付き合いきれません


 

「それで乾君また知らない人の話しだしてね。ワカ君って誰って言ったら『黒龍の若君だ』って言われてさ。いやいや知らんから! って話じゃん? もうほんと訳わかんなくてヤバくてさぁー。元ヤンって皆あんな感じなのかな? いや乾君だけがあんな感じな気がする!」

 お弁当を食べながらユカリに乾君のマイペースっぷりをまくし立てる。目を丸くして私の話を聞いていたユカリは「あ、あの……陽子ちゃん……」とおずおずと切り出してきた。

「乾君の事、怖くないの……?」

 今までの会話の流れをぶった切ったその問いかけにぱちくりと目を瞬かせると「え、えっと」とユカリは言葉を続けた。

「最初の頃、怖いよー! ってずっと言ってたから……」
「あ〜〜……」

 ユカリの注釈から過去の言動を思い出してそういえば≠ニ顎を何度も引いた。確か三週間前は電話でユカリに泣き付き、講習前も『もうやだー!』とすがり付いたなぁ……。というか夏休み中も講習で学校に来ていたから今も夏休み明けという感じが薄い。
 夏休み、教室でユカリに『前科持ちの男と何話せばいいのかぜんっぜんわかんない!』と泣き付いていた時のことを思い出すと胸の奥で靄がぐるぐると渦巻き始めた。

『えー! 少年院出の男が彼氏!?』

 私の不幸を喜ぶ、あの子の声。
 嫌な記憶を隅に追いやりユカリの質問に答えようとすると。

「陽子、まだあの彼氏と続いてんの!?」

 揶揄に塗れたはしゃぎ声が鼓膜を這うと、下から蹴り上げられたように、心臓が大きく跳ねた。胃の奥が消化不良を起こしたようにざわざわと落ち着かなくなる。強張りかけた表情筋を無理矢理動かして「まあねー」と声の先に向かってへらへら笑いかけた。

「やばいじゃん、前科持ちでしょー? よく続けられんね!」
「まあ、一緒にいて結構楽しいし」
「すごいね陽子! 私なら絶対無理! よくやるー!」

 粘着質な笑い声を受ける度にキリキリと胃が引き攣っていく。「そうかなぁー」と笑う事で必死に体裁を保った。笑えている。だから平気。全然大丈夫。頭皮にじとりと汗が滲み、喉がからからに渇いている。だけど私は大丈夫だ。

「その内殴られるんじゃない? 気をつけなよー」

 言葉だけ見れば友達を気遣うものだけど、言葉の節々に滲み出た毒が私を蝕んでいく。「あはは」と笑って頷いた頃には、彼女――ナナコは私に背を向けていた。言うだけ言ったら、というか私にある程度のダメージを与えたら気が済んだらしい。ドアから彼女が出て行くのを視界の端で確認すると、安堵感と疲労感が同時に肩から背に掛けて圧し掛かった。思わず息を吐くと、ユカリの心配そうな眼差しを感じ「ていうかうちの弟がさぁー!」と明るい声を作って、新たな話題を捻りだした。憐れみなんか受けたくない。

 一年の時、私はクラスの目立つグループに入っていた。人見知りせず空気も読める私はリーダー格の彼女に気に入られそれなりの地位を確立していた。だけど華やかな女子高生ライフは、ナナコの片思い相手が私に告った事であっけなく終わりを告げる。男子って本当に馬鹿だ。グループ内の力関係を確認してから告ってほしい。女の怒りは女に向くの説に則り、ナナコの中で私は友達の好きな人に媚びを売る最低女となった。

 イジメられはしなかった。裏で悪口は散々叩かれたらしいけど、表立っては言われなかった。何故裏の悪口を知っているのかと言うと、ナナコが私の悪口を言っている事をご親切に教えてくれたグループの友達がいたからだ。要らない情報まで教えてくれるのだから、本当に、ご親切な事。
 ただ、放課後の遊びに私だけ誘われなかったり、会話の最中に少し経ったら気付くような遅効性の毒を忍ばされたり、その程度だ。
 けど同じグループの子に嫌悪感を持たれている事実は私の心をじわじわと蝕み、耐えきれなくなった私は自らグループを抜け、大人しい子達で構成されているユカリのグループに入れさせてもらった。

 クラスが離れた今でも、ナナコとは時々喋る。イジメられた訳じゃないし、ケンカもしていない。だから私と彼女は友達≠フまま。
 間違えて少年院帰りの男子に告った事を廊下でユカリに愚痴っていたら、偶然その場を通りかかったナナコに『馬鹿じゃん!』と笑われた。すごく嬉しそうに笑うナナコに、私も笑った。失敗談って面白おかしく仕立て上げた方が引きずらないし、笑ってくれた方が丁度いい。

