『殺す!! 死ね!! 死ね!!!!』

 躊躇うことなく本気の殺意を人にぶつけていた乾君が脳裏に浮かぶと、更なる恐怖が私を覆った。この子は何をしでかすかわからない。私の元カレや男友達とは違う。全然違う。意味わかんない、宇宙人みたいな奴。こんな奴とどう接していけば、

「悪かった」

 混乱と恐怖に渦巻いた思考を遮るように、小さな謝罪がぽつりと滴り落ちた。

 思考がはたと止まる。乾君が発した言語が何を意味するのか一瞬理解できず、ポカンと呆けた。今、何て。
 私の内なる疑問を知ってか知らずか、乾君は目を伏せながら淡々と言葉を重ねていく。その声は籠っていて、ひどく、重たかった。

「……オレ、キレると、頭がすげぇカッとなって、周りが見えなくなんだ。あん時、ココの事言われて、」

 声が更に重くなる。乾君はココ≠ノ差し掛かると言い淀み、下唇を浅く噛んだ。すうと小さく息を吸う音が響く。決意を秘めた声音。

「ココっていうダチが、いたんだ。すげぇ頭の切れる奴で、ずっとオレの傍にいてくれた。……アイツは自分の全部をオレに懸けてくれたのにオレは何も返せなかった。シンイチロー君の創った黒龍もただ腐らせた。気付いたら年少入って、周りを傷つけてばっかで。……何も、できなかった。自分の痛いトコ突かれて、気付いたらぶち切れてた。……ごめん」

 乾君は後悔に沈むように項垂れながら、ぽつぽつと謝罪の言葉を重ねていった。見栄や体裁を取り繕う事せずに、ただ、自分の不甲斐なさを淡々と語っていく。感情を抑えようとはしているけど言葉の節々からやる瀬なさが滲んでいた。

 乾君はたくさん悪い事をしたのだろう。今日、暴力を奮う事に乾君は全く躊躇っていなかった。少年院に入っていた過去もある事から、彼は私の知っている男子とは違い、一線を越える事が出来る人間なのだろう。
 頬がじんじんと痛みで痺れている。ぼうっとしながらひたすら俯いている乾君を見つめた。綺麗な顔立ち。少年院に入っていた過去を打ち明けれなければ今頃本当の彼女が出来ていたかもしれない。
 だけど乾君はそれをしなかった。今もしなかった。

 私ならできない。
 自分がどれだけ弱いか、情けないか、茶化さず真っ直ぐに口にするなんて。 

「……つーことで。オマエにどう償えばいいか考えたんだけど、やっぱこれだろ。目には目を歯には歯を、だ」

 乾君は厳かな口調で重々しく呟いた後、何かを掴み、そして床に立てた。ダンッと鈍い音が鳴る。

「これでオレを思い切りぶん殴れ」

 曇りなき眼の乾君は、血しぶきの散った鉄パイプを「はい」と私に差し出した。条件反射で思わず受け取ると手の中がずっしりと重くなる。冷たい金属だけどさっきまで乾君が握っていた部分は生温かった。

「………は?」

 乾君の思考回路の流れが本当に少しも掴めず間の抜けた声を漏らすと、乾君は「だから」と苛立ったように言葉を足した。

「これでオレをぶん殴れつってんだろ。チャラ……にはならねぇけど、オマエだけ殴られっぱなしってのは不公平だろ。やれ」
「は? ちょ? え? あ、あれ? 目には目を歯には歯を……ってそういうこと……?」
「だからそう言ってんだろ。オマエは殴られたんだから殴れ」
「なるほど〜〜! ハンムラビ法典〜〜! ってちょっと違うでしょ!!! は!? これ鉄パイプ!? 思い切り殴ったら死ぬでしょ!」
「あ? 元特攻隊長舐めんじゃねえ」
「わぁ〜乾君偉い人だったんだ〜〜! って違う違う違う! 特攻隊長だろうが何だろうが! 鉄パイプで殴られたら人は死ぬ!!!」
「三ツ谷は大丈夫だったぞ」
「殴ったんか! これで殴ったんか! ちょっと待ってこの血痕ミツヤのー!? ていうかミツヤって誰!?」
「東卍の弐番隊隊長だ。後ろから殴った」
「後ろからーーー!?」

 突拍子もない発言の数々は私を覆っていた恐怖をあっという間に吹き飛ばした。私のツッコミに対し乾君は淡々と答え続けてくれるけどその答えがまた新たなボケを呼ぶので私のツッコミは全く止まらない。過去の乾君の卑怯な行いに目をひん剥くと、乾君は気まずそうに目を逸らした。

「後ろからって……後ろからって駄目でしょ! それはあかんでしょ!」
「……ごめん……」
「いや私に言われても! ていうかそれで大丈夫なミツヤ君すごいな……つよ……」
「くそ、思い切りやったのに……」
「何悔しそうにしてんの! てかしかも思い切りやったんか!!」

 悔しそうに歯噛みする乾君に更なるツッコミを入れると、乾君は明後日の方向に視線を泳がした。「大分暗くなったな」と窓の外を見つめながら呟いている。話題の舵を無理矢理切ろうとしているのが丸わかりだ。呆れて物も言えない。気まずそうに唇を引き結びながらガシガシと頭を掻いている乾君を呆然と見据える。なんなんだ、この子。

