人のせいにするな










 どうやらキスができる程度には好きらしい。
 






 校門前でそわそわと待ち続ける。まだかな。まだかな。まだかな。キョロキョロと辺りを見渡しながら、イヌピー君の姿を探した。

 ――いた。

 待ち焦がれていた人を見つけて私は一気に舞い上がる。バイク停める場所無いから電車と徒歩で来てとお願いしたイヌピー君は、約束通り徒歩で来てくれた。

 私が見つけた瞬間に、イヌピー君も私を見つけてくれていた。視線が繋がり、春の木漏れ日のようなほわほわした気持ちが胸いっぱいに広がっていく。顔の横で手を振ると、小さく頷いてくれた。校門前に立つ私の前に彼が立つと、ホントに来てくれたんだと感動が押し寄せる。    

 私が通う高校の文化祭に来ない? と誘ったのは一週間前のこと。

「ブンカサイ……?」

 初めて知る英単語のように片言で復唱するイヌピー君の向こう側には、夜空が広がっている。イヌピー君は時折私のバイト先でご飯を食べる。食べ終わってもすぐに帰らず、私が終わるまで待ち、その後送ってくれる。今や普通に良い彼氏だ。初デートの頃を思い出すと成長ぶりに涙が出そうになる。
 私は自転車を押しながら「うん! 文化祭!」と強く頷いた。

「もうすぐやるんだけど、来ない? 二日目なら私当番じゃないからイヌピー君と一緒に回れるんだよね。どう?」
「いいけど」
「やった!」

 大きく笑って喜ぶ私をイヌピー君は無感動に眺めている。「んな喜ぶことかよ」と呟いていた。




 ちらっと視線を滑らせて、見慣れた学校の中に溶け込んでいるイヌピー君を確認すると、頬が溶けていった。すごい。同じ学校に通ってるみたい。どうしよ、男友達の誰かに頼んで制服貸してもらおっかな……! 
 水面下で諸々の画策を立てている私の隣で、イヌピー君はたこ焼きを頬張っていた。

「どう? 美味しい?」
「普通」
「だよねー」

 笑って頷きながら、私は周囲に警戒を張り巡らせていた。感じる。周りの女子達の目線を感じる。四方八方あちこちから女子達のイヌピー君に向ける眼差しを私は感じ取っていた。綿菓子のようにふわふわと甘い、好意を帯びた視線がイヌピー君を取り囲んでいる。しかし彼はそれに全く何も思わないらしい。悦に浸る事も居心地悪そうにするでもなく、いつも通りの仏頂面で泰然とたこ焼きを頬張っていた。敵意ならすぐに感じ取ってメンチ切り返すくせに、こういった眼差しにはとことん無頓着だ。歯痒い。もっと警戒してほしい。少女漫画のヒーローが周りからの視線に鈍感な主人公に対し『オマエ無防備過ぎんだよ』と苦言を呈する心情が今なら痛いほどわかる。イヌピー君無防備過ぎる。

 ていうかもうああ駄目だ限界だ。

「……あの、イヌピー君。私、今からトイレ行くんだけど、絶対ここから動かないでね。声かけられても着いて行っちゃ駄目だよ」

 迫りくる尿意が限界に近づいた私はそろりと腰を上げ、イヌピー君に注意を促す。ずっとトイレに行きたかったんだけど、周りの女子達から牽制するのに必死でずっと言い出せなかったのだ。周りからの好意に恐ろしく鈍感な主人公に対し『こんな子いないって』と鼻で笑っていた過去の私に言いたい。いる。マジでいる。オマエ無防備過ぎんだよをまさか素で思う日が来ようとは……。

「テメェ舐めてんのか?」
「いいから! 絶対だよ!」

 ピキッとこめかみに血管を浮かばせてキレるイヌピー君にもう一度強く言いつけ、トイレに向かって一目散に走る。ただ用を足すだけではなく化粧直しの用途にも使われているトイレは大盛況で、戻るのに少し時間がかかった。
 だから、やっぱり。

「あのー、一緒に写真撮ってくれませんー?」

 あああああああああああああああああ!
 化粧も直さずに一心不乱に戻ったのに、イヌピー君は逆ナン的なものに遭っていた。二人組の女子が、頬を赤らめながらイヌピー君に切々と頼んでいる。動物で例えると真っ白な兎のような、いじらしい可愛さを持つ子達だった。見覚えがある。どこで見たんだっけ……ああ、男友達を『一年の〇〇ちゃんマジ可愛い!』とはしゃがせていた子だ。確かに可愛い。軽く化粧しているけどすっぴんでも可愛い事が裏付けされている可愛さに、チクリと胸が痛む。

 本来イヌピー君の彼女となるような子は、あれくらい顔面偏差値が高い子達だろう。私のように愛嬌と化粧と髪型で女子としての偏差値を底上げした作り物ではなく、生まれた時からありのままで可愛い子達。自分が生来的な美人じゃない事は、私が一番よく知っている。

