だって今の君だから





 何か考えているように見えるし何も考えていないようにも見える。

 ファッションビルのメンズフロアをひとり歩きながら、私はイヌピー君のすんっとした真顔を思い浮かべてあの表情の奥に潜んでいる感情について思いを巡らせていた。何考えているようにも何も考えていないようにもどちらにも取れる、あのすんっとした真顔。勇気を振り絞ってくっついてみてもゴキブリの産卵動画を思い出してるし、かと思えば。

 強く掴まれた顎。私を搦めとるような熱い視線。壁に押し付けられながらされたキス。

 キスされた時の事を思い出すとぶわぁっと昂揚感が体を包み込み、ときめきが体内に満ちていく。びっくりしたけど嬉しかった。嬉しすぎて死ぬかと思った。けどその喜びも束の間。ぎゅっとしてほしいとねだったら『無理』とにべもなくきっぱりと……。

 わからない。マジで何を考えているのかわからない。んーーーー……。
 悶々と懊悩しながら歩く。ていうか、このことばかり悩んでいても駄目だった。何あげよっかなぁと弾んだ気分に呼応するように足取りも軽くなる。あともう少しでクリスマスなのでそのプレゼントを買うためにメンズフロアに立ち入り、色々物色しているんだけどなかなか決まらない。イヌピー君は身に着けるものに拘りが案外あるので困る。今までの元カレとは系統が全然違うから、過去のデータも参考にならない。

 あ、

 ふと前方に目を向けた時、見慣れた人物の横顔が視界に映った。つんと尖った形の良い顎先にすーっと筋の通った鼻梁。金茶色の髪の毛が緩くウェーブがかっている。絶対そうだ。確信を得た私は胸同様に弾んだ脚で、その子に向かい小走りで駆け寄った。

「柚葉ー! 何してんの?」

 横から覗き込んで声をかけると、柚葉は「陽子」と少し目を丸くした。

「吃驚した。アタシは八戒のプレゼント選んでんの。クリスマスの」
「やっぱそうかー。柚葉ってほんと八戒君ラブだねー」
「当たり前じゃん。陽子はなん……ああ」

 質問を投げかける前に柚葉は答えに行き着いたようだ。嫌そうに顔を歪めてから「ほんと物好き」とため息をつく。柚葉のイヌピー君嫌いは筋金入りだ。友達が彼氏を毛嫌いしているのは心苦しいけど柚葉がイヌピー君を嫌う原理はもっとも過ぎて何も言えない。だから「あははー」と乾いた笑い声でやり過ごした。

「イヌピー君って服のこだわり強いじゃん? 選ぶの超むずいんだよねー」
「へー」
「ぶふぉっ、どうでもよさそ! てかせっかくだしなんか甘いモン食べに行こー!」
「ん。いいよ」
「やった! ナンパ成功ー!」
「なんだよナンパって」

 友達に偶然出くわすとテンションが高まってしまう質の私ははしゃぎながら柚葉の腕に腕を絡ませた。「ちょっと歩いたトコにめっちゃ美味いケーキ屋あんだよ!」と笑いかけると、柚葉はじっと私を見詰めてから、しみじみと感じ入るように呟いた。

「乾がこういう子とねぇ……」
「え。なに。どゆこと?」
「……まあいいわ。連れてってよ、そのめっちゃ美味いケーキ屋」

 柚葉は悠然と微笑みかける。水に濡れた花のようなしとやかな微笑みに、道行く男の人達が柚葉に視線を寄越したのを感じ取った。少し唇を緩ませるだけで絵になるんだから美人っていいよなぁ。







 ……よく考えたらダイエットしてた……。

 帰り道、私は後悔に打ち沈んでいた。
 今は夕方だから本来ならオレンジ色の光に照らされているはずだけど、夕日は曇り空に覆われているからか妙に暗かった。それがずうんと沈む気持ちに更に拍車をかける。

 過去に遡れるものなら遡ってケーキを二個食べている自分をタコ殴りにしたい。ああああ馬鹿、マジで馬鹿、自分死ね……! ハァーッと大きくため息を吐くと、同い年くらいの男子がすれ違いざまにちらりと視線を投げてきた。今の溜息は道行く人の反応を誘うほどに大きかったらしい。うわ、恥ずい。気恥しくて視線を明後日に彷徨わせると、男子もそれ以上私に興味を持たなかった。私の横を素通りしていく足取りに淀みはない。