 背後からの襲撃を今はきちんと卑怯な行いとして認識しているにも拘わらず、臆することなく告げた。私なら隠す。絶対隠す。墓まで持っていく。思えば最初から乾君はそうだった。小動物系女子のユカリからのいじらしいアプローチに対し『年少入ってたし、中学ほぼ行ってねえ』……。

「オレに説得力ねぇのはわかる。でも、今はもう堅気だ。殺人部隊の特攻隊長、それから副総長の名は捨てた」

 乾君はだから信じろと言いたいのか、大真面目に私にそう伝える。その時、年少発言に全員から引かれているにも拘わらず唐揚げをもぐもぐ頬張っていた乾君が浮かんだ。あの時も今も、目だけはキリッとしていた。

 あ、駄目だわ。

「ぶふぉ……っ」

 糸がプツンと途切れるように、笑いが零れる。それが全ての皮切りだった。もう駄目だった。今まで恐怖で抑えつけていた感情が溢れ出し、私を呑み込む。笑いの渦に巻き込まれた私はきょとんとしている乾君を置いて爆笑を始めた。

「あははははは! ははははは! あーはははは! なによ殺人部隊って!! あはははははははははははは! ひーーーーっ。あかんあかんあかんあかんマジであかん殺人部隊はあかんあははははははははははは!」

 弓なりに反りながらお腹を抱えて爆笑する。面白すぎて涙が出てきた。せっかくマスカラ塗ったのに取れてしまう。だけど止まらない。殺人部隊はとどめの一言だった。いやでもめっちゃ真顔で殺人部隊言われたら笑うでしょ。さつ、さつ、さつじ……あーはははははは!

「オマエやっぱ打ち所が………。おい、いいからそれでぶん殴れ。思い切り来い。撲殺する感じで」
「はははははは! ははははは! 撲殺!! 撲殺とか言う人はじめて見た! なんでそうなんの! 何がどうしてそうなったらそうなんの! ひーーーっ、くるし、ゲフッ、ゴフッ」

 笑い上戸な私はこの数年間で一番面白い発言を食らい、堰を切ったように笑いが止まらなかった。笑いすぎて腹筋が捻じれて痛い。そろそろ笑いを止めたいのに乾君が「殺人部隊の何がそんなおもしれぇんだ」と真剣に訊いてくるからその度に新たな笑いを引き出されて死にかける。腹筋が。

「はあ、はあ、もう、いぬいくん……ぶふぉ……っ」

 上下に荒く動いている胸元を抑えながら息も絶え絶えに呼ぶと、乾君は「オマエ大丈夫か」とやべぇ奴を見る眼差しを私に向けた。元・殺人部隊の特攻隊長にやべぇ奴と思われている……。そう思うと「ひーっ」とまた引き笑いしてしまった。

「はあ、はあ、はあ、しんど………」
「そりゃそうだろ……。おい救急車呼ぶか? マジで頭やべぇぞ」
「ぶふぉっ、だって、だって乾君が面白すぎるから……」
「あ? どこがだよ?」
「えー?」

 乾君に右眉を不可解そうに上げて尋ねられたので、私は指折りながら数え始める。乾君の面白いトコ。あれとあれとあれとそれとあとあれもあった……。思い出していく内にまた新たな笑いが生まれて必死に噛み殺す。少し収まったところで、私は憮然としている乾君に向き合った。

「もう全部。全部が全部。今まで出会った全人類の中で、乾君がいっちばん面白い!」

 まなじりに浮かんだ涙を拭い、笑いながらそう告げる。すると乾君は長い睫毛を震わせるようにぱちぱちと瞬きを繰り返してから「あ?」と唸った。眉を吊り上げて凄んでくる乾君は普通に怖い。ぎゃっと仰け反ってから「わー! ごめんごめん!」と慌てて謝った。

 乾君はヤバい奴だ。いくら我を忘れてたからと言って、事故のようなものだと言って、女子にしかも彼女に肘鉄を食らわせるような奴。もし乾君が友達の彼氏だったら『今すぐ別れなよ!』と声を大にして忠告しているだろう。けど肘鉄を食らった直後、薄れゆく意識の中で固まった『今すぐ別れよう』という決意は私の中からいつの間にか姿を消していた。なんでだろう。突拍子もない事を聞き過ぎたせいだろうか。あまりにも我が道を究め過ぎた乾君に恐怖心以上に面白さが上回る。なんかもういっか、と抱えていた悩みが馬鹿馬鹿しく思えてどこかに消え失せてしまうような、そんな面白さ。

 結婚する訳じゃないし。今すぐ別れなくてもいいか。無理に断ち切りたいほど、私は乾君の事が嫌いじゃない。

 いやむしろ。

「んな笑えんなら大丈夫だな。立て。送る」

 テーブルに無造作に置かれていた鍵を掴んで立ち上がった乾君に「ねぇ!」と声を掛けると、乾君は面倒くさそうに振り仰いだ。

「んだよ」
「乾君のあだ名、可愛いね」

 ぱちっと瞬いた乾君に向かい、私は大きく笑いかけた。

「私もイヌピーって呼んでいい?」






(あだ名で呼びたい程度には 5マス進む)



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