 弟の馬鹿話をしながら笑い転げる。笑えているから大丈夫。
 だから私は惨めじゃない。





「私真顔でジェットコースター乗る人初めて見た……」
「あれでどう騒げって言うんだよ」

 今日も元気に仏頂面の乾君は、オレンジジュースをずずっと吸い上げながらそう答えた。今日、私達は私がバイト先の店長からもらったチケットを元に、遊園地に訪れている。ダメ元で遊園地を誘ったら『おう』と乗ってくれたから驚いた。私が乗りたがるアトラクションにも付き合ってくれる。どれも真顔かつ無言で乗っているけど。

『よくやるー』

 不意にナナコの嘲笑が蘇り、胃の奥が膿んだようにじくじくと痛み始めた。靄のように漂い始めた劣等感を振り払うように『乾君、良い奴だし』と心の中で唱える。そう、悪い奴じゃない。良い奴だ。吉野君も更生したって言ってた。面白いし顔も良いし全然普通に良い奴。

 惨めじゃない。
 私は惨めなんかじゃない。

 胸の内で言い聞かせるように唱えながら、ちらりと乾君を見上げる。相変わらずの仏頂面は何を思っているのか読み取りづらい。

「……遊園地、誘ってよかった?」

 あまり楽しめてないんじゃと懸念が浮かび心配から眉を寄せて尋ねると、乾君は「嫌なら来ねぇ」と答えた。行きたくないけど気を遣って行くという選択肢は持っていないらしい。何とも言えない脱力感を覚えたけど同時に単純明快な乾君らしくて「あはは!」と笑いが零れる。

「乾君って遊園地いつぶり?」
「多分、七、八年振り」
「えー! 全然行ってないね! 最後に行ったの小学生じゃん! 家族と?」
「まぁ。親父とお袋と姉貴と行った」
「乾君お姉さんいるんだ! 似てる?」
「知らねぇ」

 乾君はストローに再び口を付けて吸い上げてから「周りからは似てるって言われたけど」と付け足した。

「あはは、姉弟ってそういうもんだよねー。私も弟に似てるって言われる」

 乾君はいつも通りの仏頂面で、しかも人の話を聞いているのか聞いていないのか判別し辛い表情でオレンジジュースを吸い続けていた。いつもの事なので私は構わず喋り続ける。

「目とか鼻とか似てるんだってー。親戚とかにもしょっちゅう言われんだけど、わかんないし、聞きすぎて耳タコ。ていうか私は私だし、弟は弟だしね。全然別人なのに。あ、ねぇねぇ。次お化け屋敷行かない?」

 ガイドマップのお化け屋敷を指しながら提案すると、乾君は「いいけど」と頷いてから更に言葉を継いだ。

「オマエの弟、どんなん」

 乾君から質問を受けるとは珍しい。虚を突かれた私はぱちくりと瞬いてから「えっとねー」とケータイを取り出した。データフォルダを立ち上げて弟の写メを探す。うわ、アホ面しかない。これと似てるのか……。何とも言えない虚無感を抱えながら「これ」と乾君の目の前にケータイを翳すと「ふーん」と言われた。それだけかい。





 あ。マスカラ落ちてる。

 鏡の中の私の頬の上に、1.5p程度の黒い束が落ちていた。親指と人差し指でつまみ上げ、はらりと下に落とす。手を差し出すと自動で水が出始め、マスカラを排水溝に流してくれた。

 だいたいのアトラクションに乗りつくした私たちは遊園地を後にし、地元の駅に戻って来た。ご飯に行く前に立ち寄ったトイレでひとりきりになると、肩から力が抜けていった。ふうと小さく息を吐きながら、カバンからポーチを取り出してマスカラを取り出す。相手が乾君だからというのもあるけど、私は無駄に気を遣いすぎる性分の為、誰かと一緒にいると楽しい反面気疲れも覚えがちだった。相手が悪いんじゃない。私が勝手にあれこれと気を回し過ぎるのだ。

 ……いや、乾君には気疲れというよりも……。

 今日の乾君の行動を振り返ると「ぶふぉっ」と笑いが噴き出て隣の人に怪訝そうな目で見られた。

 お化けに『急に出てくんなあぶねぇだろ』とガン飛ばし逆にビビらせていた乾君を思い出し、腹筋が捩れかける。ジェットコースターの途中で撮られた写真も乾君だけ真顔であまりの異質さに私は笑いを噛み殺すのに必死だった。気疲れではない。笑いを堪えるのに必死で、それで疲れたのだ。
 乾君は少年院に入っていたからか、それとも本来の気質なのかどちらかわからないけど、少しズレている。あまり人の目を気にせず自分が『こう』と思ったものにずんずん突き進んでいく。乾君の単純かつ豪快な言動に辟易しながらも痛快に感じていた。