 はず、だったんだけど。何故か突然肩をぐいっと掴まれた。予想だにしない行動に呆気に取られ思わず振り仰いだその時。

「やっぱ乾の女だ」

 ――あ。視線が繋がったと同時に。見上げた先の顔立ちが私の記憶の底を揺らした。水底に手を突っ込んだ際に舞い上がる土埃のように、記憶が浮かび上がる。

 遊園地の時の帰り道で、イヌピー君に喧嘩を売った奴等の一人だ。

「今日は乾いねぇの?」
「……いないけど…」

 喉と唇が緊張でからからに水分を失っていた。掴まれた肩を振りほどきたいけど下手に刺激して怒りを煽ることになる事が怖くて動けない。ボソボソと籠った声で答えると「別れた?」と揶揄るように尋ねられた。

「別れてないけど……」
「マジ。へー。順調じゃん」

 言葉だけ取れば祝福されているけど声色は依然として揶揄に塗れたものだった。上から下まで舐めまわすように品定めしてくる目つきに生理的嫌悪を覚える。触れられた肩から全身に鳥肌が広がっていくのを感じた。

「ねぇ、彼女知ってる? アイツ今コーセーネンぶってっけど、昔オレ以上にえぐい事してたよ?」
「……知ってる」

 殺しとレイプ以外はやった。そう言っていた。殆どの悪いコトを、していた。

「ホントにぃ? アイツさぁ、必死に命乞いする奴にも真顔で鉄パイプ振り下ろすような奴だぜ? 」
「……でも、今はそんな事してない、し」
「だから過去の罪も帳消しだって? すみませんって必死に謝る奴を殴り続けても今良い奴だから全部水に流せって?」

 男子の声に苛立ちが帯びた。口元は笑っているけど目は笑っていない。

「いい御身分だよなぁ、マトモになって、女作って、幸せそうで」

 私の肩を掴む力が強くなり、骨がミシミシと悲鳴を上げた。痛いけどそれ以上に恐怖が上回り、私は唾を飲むことで緊張を和らげようとする。けど、干上がった喉を潤す事しかできなかった。人通りのない通路だった。まだ夕方だからと高を括ったらこのざまだ。自分で切り抜けないといけないという痛感に誘われて、絶望がじりじりとにじり寄ってくる。

「知ってんのかぁ、そっかぁ、じゃあ、しょうがないよなぁ」

 肩を解放されたのも束の間、締め上げるような手つきで、二の腕をぎゅっと掴まれた。足元が見えない砂で埋まっていく。
 男子の目が三日月のように細められる。怒りと愉悦の入り混じった笑みを浮かべていた。

「乾の代わりに、オマエに償ってもらうわ」

 視界に映る景色が深い絶望に覆われて、一気にモノクロに変わる。体の内側に氷水を流し込まれたように、体温が急速に消えていった時だった。

 ヒュンッと耳元で風が切る音が聞こえた。

 金茶色の髪の毛と一緒にショーパンから伸びる白く長い脚が舞い上がり、男子に直撃した。ドサァッと崩れ落ちるように倒れ込んだ男子を見下ろしながら、その子は――柚葉は冷たく言い放った。

「汚い手でアタシの友達にさわんじゃねえよ」

 ぱちぱちと瞬きしてから、視界の中の人物を確認する。柚葉だ。柚葉がいる。助けてくれた。どうしてここに。恐怖と感謝と戸惑いが綯交ぜになりぐるぐると頭の中を駆け巡り、ただ感情の渦に呑み込まれていると柚葉が私にちらりと視線を寄越した。

「アンタ、アタシの買い物袋間違えて持って帰ってる」
「………え」

 柚葉の指摘を受け、私は握っている紙袋に視線を落とし「あ」と声を漏らした。白地に印刷された黒の文字は私が買ったブランドのものじゃなかった。私も柚葉もプレゼントは買わずに自分の買い物だけ済ませたので、お互い何を買ったのか見せ合いした時に取り違えたのだろう。そそっかしい私らしいミスに柚葉は呆れたように「ったく」と腕を組んだ。

