答えあわせ



「イヌピー中野さんと付き合ってるってマジ!?」

 コンビニで出会したヨッシーに開口一番そう尋ねられた。事実なので頷くと「おおー!」と目を輝かされた。

「よかったじゃん! や〜感慨深いなー。ドッジの時全力で女子にもボールぶつけてたイヌピーに彼女か〜〜! クリスマスとかどうすんの?」

 ヨッシーにうりうりと肘で小突かれながら、オレはとある単語に引っ掛かりを覚えた。

「クリスマス」

 確かめるように、繰り返す。

 クリスマス。

 ………………………………。

 去年のクリスマスが走馬灯のように駆け巡る。東卍を潰すことしか頭になかった。三ツ谷を後ろから思い切り鉄パイプでぶん殴った。女と付き合うなんて0.0000000001ミリたりとも考えなかった。

 クリスマス。
 クリスマス。
 クリスマス。

 そういえば確か世間では。

「…………………………イヌピー…………全然考えてなかったんだな…………」

 ヨッシーの呆れと哀れみの入り混じった声が静かに響いた。





「いいかイヌピー。女に何が欲しいか聞いたら大抵奴等はこう答える。『なんでもいいよ』と……。けどこれは奴等の罠だ! オレ達を試しにきてるんだ!! 普段私の事ちゃんと見てたらわかるよね? という無言の圧なんだ……! なんでもいいよっつってんのにぜんっぜんなんでもよくない! だからイヌピー! 観察しろ! 何が好きなのか持ち物や言動から察するんだ!! オレ達にはそれしか道が残されてないんだ!!!」

 というヨッシーの助言を受けたオレは、中野をガン見している。

「どーしよー。カルボナーラ超絶食べたいんだけど今ダイエット中なんだよねー。私の好きなものって全部カロリー高いんだよねー。あっチョコパ食べたい! てかこの前ユカリとパフェに食べに行ったんだけど……ってイヌピー君なんか目ぇ怖!」

 メニューを見ていた中野は顔を上げてオレを見るとギョッとした。距離を取るように身を仰け反る。

「気にすんな」
「いや気にするわ! ガン見じゃん!」

 ツッコミを入れてくる中野をじーーっとガン見する。髪型が今日もなんか凝っている。目の周りが今日もなんか輝いてる。口が今日もなんか。

 口をじいっと見ているうちに、この前のことを思い出した。口をくっつけて舌をねじ入れて絡め取った。中野の口から零れ落ちる甘ったるい声に頭が沸騰した。もっと声が聞きたくてもっと舌を味わいたくてそれこそヤク中みたいにキスを繰り返したら、途中から中野も乗ってきた。わざとつんつんとからかうように小突いてきた。そのくせ絡ませにいったら奥へ引っ込んで、ムカつくから無理矢理絡ませたら自ら寄り添ってきた。

 …………カマキリの雌が雄を食いちぎる瞬間を思い出せ。

 熱くなり始めた頭と股間を冷やすために胸クソ悪い動画を頭の中で再生する。ガキを産むために体力をつけなきゃなんねえ雌が雄の頭を押さえつけて齧り付き……よし。よくねぇけどいい。けどこれも大分慣れてきた。また胸クソ悪い動画を調達しねぇと。

「ねー大丈夫?」
「大丈夫だ」

 突然黙り込んだ俺を不審がる中野にそう答える。チンコをなんとか萎えさせることができた。大丈夫だ。

「そ? ならいいけど。てかどうしよっかなー。カルボナーラかハンバーグかシーフードドリアかオムライスだなー! どれにしよー。どれも好きなんだよねー。どーしよー悩むー! あ、メール!」

 コイツよくこんな口動くな。高速で口を回転させている中野を呆れながら眺める。
 中野もそうだけどオレと同年代の女という生き物は基本的によく喋る。ピーチクパーチクうるせぇなと思うけど中野のだけはうるさいと思わない。取るに足りない話題をもっと聞きたくなる。

 中野はケータイを取り出し返信を打ち始めた。カチカチと操作する度に、ジャラジャラついたストラップが揺れる。黄色いクマのぬいぐるみのストラップを首吊り自殺みてぇと眺めていた時にピンと第六感が脳裏を駆けた。

