見直し・解説・部分点







 水晶玉のような瞳が、怒りで赤く染まっていた。

 煌々と燃え上がる炎のように、ぎらついていた。

 だけど同時に、濡れていた。

 涙が薄く膜を張っていた。

 青い哀しみが、彼の瞳を覆っていた。





「……ちゃん、陽子ちゃん」

 はっと我に返ると、ユカリが心配そうに私を呼んでいた。引っ込み思案なユカリから遊びに誘ってもらえて嬉しかったのにボーッとしてしまい、申し訳無さが募る。いつまでもウジウジしてても何の解決にもならないのに、私は何やってるんだ。慌てて「ごめん、ボーっとしてたー!」と笑顔を作った。

「なに?」
「えっと、アイス溶けてるよ」
「え……うわ! やば!」

 チョコバナナアイスクレープのアイスが溶け出していた。指に垂れかけていて慌ててかぶりつく。冬の外でアイスを食べると、寒気が背中を走り、ぶるりと身を震わせた。

 ……そういえばイヌピー君、クレープ食べるの下手くそだったなぁ。
 美味しいクレープ屋を知っていたので連れて行った日の事がクレープから連なるように思い浮かぶ。今の私と同じように溶け始めたアイスがズボンに染みを作っていた。
 
 小さな子みたいとイヌピー君を笑った日のことを思い出すと、私はじわりと目の奥が熱くなる。駄目だ。日常の全ての事柄にイヌピー君を見出してしまう。お腹の底からせり上がって来た熱い塊を押し戻すように、クレープにかぶりついて呑み込んだ。

 イヌピー君とは一週間前に別れた。

 元々接点がゼロの私達は偶然すれ違うこともなかった。あれからずっと会っていない。近づいたら殺すと脅されなくても私はイヌピー君に会っていないだろう。

 会ってはいけない。
 私のような小狡い女は、イヌピー君に会ってはいけない。
 会ったらきっとまた、傷つけてしまう。 

 イヌピー君は怒っていた以上に、傷ついていた。当たり前だ。イヌピー君はずっと間違えて助けられたという自責の念に押し潰されながら生きてきたのだから。なのに、また間違えられていたのだ。どういう経緯か知らないけど、間違えて告られた事を知った時、イヌピー君はどれだけ傷ついたのだろう。その時のイヌピー君の衝撃を思うと、心臓を握りつぶされたかのように胸が痛くなった。

 イヌピー君は私を大切にしてくれていた。信じられないくらいガサツでぶっきらぼうだったけど、イヌピー君なりに大切にしようと頑張ってくれている事が、いつも、伝わってきた。

 壁に投げつけられた白い紙袋。多分あれは私へのプレゼントだ。
 絶対にイヌピー君が入らないお店のものだった。どれだけ勇気を振り絞って入ったのだろう。どれだけ頑張ったのだろう。

 また目の奥が熱くなる。燃えているみたいだ。クレープの味がわからなくなる。

 私が困っていたら怒ってくれた。会いたいと行ったら会いに来てくれた。海に連れて行ってくれた。寒いのにパーカー貸してくれた。写メ撮ろうよと言ったら頷いてくれた。キスをねだったらしてくれた。

 そういう子なのに、私は最初、前科持ちと付き合いたくない早く別れたい嫌だ嫌だと友達の前でたくさん愚痴っていた。犬に舐められたって思って我慢すると馬鹿にして、見下して。
 過去に戻れるのならあの頃の自分を殺している。何も知らない癖に勝手な事ほざいとるんちゃうぞとぶん殴っている。

 自分への殺意が燃え上がると、押し出されるように涙が零れ落ちかけた。奥歯を噛んで食いしばると、連動するようにクレープを掴んでいた手にぎゅうっと力が籠った。中身が押し出されてショーパンの上にボロボロ落ち、ぎょっとする。

「う、うわ……! やだ、最悪……!」
「お、落ち着いて陽子ちゃん……!」

 ユカリが宥めてくれたにも拘らず、狼狽え続ける私は何とかしようとポケットティッシュを取り出すべくポシェットのファスナーに手を掛けた。その時、溶けたアイスで手が滑り、クレープが落ちた。
 べちゃあ、とクレープが無惨に中身をぶちまける。あまりにも惨めで、惨め過ぎて、思わず噴き出した。

