どうしよう






Q.文化祭どうだった?
A.後ろからヘッドロックされてチンコ勃った。



「は?」

 ソファーに腰掛けてコンビニ弁当の主食であるエビフライを口に運ぼうとしかけたままのポーズで固まりながら、ドラケンはオレを凝視した。「今なんつった?」とオレを見る眼差しから先ほどまで浮かんでいた親しみは取り払われ、信じがたいものを見る目つきへと遂げている。

「だから。中野に後ろからヘッドロックされてチンコ勃ったんだって」
「何がだから≠ネんだよ。だからじゃねえだろ。つーか何ヘッドロックされてんだ。オマエ陽子ちゃんに何した」
「キレた」
「マジオマエいい加減にしろよ」
「アイツ礼言ってきたぜ」
「オマエらなんなんだよ」

 理解に苦しむと言いたげにこめかみに手を宛がうドラケンを他所に、コンビニ弁当の主食であるハンバーグを口の中に放り込む。まあイケる。可もなく不可もなく。
 中野陽子という女はオレにとって可もなく不可もなくの存在だった。告られたから付き合った。それだけだったんだが、最近妙におかしい。去年までは女に擦り寄られたら秒でブチ切れ『馴れ馴れしいんだよクソが』と胸倉掴んで凄み追いやっていたというのに、今や女、つーか中野に擦り寄られても、怒りが沸かない。代わりに胸の奥がもぞもぞする。腕を絡み取られた際に当たる柔らかいモンに意識が集中する。ヘッドロックされた際はガチで背中に胸が当たって勃ったのでトイレで抜いた。オレにとって性欲とは生理現象の内のひとつでしかなく糞と同列だった。女の身体に興奮する事よりも抗争後に昂ったついでに抜く事の方が多かった。
 けど最近は普通に勃つ。中野の声や視線や肌に勃つ。性欲が全身をダニに食われているようなムズムズする感情とセットになっている。

 とにかく最近のオレはおかしい。
 けど中野陽子という女もおかしい。

 中野がキレ散らかした時、意味がわからなかった。オレは当たり前の事実を述べただけなのに、何故か中野は全てに首を振った。何にも知らねえくせに『違う』の一点張りで、最後は声を荒げて激昂してきた。初めて見る中野のキレ顔にただただ吃驚した。呆気に取られている内に、中野はオレを馬鹿だと詰りそして泣き始めテーブルに札を叩きつけ出て行った。

 意味が分からなかった。イカれてると思った。その支離滅裂具合に放心しかけるほど辟易した。だけどそれを上回る勢いで、脳が得体の知れない感情に占領される。心臓が強く収縮し、末端まで酸素に似た何かを届けていった。血管が満ち潮のように膨れて、血が暴れ出していた。

 どうしようもなく触れたくなって、衝動のままに動いた。中野の口に自分の口をくっつけてみたら、得体の知れない感情が更に増殖した。胸の奥底で、焦りのような苛立ちのようなよくわからねぇ感情が煮えたぎっていた。

 キスをやめた後、中野に火傷の痕に触れられた。さっきまで瞳に浮かんでいた挑発的な色は消え失せ、代わりに憂うような色が浮かんでいる。心細そうに『痛い?』と尋ねられた。痕こそ残っているがもう何年も前に完治した傷だ。痛くねぇに決まってんだろ。別にと答えたら、中野は安心で泣き出す寸前のガキみたいな顔をした。

 不思議だった。
 何でそんなことを気に掛けるんだコイツ。どうだっていいだろ。

 赤音が生死を彷徨っている間、親父とオフクロは赤音の大火傷を悼んでいた。生き長らえても火傷は治らないだろう。女の子なのに可哀想。さめざめと泣くオフクロの肩を抱きながら、今にも死にそうな面の親父。それをぼーっと眺めるオレ。オフクロはオレは男でよかったと安心していた。青宗は男の子だから火傷がちょっと残っても大丈夫よね? 九井君に感謝して立派に生きるのよ。実際大丈夫だった。誰の面にも興味を覚えたことはないし自分の面なら尚更だ。医者に尋ねられる。『痛くないかな?』痛くないので黙ってうなずく。

