はじめてのデート





 さーて、今後の私の人生は〜?
 陽子です。宇野君に告るつもりが間違えて乾君に告りました。『間違えた』と言ったら間違いなく殺されるので、何もできずにただ呆然と日々を過ごしています。

 さて、今日の私の予定は〜?

 陽子、前科持ちの彼氏とデートする
 陽子、前科持ちをキレさせる
 陽子、東京湾に沈められる

 の、三本です! 
 来週も私は生きているんだろうか〜!?


 あああああああああ誰かぁあああぁああぁ助けてぇええぇえぇ!
 澄まし顔で立ちながらも、心の中で私は絶叫していた。道行く人に『お願いします助けてください!』と縋りつきたい衝動を必死に堪えながら、生まれたての小鹿のようにぷるぷる震えている足をなんとか踏ん張らせる。

 私は今日、乾君とデートする。

 乾君に間違えて告白した一時間後、呆然と過ごしていると、何を思ったのか、乾君は私に電話を掛けかてきた。

「明日暇か」

 こ、これはもしや……! 嫌な予感に目がぎょっと見開き、うなじが粟立つ。言うな、その先を言うな……! 必死の祈りも虚しく、乾君は起伏に乏しい声でこう続けた。

「暇なら映画見に行かねえか」

 全く楽しくなさそうに、私をデートに誘った。

 断りたかったけど断って『あ? オレに逆らうのかテメェ?』と家までお礼参りに来られたら叶わない。私に残された選択肢はイエスのみ。泣く泣くオッケーすると、乾君は淡々と待ち合わせ場所と時間を伝えてきた。

「じゃ」

 言うが否や私の返事を待たずに、乾君は何かをブチィッと引きちぎるような勢いで一方的に切り上げた。耳の中をコール音が無慈悲に響き渡る。ツー、ツー、ツー……。
 かくしてこうして、私は乾君とデートをすることになったのだ。

 ……ホテルだけは絶対に拒否しよう。

 ユカリに事の次第を電話で泣きながら相談すると、ユカリは震える声で防犯スプレーの購入を勧めてくれた。『陽子ちゃんは可愛いし、もしかしたらその、変なことしてくるかも』と言いづらそうにボソボソと呟くユカリの言わんとしたいことを理解すると、臓器が冷水に浸かったみたいに、体が芯から冷えきっていった。

 ユカリは可愛いと誉めてくれるけど、私の可愛さは化粧と髪型と愛嬌で見た目を盛り立てているものだ。一言で表すならばそれなり=Bけど適当にヤるにはうってつけの容姿だろう。

『殺しとレイプ以外はやったな』

 静かな語り口が脳裏に蘇り、脊髄に氷水を流し込まれたように、背筋が寒くなった。どこかに連れ込まれ掛けたら唐辛子スプレーをぶっかける。口のなかで声に出さず決意を呟きながら、ショルダーバッグに手を突っ込んでお守りのように唐辛子スプレーを握った。息を詰めて出入り口を戦々恐々としながら見つめていると。

 ――いた。

 外から差し込む八月の強い光が自動ドアを通り抜けて、彼の淡い金髪をきらきらと輝かせている。Tシャツの襟で首元を仰ぎながら、乾君が入ってきた。

 乾君が一歩私に近づく度に、真綿で首を絞められたように、喉元が狭まった。胃はキリキリと引き攣り、皮膚は戦慄が走ったように鳥肌が総立ちし、心臓はドッドッドッドッと強く鼓動を打っている。

『殺しとレイプ以外はやったな』

 事も無げにさらりと語る乾君の淡々とした声がまた脳裏に蘇ると、心臓がねじ切れそうになった。怖い。怖い怖い怖い怖い……! 理屈じゃない。本能的な恐怖が全身を蝕む。どんどん近づいてくる乾君に挨拶したいのに、恐怖に竦んだ体は思うように動かなかった。為す術もない。私に近づく乾君を固唾を呑んで見つめることしかできずにいると。

 乾君は私の目の前を横切った。

 私の存在など眼中に入らないと言うように、威風堂々と横切り、私が立っている場所から一メートルほど離れた場所に立った。壁にもたれて佇んでいる乾君はどことなく気だるげで様になっている。顔が綺麗な人はいいなぁ〜私があれやったらただの疲れた人になるからなぁ〜……って違う違うちっがーう! 今問題にすべきは乾君の顔じゃない。なんで、私を素通りしたのかという事。

 乾君は一メートル先に私がいるにも拘わらず、きょろきょろと辺りを窺っていた。一瞬視線が繋がったが、すぐに逸らされる。知らない人と偶然目が合った時のような態度に、私の思考回路はいよいよ行き詰まる。

 乾君も乾君で訳がわからないようだった。辺りを見渡しても望む答えを得られなかったらしく、眉間に少し皺を寄せて考え込んでいる。いや何を考えてんの……? 私は? 私何のために呼んだ? 真剣に思案を巡らせている乾君を呆然と見つめていると、乾君はやがてズボンのポケットからケータイを取り出した。耳に宛てがい、誰かに電話を掛け始める。