「はは、ダサッ、やばー!」

 あははと声を上げて笑ってみせる。だけどユカリは曖昧に笑うだけだった。今の私は傍から見たら相当痛々しいのだろうと、ユカリの痛ましげな視線から察する。けどどうしようもできない。今笑うのをやめたら、私はきっと、泣いてしまう。

 周りはクリスマス間近で浮かれている中、私とユカリの間だけ、ひどく重たい空気が横たわっていた。


 これ以上居たたまれない空気に付き合わせるのもどうかと思い、本当はバイトまでまだ時間がたっぷりあるのにもうすぐ始まるからと嘘を吐いてユカリと別れた。手持無沙汰の私はぶらぶらと街を徘徊する。

 クリスマス間近で浮かれた街並み。電灯を施された木々は、夜になったらライトアップされてきらきら輝く。きっとイヌピー君は『ただ電気点いてるだけじゃねえか』と言うんだろうなとか、またそんなことを考えてしまう。

 今まで二回別れを経験してきた。その時もすごく悲しかったはず、確か。記憶が曖昧なのはイヌピー君で上書き保存してしまったからだ。 
 恋なんてそんなものだ。きっとまた同じくらいの熱量で誰かを想うようになる。

 無理矢理、無理矢理、言い聞かせていく。

 きっといつか。イヌピー君も上書き保存され――。

 ――え?

 視界の端に、彼が映った。

 下から蹴り上げられたように、心臓が跳ね上がる。

 前方から、私と同い年ぐらいの男子が歩いてくる。黒いシャツに細身のチノパンを合わせていた。洗練されていて、一部の隙もない。
 小学生の頃のようなあどけなさは、微塵もなかった。

 ドクンドクンと心臓が騒ぎ立てている。もしかして、もしかして、もしかして。  
 私は彼を写真でしか知らない。しかも幼い時の。今の彼を知らない。
 だけど今向こう側から歩いてくる彼は、あの男の子が成長したらこんな風になるんじゃないかという想像を体現していた。
 切れ長のつり目はただ前だけを見据えている。鋭い瞳。あの写真のような初々しさは微塵もない。研ぎ澄まされたナイフのように冷たいオーラが節々から滲んでいる。
 彼が私の横を通り過ぎようとした時、声が漏れ出た

「…………ココ=c…?」

 左側に纒められたウェーブを揺らしてから、彼が足を止めた。









 わたしがいちばん好きな友達――陽子ちゃんは、わたしとは正反対だ。
 明るくて元気でよく喋ってよく笑う。恋愛事に物怖じせず、好きな男子が出来たら自分から連絡先を聞ける。
 当然のようにクラスの上≠フグループに入っていて、わたしとは違う世界の子だった。

 陽子ちゃんが元々いたグループから弾かれる前、わたしは彼女のグループにお邪魔した事がある。
 別にわたしの学校内での位が上がった訳じゃない。ただ単に、林間学校の班を決める時にわたしのグループが班の規定人数より一人多く、陽子ちゃん達のグループが一人足りなかっただけだ。じゃんけんで負けたわたしが、陽子ちゃん達のグループに行く事になった。

 陽子ちゃん達のグループはテンションが高かった。会話のテンポが速く言葉の切れ味が鋭い。ただじゃんけんで負けてやってきた異分子に気を遣うなど煩わしいのだろう。内輪ノリで完結された話題にわたしが入る余地はなくかといってずっと真顔でいるのも決まりが悪いので笑顔だけ作って話題に入っているポーズを作った。

 でも、陽子ちゃんだけはずっとわたしに話題を振ってくれた。『ユカリちゃんは?』と尋ねられる度に、酸素を分け与えられたような気がした。

 陽子ちゃんがわたしに話題を振るのを見て見習わなければと思ってくれたのだろう。ナナコちゃんにも話題を振られた。だけど気の強い彼女に萎縮してるわたしはしどろもどろになりうまく答えられない。
 怖がられるのは気分が良くない。カチンときたであろうナナコちゃんに言われる。