 痛くない。全く何にも感じない。強がりでも暗示でもない。マジで痛くなかった。けど、中野に尋ねられたあの一瞬だけ、完治したはずの火傷が痛んで、焼けるように熱くなった。
 そして、心臓を柔らかく包み込まれたような気がした。

 ドクドクドクドク。心臓が早鐘を打つように、鼓動を激しく鳴らしている。「やべぇな」と呟くと、ドラケンが「何が」と拾い上げた。
 ドラケンの目を真っ直ぐ見据えながら、オレは自身の異常を相談も兼ねて淡々と告げた。

「このままだと爆発する。特にチンコが」
「爆発しろ」








 あれからナナコとは喋っていない。イヌピー君が失礼な事を言ってごめんと謝ったとしても、というかそんなことをすれば更に彼女のプライドを傷つけるだろう。元々冷戦状態なものだったし、放置することにした。
 ユカリとミホから聞くところによると、あの後ナナコの怒りを宥めるのに二人とも大変だったらしい。後始末を友達に押し付けた罪悪感から謝ると、ユカリはあわあわと『き、気にしないで!』と顔の前で手を振り、ミホは『ウケたし全然いいよ』とあっけらかんと笑った。

『男子ってああいうの超怖がって逃げんのに、陽子の彼氏かっこいいじゃん。顔ってか中身が』

 さばさばとした口調でイヌピー君を褒められて嬉しい。けど、同時にそわそわと落ち着かなくなり、笑顔が強張る。するとミホは呆れたように笑った。

『別に好きになんないから安心しなって』




 やばい。自分が日に日にめんどくさい女に変貌しつつある事に、私は悩んでいた。ミホにイヌピー君を褒められて嬉しかったのに同時に不安になった。好きになられたらどうしようとか思った。彼氏を褒められたんだから普通に『ありがとー!』でいいのに。けどイヌピー君の悪口を言われたら私は絶対に怒る。褒められるのも貶されるのも嫌。じゃあ私の友達はイヌピー君にどう言及すればいいんだ。

「陽子ちゃん」

 前までこんなんじゃなかったのに。彼氏を褒められたら私のセンスを褒められたようでただ単純に嬉しかったのに。おかしいおかしいおかしいおかしい。

「陽子ちゃん?」

 てか専門って女子いんのかな。『乾くぅん、ここわかんないんだけどぉ』とか擦り寄られていたらどうしよう。少年漫画(ハーレムもの)または少女漫画の主人公の如く鈍感なイヌピー君は特に何も思わず『オレもわかんねえ』と仏頂面で返して『えーそうなのー? じゃあ二人で勉強しよー』となってあああああああああああああまさしくこれぞ『オマエ無防備過ぎんだよ』……!

「陽子ちゃーーーーん!」
「ぎゃあ!?」
「ひぃっ!?」

 耳元で叫ばれて驚きのあまり奇声を上げると、私の奇声に驚いたユカリも釣られて奇声を上げた。バクバクと鳴っている心臓を落ち着かせるように胸を抑えながら「え、あ、なに!?」と上擦った声で問いかける。

「そ、そこ、売り切れだから出ないよ」
「あ……。ほ、ほんとだ」

 私が押している自販機のボタンには『売り切れ』か表示されていた。しょうがないのでその隣のカフェオレを選んだ。紙パックのカフェオレが落とされ、ガゴンと音が鳴る。

「はは、ぼーっとしてた。ユカリ何にした?」
「わたしは苺ミルク。珍しいねぇ、陽子ちゃんがボーっとするの」
「まあ、たまにはね」

 自販機で買った紙パックのカフェオレを飲みながら教室への帰路を辿る。昼休みの廊下は生徒でそれなりに溢れていた。私がユカリと毒にも薬にもならない会話をしているように、皆、各々話に花を咲かせている。次数学怠い帰りクレープ食べに行こエトセトラ。私には関係の無い話はただのざわめきなので、耳に入らない。