「テメェふざけんなよこのクソアマ!」

 男子が立ちあがり怒号をぶつけてくる。私は反射的にビクッと肩を震わせたけど、柚葉は一切怯んでいなかった。冷たさをはらんだ眼差しで男子を見据えながら、凛然と相対している。

「ふざけてんのはどっちだよ。乾がやらかした事は陽子に関係ねえだろ。陽子に近付くな。狙うなら乾を狙え。ああ、でも、もうわざわざ狙わなくて大丈夫だわ」

 静かに言葉を重ねていた柚葉はフンッと鼻を鳴らし、腕を組んだ。

「乾、アンタの事地の果てまで追いかけまわすよ」

 怒り狂っていた男子の顔が凍り付いた。ピシリ、と亀裂が入ったような音が聞こえたような気がした。

「覚えてるんだろ、黒龍時代の乾。じゃあ、想像つくよな?」

 柚葉の言葉は降り積もる雪のようで静かで、そして、男子を凍りづかせていく。顔は青白く染まり、背筋に氷を当てられたように震えていた。

「アンタの事どんな手を使ってでも、潰すよ」

 柚葉の冷たく鋭く憐れみのはらんだ声に、男子の顔は死人のように白く染まり上がった。

「わ、悪かった!」
 
 泣き叫んで命乞いをするような声だった。恐怖に引き攣る声を生まれて初めて聞いた私は、息を詰まらせる。

「違う、ちょっとした冗談で……! 頼む、乾には言わないでほしい、頼む……!」

 悲痛に顔を歪ませた男子は足早に私に近寄って来た。必死の形相で紡がれた必死の懇願をどう受け止めたらいいわからないのとさっきまでの恐怖が依然として抜けきらない私はただ立ちすくんだ。どんどん近づいてくる男子が怖くて、でも逃げる事も出来ない。ただ恐怖に震えながら少し後ずさると「頼むって!」と男子は更に詰め寄って来た。

「陽子に近づくなつってんだろ!」

 すると、柚葉が私の前に立ちはだかって一喝した。柚葉の周りに、びりびりと電流のようなものが流れている気がする。私と同じ女子なのに、自分よりはるかに上背がある男子を前に一歩も引いていなかった。強く気高く凛々しい背中の後ろに、私は守られているだけだった。恐怖だけじゃなくて情けなさからも肩を窄めて縮こまる。

 ごめん、柚葉ばっかりこんなこと、だけどでも私、今、

 ガクガクと脚が震えている。遠い世界の出来事として捉えていた暴力≠ェ現実味を帯びて私の生活を侵食している事実に、恐怖で声も出なかった。

「二度と陽子に近づくな。それなら乾にはアンタがやったって事は言わない。ただ破ったら即言う。つーか、東卍解散したけど仲間意識が馬鹿みたいに強いアイツらが今回の事知ったら、」
「わかった、わかった……! 誓うから、だから頼む……!」

 とうとう土下座しながら必死に懇願する男子を柚葉はつまらなさそうに見下ろしながら「消えろ」と言い放った。背を向けて逃げていく男子は命からがら≠ニいう表現がぴったりな逃げっぷりだった。きっと映画やドラマで見れば『だっさぁ』と笑えるんだろうけど、現実で直視するとただただ痛々しく、彼の恐怖が私にも伝染し笑うことなど到底できなかった。

「……大丈夫?」

 ふわりと笑いかけてきた柚葉に、先ほどまで彼女を覆っていた闘気は消え失せていた。いつもの柚葉だ。そう思うと、私の緊張もほどけるように抜けていった。息を吐くと、自分がずっと息を止めていた事に気付いた。冬特有の荒みすら感じる研ぎ澄まされた冷たい空気が肺を満たし、酸素を体の中に巡らせ、思考がようやく回り始める。

「ごめん」

 まず出てきたのは謝罪だった。

「……は?」

 柚葉は怪訝そうに眉を潜める。だけど私は取り合わず依然として謝罪を続けた。

「柚葉がひとりで頑張ってくれてる間、私、ぼうっとしてた」
「そりゃそうだろ。あんなんと出くわしたらビビんのが当たり前」
「柚葉は怖がってなかった」
「そりゃまあアタシはああいうのに耐性ついてるからさ。ま、つきたくなかったけど?」

