責任はすべて私にあります





「お邪魔しまーす……ってちょっ、待っ! まだブーツ脱いでない!」

 私の手首をむんずと掴んでいるイヌピー君はまだブーツを履いている私をそのまま家に上がらせようとした。慌てて声をかけると「あ」と今更気づいたように呟き、手首を開放された。

「もー……急ぎすぎ……」

 ぶつぶつ呟きながらブーツを脱いで家に上がらせてもらう。イヌピー君はじっと私を見ていたかと思うと、にべもない口調で聞いてきた。

「オマエなんでずっとフード被ってんだよ」

 ぎくっと顔が強張る。コンビニで傘を買った後も私はダッフルのフードを被っていた。しかもずっと俯いているので、イヌピー君が何だコイツと思うのも不思議ではない。

「……えーっと……」

 雨ではない雫が頭皮から湧き出し、首筋を伝っていく。

 すっぴんを晒すことになるから、という答えが私の喉元で蟠っていた。

 見てないけどわかる。アイプチとアイラインとアイシャドウとマスカラが全部、落ちている。ウォータープルーフのものを使っているけど、バケツをひっくり返したような雨には流石に敵わないだろう。
 今、フードを取ったらハマグリからアサリに縮んだ目を晒すことになる。そう思うと、心臓が早鐘を打ち始めた。

 何もしなくても長い睫毛と幅の広い二重瞼をお持ちのイヌピー君が無言で答えを急かしてくる。いつかは晒さなきゃいけないと思っていたけど、でもまさか、こんな、突然。

「……はっくしょい!」

 答えを言いあぐねていると、汗と雨で更に体が冷えた。すんすんと鼻をすする。すると、イヌピー君がもう一度私の手首を掴んできた。

「え、ちょ、イヌピー、君」

 イヌピー君は無言でずんずんと私を引っ張っていくと、とあるドアの前で足を止め、バンッと開けた。視線を遣り部屋の中を窺うと、そこにはトイレと小さな浴槽がついていた。

「入れ」
「え」

 タオルだけ借りようと思い、あの公園から比較的近くにあるイヌピー君の家に上がらせてもらったつもりだった。予想外の事を命じられて私は目を白黒させる。タオルだけでいいと言おうと思い口を開ける。だけど「はっっくしょい!!」と代わりにくしゃみがまた飛び出した。ずずっと鼻を啜る私をイヌピー君はそれ見たことかと言わんばかりに目を細める。

「オマエずっと震えてる。体温めろ。ぶわっっっくしょい!!」

 言ってるそばからイヌピー君は私以上に盛大なくしゃみをかましていた。何とも格好がついていない。てかきれいな顔なのにオッサンみたいなくしゃみするんだよな……。鼻水をズルズル出しながら「多分田中辺りがオレの悪口言ってんだよ」と強がりというかくしゃみの言い訳している。田中……ああイヌピー君に無理矢理バイト交代させられた子か……。まぎれもなく言いわけだけど真実味のある言い訳だ。

「上着とカバン貸せ。乾かしとく」
「……わかった」

 有無を言わせぬ口調に私はとうとう観念した。確かに寒いし、イヌピー君は梃でも譲る気無さそうだし。ポシェットを肩から外し、俯きながらダッフルを脱いで渡す。

「ありがとう」

 イヌピー君は無言でうなずきいたのが視界の端で見えた。バタンとドアが閉まる音が響き渡ったのを聞き届けて、私はようやく顔を上げる。鏡の中の自分は案の定すべての化粧がはげ落ちていた。いつかのナナコの言葉が脳裏浮かび上がる。

『陽子って超化粧上手いんだよ』

 ずくりと心臓が痛む。ハマグリからアサリに縮んだ、というか本来の目の大きさを確認すると気分が沈んだ。
 ……まぁ、シャワーの後で化粧すればいっか! 気落ちしかける心を途中で留めて、うん! と「終わり良ければ総て良し!」と心の中で唱えてから、強く頷いた。