「陽子の彼氏さー」

 私に関係のある話は、入ってくるけど。

 突然私の名前が出されて、思わず意識をそちらに向ける。角を曲がったところで、別クラの友達数名が雑談していた。その中にはナナコもいて、緊張で肩に変な力が入った。ユカリも気付いたようで、居心地悪そうに彼女達から目を逸らし『どうする?』と私に目配せしてきた。このまま進めば出くわしちゃうけどどうする? の意だろう。

「ちょっと待ってもらっていい……?」

 声を潜めて耳打ちすると、ユカリはこくりと頷いた。彼女達が去るまで、ちょっと待つ事にする。なかなか去らないようだったらすれ違う時に適当に会釈してやり過ごすことにした。

「超かっこよかったんでしょー? 私も見たかったなー。ナナコ見た?」

 うっわ……。緊張で喉が狭まって頭皮にじっとりと汗が滲んだ。『死ねブス』発言を知っているのは私とユカリとミホとナナコだけ。だから彼女が知らないのは仕方ないんだけど……。その話題は出してほしくなかった、特に今……。
 案の定、ナナコの機嫌は悪くなった。「別にぃ。微妙だった」と答える声は色濃い不満で覆われている。

「えーそうなの?」
「そーだよ。みんな大袈裟過ぎ。てか犯罪者じゃん」

 嘲笑と共にその言葉が吐き出された時に、一拍の空白が胸の中に垂れ込んだ。頭から顔、顔から胸へ、すうっと冷え切っていく。血の気と体温が順繰りに消え失せていく。

「犯罪者?」
「そーだよ。友達から聞いたんだけど元族なんだって。強請りとか強盗とかしてたらしいよ」
「え……ちょ、それマジヤバい奴じゃん……」

 友達の昂揚していたトーンが落ちた事により、ナナコは「そうそう! マジヤバい奴!」と嬉しそうに声を高めた。

「よく犯罪者と付き合えるよね。私お金もらっても無理だわ」

 イヌピー君は『殺しとレイプ以外やった』と自己申告していた。だから、ナナコはホントの事を言っているだけ。ただ事実を述べているだけだ。

 それなのにどうしてこんなに胃の奥底がぐつぐつ煮えたぎっているのだろう。彼氏を馬鹿にされて、自分のセンスがないと嘲笑われているように感じるからだろうか。そうなのかも。きっとそう。だから、落ち着かなきゃ。一年の時ナナコに『そのカバンないわー』と馬鹿にされた時もムッとしたけど『ナナコって毒舌ー』と適当に笑ってやり過ごした。そうあの時と同じ要領で鎮めればいいだけ。
 カフェオレをストローで吸って、ぐつぐつと煮えたぎっている胃の中に送り込む。けど、全然冷めない。あっという間に、怒りの中に呑み込まれる。

「陽子押し切られたんじゃないの? 大丈夫かな……」
「間違えて告ったんだってー。馬鹿だよね」
「え、何をどう間違えんの」
「知らない。まぁ今楽しそうだからいいじゃん。私は犯罪者の彼氏とか恥ずかしくて学校に呼べないけど」
「でも顔いいんでしょ?」
「オマエそればっかだな!」