 中野はジャラジャラつけるのが好き。

「……あのー……イヌピー君?」
「なんだ」
「いややっぱなんかめちゃめちゃガン見すごいから……あ、これ? プーさん? プーさん気になんの? プーさん好きなの?」

 ヤク中の如くハチミツに狂ってるクマに興味など一ミリも無い。だが中野に「私も好き! 可愛いよね!」と笑いかけられたら心臓の周りが異常に痒くなって、言葉が出てこなくなった。

「プーさん好きって言ってたら一時誕プレがプーさんだらけになったんだよねー。これ自分で買ったやつだしあげる! カバンにも似たようなのつけてるし!」

 中野はケータイからぬいぐるみのストラップを外すと自分の顔の前に掲げ「やぁ僕はプーさんだ! イヌピー君! 一緒に遊ぼうよ!」とクマの手を動かしながら下手くそな声真似をした。ネズミとごっちゃになってねぇか。

「はいどーぞ!」

 クマをテーブルの上に滑らせてオレに寄越す。いらねぇ。マジでいらねぇ。けど。

「おそろみたいだね」

 嬉しそうに綻んでいる中野を前にすると突っぱねる気力が霧散していった。全身がダニに食われているようにむず痒い。「ドーモ」と形ばかりの礼を述べてクマをズボンのポケットに突っ込んだ。
 中野はジャラジャラしたものと、ハチミツ狂いのクマが好き。記憶に残るように、心の中で呟く。

 中野は飯をようやく決めた。店員に注文してから、ドリンクバーへ向かう。「イヌピー君のもついでくるね!」とオレのコップも持って行ったのだが。

 遅い。

 ドリンクバーで飲み物注いでいるだけにしては遅かった。何かあったのか。気になりオレもドリンクバーへ向かうと、男の声が聞こえてきた。

「つか陽子髪短くなったなー。オレそっちのが好き!」

 クッソ馴れ馴れしい声が、オレの神経を逆撫でる。びりっと鼓膜が痺れ、ピキッとこめかみに血管が浮かぶ音が身体の内側から聞こえた。

「あーまぁうん。ありがと」
「あとオマエ痩せた? よな! 可愛くなったじゃん」
「どーもー」

 オレに背を向けた状態で、中野は男と喋っていた。知り合いのようだった。男は中野しか眼中に入っていないようで、オレの視線に全く気付いていなかった。黒髪の短髪で、多分オレと同い年辺り。妙に既視感を覚える顔立ち。どこかで見覚えが――あ。
 脳の奥底から、ひとつの記憶が蘇る。中野の部屋で見た写真が鮮明に浮かんだ。今よりガキの中野がオレの視線の先にいる男の腕に腕を絡ませながらピースしている写真が、くっきりと浮かんだ。
 
 全身の血液が沸騰した。

「もういい?」
「えーいいじゃん久々なんだし」
「……あのさぁ、私今かれ、」

 「し」と中野がうんざりしたように言うのとオレが中野の二の腕を掴んで自分に引き寄せたのはほぼ同時だった。突然後ろに引っ張られた中野は「ぎゃっ」と妙な奇声を上げてから、振り仰いでオレを見た。目を丸くしながら「イヌピー君」と呟く中野を無視し、目を点にしている中野と付き合っていた男を強く睨み据えた。

「テメェしつけえんだよ。いつまで中野に纏わりついてんだ」
「い、イヌピー君! 落ち着いて!」

 中野はぎょっと顔を強張らせ、身体を反転させてオレを必死に宥めてきた。オレは落ち着いている。落ち着いて元付き合っていた分際で下の名前で呼び絡んできている男を落ち着いて駆除しようとしている。全身の骨が捩れそうなほど苛立ちが体の中を駆け巡りブチブチと毛細血管が切れていく音が聞こえるが落ち着いている。

「コイツに近づくんじゃねえよクソが……!」

 中野と元付き合っていた男はポカンと呆けながらオレを凝視し、それから中野に視線を移した。

「陽子の彼氏?」
「テメェまた、」
「ぎゃーー! 落ち着いて!! 目ぇ充血させないで!!」
「なぁ彼氏?」
「うん! そう! イヌピー君イヌピー君お願いほんっとにお願い落ち着いて!!!」