 柚葉にしては珍しくおどけた物言いだった。私を慰めようとしているのがわかる。確かに柚葉はしっかりしているけど自分よりひとつ年下の子に慰められている事に申し訳なさと不甲斐なさが加速した。
 これ以上謝っても柚葉を困らせるだけ。優しい柚葉が『そんなことないよ』と否定してくれるのを実際私は心のどこかで期待している。私の前に立ちはだかってくれた柚葉に、これ以上何を背負わせようというのだろう。

 何にもしなかったくせに。殴られた訳でもないくせに。ただ肩や腕を強く掴まれただけだけのくせに。

 それなのに。
 ずっと守られていたお荷物のくせに泣きたくなるとかふざけている。

 口の中の肉を必死に噛みしめて嗚咽を殺す。目の奥が熱くて、視界が霞んできた。お腹の底からせり上がってきた熱い塊を、唾と一緒に呑み込む。小さく息を吐いてから、私は笑顔を作った。

「柚葉ありがとね! 超! 超超超! かっこよかった! 柚葉ホントに強い、」
「陽子、ケータイ貸して」

 突然遮られて、私はぱちくりと瞬く。話の骨を折ってまでケータイを貸せと言ってきた意図が掴めず、思わず柚葉を見つめる。柚葉は真剣な顔で私を見ていた。何そのマジ顔と笑おうとしたけど、できなかった。

「う、うん。わかった」

 強い視線に気圧されながら、私はポシェットからケータイを取り出して柚葉に渡す。

「ありがと」

 ケータイを受け取った柚葉は操作していくと耳元にケータイを宛てはじめ、私はぎょっとする。誰に電話しているのか。その答えは柚葉自身が教えてくれた。

「乾? 今どこ。じゃあちょうどいいわ。今から駅前来い。はぁ? 陽子がアンタの昔のツケを払わされそうになったんだよ。陽子、襲われたの」

 ――え。

 虚を突かれ放心している間に、話は進んでいく。

「オマエに恨み持ってる奴が逆恨みで陽子襲ったってこと」

 柚葉は電話を切ると、呆然としている私に「ありがと」とケータイを返してきた。

「ゆ、柚葉。イヌピー君には言わないんじゃないの?」
「アイツがやったことは言わない。でも陽子が襲われた事は言うよ。陽子は乾のせいで襲われたんだから」
「ちが、」
「違くない」

 柚葉は反論は許さないと言うように、声を張った。

「乾が無駄に恨みを買わなかったら、陽子は襲われなかった。その事をあいつはちゃんと知らなきゃいけない」

 柚葉は「行くよ」と私の手を掴んで、駅に向かって歩いていく。私はただされるがままだった。

 反論したかった。だけど具体的な反論内容は何も浮かばなかった。
 私は昔のイヌピー君を知らないけど、柚葉はちゃんと直接見て知っている。だから柚葉の語るイヌピー君には真実味があった。

『覚えてるんだろ、黒龍時代の乾。じゃあ、想像つくよな?』
『アンタの事どんな手を使ってでも、潰すよ』

 さっきの男子の恐怖に引き攣った顔が思い浮かび、胃の奥がヒヤリと冷えた。





 駅前のベンチに柚葉と二人で並んで座っていると、息せき切ったイヌピー君が現れた。

「中野」

 イヌピー君は肩で息をしながら私を見下ろしていた。いつも感情に乏しい瞳に焦燥が溢れている。どういう表情で受け止めればいいかよくわからなかったけど、とりあえず笑っておくことにした。

「お、お疲れー。ごめんね、バイトの後に。いやホント大したことなくて、」
「拉致られかけてた」

 柚葉の静かな声が、私の無理矢理取り繕ったはしゃぎ声を両断した。イヌピー君の目が瞬時に見張られ、瞳が戦慄くように震えた。柚葉は落ち着きながら、静かに説明を足していく。

「釘は刺しといた。オマエと東卍の名前出しといたから99パーアイツが陽子に近づく事はないはず。けど100パーじゃないから陽子のバイトの帰りとか絶対送れよ」
「ゆ、柚葉〜、大丈夫だってば。イヌピー君そんなん超めんどいじゃん」
「めんどくてもこいつが蒔いた種なんだよ。どうしても無理な時は誰かに頼め。アタシもやってやるから。オマエの為じゃなくて陽子の為だけど」