 ――ヴーッ、ヴーッ、ヴーッ。

 乾君の行動に呼応するように、ポケットに入れていた私のケータイが震え始めた。え、と驚きながら取り出すと。

「オマエか」

 矢を射るように真っ直ぐな声が、周囲のざわめきを切り拓いて私に向けられた。……もしかして、この人。まさかそんな事ある訳ない。そう否定しながらもほぼ確信を得ていた。今の口調は該当の人物を探し当てた時に対するもの。

 私の視線の先で、不思議そうにかつ興味深そうに、まじまじと私を見ている乾君が、答えを示していた。

 乾君、私の顔を覚えてなかったんだ。

 マ、マ、マ、マジか………。

 私の前に立ちはだかった乾君をただ呆然と眺める。驚きと呆れのあまり開いた口がふさがらない。この人顔もろくに覚えていない女子の告白をオッケーしたんか……! 愕然と見上げている私を平然と見下ろしながら乾君は「よ」と手を上げた。脱力感に包まれた私は一瞬反応に遅れる。や、やばい。挨拶を返さなかったら嬲り殺しにされるかもしれない。慌てて渾身の力を籠め、無理矢理表情筋を動かしながら「や、やっほ」と右手をひらひらと泳がした。

 真顔の乾君は「クソあちぃな」と呟く。私に対する語り掛けではなく単なる独り言のように聞こえたけど、会話を繋げたい私は恐怖にひきつる口を動かして「そ、そだね。おつかれー」と引き取る。
 けど乾君は何も返さない。やはり独り言だったらしい。会話のキャッチボールは始まらず、しぃん、と沈黙が落ちた。周りが楽しそうにざわめいている中、私たちの静けさは妙に浮き彫りになっている。だけどそれでも乾君はただ黙っているだけだ。この沈黙を気まずく思っている節は。乾君の澄まし顔に一欠けらたりとも見当たらない。窒息しかねないような沈黙が三十秒ほど続くと、いよいよ私は耐えきれず、無理矢理声を弾ませて新たな話題を捻り出した。

「え、えーっと、何やってるんだっけ、今」
「知らねえ」
「じゃ、じゃあ、上映スケジュール見よっか」

 自分から映画に誘ったくせに知らないんか!? とのツッコミは心の中に留め、私は乾君を上映スケジュールの画面の元へ誘導した。
 
「オマエ何が見てぇんだ」

 乾君は上映スケジュールを見据えたまま私にそう尋ねる。乾君が選択した映画を強制的に鑑賞することになるだろうと踏んでいた私は「えっ」と目を見張らせた。妙に上擦った声を出した私を、乾君は横目で不審そうに見る。

「なに驚いてんだ」
「え、えーっと。まあ、あはは! そ、そうだなぁー、私は……」

 大きな笑い声で無理矢理誤魔化してから、大きな画面に映る上映スケジュールに視線を走らせた。夏休みの最中ということもありアニメ映画が多い。弟の引率でポケモンやナルトを見過ぎた私はしっとりした映画が恋しかった。なにかいいのないかなぁ……と目で追っていると、ユカリが面白いと言っていたフランス映画のタイトルが目に付いた。出てくる小物がとにかく可愛く、女子なら絶対好きな映画! と雑誌でも太鼓判を押されていた。上映時間ももうすぐだし、ちょうどいいじゃん。

「私あれ! もうすぐ始まるしちょうどよくない?」
「へえ」

 タイトルを指さすと、乾君は無感動に頷き、そして踵を返した。どうやらチケット売り場に向かうらしい。何の断りもなく一人でさっさと歩きだす乾君に面食らった後、私も慌てて着いて行く。ちょ、ちょ、ちょ、この兄ちゃん自由人過ぎんか……! 高身長な上に足が長いから追いつくのも一苦労だった。短い距離なのに息が上がる私を放置し、乾君はチケット売り場のお姉さんに言った。

「空飛ぶ鮫パニック、大人一枚」

 ……ん?

 私が見たい映画と違うタイトルを平然と出した乾君に、私は目を点にする。乾君は大量のクエスチョンマークを浮かべている私に、当然のように言った。

「オレこっち見てえから。じゃ」

 『空飛ぶ鮫パニック』のチケットを颯爽と掴んだ乾君は、劇場の中に一人でスタスタと向かう。私は向かえない。だって、空飛ぶ鮫パニックのチケットを持っていないからだ。だって、私が見たいのは他の映画だからだ。だって、いや、ちょ、待っ、はい?
 海の真ん中に放り出されたように呆然と立ちすくみながら、乾君の思考回路を必死に紐解いていく。
 どうやら乾君は、お互い見たい映画が違うのならば、別々に映画を見ようという考えの人らしい。その答えに行き着いた時、私は果てしない虚無感の中に吸い込まれていった。

 