 …………どうしよう…。

 シャワーを浴びた後の化粧にしか考えていなかった。シャワーを浴びた後の拭くものについて考えを巡らせていなかった。ダッフルがレインコートの役目を少し担ってくれたから下着はあまり濡れていなくてもう一度着ればいいだけど、セーターとインナーは濡れていた。そして今濡れた体もなんとかしないといけない。
 確かに私はそそっかしい。けど今回はイヌピー君も大分そそっかしいと思う。入れと言ったくせにタオルを用意し忘れるなんて。好意に鈍感でドジっていよいよ少女漫画の主人公なのだろうか。
 しかも……。
 下半身に感じる違和感に私は深いため息を吐いた。ったくもう、なんでこんな時に……。サイッアクと自然と悪態が零れ出た。

 ……しょうがない。私はびしょぬれの素っ裸のまま、ドアを少しだけ開けて「イヌピーくーん?」と呼びかける。姿は見えなかったけど「どうした」と返事が返ってきた。

「ごめん、タオルと着るもの貸してくんない? 服は上だけでいいから」
「………持ってく」

 忘れてた事に今気づいたなと苦笑する。まぁ用意周到だったり気遣いに満ち溢れていてるイヌピー君なんて違和感しか覚えない。

「ありがとー。私カーテン引いとくから、中に入って置いといてくんない? あとそれと、ポシェット取ってほしい」
「ぽしぇ……?」
「カバンってこと」
「最初からそう言え。わかった」

 イヌピー君の返事を聞き終えると私はもう一度ユニットバスの中に引っ込み、イヌピー君が来るのを待った。
 平然を装いながら頼んだけど、本当はろっ骨を破りかねない勢いで心臓が暴れている。でもこれしか方法がない。動揺を少しでも和らげようとブラすら身に着けていない胸の前で手遊びしていると、ドアが二回叩かれた。

「入んぞ」

 イヌピー君の声に反応し、ビクンッと肩が跳ね上がる。
 イヌピー君の声の向こう側。ドア一枚隔てた向こう側に、私は素っ裸で立っている。

「どうぞ〜」

 平常心を必死に保ちながら言うと、ドアが開かれた。そして瞬く間に閉じられる。……行ったんだよね。カーテンを少しだけ開けて覗くと、床の上に黒のスエットと四角い箱が置かれていた。一瞬何のことかわからなかったけど、新品のタオルを使わせてくれるというイヌピー君なりの心遣いらしい。一回洗った方がいいの知らないんだろうなぁ。だけどイヌピー君なりの気遣いだと思うと、心の中が暖まる。「ありがとー」と緩んだ頬でお礼を述べてから箱を開けると、絶対にイヌピー君の趣味じゃない花柄のタオルが二つ並んでいた。



「シャワーありがとねー! あったまった!」

 イヌピー君の隣のソファーに座り込むと、イヌピー君は私を見た。濡れた服を着替えていた。いつもの真顔ださっきまでしょげていたけど、大分元気になったみたい。よかった、と胸を撫で下ろしながらベラベラ喋りかける。

「イヌピー君も浴びてきなよ! あったまるよー!」
「オレはいい。ストーブの前にいたらマシになった」
「えーでも体冷えてるでしょ? イヌピー君も一応シャワー……、」

 イヌピー君はじーーーっと私を見ていた。水晶玉のような瞳は揺らぐことなく、一直線に私を見詰めている。食い入るような視線を不審に思い何か私の顔についてるのかと尋ねようとした時、私は、答えに行き着いた。

 ついてるんじゃない。ついてないんだ。
 突然のアクシデントに見舞われた私は、すべき行動を怠っていた。そのことにようやく思い至る。
 サァーッと血の気が引いていく音が聞こえた。夢であってほしいと願う。だけど私は朝顔を洗った後に踏んでる工程を、さっきはどれひとつなぞっていない。

 私、今、すっぴん。

「待っ、待って!!!」

 全ての血液が集まってるんじゃないかってほどに熱くなった頬を背けて、ポシェットに手を伸ばした。顔を作るべく立ち上がろうとすると、強い力で腕を掴まれた。ぎょっとして掴まれた右腕の先に視線を遣ると、相変わらずじーっと私を見詰めているイヌピー君がそこにいた。長い睫毛に囲まれた綺麗な二重瞼に見つめられて、更に羞恥心が燃え上がる。