 彼女達との格の差を実感すると、焦りに上擦っていた気持ちがみるみるうちに消沈した。一応彼女だから割り込んでもいいはずだけど、でも、写真撮りたいって言ってるだけだし……。どうすればいいかわからない。途方に暮れたまま、少し離れたところから、イヌピー君を眺める。
 ぽつんと一人取り残されたような孤独感の中、立ち竦むことしかできなかった。

 私の視線の先で、イヌピー君は最後のたこ焼きを食べ終える。喉仏を上下に動かしてから、口を開いた。

「無理」

 そして、にべもなく断った。

 あまりにも取り付く島もない物言いに、女子達はポカンと呆ける。その間にイヌピー君はすくっと立ち上がり、ゴミ箱に空になった舟皿を捨てた。そして振り向くと、一直線に私を射抜いた。躊躇いのない目つきに射すくめられ、ビクッと肩が震える。どうやら私の存在に最初から気付いていたらしい。淀みない足取りで私の元にやってくると「おせぇ」と詰って来た。

「ご、ごめん。その、混んでて。……あの、イヌピー君って……写真、嫌い?」

 さっきの一刀両断振りから、イヌピー君の写真嫌い説が浮上する。私は写メを撮ることが好きなので何かに付けてイヌピー君に写メを持ちかけ続けていたのだけど、もしかしたら本当は負担に思っていたのではないだろうか。懸念が広がり、窄んだ声で窺うように問いかけると、イヌピー君は「普通」と答えた。

「ほんとに?」
「マジに決まってんだろ。なんで嘘吐かなきゃなんねぇんだよ」
「いやその、さっき写真すごい勢いで断ってたから」
「知らねぇ奴と撮りたくねぇ」

 イヌピー君らしい持論の展開になるほどと頷く。知らない奴とは撮りたくない。知り合いならOK。単純明快な理由だ。私の写メを許可する理由もただ単に『知っている奴だから』なのだろう。そこにそれ以上の特別な理由が含まれていない事に隙間風のようなものが胸の中を吹き抜ける。

「あのさ。イヌピー君って好きな女優とかアイドルいないの?」

 可愛い子達に声を掛けられても動かざること山の如しの勢いで突っぱねていたイヌピー君に、以前から抱えていた疑問を投げてみる。毛嫌いされているけど柚葉は猫目が特徴的な美人だし、お姉さんは儚げな雰囲気を纏った美人だ。自分も綺麗な顔立ちだし周りの女子達も綺麗だし、イヌピー君の周りはたくさんの綺麗な人に溢れている。けどイヌピー君を美醜に対し全く興味を示さない。 

 一体どういう子なら可愛いとか綺麗と思うのだろう。どういう子なら、特別に思うのだろう。
 明るい子なのか、大人しい子なのか、髪の長さ、脚の細さ、エトセトラ。切々とした疑問が心を覆う。

「いねぇ」

 けどイヌピー君は私の疑問に少しも考え込むことなく、一蹴するように瞬時に答えた。予想通りと言えば予想通りだけど……。苦笑してから、私は質問を足した。

「好きまではいかなくてもさぁ、結構いいなぁーみたいな子とかいないの?」
「いねぇもんはいねぇよ。女って皆似たような顔してるし。オマエ以外皆同じに見える」
「いやいやいや! 普通にみんなちが、」

 イヌピー君が平然と放った言葉が、ふわりと心臓を浮かせた。ツッコミを入れていた口が途中で固まる。足元が地面から離れ、身体が浮遊していく。

 イヌピー君の言葉をもう一度反芻すると、全身の血液が流れ込んだように顔が熱くなった。

 私を作り上げる細胞全部が高鳴っている。ドクンドクンと強く脈を打っている。羞恥に似た甘酸っぱい感情が体の中をぐるぐると循環していた。うわぁ。うわぁうわぁうわぁヤバイ超絶ヤバイとにかくヤバイ……! 語彙力が最低レベルまで低下した私は『うわぁ』と『ヤバイ』しか使えなくなる。イヌピー君は女子に意図的に殺し文句が吐けるような器用な人じゃない。小手先の技を駆使して生きてきた私には、イヌピー君のド直球ストレートは受け取るのが大変だった。私を弄ぶ為の意図的に編み出された言葉なら対処できる。けど、何も考えずに生み出された言葉にはどう対処したらいいかわからない。とりあえず、気付かれないように息を吐く。体の中に充満する甘ったるい熱を、逃すように。

「イヌピー君、あっちにたこせんあるよ!」

 まだ心臓はバクバク騒いでいるけど、動揺を無理やり押し込んだ私は平然を装いながら、イヌピー君の腕の中にするりと自分の腕を絡ませて、周りを牽制した。彼女にしかできない行為。私だけが得ている特権。周りからの視線が鋭くなったのを感じたけど、構わず腕を絡ませ続けた。だって、私がイヌピー君の彼女だし。