『ユカリちゃんって大人しいし人形みたいだね』

 大人しい≠ェ褒め言葉ではないことくらい、わかる。暗に根暗と皮肉を言われていることに、喉をぐっと抑えられたように息苦しくなる。でも、表立って悪口を言われているわけでもないし反論するのもなんか違う。目の奥が熱い。いつもと違うグループにいることに嫌味を言われたことが加算されもともと心細かった気持ちに拍車がかかって泣きそうになっていると。

『だよね! 化粧無しでこんなに目が大っきいもん!』

 腕をギュッと絡まれた。右半分に温かい体温が触れる。『いいなー』とわたしの顔を覗き込んでくる陽子ちゃん。シャワーの後だからいつも軽く施されている化粧が落ちていて、素朴な目元になっていた。
 そういうことじゃないんだよ、と言いたげなナナコちゃんを封じ込めるように陽子ちゃんはペラペラ喋っていく。てか三組の橋本君がナナコのこといいって言ってたよとかそういうことを。

 庇ってくれたことを、愚鈍なわたしは少し経ってから理解した。

 二人きりになった時にお礼を言おうとしたら『あーいい、いい』と困ったように笑われた。『空気悪くなんの嫌なだけだからさ』

 あの場でわたしが泣いたら林間学校はお通夜のように静まり気まずくなること請負だ。ぎこちない空気の中過ごしたくないという利己的な考えもあっての事かもしれない。

 それでも嬉しかった。心の中がじんわりと熱くなって、少し泣きたくなるほどに。

 その時思った。

 ナナコちゃんのような気難しい子ともうまく渡り合えて好きな男子にも気軽に声を掛けれて元彼もいるような器用に生きている陽子ちゃんには永遠に訪れないかもしれないけど、でも、もし、もしも陽子ちゃんが泣きそうになっていたら、

 今度は、わたしが助けようと思った。




「…………誰」

 出た。
 自分から電話を掛けたのに、出られた事に驚いて言葉が詰まる。慣れ親しんだ自分の部屋なのに彼の声を聞いた瞬間、緊張が走り背筋がピンと伸びた。彼だ。彼だ。彼だ。鎖骨の辺りにざわつきが漂い、ごくりと唾を飲み込む。

 一拍の間も待てないのか、舌打ちが鳴らされた。

「んだよ」

 電話を切る気配が濃厚になって「ま、待って!」と慌てて声を掛ける。

「わ、わたし、陽子ちゃんの友達です! 陽子ちゃんの友達のユカリです!」

 陽子ちゃん≠ノ反応したのがわかった。彼――乾君が押し黙った。

 陽子ちゃんの協力の元手に入れた乾君の電話番号は、彼が『年少入ってたし、中学ほぼ行ってねえ』と暴露した瞬間に無意味なものとなった。二度と使わないはずだった。だって乾君が、少年院に入っていたからだ。冷たい人間だと我ながら思う。乾君の人となりをろくに知らないのに少年院に入っていた過去がある、その一点で彼を嫌厭し、ほのかな恋心はあっという間に消滅した。

 知っていても無意味な電話番号。この電話が終わったらまたそうなるだろう。だけどそれは乾君が少年院に入っていたからじゃない。

「陽子ちゃんの事で話が、あり、ます」

 陽子ちゃんの好きな人だからだ。

 怖々と言うと「あ?」と剣呑な声が鼓膜をびりっと痺れさせた。同じ学校の男子とは違う、凄みのある低い声に首筋が粟立ち、頭皮にじっとりと嫌な汗が滲む。電話越しでもこれだけ怖いのに実際に相対したら気の弱いわたしは卒倒するだろう。
 怖い。今すぐ電話を切りたい。乾君と一分たりとも関わりたくない。――だけど。