「ちょ、あの、私今から顔作ってくるから」

 顔を俯けながら必死に言い募る。早口で声は上擦っていた。明らかに動揺している振る舞いがみっともなさに拍車をかける。
 見られた見られた見られた見られた見られた見られた。同じ言葉が頭の中をぐるぐる回っている。見られた見られた見られた見られた。
 どうしよう。何思ったんだろう。羞恥心と恐怖が綯交ぜになり、私の胸の中を圧迫する。

『陽子って超化粧上手いんだよ』

 ナナコの嘲笑が鼓膜の中で再生されると、息苦しくなった。お腹のそこから熱い塊がせり上がり、喉元に蟠る。

「顔ならあんだろ。オマエはアンパンマンか」

 淡々と言うイヌピー君に私は「アンパンマンってー!」となんとか笑ってみせた。

「でもアンパンマンみたいなものかも! 顔作らないと力が出ない的な! だから顔を、」

 無理矢理声を弾ませていると頭をガシッと掴まれた。強引にイヌピー君の方に向かされて、水晶玉のような瞳とばちりと視線が合わさった。至近距離ですっぴんを見られたことに頭の芯が真っ白に染まり、頭から顔、顔から胸へと上から順繰りに体温が冷えていく。

「ちょ、あの、ほんと、やめて……!」

 頭を大きく振ってから、イヌピー君の肩を掴んで距離を取る。すると両手首を掴まれた。

「なんで嫌がんだよ」

 せめてもの抵抗に目をぎゅっと閉じると、剣呑な声が目蓋をびりっと痺れさせる。イヌピー君は機嫌を損ねていた。だけどそれを宥める余裕など、すっぴんを晒し千々に心を乱れさせている私には当然ない。それどころか嫌がる私にを全く配慮してくれないイヌピー君に苛立ちが沸いていく。

「見えたんならわかるでしょ目ぇ違うじゃんだから作ってくんの。恥ずいのわかってよ。イヌピー君にはすっぴん見せたくないの……!」

 私明らかに嫌がってるのにどうしてこんなことするんだろう。ビフォーアフターを面白がるつもりなんだろうか。イヌピー君がそんな悪趣味を持っていない事を知っているくせに、猜疑心に駆られた私はヒステリックな声色で詰るように早口でまくし立てる。

「だからなんでだよ」

 イヌピー君は声を尖らせた。私と同じようにイライラしている。私の気持ちを一ミリも理解できないから不可解で苛ついているのだろう。どうしてわかってくれないの。理由なんて一つしかないのに。唇を噛みしめながら顔をうつむけると、イヌピー君は詰問を重ねていった。

「弟には見せてんだろ」
「そ、そうだけど」
「じゃあオレもいいだろ」
「なんでそうなんの……! イヌピー君は駄目に決まってんじゃん!」
「あ? ふざけんな。なんでだよ」
「イヌピー君には作った顔面しか見せたくないの!」
「なんで」

 ここまで言っても察しない物わかりの悪さに絶望する。女心を理解する能力がすっぽり抜け落ちているらしい。私はヤケクソになって答えを突きつけた。

「可愛いって思われたいからに決まってんじゃん……!」

 イヌピー君はようやく『なんで』をやめた。

 口にしてから羞恥心が一気に体に広がる。体が熱い。ああもうなんでこんなことになったんだろう。すっぴん晒すとしてももう少し時間をかけてイヌピー君の様子を見てから覚悟を決めて晒すつもりだったのに……!