 ドッと笑いが起こる。でもナナコは笑わない。私も笑わない。

「だからぁ」

 ナナコは苛立ちを尖らせながら、言葉を続ける。

「大したことないってば。顔に火傷の痕あるし」

 周りの空間が真っ白に染まって、全ての音が消し飛んだ。けどナナコとそれに付随する声だけは響いていた。

「火傷?」
「そ。結構派手に残ってたよー」

 黒板を爪で研ぐような、不協和音を奏でている。

「なんでだろね。放火とかしたのかな」
「知らなーい。けどそーかもね。喧嘩相手の事半殺しにしてたらしいしー」
「うわヤバ……!」
「ねー! いるよね。キレるとカッとなって手ぇつけらんなくなるヤツ。周りに迷惑かけてばっかの」
「あーニュースで見る奴ね」
「どうする? 陽子の彼氏出てきたら」
「あはは、やっば! でもマジであり得る。そういう奴って最初から最後までそんなんなんだろうし」

 耳の中で、ナナコの鈴を転がすような可憐な声が、くわんくわんと反響している。

「生まれてきた事が間違いだよね」

 六秒間待てば怒りは消えるという説に則って生きてきた。

 六秒待てば『どうでもいい』と片付けられるようになる。落ち着いて深呼吸して六秒待てば、怒りは持続しない。

 嘘だ。

 ――バチィィィィン!!!

「へ、な、な、なに、なにす……」
「しばいたに決まっとるやろそんなんもわからんのか」

 腫れた頬を抑えながら、酸素を求める魚のように口をパクパクさせているナナコを見据えながら冷たく言い放つ。自分のものとは思えないほど冷たい声だった。だけど体はマグマに呑み込まれたように熱い。

 イヌピー君の誕生日の時の怒りなど比ではない。というかあれはただの怒りではなかった。悲しみが高じて怒りに転じたものだった。
 だけど今は違う。

「わからんならもっかいしばいたるわ」

 純度百パーセントの怒りが私の魂を支配している。

 ナナコの胸倉を掴んで壁に押し付けると、小さな唇から「ひっ」と悲鳴が漏れた。けど構わずにもう一度横っ面を叩く。空気を切り裂くような破裂音が響き渡ると廊下が更に静まり返った。
 右からも左からも後ろからも視線が突き刺さっている。ひとつひとつが呆気にとられ、そして、ドン引きしていた。

「ひ、ひど、ひどい……! 意味わかんないんだけど……!」
「は? まだわからんの? じゃあもっかい、」 
「ちょ、陽子落ち着きなって……! 確かにウチらもちょっと言い過ぎたけどでも殴るのはやり過ぎ!」
「そ、そうだよ、陽子が聞いてたの知らなかったんだし」
「ナナコが毒舌なのは、」
「うっさい黙れ知るかクソ!!!」

 激情に駆られながら、止めに入って来た友達を怒鳴り飛ばすと「クソって……!」と気色ばんだ。この状況をどこか冷静に見ている私が『この子達もある意味被害者だよ』と窘めて来る。ナナコの機嫌を損ねたら面倒くさい事になるから適当に合わせてたんだよ。陽子だって去年同じことやってたじゃん。別に嫌いじゃない子の悪口を一緒に言って迎合してたよね?
 
「何も知らんくせに勝手な事ほざきやがって……!」

 違う。ナナコは知っている。どういうツテで知ったのか知らないけど、イヌピー君の過去を知っていた。強請りとか強盗とかしていた事を、知っていた。もしかしたら、私よりも過去のイヌピー君を知っているかもしれない。

 そもそも私とナナコに違いなどない。
 私だって最初は前科持ちのイヌピー君を『ないな』と判断していた。色々あって非行に走っていた。はあそうですか。事情を汲み取る気なんてさらさらなかった。
 もしあの時間違えて告らず、代わりに誰かがイヌピー君の彼女となっていたら、私はナナコと一緒に『〇〇の彼氏やばいじゃん』と嘲笑う側に回っていただろう。
 色眼鏡で人を見て、場の空気に馴染むために嫌いでもない人間の悪口を叩く。神様という存在が本当に存在するのならば、オマエに怒る資格あるのかよと眉を潜めているだろう。