 思い浮かぶのは、わたしの友達の痛々しい笑顔。辛い時ですらわたしに気を遣っていた。

『イヌピー君にフラれちゃった』

 無理矢理作られた明るい声が、鼓膜の中に空々しく響き渡る。

 陽子ちゃんはオシャレな伊達メガネをかけて、そう笑った。レンズの中の目蓋は腫れていて、一重になっていた。

『………へ?』

 目が腫れているし様子がおかしいから『何かあった?』と聞いたら、曖昧に笑われた。連れて行かれた空き教室に、わたしの間の抜けた声が静かに響く。

『バレちゃった。ほら、間違えて告ったってコト。めちゃめちゃ嫌われた』
『………え!?』
『近づいたら殺すって』

 驚きのあまりとうとう声が出なくなった。酸素を求める魚の如く口をパクパクさせている私に『怖かったー』と陽子ちゃんはおどけてみせる。

『どこで知ったかわかんないけど、私最初イヌピー君のことめちゃめちゃ言ってたじゃん。前科持ちと映画とか絶対嫌とか早く別れたいとかそんなんばっか、あれ、知られちゃった』
『で、でも、あんなの最初だけ』
『だとしても、言ったのは事実じゃん。間違いじゃない。まぁ、これが正解なんだよ。イヌピー君には、前科持ちだからって最初から色眼鏡で見ないような優しい女の子がピッタリだよ。きっと何か理由があるんだよって気遣える子。私は駄目。イヌピー君が何したか知る気なかった。ダメダメこんな計算高い女。イヌピー君には勿体ない。イヌピー君にはもっとすっぴんも可愛くて天然で可愛い行動できる子がいいよ』

 陽子ちゃんは饒舌にまくし立てていく。一見楽しそうな口振りだけどどこからどう見ても空元気だった。不自然に調子の跳ね上がった声をどう拾えばいいのかわからず、ただ呆然と陽子ちゃんを眺める。

『知ってたのに』

 一瞬声が途切れた後。陽子ちゃんは憑き物が落ちたようにぼうっとしていた。茫洋とした声が枯葉のように漂う。陽子ちゃんは虚ろに宙を眺めていた。

『知ってたのに。ちゃんと、言わなきゃダメだったのに。ちゃんと告り直さなきゃ、駄目だったのに』

 陽子ちゃんが何を言っているのかわからず、何と声を掛けていいかわからない。途方に暮れながらぼそぼそと虚ろに呟き続ける陽子ちゃんに声を掛けようとした時、声が、出なくなった。

『傷つけた』

 陽子ちゃんの目から静かに涙が流れる。頬から顎に流れていって、やがて制服のリボンを濡らした。

『イヌピー君はいつも大切にしてくれたのに。私は、傷つけた。
 殺してくれてよかったのに』

 陽子ちゃんらしからぬ過激な発言に驚いて、目を見張らせる。だけど陽子ちゃんはただぼうっと、淡々と言葉を重ねていた。感情的な声色だったら別れた後の一時的なショックでテンションが昂った末の発言だと見なせただろう。
 けど陽子ちゃんの声は凪のように静かで、起伏のないものだった。

 いつも元気で明るい陽子ちゃんが、嗚咽すらあげずに、静かに泣いていた。

『イヌピー君のこと何も知らないくせに好き勝手言ってた頃の自分、殺してやりたい』

 ただただ静かに自分に殺意を向けていた陽子ちゃんを思い出しながら、乾君の返答を待った。

「オレはねぇ」

 取り付く島もない、拒絶にまみれた声。だけどここで『そうですか』と引き下がるわけにはいかない。
 今度はわたしが助けると、そう決めたのだから。
 唾を飲み込んで、口を開く。

「そうやって、陽子ちゃんの話聞かなかったんですか」
「……あ?」

 ピリピリピリ。乾君の怒りを鼓膜が捉え、電流を流されたように体中が震える。元々気弱なわたしは男子のしかも元ヤンの怒りには当然臆する。冷たいナイフで心臓を撫でられてるように、胸元がざわついた。

 けどわたしだって怒っている。
 
「……殺すって言うほど怒ることじゃないと思います」

 友達を傷つけられて怒っている。

「何も知らねぇくせに茶々入れてくんじゃねえよ」
「乾君だって知らないじゃないですか。陽子ちゃん、友達今ほとんどいないんですよ」
「……は?」

 寝耳に水だと言わんばかりの驚いた声。やっぱ知らなかったんだ。陽子ちゃんが自分から言うことはないだろうと予想していたけど、知らない乾君が愚鈍に思えて苛立ちが募る。

「陽子ちゃん、乾君の悪口言ってる子を殴って、ほとんどの子にドン引きされてます」

 高校生になれば、先に手を出したほうが負けだと身に沁みて悟る。手を出した陽子ちゃんが悪役だ。イジメこそないけど、敬遠されていた。男子も『中野の事結構いいって思ってたんだけどアレはないわ』と引いていた。女って怖ぇと笑われていた。