 中野は元付き合っていた男におざなりに答える。すると元付き合っていた男は「えーー!」と素っ頓狂な声を上げた。ガキが歓声を上げるようなあっけらかんとした声に、一瞬毒気を抜かれる。

「マジかよー! さっさと言えよ! オレ超恥ずいじゃん!」
「言おうとしてたわ……相変わらずずっとマシンガントークしてくるからなかなか口挟めなかったんだわ……」
「あーゴメンゴメン! なんだ! 陽子フリーじゃねぇのか! じゃあいいわ!」

 中野と元付き合っていた男は「彼氏ごめんなー」とオレに笑いながら謝ると、踵を返し去って行った。少ししてから「元カノに振られたー」とおどけた声が離れたところから沸き「だっせー!」と囃し立てるような声が続いた。ブチ切れたり机を蹴り飛ばすような破壊音は聞こえてこなかった。中野と元付き合っていた男はそんなことでキレないのだろう。

 少しずつ怒りが引いていく内に、中野の元付き合っていた男の人となりを、静かに理解していった。喧嘩を売られても買わずにさらりと躱す。怒りに怒りで対処しない。きっと、中野を喧嘩に巻き込んだこともない。後ろから人を殴った事もない。大切なものを腐らせた事もない。
 後ろ暗い過去などなにひとつなく、中野と同じように、ずっと、真っ当に生きている男。

 怒りが抜けていくと、代わりに身体の中を薄暗い何かが染みこんでいった。オレなんかと全然違う。卑屈なだけどただの事実がぐるぐると頭の中に蜷局を巻いて鎮座する。

「イヌピー君ごめんね遅くなっちゃって。あの子昔からマシンガントークで人の話聞かなくて……イヌピー君?」

 下から中野の声が聞こえてきた。視線を下げて確認すると、中野は心配そうに眉を寄せてオレを見上げていた。また困らせた。また心配させた。

 今度こそ変わろうって、思ったのに。

 オレのせいで中野が拉致られかけた時、オレは心配よりも先に報復を考えた。柚葉に言われるまで心配しなかった。大丈夫かと気遣って優しくすることを先決にすべきなのに、暴力に触れて怯えている中野の目の前で平気で暴力沙汰を口にした。
 死ぬほど身勝手なクソ野郎。こんな男と付き合い続けても利点などなにひとつない。
 それなのに。

『イヌピー君が私の彼氏ってこと、超絶、死ぬほど、めちゃめちゃ嬉しいよ』

 中野の言葉が蘇る。一言一言に真摯な重みが籠もっていて、オレの心臓を強く揺らがした。

 変わろうって思った。
 オレは大切なものを腐らせることしかできなかった。
 けど、今度こそ。今度こそ大切なものを大切にする。
 そう、思ったのに。

 また困らせた。後悔と自責が深く垂れ込んできて、オレの上に強く圧し掛かった。




「うちの弟くもんに通ってるんだけど仲間由紀恵似の先生がいるらしくてめちゃめちゃ張り切ってるんだよねー人妻なのがいいって言ってて怖いんだよねーやばいよねー」
「やばくねぇ」
「いややばいから!? 小6で旦那がいると思うと興奮するとか言ってんだよ!? 私マジでどうしたらいいか、」
「強請りも強盗も薬もしてねぇんだろ。大丈夫だ」

 自分が今まででやらかしてきたことを口にすると更に暗雲が心を占領した。真一郎君に憧れて黒龍に入ったのにあっという間にイザナの思想に染められた。逆らう奴は片っ端から潰していった。中野には想像できないようなえげつない事をたくさんやった。昔の自分を思い出すと、情けなくて不甲斐なくて、反吐が出る。

「オレよりはやばくねぇ」

 隣の中野の顔を見れない。斜め下を見ながらそう呟くとちょうど中野ん家のマンションに到着した。

「じゃあ」

 送り終えた事だしと踵を返す。すると「イヌピー君」と呼ばれた。何も思わず振り向くと、腕を引っ張られた。顔の位置が下がる。
 そして、頬に何か触れる。ちゅっと音が鳴った。
 心に流れ込んだ巨大な空白に呑み込まれる。目を見張らせながら見下ろした先には、中野が頬を染めながらはにかんでいた。