 そうだ。私に怒る資格などない。
 だけどそんな理屈を、怒りが遥かに凌駕し、呑み込む。

 嫌だった。
 嫌で嫌で嫌で嫌で嫌で、嫌だった。

 イヌピー君が愚弄され嘲笑され存在を否定されるような事は、何が何でも、死ぬほど、心臓がねじ切れそうになるほど、嫌だった。

「イヌピー君は死ぬほど短気で、私の弟の煽りにも乗るくらい超絶短気で、だけど最近は喧嘩買わずに頑張ってて、ボコボコにされて、痛そうで、私の弟の漢字ドリルにも苦戦するくらい漢字が読めんくて、けど頑張って整備士になるために勉強して、頑張って……!」

 今のイヌピー君をちゃんと説明したいのに、舌がもつれてうまく言葉にできない。支離滅裂にまくし立てていることを自覚しながらも『頑張ってて、』と繰り返すことしかできなかった。

 だって今、頑張って生きてる。綺麗なお姉さんが亡くなった後も、ずっと一緒にいた友達と離れても、生きている。
 生きて、私の隣に、立ってくれる。

 目の奥が燃えるように熱くて、眼球の裏側に何かが押し寄せていた。下唇を強く噛みしめて、必死に押し止める。泣きたくなってる場合じゃないのに、ちゃんと、伝えなきゃいけないのに。
 違うのに。間違いなんかじゃないのに。ホントに頑張っている事を伝えなければいけないのに、でも今口を開いたら。

「陽子ちゃん」

 強い意思をはらんでいる小さな声が、私を呼んだ。声の先に目を遣ると、ユカリがじっと私を見詰めていた。視線が繋がると、ユカリは私の手を掴んだ。小さな白い手にきゅっと握られると、喉の奥の熱い蟠りがふやけていくのを感じた。

「わかった。わかったから。乾君は、今、頑張ってるんだね」

 真摯な重みの籠ったひそやかな声がすうっと心の中に染みわたっていくと、堰き止めていた何かが溢れ出しそうになった。
 わかってくれたんだ。安心感がなだれこむと視界が滲み、たまらず俯く。すると私は小さな手に緩く引っ張られた。「あっちいこ」と優しく声を掛けられると、更に視界が潤む。ユカリは小さな子を誘導するみたいに、私を連れ出してくれた。





 

 放課後。真っ直ぐ家に帰る気にならず、適当に街をぶらつくことにした。ガードレールに腰かけて、ぼうっと空を仰ぐ。ユカリに言われた言葉が、胸の内を揺蕩っていた。

『陽子ちゃんは乾君が好きなんだね』

 五限目を一緒にサボってくれたユカリと一緒に階段に座る。ユカリは私の隣で、しみじみと感じ入りながら言った。

『……まぁ、付き合ってそれなりに経つし? 情も沸くよね』

 改めて口にされると気恥しくて、真っ向から頷く事は出来なかった。私を神妙に見つめるユカリの視線が強くて、居心地悪かった。所謂マジな空気≠ェ苦手な私を少しでも空気を茶化したく『てかごめんねー?』と笑いながら謝る。

『ヤバいよね、怖いよね、私。てかあんな関西弁出るとか自分でも吃驚した、私こそキレたら手ぇつけらんなくなる奴じゃん。皆ドン引きしてたよね、ヤバいなー』
『でも許せなかったんでしょ?』