 乾君の声が途切れた。絶句しているのだろうか。だけどどうでもいい。友達を傷つけた男子のことを思いやる気持ちは一ミリも沸かないので、きつい声で詰るように言葉を重ねていく。

「乾君の悪口言われて、泣きながら怒ってたんですよ。今は、それくらい乾君のこと好きなんですよ。それでも嫌なんですか。最初から好かれないと意味がないんですか。甘えないでよ。殺しとレイプ以外やったって言う男子、最初からどう好きになれって言うの。間違いの何が悪いの。今がいいならそれでいいじゃない。今、間違ってないんだから、それでいいじゃない」

 恐怖よりもとうとう怒りが上回り、わたしは前科持ちの男の子を震える声で詰っていく。
 
 わたしは正直、陽子ちゃんに乾君と付き合ってほしくない。
 理由は前科持ちだからという世俗に囚われた、薄っぺらいもの。でも一般市民のわたしには、前科の有無は大きな問題だ。だって悪いことをしなければ、人は前科を持たない。乾君には乾君の事情があって犯罪に手を染めたのかもしれないけど、わたしには関係の無い事だ。

「ていうか乾君だって別に最初は陽子ちゃんのこと好きじゃなかったでしょ。陽子ちゃんと同じだよ。陽子ちゃん確かに最初は乾君のこと好きじゃなかったよ、でもだんだん、ほんとに好きになっていってたよ」

 陽子ちゃんから乾君の良い所もたくさん聞いたし文化祭での一件では見直した。ホントは良い人なのかもと思っていたところでコレだ。近づいたら殺すなんて発言普通はしない。そんな人、わたしの友達と付き合ってほしくない。

 だけど、陽子ちゃんが。

「陽子ちゃんは今の乾君を見てるのに、なんで乾君は今の陽子ちゃんを見ないの、今の陽子ちゃんが乾君を大好きな事、なんでわかんないの……!」

 陽子ちゃんが乾君の事を好きだから。だから、応援せざるを得ないのだ。

 息を吐くと喉から胸まで焼かれたように熱くなった。目の奥も熱い。全身が熱い。湿った息が喉元で蟠っていた。

 乾君は何も言わない。ちゃんと聞いているのだろうか。もしや電話を切られたんじゃないかと不安になり画面を確認するために、耳からケータイを離そうとすると、小さな呟きが耳朶を掠め慌てて耳に押し直した。

「わかった」

 乾君はボソリと呟いた。怒りが消えていた。翳りのある声に、面食らう。……落ち込んでいる? 乾君に対面したのは二回だ。合コンや文化祭の時に会った乾君はふてぶてしさの塊だった。にこりとも笑わなかった。そんな乾君が……落ち込んでいる……? にわかには信じ難くて怪訝に思いながらケータイを耳に押し続けた。

「オレが死んでも治らねぇ馬鹿ってことがわかった。中野にオレは勿体ねぇ。オレじゃ、役不足だ」

 乾君がそう呟いた後、電話が切れた。ツー、ツー、ツー…とコール音が空しく響き渡る。え、ちょ、待っ。違うそうじゃない。そんな風に落ち込んでほしくて電話をかけたんじゃない。陽子ちゃんときちんと話をしてほしくて電話をかけたのに、乾君は勝手に自己完結してしまった。慌ててもう一度一度電話を掛け直す。だけど、今度は出てくれなかった。呆然としながら画面に映る『乾青宗』の文字を眺め続ける。

 間違ってる。間違ってるよ乾君。そうじゃない。色々全部すべて間違えているけどとりあえず。

「役不足の意味間違えている…………………」






「どっから?」

 滑らかな声がココ≠ゥら発された事に一拍経ってから気付いた。ココ≠チてこんな声をしているんだ。自分が本当にココ≠知らなかったことを実感しながら、彼を見上げる。

 彼――ココ君は値踏みするように目を細めて私を見ていた。涼しげな切れ長の目元には、鋭い敵意が浮かんでいる。

「どっからオレの情報流れてる?」

 冷たい声で尋ねられた瞬間、喉元にナイフを突きつけられているような錯覚を覚えた。私が拉致られかけた事を知った時のイヌピー君のような凄みを感じる。睨まれているだけで、心臓が削られていくみたい。