「ヤキモチ嬉しかったよ」

 言うだけ言うと中野は階段を駆け上がり「またね!」とデカい声で言った。踵を返したかと思うともう一度振り向いて「送ってくれてありがとー!」と手を振る。背を向けたから今度こそマンションの中に入ったかと思うともう一度振り向いて「気を付けて帰ってねー!」とまた手を振って来た。

 このあとどう帰ったのか、オレはあまり覚えていない。ただ頬の内側が尋常じゃないほど痒かった事とと、溝に足を突っ込んだことと、空の星が眩し過ぎた事だけは覚えている。





 眩しい。クソ眩し過ぎて、目が潰れる。

 ビルの中の女が好きそうな店の前に突っ立ちながら、オレは猛烈な眩暈を覚えていた。

 中野はケータイやカバンにジャラジャラつける事とハチミツ狂いのクマが好きな事を念頭に街に繰り出した。クリスマスプレゼント。そんなもん誰かにやろうとするなんて何年振りだろう。女に買うなんてオフクロと赤音以外した事ない。女の為のクリスマスプレゼントを選ぶという行為を今から行うのだと思うとダニが高速で体を這いまわりゴミ箱を蹴飛ばしたい衝動に駆られた。
 けど、中野の笑顔を思い出したらなんとかゴミ箱を蹴らずに済んだ。

 ……ジャラジャラしてる…。

 あまりにも眩しすぎて中には入れず、店先で並べられているジャラジャラしたもんに触れてみる。ピンクやらリボンやら、オレには縁遠いものばかりで居心地が悪い。

「彼女さんへのプレゼントですかぁ?」

 気付いたら店員がオレの隣に立っていた。眩しすぎる店内に相応しい派手な服装の女の問いかけに頷くと「もうすぐクリスマスですもんねー!」とキャッキャッと笑われた。何笑ってんだコイツと鼻に皺が寄ったのを感じるが店員はオレに構わず「今の時期ですとクリスマス近いですから」と営業トークをガンガンぶっ放してくる。何言っているかぜんっぜんわかんねぇ。この女日本語に見せかけたスワヒリ語喋ってる。

「彼女さんはどういうお方なんですー?」
「……どうって」
「可愛い系? 綺麗系?」

 …………………。

 中野の顔が思い浮かぶ。頭の中をぐるぐる回る。嬉しそうにはしゃいだ顔。怪訝そうに眉を寄せた顔。信じ難そうに驚愕に満ちた顔。キスした後の、はにかんだ顔。ひとつ思い出す度に胸の奥が疼いて、身体が熱くなる。ダニにたかられる。
 可愛いって思われたいからに決まってんじゃん、という半泣きが再生されると、もっとダニにたかられた。

 答えは心のなかにある。だけどそれを言語化しようとしたら口の中がからからに乾いて脳味噌が沸騰して、できなかった。のたうち回るような痒みに包まれたオレは視線を明後日の方向に泳がせ、店員からふいと目を逸らす。すると視線の先にクマとクッキーがついてるキーホルダーがあった。ハチミツ狂いのクマを可愛いと愛でていた中野が浮かぶ。『私も好き! 可愛いよね!』と頬を崩して笑っていた。ダニと蚊が体内に入り込んであちこち食い散らかす。

「これ」痒みに耐えながらクマを指す。
「あ、そちらはですねー。テディベアコレクションのクッキーモチーフチャームでして」
「クッキーモチーフチャーハン?」
「チャームです」




 ……………………疲れた……。

 女にやるもんを考えることは信じがたいほどの羞恥心と苦痛を覚えた。やるのはいい。問題はあのキラキラした空間に入ることだ。店員何言ってっか全然わかんねぇし。10人ぶん殴るよりも疲れる。
 げっそりしながらフロア内に設置されている適当なベンチに腰掛ける。横に置いた小さな白い紙袋に視線を遣ると、またむず痒くなった。

 この程度のもんで今まででアイツからもらったもんを返せるとは思わない。
 なんの取り柄もないオレと付き合えて嬉しいとか、普通の奴等が今までしてきたことを今更なぞっているだけのオレを頑張ってると評したりだとか、頭が沸いた発言。どれもこれもオレには過ぎた言葉たち。
 そもそも中野陽子という女がオレには過ぎている。
 オレが戦意喪失して謝ってくる相手を鉄パイプでぶん殴ってる間、中野はきっと勉強とかダチと遊ぶとかそういうことをしていた。イザナや大寿の命令がどれだけ倫理に外れたものでも『命令だから』と疑問視することなくただ言われたことを実行した。何人泣こうが傷つこうがどうでもよかった。中野はそんなこと、絶対したことない。