 乾君といると、なんか悩みとかどうでもよくなるなぁ。

 ナナコに言われた嫌味が乾君の突拍子もない言動に上書きされていくのを感じながら、マスカラを塗り終える。鏡の中の自分に向かって頷き、手で風を送って乾かしてからトイレを出て、乾君の元に向かうと。

「乾久々じゃーん」
「元気〜〜?」

 めっっっちゃ絡まれていた。

 現役バリバリの不良三人に囲まれているにも拘わらず、乾君は全く怯えていなかった。それどころか、キレている。こめかみに血管を浮かばせながら「っぜえな……」と低い声で毒づいていた。乾君の中で怒りのボルテージが静かに高まりつつあることが窺われ、血の気が引いていく。や、やばいやばい……! 駅中で大乱闘を繰り広げて警察に捕まり少年院にUターンする乾君が一瞬にして頭の中を駆け巡った。このままだと警察25時にキレる若者として出演してしまう乾君をなんとか宥めすかすべく、生まれたての小鹿の如く震えている足を無理矢理動かし「お、お待たせ!」と乾君の隣に立ち並んだ。不良の視線が私に集まる。値踏みするような眼差しを感じながらへらぁっと笑ってみせた。

「い、乾君の友達かな? 私達急いでるから、これで」
「あ? 友達じゃねえよ」
「乾君今そこいいから……! じゃ、じゃあ!」

 駅中だ。人目が多い中、殴りかかってくることはないだろう。彼らの目的は乾君の怒りを煽り人気のないどこかへ誘導してそこで喧嘩を始めることなのではないだろうか。知らんけど。不良の考えてる事、知らんけど! とりあえずマジでキレる五秒前な乾君を彼らから距離を取らせることが重要だと考えた私は、乾君の腕を掴んで一歩踏み出そうとしたその時だった。

「今はその女の飼い犬やってんのかよ」

 せせら笑う声を受けた乾君が、ピクリと止まる。だから、乾君に引っ張られる形で私も止まった。

「……あ?」

 獰猛な唸り声に肌がぞわりと粟立つ。一瞬にして干上がった喉を潤す為に唾を飲み込んでから、恐る恐る乾君を見上げると、喉の奥がヒュッと鳴った。怒気で目は充血し、こめかみは引き攣るようにぴくぴくと痙攣している。連なるように、額の火傷の後が連動していた。乾君の怒りを煽れた事に気を良くしたのか、不良Aは更に言葉を継いだ。

「九井がいねぇと何もできねぇんだな、オマエ」

 とどめを刺すように、聞きなれない名前が嘲笑と共に吐き出された。

 ココノイ。知らない名前。誰、それ。けど、ココノイ≠ノついて考えを巡らせる時間はすぐに終わりを告げた。

 手をすごい勢いで振り払われ、衝撃で私はよろめき、後ずさる。次に瞬きをした瞬間、私の視界の中で、乾君は不良を殴り飛ばしていた。

 キャーーーッ! と甲高い悲鳴が響き渡り、呼応するようにざわめきが乾君を中心に螺旋のように広がっていく。乾君は周囲の視線を一身に浴びているというのに全く意に介していなかった。全部、どうでもいいのだろう。

「殺す……テメェ絶対殺す!!!!」

 目の前の不良を言葉通り殺す℃毎ネ外。

 乾君はココノイ≠フ名前を出した不良に跨り、殴り続けていた。ギラギラと憎悪を滾らせながら、何度も何度も拳を奮い続けている。まさか乾君がここで殴りかかってくるとは思わなかったのか、不良B、Cは一瞬呆気に取られてから「こんのクソ犬!!!」と乾君に飛びかかった。パンチを受けた乾君は吹っ飛び、だけどすぐに起き上がり血をペッと吐いてから殴り返していた。

 私の前方三メートルの世界は、死ねとか殺すとか物騒な言葉で充満していた。グチャッとかベチャッとか普段なかなか聞かない破壊音が鼓膜を這う。小学生の時の男子の喧嘩など比じゃない。成人男性の身体に近づきつつある男子の、相手の尊厳を踏みにじり合う為の喧嘩、否、暴力。人を傷つける事に一切の躊躇いを持たない暴力の応酬に、私はただ呆然としていた。