 柚葉の突き放すような厳しい物言いをイヌピー君はただ黙って聞いていた。でもイヌピー君はこんな風にきつく言われて『はいそうですか』としおらしく頷くような子じゃない。いつこめかみに血管を浮かばせながら『テメェ誰に物言ってんだ』とキレてもおかしくない。まあまあと喧嘩腰の柚葉を宥めながら、ちらりとイヌピー君を窺うと、ヒュッと喉の奥が鳴った

 イヌピー君の目は真っ赤に充血していた。だけど顔は青白い。額にミミズ腫れのような青筋が張っていた。

「特徴教えろ」

 質問ではなかった。恫喝じみた命令だった。

「テメェ、中野助けたんだろ。じゃあ見たんだよな。ソイツの特徴全部言え」

 迸るような怒りで声は小刻みに震えていた。『九井がいねぇと何も出来ねぇんだな』と嘲笑われた時のように、いやそれ以上の怒りを内包している。

「特徴言ってどうすんの」
「二度と歩けねぇ体にする」

 傍にいるだけで息が詰まるほどの怒りだった。

「じゃあ言えない」
「あ?」

 淡々と拒否する柚葉にイヌピー君は眉を吊り上げ、目を細める。鋭利な刃物のように鋭く尖った視線で、えぐるように柚葉を睨んだ。
 『殺しとレイプ以外やった』を裏付けるような眼差し。傍から見ているだけなのに、つうっと冷たいものが背中に落ちていった。

「アイツの情報をオマエに漏らさないのを条件に二度と陽子に近づかないって約束させたんだよ。だから無理」
「約束とか生温いんだよ。んなまどろこっしいマネ必要ねぇ。ぶっ潰せば済む話だ」

 イヌピー君と柚葉の言葉の応酬が、私が今まで生きてきた世界とはかけ離れたもので入る事が出来なかった。イヌピー君に『もう何言ってんの』と茶化す事は出来なかった。だってイヌピー君は本気で言っている。本気で、少しも躊躇うことなく、あの人の脚を壊そうとしている。

 呆然としながら、イヌピー君を見つめる。

 私とイヌピー君では倫理観が違う。

 遠いと思った。

 手を伸ばしたらすぐ触れられる距離にいるのに、イヌピー君が遠い世界の人のように思えた。

「つーかさぁ。報復考えるよりも先にやることあんじゃねーの」

 柚葉はすうっと猫目を細めて、イヌピー君を睨んだ。その瞳には侮蔑が浮かんでいる。

「……あ?」

 イヌピー君は唸った。爆発寸前の怒りを湛えている――だけど。

「オマエ陽子に大丈夫かの一言もないわけ?」

 柚葉が冷たくそう言った瞬間、イヌピー君は目を大きく見張らせた。額に強烈な一撃を食らったように呆然としてから、ゆっくりと私に焦点を合わせた。
 食い入るように見つめられる。まるで私の存在を確かめるようだった。どう受け止めたらいいかわからなくて、とりあえず笑う。だけど表情筋はいつのまにか硬く強張っていて、少ししか動かなかった。釣られるように、イヌピー君の表情も強張る。肖像画のように静止していた。

「今は大分収まったけど陽子ずっと震えてたんだからね。なのにオマエは労わるどころか現役並みにいや現役以上にぶち切れる。彼氏ならまず心配しろよ。馬鹿じゃねえの」

 柚葉は大きくため息吐いた。だけどイヌピー君は怒らない。ただ、柚葉の言葉を聞いていた。イヌピー君を纏っていた怒りは消えていた。ただ、悄然と立ちすくんでいた。

「そうやって気に入らないモンを気に入らないからって理由でぶっ壊してきたツケを陽子が払う羽目になりかけたってコト、全然わかってない。去年と全然変わってない」
「柚葉……!」
「中野」