 なんで中野はオレと付き合ってるんだろう。

 以前から抱えていた疑問がまたしても顔を出す。中野に告られたのが始まりだ。けど、なんで告られたのかわからない。一度聞いてみたら物怖じしないとこがいいと言われた。腑に落ちないというわけでもないがしっくりもこない。
 理由を述べながら、照れるじゃん! と照れ臭そうにしていた中野を思い浮かべる。まぁオレも中野になんで自分と付き合ってるのかと尋ねられたらむず痒くなるだろう。

「てゆーか陽子とナナコってまだ喧嘩してんのー?」

 隣の隣でピーチクパーチクまくし立てていた同年代の女達の会話が急に耳に飛び込んできたのは、オレが付き合っている女と同じ名前を口に出したからだろう。物思いに沈んでいた意識が弾かれたように起き上がる。

「喧嘩ってかもうそれ以上でしょ。修復不可能。ナナコ絶対許さないって言ってるし陽子のマジ切れっぷりヤバかったもん」
「ふーん。私見てないからさー陽子がマジ切れしたのピンと来ないんだよねー。何だっけ、陽子の彼氏の事で喧嘩したんだっけ」

 ………陽子の彼氏
 コイツ等の話題にのぼっている陽子が中野の事なら該当するのはオレの事だろう。つーかマジ切れってなんだ。基本的にいつも楽しげに笑っている中野とマジ切れ≠ェうまく結びつかず、首をひねる。聴覚を更に研ぎ澄まし奴等の会話に耳をそばだてることにした。

 女は言う。さらりと、当たり前の事実を一応確認するというような口振りで。


「てか陽子って、彼氏に間違えて告ったんじゃなかったっけ」
 

 日本語以外の言葉を喋り始めたのかと思った。

「あー、そういや何かユカリに愚痴ってたねー。デカい声で」
「そーそー。何何ーってうちらも聞きに行ってさぁ。懐かし。間違えて前科持ちに告ったって」
「てか何をどう間違えたんだっけ」
「宇野君に告るつもりだったんだけど、間違えて乾君のケー番押しちゃったんだってさ。フラれる覚悟だったから目ぇ瞑りながら電話かけてー、みたいな」

 えー、馬鹿じゃん。と笑い声がさざ波のように広がっていく。オレへの嘲笑に聞こえた。

「よくそれで付き合えんね」
「私が言ったんだよ。ボランティアのつもりで付き合えばーって。少年院入ってたら女に飢えてるでしょ。そしたら『あー、そーゆー手もあるかぁ』って言ってた。あと確か……『まぁいつか別れるしね』。うん、そう言ってた」
「出たー陽子の妙に冷めてるとこー」

 体の内側が氷水を流し込まれたように冷え切っていった。心臓が凍り付き、血液の循環が止まる。
 自分の周りが真っ黒な空間となって、オレを塗りつぶしていくような感覚がした。

 間違えた。
 間違えた。
 間違えた。
 
 また、間違えられた。

 最初の頃の中野が、ゆっくりと記憶の底から蘇る。ぎこちない笑顔。愛想笑いばっかのつまんねぇ女と思っていた。
 けどいつからか大きく笑うようになっていった。
 普通の奴等が普通にやってきた事を今更なぞるオレに、偉いと頭を掻きまわしてきた。すげぇ良いモンもらったみたいに、嬉しそうに目尻に涙すら浮かべながら。