「……イヌピー君、から聞いたんだけど」

 震える声で答えると、ココ君の目つきから凄みが消えた。

「……イヌピー?」

 怪訝そうに目を眇めるココ君に、私は答えを足す。恐る恐る言った。

「私、イヌピー君の……元カノ」

 ――ピシャアァーーーーーーーーーーーーン

 雷が直撃したんじゃないかってほどに、ココ君は驚いていた。今日は晴天なのに、一瞬落雷の錯覚が聞こえるほどだった。

「イヌピーの……モトカノ…………?」

 新種の生物を発見したかのように元カノ≠片言で発音するココ君は少ししてから「そういうことね」と頷くと、私を見据えた。

「アイツと付き合うの大変だったろ。自称イヌピーの元カノちゃん?」

 揶揄に塗れた声で自称≠ノ語気を強められる。明らかに私を馬鹿にした口調だった。敢えてカンに障るような喋り方をしている。朴訥とした喋り方のイヌピー君とは全然違い、怒りよりも面食らう気持ちの方が大きかった。小学生の頃はイヌピー君のお姉さんの隣では頬を赤らめて照れ臭そうに視線を明後日に泳がせていたというのに、今やその片鱗もない。まぁ確かに私はあんな美人じゃないけど…………。

 ココ君の好きな子とそうじゃない子の態度の落差に得もしれぬ虚無感を覚えながら、口を開く。

「大変……だった事もあるけど、私は幸せだった」

 言葉にしてみると、実感が沸き上がる。幸せだった。私はつい一週間前まで、生きてて一番幸せだった。
 うっかりミスで手に入れた、まがい物の幸せ。私には身に余るものだったのだろう。

 私は人とぶつかる事をずっと避けていた。マジな空気が苦手だった。そういった空気になると笑って誤魔化して逃げていた。自分の短所と向き合う事から目を逸らし、楽な方へ楽な方へと流されていた。

 イヌピー君は私なんかと違う。自分の短所に真っ直ぐに向き合っていた。
 向き合いすぎるくらいだった。

 何の取り柄もない。何もできない。ただ腐らせただけだった。

 自分を否定する言葉を淡々と吐きながら、向き合っていた。

 信じられないくらいにガサツで乱暴でデリカシーに欠けて、だけど、真摯な男の子だった。

 軽薄な私とは、全然違う。

 だからきっと神様が『人を上っ面で判断するようなオマエには勿体ない』と判断して取り上げたのだろう。

「へー? どんな風に?」
「……私がバイト先でウザい中学生に絡まれてたら、怒ってくれた」
「………………へえ?」
「あんま喧嘩しないでねって言ったら、喧嘩しないでくれた。殴られて、超痛そうだった」
「………………………………………うん?」
「文化祭に来てくれた時、私、ちょっと友達とトラブってて、ちょっと言われちゃって、そしたらまた、怒ってくれた。庇ってくれた。私が落ち込んでる時、海に連れていってくれた。雨にあったあと、寒そうだからってシャワー貸してくれた。クリスマスプレゼント、買ってくれた」

 言葉にしていくうちにイヌピー君との思い出で胸があふれ返っていっぱいになる。呼応するように、好きだという気持ちも溢れた。
 目蓋が熱くなると、いつか目蓋に触れてくれたイヌピー君のくちびるを思い出した。優しいキスだった。慈しむように、優しくキスしてくれた。

 思い出すだけで、心がやわやわと震える。雲の上をふわふわ歩いているような優しく甘い幸福を、あの優しい時間を、私はもう二度と得られない。
 心臓がぎゅうっと絞られたみたいに苦しくなった。鼻の奥がつんと尖る。

 信じられない。自分の欲深さに辟易する。

 傷つけて、嫌われたのに。私はまだどうしようもなく、求めていた。

「…………それってマジでイヌピー?」

 俯きながら鼻を啜っていると、困惑した声が私に向けられた。
 顔を上げた先には、ココ君が信じがたそうに眉を潜めている。頭の上にたくさんのクエスチョンマークが浮かんでいた。