 女子は皆同じ顔に見えるらしく、好きな女優やアイドルもいないと言っていた。ものすごく面食いなわけじゃないのは知っている。だけど、でも。
 目の奥が熱い。恥ずかしい以上に、怖かった。オレより睫毛短いとか思われてんのかな。騙されたとか怒ってたら、嫌いに、
 嫌いになられたら、

 真っ黒な不安が胸を覆い、泣きたくなった。目をさらに強く閉じると、イヌピー君も私の手首を更に強く握り締めた。
 そして次の瞬間、私の体はソファーの中に沈み込んだ。
 驚きで目を開けたその時、甘く食むように、くちびるにかぶりつかれる。
 びっくりしていると目尻の辺りにキスされた。反射的に目を閉じると、今度は目蓋にキスされた。今までで一番優しいキスだった。
 顔のあちこちにキスが降ってきた。イヌピーくんはくちびるを転がすように、私の頬や額にキスしていく。その度に、心がむずむずと震えた。
 口に口が合わさる。深く結びつけられて、舌を差し込まれた。ぬるい温度の舌が私の舌を見つけ出し、絡み取られる。

「ん、ふっ、ぅ、んん……っ」

 舌先がこすれ合うと、ぴちゃぴちゃと犬が舌先で水を掬い上げる時のような音が鳴った。渇きを潤すように、イヌピー君はキスを深めていく。キスが深くなる度に、甘ったるい電流が身体を駆け巡り、爪先まで痺れていった。
 イヌピー君は目を開けながらキスしていた。近すぎて逆に見えづらいと思うけどそれでも近くですっぴんを見られている事が恥ずかしい。待って、とキスの合間に必死に声を紡ぐとイヌピー君は口を離した。感情の読み取りづらい瞳でじいっと私を見詰めている。

「ちょ、ちょっとだけ待って……!」

 息を切らしながら早口で懇願する。

「ちょっとで、ちょっとでいいから……! 一分で、顔つくるから、だから、その後で、んんっ」

 私の中で一番かわいい顔にキスした方が、イヌピー君だって気持ちがいいんじゃないか。そう思うんだけどイヌピー君は何も聞かなかったみたいに私の言葉を途中で遮ってキスする。待ってともう一度頼んでみても、今度は聞いてくれなかった。

 ヤバイとかどうしようとかが頭の中をぐるぐる回っていたけど、理性が必死に私に説きかけていた。本当にやめろと言えと言っている。わかってる。止めなきゃいけない。だけど。

 首筋を甘噛みされて、べろっと舐められる。くすぐったくて身をよじるとイヌピー君は私の首筋に顔を埋めてきた。まるで毛づくろいするように舐め続ける。舌の動きとまだ少し濡れているふわふわの髪の毛が首筋に触れて更にくすぐったい。

「く、くすぐった、ぁ、ひゃあっ」

 ちう、と吸われた瞬間に腰が弓なりに反った。私ってこんなに感度良かったっけ。イヌピー君の舌や指が私の身体に触れる度に熱が上がり、蜜のように甘ったるい何かが体の中に満ちていく。下腹部が汗ばむようにじわりと熱を帯びていた。受け入れる準備を少しずつ始めているのが、わかった。

 止めなきゃいけない止めなきゃいけない止めなきゃいけない。
 風前の灯火のような理性を必死に働かせる。『止める』の文字を脳裏に浮かべて空想上の鉛筆でなぞっていく。止める止める止める。理由を言ったら止めるはずだ。イヌピー君はそういう子じゃない。
 でも、だけど。

 私の首筋から顔を上げたイヌピー君は、私を見詰めた。熱の湛えた瞳で私の奥底まで見透かすように。私の全てを搦めとるような視線を受けたら、やっぱり駄目だった。

 私の身体を作り上げる全ての細胞が『さわって』とねだっている。

 私の物欲しげな想いが瞳に映っていたのだろうか。見つめ返した瞬間、イヌピー君の瞳に燃えるような欲望が沸き上がり、瞬く間に距離を詰められた。飢えた野犬が獲物にかぶりつくようなキスをされる。食べられているみたいで息苦しいのに、もっと追い詰めてほしかった。舌が少しでも離れると、私は自分の舌先を使い、つんつんとイヌピー君の舌にふれる。もっとさわってと言外に伝える。単純なイヌピー君はすぐに乗った。追いかけてほしくてわざと逃げると、荒々しく絡み取られた。
 イヌピー君は私の手首を掴んでいた手をいつのまにか私の手に移動していた。指の隙間に指が入り込み、ギュッと握り締められる。初めて手を繋いでくれたことが嬉しくて私も握り返す。でも手の大きさが違いすぎてうまく握れない。