 私も空飛ぶ鮫パニックのチケットを買ったものの、乾君の座席がどこかわからなかった為、乾君とは別々に映画を見た。これぞB級映画! 感満載のB級映画で製作費は三十万ほどなのか、CGを使わずに明らかに鮫の着ぐるみを着た人間が街の人々を襲っていた。当然観客は少なく、乾君はすぐに見つかったので上映後駆け寄ると、乾君は目を丸くして私を見た。

「オマエ、あのクソつまんなさそうな映画は?」

 人が見たがっていた映画をクソつまんなさそうとか言うなよ! と憤りを抱えながらも奥底に押し込んで、「なんかこっち見たくなってさー!」と愛想笑いを貼り付けた。実際のところは、一人取り残されて呆然としていると売り場のお姉さんの笑顔の奥に潜む『ボサッと突っ立ってないではやくチケット買えや』の圧に追い立てられ、気付いたら『空飛ぶ鮫パニックで!』と口走っていただけだ。クソォォ……本当はオシャレで可愛いフランス映画見たかったよぉぉお……。

 乾君は「ふーん」と興味なさげに頷くと「腹減った」と呟いた。この兄ちゃん欲望のまま生きているな……と眺めていると、乾君はひとつ提案を上げた。

「なんか食いに行くか」

 その提案に、まだ帰れないか……と私の心は深く沈み込む。さっきケータイで時間を確認すると十六時になっていた。これが普通の男子、普通の彼氏ならば、デートはこれから盛り上がってくるところだけど、今は普通じゃない。少年院を年少呼ばわりしている殺しとレイプ以外の犯罪に手を染めた男子とのデートだ。隣に立っているだけで、疲労感が肩から背中に掛けてどっしりと圧し掛かる。

 けど、私に拒否権はない。エロめの少女漫画でヒーローが主人公にオマエに拒否権ねぇから……と主人公にエロいことしまくる展開があるけど、あれ以上に私に拒否権はない。私の場合、異を唱えたらエロいことされるのではなくオマエに拒否権ねぇからと東京湾に沈められるのが落ちだろう。

「そ、そうしよっか」

 へらぁっと笑うと、乾君はくるりと背を向けた。そしてまた我関せずと言わんばかりにスタスタと歩いていくので、私はまた競歩さながらのスピードで着いて行った。速い速い速い速い! 元カレが私に速度を合わせて歩いてくれていた事を今更ながらに実感する。元々嫌いになって別れた訳でもないので、元カレの優しさにほろりとする。優しかったなぁ……って、ほろりとしてたらまた置いてかれたーーー!

「オマエなんでそんな息切らしてんだ」

 ようやく止まった乾君は、ぜえぜえはあはあと荒い呼吸を繰り返している私を、訝しがるように見下ろしていた。誰のせいだ誰のと全力で突っ込みたいものの、「さ、最近、ぜえ、運動、ぜえぜえ、不足だったから、」と息も切れ切れになりながら必死に笑う。

「て、ていうか、はあ、乾、く、ん、どこ行こうと、はあ、してんの……?」
「着いた」
「へ」

 乾君が「ここだ」と見上げた先に、釣られて私も顔を上げる。

 吉野家がそこに在った。

 乾君は躊躇うことなく、淀みない足取りで吉野家に入って行った。

 初デートで、彼女を、吉野家に連れて行った。






 夜、私は布団に入って天井を見つめながら、吉野家に入った後の出来事を思い返していた。

 吉野家は部活帰りの汗臭い男子中学生で溢れ返っていて、申し訳なさそうに眉を寄せた店員さんに『別々のお席になるのですが、宜しいでしょうか?』と問いかけられた乾君は一切迷わずに、強く頷いた。

 私と乾君は別々の席に座りながら、牛丼を食べた。実質一人で牛丼を食べている私たちに勿論会話はない。男子中学生達が『二の腕とおっぱいの柔らかさって同じらしいぜ!』と盛り上がっている中、私は黙々と牛丼を食べた。

 私より先に食べ終えた乾君は『じゃ』と真顔で私に告げ、吉野家を颯爽と出て行った。店員さんの『ありがとうございましたー!』の声を受けて帰り行く乾君の背中は『え、ちょっ、待っ』と声を掛けるのも躊躇われるほど堂々としていた。取りつく島もない。ぽっかーんと口を開けて見送ってから、自分の手元に視線を落とす。まだ牛丼が残っていた。

『Cカップって500mlくらいの重さらしいぜ!』

 酸っぱい匂いと制汗剤の入り雑じった匂いが立ち込める中、男子中学生達の猥談をBGMに、私はまた一人で黙々と食べ進めたのだった。

 天井を見つめるのをやめて目蓋を下ろす。目蓋の裏側に『じゃ』と真顔で告げる乾君が浮かんだ時、今まで溜めに溜めていた想いが噴き出した。
 
 カッと目を見開きながら、私は渾身のツッコミを入れた。

「一から十まで全部違う!!!!」






(疲れたので一回休み)



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