「イヌピー君、だけど……?」

 紛れもなくイヌピー君がした行動なのでイヌピー君だと答えると、ココ君は「オマエのいうイヌピーって犬山太郎とかじゃなく?」と尚も引き下がらない。

「私の言うイヌピー君は乾青宗君だよ。ココ君の友達の」
「…………………………マジかよ」

 ココ君は唖然としていた。目を白黒させながら確認するように私を見据えたあと、

「女だとか関係ねぇつってたのに」
 
 ふっと笑った。
 人を喰ったような笑みが、ほんの少しだけ柔らかくなっていた。

「あんたマジで元カノじゃん。つか元カノなんだ。なんで別れたん?」

 なんで。そう尋ねられて思い浮かぶのは、イヌピー君の瞳。
 水晶玉のような瞳がぐにゃりと歪められていた。怒りの中、哀しみが揺らいでいた。

「……私が、ひどいことしたから。だから、振られた」

 私が傷つけたせいだった。

「へーえ? 何したんだよ」

 答える勇気が持てず下唇を噛んで黙り込むと「ま、なんでもいいけど」とココ君はあっさり引いた。

「でもオマエ、ピンピンしてるっつーことは大してキレてねーだろ」

 …………、

「……え?」

 大してキレて……ない?

 私を壁に押し付けて凄んできたイヌピー君の怒りは計り知れなかった。牙を剥くように、私に壮絶な怒りを向けていた。

 怖かった。歯の根が合わないほど恐怖に震えた。
 けどあんなに怒っていたイヌピー君を大してキレてない≠ニ評している。
 
 …………え……?

「より戻さねぇの? あ、戻したくない感じ?」
「そんなことない!!」

 反射的に上げた声は悲痛にみちていた。縋り付くような、情けない声色。戻れるものなら戻りたい。はやく別れたいと愚痴っていた頃の私はとうの昔に消えていた。
 傍にいたい。傍にいてほしい。ずっと、ずっとずっとずっと。

「じゃあ戻ればいいじゃん」

 人の気も知らずにいけしゃあしゃあと言いのけるココ君に「だって!」とヒステリックに声を尖らせる。それが許されるのならばそうしたい。

「私、イヌピー君に、ひどいことした、許されないこと、」
「あのさぁ。イヌピーがマジのマジのマジでキレてたらオマエ今ここにいねぇから。女だとかそういうの考慮しねぇし。裏切り者は半殺し。オレがそろそろやめとけばーっつっても鉄パイプで……、あ、引いた? やっぱ無理?」

 ココ君は私に焦点を合わせると、揶揄るように薄く笑った。ああ、頬の筋肉が引きつっているのを感じる。きっとココ君の視界の中の私は超絶顔を強張らせているのだろう。

 去年のイヌピー君。皆がこぞってヤバかったと言う。昔のイヌピー君は必死に謝っている人をそれでも殴り続け、お兄さんの暴力に苦しむ柚葉と八戒君の存在をどうでもいいと黙殺し、三ツ谷君を騙し討ちし、たくさんの人を傷つけていた。

 今もすぐキレる。でも、もう、単に気に食わないからとか暴力を奮いたいからという理由でキレることはない。

 絶対にない。

 ココ君は私よりもイヌピー君のことを知っている。ドラケン君よりも柚葉よりも、知っているのだろう。

 だけどこの4ヶ月間だけは、絶対に。

「無理じゃない」

 すうと息を吸い込んで、ココ君を見据えた。マジな顔でマジの声のトーンで、宣言する。

「だって今のイヌピー君は、そんなことしない」

 夏から冬にかけてのこの4ヶ月間は、私が誰よりも一番近くで、イヌピー君を見ていたということ。
 それだけは、間違いない。今のイヌピー君を一番知っているのは、私だ。確固たる自負を胸に、言い切った。

「ふーん?」

 ココ君は意味ありげに含み笑いした。

「つかイヌピーが女にプレゼント買うとかウケる。どんなん?」
「えっと……これ…」

 壁に投げつけられた後、怖々と拾い上げた白い紙袋。いつもお守りのようにカバンの中に携帯しているそれをココ君に見せると、噴き出された。

「サマンサかよ! やっべぇー! イヌピーよく店入れたな! クッソウケるわ! ……オレの知ってるイヌピーじゃ絶対しねぇな」

 ココ君は目を細めて笑う。懐かしむような、久しぶりの再会を喜ぶような、そんな笑みに私はやっと実感が追いついてきた。
 ココ君は、イヌピー君の友達なんだ。

 私が感傷に浸っている間に、ココ君は私の知るココ君≠ノ戻っていた。柚葉曰くいつもニヤニヤしている嫌な奴。その評価に違わない笑みを浮かべながら、人を食ったような喋り方で、話始める。