 もどかしい。もっと近づきたい。もっと繋がりたい。
 もっともっともっともっと、私の体温で包んであげたい。

 私の願いも虚しく、イヌピー君は私から手を離した。どうして? という不満は瞬く間に消えた。
 イヌピー君の手が、私のスエットの中に滑り込んだ。

 ――あ。これからイヌピー君がどこに触れようとしているのか理解すると、奥底に追いやっていた理性が再び顔を出した。ヒヤリと背筋に冷たいものが落ちる。
 イヌピー君はスエットを上に追いやっていく。もう少しでブラが見える。ヤバイ、これはヤバイ……! 取り戻された理性が強く警告音を鳴らす。これ以上は、マジでヤバい。

「……っごめん!!」

 突然大声で謝って来た私にイヌピー君は虚を突かれたようだ。一瞬動きが停止する。その隙を突いて、私は言った。心苦しいけど言うしかなかった。

「ごめん、今日、生理だからできない!!」

 そう。私はついさっき、生理になってしまった。
 
 そろそろ来るなぁと予期していたので準備は一応していたけど、まさか今日とは。ていうか、今とは。

「ホントにごめん!」

 切羽詰まりながら謝る私をイヌピー君はぱちぱちと瞬きを繰り返しながら見ていた。「セイリ……」と初めて聞く単語を耳にした外国人のように片言でオウム返した後、私に尋ねてきた。

「股から血が出るアレか」
「その通りなんだけどもうちょいオブラートに言えん!?」

 身も蓋もない生理の表現にツッコミを入れるとイヌピー君は「それしか言いようがねぇだろ」と真顔で返してきた。いやまぁそうかもだけどさぁ……。
 だけど生理だと事に及べない事は理解しているらしい。生理とか関係ねぇヤらせろという言うこともなかった。そんなこと言う子ではないと信じていたけど、単に保健体育の知識不足で『生理だと何でヤれねぇんだ』と言ってくる可能性はあると思っていたのでホッと胸を撫で下ろす。

 イヌピー君は私に覆いかぶさるのをやめる。私も起き上がり、めくられたスエットを元の位置に戻した。何とも言えない気まずい空気が部屋に垂れ込み、静けさに包み込まれた。秒針が刻まれる音と窓の外の雨音が大きく聞こえる。

「……………はやく言えよ」

 ぽつりと落とされた呟きには私を詰る色が含まれている。耳が痛くて「うっ」と思わず呻いた。私は最中一回も嫌と言わなかった。それどころかイヌピー君の性的興奮を掻き立てるように自ら舌を絡ませにいった。煽るだけ煽って生理だから無理です。イヌピー君からしたらたまったものじゃないだろう。

「ご、ごめん。その……何回も言おうって思ったんだ、けど……」
「けど」

 イヌピー君はじろりと私を睨んで来た。けどってなんだよと言いたげだ。拗ねたような目つきを受けると心苦しさが一層増して、私は視線を泳がせる。

「嬉し過ぎたのと気持ちよかったので、あともうちょいあともうちょい……って思っちゃって……」
「…………………………」
「つい……ほんとにごめん………イヌピー君?」
 
 イヌピー君は眉間に深く皺を寄せながら目を閉じて額に拳を宛てがっていた。行動の意図が読めない。訝しがりながら呼ぶと、苛立ちに塗れた声が返ってきた。

「喋りかけんな今精神統一してゴキブリの交尾動画思い出してんだよ。集中させろ」
「何思い出してんねん!! てかなんで今……、」

 もしかして。ある予想が頭の中に浮かんだ。海に行った時もだった。私にくっつかれながらイヌピー君はゴキブリの産卵動画とカマキリの雌が雄を食べている動画とトドがペンギンを犯してる動画を思い出していた。身の毛のよだつような動画を頭の中で再生する理由は、もしかして。