 柚葉を制止しようとすると、イヌピー君に呼ばれた。イヌピー君は俯きながら「いい」と呟く。

「ホントの事だ」

 後悔に打ち沈んだイヌピー君の声に、柚葉はぱちくりと目を瞬かせた。イヌピー君は顔を上げる。だけどまたすぐに頭を下げる。

「中野の事守ってくれて、ありがとう」

 





 落ち込んでいる。
 超絶落ち込んでいる。

 帰路を辿っていく中、隣を歩いているイヌピー君に視線をちらりと送る。案の定、かつてないほど落ち込んでいるイヌピー君がそこにいた。確かに今日は天気が悪いけど、イヌピー君の頭上にだけ雨雲が浮かんでいるようにイヌピー君の表情は暗く翳っていた。どよん……と効果音すら聞こえるような気がする。元気を出してもらおうと愚弟が鼻からうどんを食べようとした話を披露しても「ん」の一言だった。身内の恥を晒しても駄目とは……。渾身の滑らない話を披露しても駄目だったので、私も黙るしかなかった。二人で肩を並べながら、黙って歩いていく。

 もう一度イヌピーをちらりと見る。イヌピー君は視線を斜め45度に下げていた。
 イヌピー君は何を考えているのかいまいちよくわからないのに、今は手に取るようにわかる。イヌピー君はまぎれもなく、落ち込んでいた。超絶、落ち込んでいた。

「ねぇ、イヌピー君」

 腕を引っ張りながら、イヌピー君を呼ぶ。ようやく視線が繋がった事が嬉しくて頬が自然と和らいだ。茫洋とした瞳を覗き込みながら、コンビニを指さす。

「寒いしお腹空いたし、肉まん食べてこ!」


 ………ダイエットってなんだったっけ…。

 気付いたらケーキ二つだけでなく肉まんまで食べた自分に呆れを飛び越え恐怖を覚えた。私は本気で痩せる気あんのか? 
 
 座って食べようと私が提案し、イヌピー君を連れて公園のベンチに座った。いつも私よりイヌピー君の方が食べるのが早いのに、今日は私の方が先に食べ終えた。イヌピー君は二人の間に置いている紙袋に入った肉まんに目もくれずに、ずっとぼうっとしている。

 ……どうしたもんかなー。イヌピー君の落ち込みっぷりをどうしたものか、私は思考を巡らせた。ここまで落ち込んでいるイヌピー君を見たのは初めてだった。首がもげ落ちるんじゃないかってほど項垂れている。柚葉の言葉はイヌピー君にとってひどく耳に痛いものだったらしい。

『オマエ陽子に大丈夫かの一言もないわけ?』

 柚葉にそう言われた瞬間、イヌピー君を覆っていた怒りが瞬く間に霧散した。そこからはただ黙って聞いていた。柚葉を止めようとした私を遮り、そして柚葉にお礼を言った。イヌピー君にお礼を言われた柚葉は雷にうたれたかのような衝撃を受けていた。ポカンと口を開けて、イヌピー君を凝視してから、はたと我に返ったように瞬いた。気まずそうに視線を左右に泳がしてから『ごめん』とぽつりと呟く。

『………ごめん。アタシ、言い過ぎた』
『んなことねぇ』

 イヌピー君は頭を振り、続けた。

『全部オマエの言う通りだ』

 お腹の奥底から絞り出すような、深い自責に駆られた声だった。

「すまねぇ」

 あの時と同じ声で、イヌピー君は謝罪した。相変わらず斜め45度下を見詰めている。

「オレのせいで怖ぇ思いしたのに、オレ、全然気にかけてやれなかった。自分の事ばっかだった。柚葉の言う通りだ。オレは何も変われてねぇ。……去年のまんまだ」

 イヌピー君は「オレ、何やってんだろうな」と口元を歪ませた。

 私の今彼は、たくさん悪いコトをしたらしい。私は伝聞でしか知らないけど、時々、身を以て体感する。
 最初は遊園地の帰り道。挑発に乗ったイヌピー君駅中で喧嘩を始めた。人を殴る事に一切躊躇いを覚えていなかった。
 二回目はついさっき。約束させるよりも脚を潰した方が早いと言っていた。やっぱり、少しも躊躇っていなかった。
 獰猛な怒りを纏うイヌピー君は、怖かった。