 おかしいと思った。おかしいと思ったのは、間違いじゃなかった。

 おかしいと思ったんだ。
 道理で。やっぱり。
 
 理解がじわじわと浸透していく。毒が回るように、頭の隅々まで。

 こんなどうしようもないすぐキレてばかりで何の取り柄もないオレと付き合えたことが嬉しいと笑う中野は頭が沸いていると思った。

「でも彼氏って事はチューとかしてんでしょ。好きじゃない相手とできなくない?」
「あー、それ悩んでた。前科持ちじゃ拒否んのも怖いしね。だから確か陽子、」

 全然沸いていなかった。
 マトモな奴だった。
 マトモに生きてきた奴なんだから、そりゃそうだよな。

「犬に舐められたって思って我慢しとくって言ってた」

 すとんと納得が胸の中に落ちる。パズルのピースが当てはまるようだった。







「イヌピーくーん!」

 呼び出した場所に、中野は小走りでやって来た。頬が風呂上りみたいに赤い。イルミネーションを映した目は星空みたいに輝いていた。
 きっと昨日見たら胸の中がむず痒くなっただろう。だけどダニが心臓を這いまわる事はもうない。

「どしたの? 今日会えないって思ってたから吃驚した! なになに?」

 嬉しそうに声を弾ませて尋ねてくる中野を、目を眇めて観察する。おべんちゃらの上手さに感心した。そりゃそうか。前科持ちキレさせたら怖ェもんな。

 ――でも。

「……イヌピー君?」

 ただ黙って自分を見据えるだけのオレを不審に思ったのか、中野は怪訝そうに首を傾げた。

「どした、」
「間違えて告ったってマジ」

 でも、もしかしたら。あいつ等が言っていた陽子≠ヘ中野の事じゃないかもしれない。

 砂粒程度の望みに命綱の如く縋りつきながら、中野の目をじっと見据えて、一直線に問いかけた。

 中野はぱちぱちと人工的な長い睫毛を震わせた後、サアッと顔を青くさせた。ピンク色の唇が色を失くし、戦慄くように震えている。

 砂粒程度の望みはそれこそ砂粒のようにあっという間に風に吹かれ、消え去る。最初からなかったみたいに。

 中野の表情の変化から、紛れもない事実だという悟りが胸の中に流れ込んだ。鉛のように重いソレが、心臓を潰していく。
 電灯に巻き付かれた木々が輝きを放っているのに、世界から、色が消えていく。

 ぎゅううっと拳を強く握りしめながら踵を返すと「あっ」と悲痛な声が背中を掠った。聞こえたけど聞こえない。何も聞きたくない。無視して構わず足を進めると、後ろから「待って……!」と切羽詰まった声が着いてきた。鬱陶しくて、振り切るように足を勧めた。うぜぇうぜぇうぜぇうぜぇうぜぇ。

「待って! お願い! 待って、いぬ、」

 何度かオレに触れてきた手がオレの腕を掴んだ時、焼けた塊みたいな怒りが身体を突き上げた。歯を食いしばりながら振り向いてギラッと睨み付けると、中野は「っ」と息を呑んで身を竦ませた。中野の手を引っ手繰るように掴んで、路地裏に連れ込む。力の加減を一切しないで、両手首を掴んで壁に押し付けた。いつかこんな体勢でキスした。だけどあの時は傷つけたい訳じゃなかった。

 今は違う。脳みそが沸々と煮えたぎっている。

 目の前の女をぶっ殺したいという暴力的な思考が脳天から爪先まで駆け巡っている。

 中野の身体は痙攣しているみたいに震えていた。恐れおののいた目は最大限に見張られ、オレを凝視している。追い詰められた獲物みたいな目だった。

「オマエ犬とヤるつもりだった訳?」

 訳がわからないといった体で「……え?」と声を震わせる中野に苛立ちが募り、握った手首を骨を砕かす勢いで締め上げた。苦痛に顔を歪める中野に「とぼけんじゃねえよクソアマ」と声を低めながら顔を近づけると、いつも中野から漂う、甘ったるい匂いが鼻孔をかすめた。むず痒くなった自分の心臓に殺意を覚えた。
 オレは一体どれだけ馬鹿なんだろう。

「犬に舐められたって思って我慢してたんだろ、ずっと」

 死ぬほどコケにされてた事に気付かず発情していたオレは、さぞかし滑稽だっただろう。

 中野は眼球が零れ落ちそうなほど大きく目を見張らせた。発言に心当たりのある顔だった。そうじゃなきゃ、こんなに顔を青ざめさせない。

「ビビって言えなかったってか。そうだよな。前科持ち拒否れねえよな。何しでかすかわかんねえし、」
「ち、ちが、」
「違わねえだろ!!」

 オレが前科持ちなのもコイツが間違えて告ったのも今現在進行形でビビってんのも何も間違ってない。間違ってない事を違うと言い募ろうとする神経に憎しみが沸き上がり怒鳴りつけると、中野は肩を跳ねさせた。