 イヌピー君はギロリと私を睨んだ。

「チンコ萎えさせんのに必死なんだよ。オマエのせいで」

 オマエのせいで。に強い怒気がはらんでいる。いつかのイヌピー君の言葉が脳裏に浮かんだ。

『チンコ勃つからやめとけ』

 沸騰するように顔がボンッと熱くなった。目を泳がせながら、私はイヌピー君に問いかける。 

「………あの、今、その……イヌピー君の……アレは……その……勃ってる……?」
「バッキバキに勃ってんに決まってんだろ」
「き、決まってるんか……」
「クソ、ゴキブリの交尾でも無理だ。抜いてくる」

 チッと舌を鳴らしてから立ち上がろうとしたイヌピー君の腕を掴むと、イヌピー君は怪訝そうに私を見た。
 心臓がバクバク言っている。縦横無尽に暴れている。胸元を抑える手が小刻みに震えていた。乾いた唇を舌で湿らせてから、一思いに言う。

「……口でしてあげようか?」

 イヌピー君の顔を見る事ができなくて、たまらず視線を下げる。こんなこと自分から言う日が来るなんて思わなかった。あんなの不味いだけ。頼まれない限り二度とするつもりはなかった、のに。
 ちらりとイヌピー君を窺うと、イヌピー君が能面のような顔になっていてぎょっとする。すべての感情がごっそり抜け落ちていた。いつもの真顔には感情が滲み出ていたんだということに気付く。石になったかの如く微動だにしないまま十秒ほど経過すると、ようやくイヌピー君は口を開いた。

「いい」

 いつも通り抑揚のない声で言うと、イヌピー君は俯き、ぼそりと独りごちた。

「絶対一回じゃ終わんねぇ。とめらんなくなる」

 籠った声は淡々としていたけど切実な響きをはらんでいて、私の胸を高鳴らせる。心臓が強く収縮を繰り返している。鼓動が速すぎると胸は痛くなるということを、今初めて知った。

 意識的に私はイヌピー君に手を伸ばす。気付いたらじゃない。わざとだった。イヌピー君は既に我慢してくれているのを知っている癖にだ。素直過ぎるくらい素直なイヌピー君の彼女がこんな計算高い女でいいんだろうかと懸念が過るけど、だけどこの座は誰にも渡したくない。そう思いながら、イヌピー君の肩に手を置いて、耳元で囁いた。

「良い子で待っててね」

 くすぐったい気持ちを抱えながらイヌピー君から離れる。口元がむずむずと震えていた。また怒ってるのかな……とイヌピー君を窺うと。

「!?」

 イヌピー君のこめかみに血管がバキバキに浮かんでいた。もはや殺しかねないほどの勢いの据わった目で私を強く睨み据えているイヌピー君にぎょっとする。抗争中のイヌピー君ってこういう目をしてたんじゃないだろうか。怖い怖い怖い怖い!!

「テメェふざけんなよ。マジでいい加減にしろよ」

 予想以上にイヌピー君はぶち切れていた。元ヤンの本領発揮である。去年イヌピー君とタイマン張ったらしい松野君に国民勇気賞を授けたい。怖い怖い怖い怖い! 私こんなのとタイマンするの絶対嫌ー!

「チンコ爆発したらどうしてくれんだ」

 イヌピー君はマジ切れしながら、真剣にそう言った。

 目が点になったのを感じた。ポカンとしながら、私はイヌピー君を真正面から見つめる。ふざけていなかった。真剣に言っていた。マジでチンコが爆発したらどうしてくれんだと怒っていた。チンコが爆発のパワーワードがじわじわと私の腹筋に忍び寄り、そして爆発した。

「ははははははは! ちょ、マジ顔でそんなん言わないでよ! あはははははは! あはははは! ひーーーっ、チンコばくは、あははははは!!」
「笑いごとじゃねんだよクソが。結構前から悩んでんだよ」
「結構前から! あはははははははははは! そっか、あはははははははははは! ゲフッ、ゴフッ、ひーーーーっ」







(待て 7回休み)



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