 真っ直ぐな眼差しと声に射抜かれて、一瞬声を失う。マジな空気は苦手。だから笑いたいんだけど、笑えなかった。

『……うん…』
 掠れた声で頷くと、また、目と喉の奥が熱くなった。

 だって、許せなかったから。
 
 アンガーマネジメントなんて嘘だ。六秒で消える怒りは怒りじゃない。
 だってまだ、怒りは私の中で燃え続けている。百年経っても、千年経っても、絶対許せない。

『……わたし、陽子ちゃんのこと、器用な子だと思ってたんだ』

 ぽつりと、ユカリが訥々と喋り始めた。胸の内にある想いを少しずつ取り出すように、ゆっくりと。

『気になる男子にメアド普通に聞けるし、好かれても軽く流してるし。でも乾君と付き合い始めてからは、陽子ちゃん、ちょっとずつ変わっていってて……。前は好きな人の話する時良い意味でヤバイって言ってたけど、乾君には……その……その逆の意味で……』
『気遣わなくていいよ。悪い意味でヤバイ、でしょ』

 何とかイヌピー君を悪く言わないように言葉をこねくり回しているユカリに苦笑する。イヌピー君がヤバいのは単なる事実なので、言われたとしても何も思わない。

『だってイヌピー君ヤバいもん。初デートで吉野家に置き去りにするってヤバイよ。やる気なさ過ぎでしょ。足速すぎだし口悪いし目つき悪いし道端に痰吐き捨てるし』
『え…………』
『だよね、ドン引きだよね、だけど、でも、』

 そこから先は声にならなかった。息を吐き出すと、喉から肺が焼かれたように熱くなった。

 だけど、でも、怒ってくれるんだよ。
 私が適当に隅に追いやっている怒りとか悲しみとかを、怒ってくれるんだよ。オマエだけ我慢すんの変だろって言ってくれる。見てて気分悪ぃんだよって、怒りながら。

 下唇を噛みしめながら膝の上でぎゅっと握り締めた拳を、ユカリは柔らかく包み込んでくれた。顔を向けると、いつになく真剣な顔のユカリが私を見詰めながら言う。

『間違ってないよ』

 一言一言に、真摯な想いを籠めながら、なぞるように言う。

『暴力はいけないって言うけど、わたしは間違ってないと思うよ。……乾君と付き合うまでの陽子ちゃんだったら、好きな人貶されてもあんなに怒んなかったと思う。笑って流してたと思う。その方がそつなく生きていけるって思うけど……。わたしは、』




 あんな風に人を好きになれる、今の陽子ちゃんの方が好きだよ

 ユカリの言葉をもう一度反芻しながら、高く青く広がる秋空を仰ぎ続ける。あんな風に、とは。あんな風に関西弁を使って廊下の中心でブチ切れるほど、って事なんだろうか。そうなんだろうな。ユカリ変わってんなぁ……。不良の如くブチ切れた姿のどこがいいのかさっぱりわからず、ユカリに有難みを覚えるのではなく、奇妙に思った。あの子、優しいからなぁ。気を遣ってくれたんだろう。

 確かに、イヌピー君の事好きだけど。キスができる程度には、好きだけど。だけどそんなの今までと一緒だ。別に大したことじゃない。
 恋なんて、特に十代の恋なんて、その場限りだ。人生を彩るスパイス程度。あったら嬉しいから、好きな人や彼氏を作る。その程度のものだ。

 恋に対する思いを言語化すると、理性はその通りだと強く頷いた。だけど、心は頷かない。どうしてなんだろう。熱を出したようにぼんやりする思考の中、変なのと思いながら、なんとなくケータイを出した。JKだから、暇さえあればケータイをすぐに弄っちゃう。それだけの事。
 履歴をスクロールするまでもなく乾青宗の文字が出てきた。じいっと見つめてから、何となく通話ボタンを押す。JKだから、暇さえあれば彼氏に電話を掛けちゃう。それだけの事だ。
 出るか出ないか微妙なトコだな……と冷静に考えながらコール音を聞き続けていると。

「何」

 つっけんどんな声が鼓膜を震わせたその瞬間、ピンと張り詰めていた糸がふやけて、固く強張っていた心の輪郭が溶けていった。声を聞いただけなのに、鼓動が速くなる。喉の下辺りが膨れて、声が出ない。
 今この瞬間身を以てわかった。私はイヌピー君の声を酸素を求めるように欲していたのだと、痛感した。