 体がぶるぶると震えている。怖がっている。
 恐怖に染まった目つきで、オレを見ている。

 去年までずっと巣食っていた感情が再び身体の中を巡っていた。全部が気に入らなかった。胃の底が消化不良を起こしたみたいにぐるぐると渦巻いていた。許してくださいという懇願を平気で無視して鉄パイプで顔の形が変形するほどぶん殴り続けた。イヌピー最高、と笑うココの声が鼓膜の中で蘇る。

 手首を折って、足を折って、逃げられないようにして。めちゃめちゃにブチ犯してやろうか。
 
 さんざんコケにされてきたんだ。それくらいしないと割に合わねぇだろ。憎悪が濁流の如くオレを呑み込む。大抵の事はやってきた。今更別に罪状がひとつ増えたところで何も変わらない。


 どれだけ嫌がろうが抵抗しようが泣き叫ぼうが、

 泣き叫ぼうが、

 中野が、泣いたら、


「……っ」

 奥歯をギリッと強く噛みしめて、中野の手首を離して俯いた。クソ、クソクソクソクソ! 怒りと悔しさで心臓がねじ切れそうだった。やり場のない怒りをどうすればいいかわからない。灼熱のような怒りが身を焦がしているのに、誰にもぶつけられない。ぶつけたい相手にはぶつけられない。天地がひっくり返ったとしても無理だ。
 泣き顔を想像しただけで、無理だった。

「い、いぬ、ぴーく、」

 俯いた視界の中に、小さな手が入り込む。震えながらもオレの手を掴もうとしていた。カッと目の奥が熱くなって「触んな!!」と反射的に強く跳ねのける。そして紙袋を投げつけた。顔面に当たったら痛そうだとか思って、その隣の壁に投げつけた。痛めつけたいのかそうでないのか自分で自分がわからなかった。
 中野が手を引込めてぎゅうっと強く目を閉じたその時、隙を突くように、中野の顔のすぐ横に勢いよく手を着いた。バァン! と平手を叩きつけた音に中野はまたもや体を大きく震わせる。

「二度と話しかけんな近づくな」

 明確な殺意を籠めて睨み付ける。中野のピンク色の唇から、息を呑む音が零れ落ちた。

 キスなんて無意味な行為だと思っていた。セックスが溜まった精子を吐き出す行為なのはわかる。欲しくねぇけどガキを作る為に必要な行為だという事もわかる。でもキスはわからない。口と口をくっつけて唾液を交換する事の何が楽しいのかちっともわからなかった。
 だけど中野とキスすると、互いの熱が流れ込んで、痺れるような昂揚感が身体の隅々まで心臓の裏側すら満たしていった。
 口を離した後、照れ臭そうにはにかんだ顔を見ると胸の奥が締め付けられて、生きていることを証明するように、心臓が熱くなった。
 
 だけど、全部間違い。間違えたまま進んでいた。中野にとってはただの間違いでいつか終わる代物でそれまでの辛抱。

 なら終わらせてやる。

「近づいたら、殺す」

 思い出すのも嫌になるほど、気に病む必要もないほど、最悪な終わりで終わらせてやる。

 呆然としている中野をもう一度強く睨み据えてから、踵を返す。背後で何かが落ちる音がした。目の端で確認すると、中野が壁に背中を付けて脚から崩れ落ちていた。
 丸い頬に、何かが光っている。目から雫が滑り落ちていた。

 気付いたらその場から逃げ出すみたいに走っていた。冬特有の冷たい風が顔を切るように吹き付けていく。
 電灯を巻きつけられた木が馬鹿みたいに光っている。だけど全然輝いていなかった。どこもかしこも、モノクロだった。

 いつかのヨッシーの能天気な声が、何の脈絡もなく浮かび上がる。

『好きな子出来たら、人生もっと楽しくなると思うし!』

 あいつ何嘘ついてんだ。ふざけんなよ。ふざけんなふざけんなふざけんなふざけんなふざけんな……!

「…………全然楽しくねぇよクソ……!」

 悪態をついた時、熱く湿った息が喉を震わせた。








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