「傷つけたっつーけどさ。イヌピーだから大丈夫じゃね? 鈍感だし。図太いし。……認めたくない事認められるし。
 アイツはんなヤワじゃねぇよ」

 視線を少しだけ下げて、呟く。だけどそれはほんの一瞬だった。再び私に視線を戻した時には元の飄然としたココ君だった。

「まぁ、オマエが元カノだろうが今カノだろうがどっちでもいーけど。じゃーな。イヌピーの元カノ」

 ココ君は私に興味を失くしたようで、会話を切り上げ、私の隣をスタスタ歩いていく。淀みない足取りのココ君は、どんどん私から離れていった。

 ココ君の後頭部に刻まれている刈り込みを、ただぼうっと眺める。

 ねぇイヌピー君。私、やっぱ間違ってないと思う。
 
 イヌピー君の誕生日の日、当たり前のように自分の命を軽く見なすイヌピー君の言葉を否定したい一心で紡いだ言葉たちが、真実味を伴って心の中に蘇る。

 ココ君がイヌピー君を助けたのは、やっぱり間違いじゃない。
 だってもし間違いだったのなら、イヌピー君を助けたことを悔いているのなら、あんなに優しい顔はしない。

 さっきのココ君の眼差しは、友達を懐かしむ時の優しいものだった。
 
 ココ。イヌピー君の友達。去年まで、いつも一緒にいたらしい。
 元カレの元相棒。どれだけ遠い関係性やねん、と心の中で静かに突っ込む。
 他人と呼んでも差し支えなさすぎる相手。道端ですれ違っただけのような、希薄すぎる関係性。
 けど、どうしても言いたいことがあった。

「ココ君!!」

 大声でココ君を呼び止める。彼が振り向く前に、手をメガホンのように口元に添えながら一思いに叫んだ。

「イヌピー君助けてくれて、ありがとーーーー!」

 イヌピー君にとって私は、最低最悪の女で、出会いたくなかっただろう。

 だけど私は、出会えたことが嬉しかった。 

 イヌピー君が生きて私に出会ってくれたのだと思うと、別れた今でも心が喜びで震える。

 だから、だから、ありがとう。
 イヌピー君をこの世に繋ぎ止めてくれて、ありがとう。

 大声を出すと、息切れした。はぁっと息を吐くと湿った息が喉元を震わせる。呼応するように、視界もうっすらと滲んでいた。

 ココ君はピタリと足を止めて、ゆっくりと振り返る。すうっと目を細めて、私を見ていた。品定めするでも睨み付けるでもなく、ただじいっと私を見据えて、それから、べぇっと舌を出した。







「死ねぇーーーーーーー!!!!」

 雲一つない青空の下、殺意が轟いた。

 殺意マックスまで研ぎ澄まされた何かがオレに向かってくるのを感じ、反射的に避けると、高速で石が飛んできた。オレの顔面をスレスレで通り過ぎたソレはやがて勢いをそがれ、地面に転がる。

「クッソ、外した……!」

 憎悪に塗れた声の先に目を遣ると、ハジメ――中野の弟のダチで中野に惚れているガキが、ぎらぎらと殺意を滾らせながらオレを串刺しにせんばかりの勢いで鋭く睨み付けていた。

 なんでコイツがここに。とか少しは思うけどあまり気にならなかった。
 中野のダチの電話を受けてから、鈍器でぶん殴られたように頭が重く、思考回路がうまく働かない。

「おーい!」

 少ししてから間の抜けた声が続いた。中野の弟が走って登場する。

「イヌピーごめーん! ハジメにねーちゃんイヌピーに捨てられたっぽいから落とすなら傷心の今だ! って教えてやったらさぁ、その前にイヌピーの息の根を止めるのが先………って、あれ?」

 中野の弟は不思議そうに首を傾げた。中野と同じ仕草だった。

「捨てられたのってもしかしてイヌピー? 死にそうな面してんじゃん」






(一がでるまであがれない)



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