 怖かった。

「去年のまんまじゃないよ」

 怖かった。心の中で呟いてから、私はイヌピー君の言葉を否定する。そう、怖かった。だけどそれは過去の事。
 イヌピー君は私にゆっくりと焦点を合わせる。背中を丸めて伏せた目から窺いがちに私に視線を寄越すその姿に、どう恐怖を覚えればいいのだろう。春の陽だまりのように柔らかく暖かい気持ちが、私の心を潤していく。
 
 さっきのイヌピー君は怖かった。
 去年のイヌピー君はきっともっと怖かった。

 だけど今は。

「今年は、私と付き合ってるでしょ」

 今の悄気げているイヌピー君は、怖くない。

「もし、イヌピー君と出会ってたのが去年だったら……正直、付き合ってたかわかんない」

 イヌピー君の気配が固くなったのを感じた。依然として斜め45度下に視線を固定しているイヌピー君を目の端で捉えてから、視線を正面に戻す。天気が悪いからか、少し遅くなってきたからか、公園には私達以外誰もいなかった。

 去年のイヌピー君の事を、皆こぞってヤバかったと言う。もし、去年のイヌピー君に出会っていたら、私は回れ右をしていただろう。だって今年のイヌピー君ですら出会いたての時は『ヤバい奴』と認定していたのだから。
 前科持ちだからと色眼鏡でイヌピー君を見ていた。関わりたくなかった。
 間違えてよかったとしみじみ思う。間違えていなかったら、常識という名の偏見に囚われている私は今頃他の人と付き合ってたかもしれない。

「てか去年のイヌピー君、私に告られても何寝言いってんだって怒ってきそうだよね。話聞く限り、ずーっと怒ってるし。……そもそも!」

 イヌピー君の袖をぎゅっと引っ張って、私の方を向かせる。わざと怒った顔を作ってみるとイヌピー君はたじろいだ。

「去年のイヌピー君さぁ、ヤバすぎるよ! 三ツ谷君に感謝しなきゃだよー!? 三ツ谷君が傷害罪で訴えたらイヌピー君今少年院だからね!」

 叱ると更にイヌピー君はたじろいだ。イヌピー君は結構押しに弱い。気まずそうに視線を泳がしている姿が可愛くて、唇がむずむず震えた。間違えてよかった。もう一度、同じことを思った。

 間違えなかったら今頃イヌピー君以外の人とそれはそれで楽しく付き合っていたかもだけど、それでも嫌だ。
 一度知ってしまったらもう駄目だった。
 
「でも、今年のイヌピー君は、私の彼氏でいてくれてるでしょ?」

 私は、乾青宗君に彼氏になってほしい。

 諭しかけるように尋ねると、イヌピー君はぱちりと目を瞬かせた。呆気に取られたように、数度瞬きを繰り返している。

「まぁ、去年のイヌピー君もイヌピー君なんだから、今と全然別人って訳にはなんないよね。生まれ変わったみたいに変わるとかそんなの、無理だし」

 八方美人な性格や化粧しないとぱっちり二重瞼にならない自分に嫌気が差して、他の誰かになりたいと願った事がある。呼吸するように自然な口振りで自分を卑下するイヌピー君も、他の誰かになりたいと願った事があるのかな。そう思うと、胸の奥がギュッと狭まって、息苦しくなった。私は君がいいのに。

「……今も、昔みたいに悪いことをしてたら、私はイヌピー君と付き合えてない。だけど、今はしてない」

 今頑張ってたら許されるのか。嘲るような問いかけに私はどう答えればいいかわからない。私はたまたまイヌピー君の犯罪の被害に遭っていないだけで、被害者にしてみれば、高みの見物のようなお気楽な発言なのかもしれない。少しでもタイミングや立場が違えば、私は被害者でイヌピー君を憎んでいたのかもしれない。

 もしかしたら、少しでも何かをかけ違えていたらイヌピー君は今もたくさん悪いことをしていたかもしれない。
 だけど、そうならなかった。
 そうならなかったのは、イヌピー君が頑張っているから。

「お金たくさんあって、周りに自分の言う事聞く奴たくさんいて、好きな時に好きな事してムカついたら暴れ回って、好きなように生きれた世界を抜けて、苦手な勉強頑張って、地道に働いてる」