『乾君の事、怖くないの……?』

 ユカリの心配そうな声が、耳の中で蘇った。

「警察呼べ!」
「も、もう呼んだ!」

 警察≠ニいう単語が私の意識を弾き、我に戻らせる。ギャラリーの内の誰かが警察を呼んだことに気づき、さぁっと血の気が引く。今ここに警察官が駆け付けたら乾君は間違いなく連行されるだろう。喧嘩を売ってきたのはあっちだけど先に手を出したのは乾君だ。見てた人もいるだろう。『先に手を出したのは金髪の彼です』と証言されようものなら無罪は免れない。少年院に逆戻りだ。

『今が逃げるチャンスじゃん』

 不意に、私の中の悪魔が囁いた。そういえば、と納得が胸の中にじわじわと広がっていく。乾君が少年院に戻れば私は晴れて自由の身だ。ナナコに『前科持ちと付き合うとかよくやる』と見下されることもなくなり普通の彼氏≠また作れるだろう。

 普通の彼氏。彼女を吉野家に置き去りにすることなく優しくて良い奴。映画のヒロインを見た直後に忘れる事もなく知らない人の名前を当然のように出すこともない。私が今まで付き合ってきた男子みたいな奴と付き合える。

 ずっと願っていた未来をようやく再び手にできそうなのに、何故か私の心はイマイチ晴れない。踵を返す事にどうしても気が乗らない。なんでかよくわからない。
 けど、わかっていることもあった。

 乾君。乾青宗君。少年院帰りの元ヤン。ぶらっくどらごん? とか トーマン? に入っていたとのコト。今までたくさん悪いコトをしてきた、らしい。殺しとレイプ以外したという事は恐喝や盗みや暴力はしてきたのだろう。
 乾君の事、ほとんど知らない。『らしい』とか『だろう』とか不確定な語尾でしか彼を語れない。
 だけど、今の乾君は知っている。
 仏頂面でぶっきらぼうで私の些細な愚痴を覚えてわざわざバイト先まで来てくれた。

 今の乾君は、知っている。

 壮絶な暴力を前に震える脚を踏ん張りながら、下唇をぎゅっと噛む。そうして力を入れないと足から崩れ落ちてしまいそうだった。

 自分の体裁を保つためだけに良い子≠ネ私は『人を前科持ちだとかそんなことで判断しちゃ駄目よ!』と綺麗な事は言えない。――けど。

「このカス!! 死ね!!! 死ね!!!」

 私が見てきた乾君が不良少年D≠ニ括られるのは嫌だった。

 拳をギュッと握り、深呼吸してから「乾君!」と駆け出す。バクバク騒いでいる心臓を宥めるように『大丈夫』と心の中で繰り返した。大丈夫、大丈夫。乾君は更生した。今はちゃんとしてる。今の喧嘩だって向こうから吹っかけてきたんだから。声を掛けて落ち着かせれば少しは怒りも収まるはずだと目論みながら、止めに入った。

 私は乾君の事を知らなかった。
 本当に知らなかった。
 彼は昔、男女の関係なく暴力を奮っていた事を。
 キレたら、周りが見えなくなる事を。
 過去と今は、繋がっているという事を。

「お、おちつい――」
「あ゛ぁ゛!?」

 乾君の腕を掴んだ瞬間大きく振り払われた。乾君は本当に大きく振り払った。そして乾君は大きい。身長百七十後半はあるだろう。大体女子の平均身長である私は、乾君の肩より少し高い位置に顔がある。

 だから、彼の肘鉄が私の顔面にクリーンヒットした。

 強い衝撃が私を襲うと世界が真っ白に染まり、次にバチバチッと火花が弾けた。電流が流れているように、皮膚がびりびりと痺れている。

 口の中で、血の味がする。

 視界がぐわんぐわんと揺れていた。脳震盪を起こしたのか、脳みそが震えている。脚がもつれ、ふらついた。体を支えきれない。視界の点滅は勢いを増すばかりだった。白黒に明滅する景色の中で、誰かが、口をあんぐり開けて私を凝視している。

「きゃーーー!」
「女の子が殴られたぞーーー!」

 耳を劈くような悲鳴が沸き上がり、それでようやく私は自分の身に降りかかった事態を理解する。
 ああ、私、殴られたんだ。乾君に殴られたんだ。
 激しすぎる痛みに襲われた私に思考する余力など残されていない。ただ、どんどん遠ざかっていく意識はひたすら惨めに塗れていた。『その内殴られるんじゃない?』という嘲笑が私の惨めさを煽り、胸の中に虚無感がもたらされる。

 殴られた。殴られた。殴られた。
 曲がりなりにも彼氏≠ノ殴られた事実は、私をひたすら虚しくさせる。

 ――別れよう
 
 夜になると星が出るように。太陽が東から昇るように。呼吸するように。そう、思った。




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