「……何となく」

 動揺を悟られないように声を平常に保たせ、それから「へへ」と笑った。

「ねぇ、今日会えたりしない?」

 無理だろうなぁと予防線を張るように予想しながら尋ねると、案の定「バイトあるから無理」と返ってきた。やっぱり。急に会おうって言われても無理だよね。予想通りなのに落胆に沈みかける心を押し留めて「だよねー」と笑った。

「じゃあまた今度ね! バイトがんばれー!」
「だりぃ」
「あはは! じゃあそこそこがんばれ! じゃーね、ばいばい!」

 イヌピー君の「ん」という相槌の後にもう一度「じゃあね」と告げて、それから電源ボタンを押す。ケータイを耳から離すと、力が抜けていった。鼓膜に残るイヌピー君の熱が体の中にじわじわと染み渡り、やがて心臓まで届く。『ん』という相槌が消えていくのが名残惜しくて、ケータイを宛てがっていた耳を包み込むように触ると、手の中のケータイが震え始めた。誰だろう。淡々とケータイを開くと『乾青宗』の文字が浮かんでいて、目を見開く。胸が瞬時にどくどくと騒ぎ始めた。

「イヌピー君? どうし、」
「オマエ今どこ」
「え?」
「はやく。答えろ」

 苛々とした口調で詰問され、私は押しに負けるような形で場所を答える。すると「そこで待ってろ」と命令された。

「え? え? なんで?」
「行くっつってんだよ」
「……え!? バイトは!?」
「代わってもらう。おい田中焼肉定食奢るから代われ」
 
 い、今から代わってもらうんかい……! 計画性ゼロの行きあたりばったりなイヌピー君に辟易していると、通話口からイヌピー君とタナカ君の会話が聞こえてきた。

「えーやだ」
「餃子定食も奢る」
「んーやだ」
「テメェ緊急事態なんだよ代われやクソが」
「僕すごく働きたい気分なんだ喜んで代わるよだからお願いその目やめて怖いよ」
「チッ。遅ぇんだよ。いいか、中野。動くなよ」

 ブツッと乱暴に切られ、コール音が響き渡る。機械的なコール音が、私の心臓を強く揺らがす。

 来てくれるんだ。
 来てくれるんだ。
 来てくれるんだ。

 今から会いに来てくれる喜びが、泉が湧くように胸の中に広がり、そして、熱く火照った頬を、涙が冷ましていた。気付いたら泣いていた。悲しいわけじゃないのに泣いていた。持て余した感情が涙となったのだろう。心臓が締め付けられたように痛くて苦しいのに、嫌じゃなかった。

 どうしよう。どうしようどうしようどうしよう。

 体の奥底から嗚咽がせり上がりかけている。瞼の下が固く盛り上がっている。泣き出す寸前の気配を察し、必死に感情を抑えると、体が小刻みに震え始めた。すうはあと深呼吸してから、化粧が落ちないようにハンカチで目蓋を抑える。どうしようどうしようどうしよう。その間もどうしよう≠ェ止まらない。泣いたら化粧が落ちるので絶対泣きたくない。だって一番可愛い私でいたい。

 どうしようどうしようどうしよう。

 彼氏が出来る度に何回も同じことを言う友達の言葉が脳裏をよぎる。今まで付き合ってきた人の中で、今度の彼氏が一番大好き! 耳にタコができるほど聞き飽きた。

 どうしようどうしようどうしよう。理性を感情が飲み込んでいる。常識とか普通はとか取っ払って闇雲に喚き立てている。こんなこと初めてでどうしたらいいかわからない。爆発しそう。どうしようどうしようどうしよう。

 こんなに人を好きになったの初めて。

 今まで鼻で笑ってきた戯言を本気で思うとか、どうしよう。





(しったかめったか 2マス進む) 



- ナノ -