 今のイヌピー君は、たくさん悪いコトをしてきた過去を背負いながら後悔や寂しさを胸に、堅実に生きようとしているから。

「私だけ我慢してんのおかしいとか言ってくれたり、写メ一緒に撮ってくれたり、文化祭来てくれたり、送ってくれたり、海連れてってくれたり……多分、去年のイヌピー君、てか私と付き合いたての頃ならどれもしなかったんじゃない?」
 
 ぼうっと私を見ている瞳を覗き込みながら笑いかける。

「他の人はどう思うかは知らない。けど私はイヌピー君超絶頑張ってるって思うよ」

 イヌピー君はぼんやりと私を見ていた。薄い唇が浅く開き、茫洋とした声が落ちる。

「オマエおかしい。そんなん誰にでもできんだろ。オレはただ、普通の奴らが今までやってきたことを、今更やってるだけだ。……そんな風に言われる価値ねぇ」

 イヌピー君は目を伏せながら、訥々と自分を詰った。膝の上の拳がぎゅっと固く握られている。
 イヌピー君は自分を簡単に否定する。なんの取り柄もないと平然と口をする。自己否定は深くて、ちゃらんぽらんに生きてきた私はどう向き合えばいいかわからない。

 だけどこれだけはわかってほしい。

「そりゃまあ、贔屓入っちゃうよね」

 苦笑するとイヌピー君が窺うように私に焦点を合わせた。真顔だけど悄気げた犬のような表情に、ふっと頬が解けるのを感じた。
 かわいいなぁ。だから、もうこれは仕方ない。

「だってイヌピー君、私の彼氏だもん。甘々になっちゃう。特別扱いしちゃうよね」

 他の人なら許せないこと。ドン引きしてしまうこと。面倒くさいと距離を取ってしまうこと。イヌピー君が相手になると、全ての負の感情が無に帰す。

「去年から変わってないとこもあると思う。でもこれだけはわかって」

 何を考えているのか読み取りづらい瞳を見つめながら、心のうちにある思いを言葉にした。

「イヌピー君が私の彼氏ってこと、超絶、死ぬほど、めちゃめちゃ嬉しいよ」

 わかってほしい。
 イヌピー君が駄目だと思う自分自身は、私にとっては愛おしいということを。
 イヌピー君の代わりは誰もいないということを。
 
 イヌピー君は、ぼうっとしていた。心ここにあらずといった表情で、ただ目の前の私を眺めていた。かっこいいとは言い難い表情に触れたくて、手を伸ばす。

「いつまでもそんな顔しないの! 落ち込むな黒龍元特攻隊長!」

 ワシャワシャと頭を撫でくりまわすと、イヌピー君は動揺した。「ちょ、おい」と狼狽えているのが面白くて「よーしよしよし」と犬を宥めるような声をかける。

「ブフォッ」

 イヌピー君は鳥の巣みたいな頭になっていた。面白いから噴き出す。けどイヌピー君は怒らなかった。ずっとぼうっとしている。

「てか肉まん食べなよー。冷めちゃうじゃん。もったいない。食べさせてあげようか?」

 からかうように尋ねてみても、イヌピー君は答えない。夢でも見ているようなぼんやりとした目つきで私を眺めたまま。

「……おーい? だいじょ、」

 ――ポツッ。

 ……え。何かの雫が私の皮膚を弾いた。嫌な予感を胸に空を仰ぐと、鉛色の空は更に深い鉛色になっていた。お天気お姉さんが『夕方から突然の雷雨のおそれがあります』と神妙な顔つきで言っていたことを思い出す。まぁそれまでに家に帰ればいいでしょと高を括った私はポシェットを肩に引っ掛けて手ぶらで街に繰り出した。

 ――ポツ、ポツポツポツ。ボタボタボタ。

「イヌピー君って、傘とか」

 財布inポケットの姿勢を貫くイヌピー君に、笑いながら尋ねる。ああ顔が引きつっているのがわかる。
 イヌピー君は依然としてぼんやりとした顔のまま答えた。

「持ってねぇ」

 ――ザァァァァァァ

 雨脚は秒単位で勢いを強め、瞬く間にバケツをひっくり返したような雨へと遂げた。

 

 

(雨がやむ場所 4マス進む)



- ナノ -