 計算なんて何もしていませんと無邪気を装いながら、下から覗き込んで「次あれ食べない?」と尋ねると、いつも通りの仏頂面で頷かれた。




「ユウコー、マヨネーズ多めにかけてー」
「我儘言うな。彼氏いるんだからマヨネーズなくてもいけんでしょ」
「まあまあそこを何とか!」

 焼きそば作っている友達と適当にじゃれ合った後、焼きそばを受け取り、相変わらず真顔のイヌピー君に「あっちで食べよー!」と空のベンチへと促した。

「オマエ、ダチ多いな」
「えーそう? 普通じゃん?」

 去年若干ハブられかけたしとは心の中でこっそり呟く。大っぴらにしたい事じゃない。そんなこと言われても困るだろうし。

「多いだろ。つーか、前から思ってたんだけど」

 イヌピー君は焼きそばをずずっと啜ってから、じっと私を見詰めた。

「なんでオレに告った」

 焼きそばが喉に詰まりかけるところだった。なんとか喉の奥に押し込み「きゅ、急になに」と引き攣る頬を持ち上げた。ああ、動揺で声が妙に上滑りしている。
 なんで、私がイヌピー君に告ったか。理由はただひとつ。『間違えたから』だ。ホントは違う男子に告るつもりだったんだけど間違えてイヌピー君に告りました。少年院を年少と呼び、殺しとレイプ以外の犯罪に手を染めたイヌピー君はアウトオブ眼中でした。
 言えない。ぜっっっったいに言えない。冷や汗が滝のように背中を流れる。
 昔の私だったら恐怖心から口にできなかった。もちろん、今でも恐怖心はある。だけど、それ以上に。

『ホントは赤音を助けるはずだったのに、アイツ、間違えてオレを助けたんだよ』

 壮絶な過去を客観的に語るイヌピー君が脳裏に浮かんで、胸が苦しくなった。助けられた自分自身を当たり前のように『間違い』と言うイヌピー君を思い出すと、いつも、苦しくなる。心臓を強く握りしめられたみたいに、息が出来なくなる。

 ……間違いじゃない。割り箸を持つ手に不自然な力を込めながら、心の中で呟く。
 確かに告った時は間違いだった。だけど、今は違う。今の私達は本当に普通に付き合っている。キスだってした。

 キスした時のことを思い出すと、胸の奥がきゅうっと疼いた。体の芯が熱くなる。

 キスの後。目を開けると、いつも通り真顔のイヌピー君がすぐそこにいた。こんな時でも甘ったるい余韻に浸ることなく仏頂面のイヌピー君が面白くて噴き出すと、イヌピー君は不機嫌そうに眉を上げた。何笑ってんだよ、と不貞腐れる。ごめんごめんと謝ってから、イヌピー君をじっと見詰めた。目と鼻の先で見る彼の顔立ちは本当に整っていたけど、でも、そんなことよりも火傷の痕が気になった。なんとなく手を伸ばして、イヌピー君の頬を包むように触れる。それから目元の下の火傷を親指でさわった。硝子細工に触れるように出来る限り、繊細な手付きで。

『痛い?』

 触る前に聞くことだったなと後悔しながら聞くと『別に』とすげなく返された。痛くないんだと思ったら、ホッとして、凝り固まっていた何かが解れて、目の奥が熱くなった。 

 間違いじゃないと思った。
 イヌピー君が今ここにいることと、私の今の彼氏で在ることは間違いじゃない。
 もし偉い学者が間違いだと認定しても、間違いじゃない。

 間違いじゃない。ダイヤモンドよりも固い、確固たる事実を胸の中でもう一度反芻する。乾いた唇を舌で湿らせてから口を開き、イヌピー君に笑顔を向けた。
 
「物怖じしないトコとかなんかいいなーって思って……てかもー! 照れんじゃん!」

 イヌピー君の肩をぺちぺち叩いてはしゃいでみせる。イヌピー君は頬張っていた焼きそばを嚥下させると「いてぇ」と睨んできた。

「え? この程度で? 特攻隊長だったのに?」

 ニヤリと笑って煽ると、案の定、乗って来た。「あ?」と声を低めて凄んでくる。「舐めんな痛くねぇに決まってんだろ」と怒ってくる。相変わらずの単純っぷりに笑ってしまうと。

「あ、」

 意識外のざわめきが、不意に、私に向けられたのを感じた。聞き馴染みのある声に視線を上げるとクラT姿のユカリが立っていた。少し呆けたような顔で、私を見下ろしていた。手にはお財布とペットボトルが握られているので、多分休憩中なのだろう。兎にも角にも思わぬ場所でユカリに遭遇した私のテンションは上がる。「ユカリー!」と立ち上がった。ユカリは曖昧に笑う。

「どしたの? 休憩?」
「う、うん。そんなとこ。陽子ちゃんは……」

 視線はイヌピー君に向かいかけて既の所で私に引き戻す……といった具合だ。怯えを帯びた瞳から察し「大丈夫大丈夫!」とユカリの心配を払えるように笑顔を浮かべる。

「イヌピー君は番犬ガオガオみたいな感じだから! 手を出さなきゃ大丈夫!」
「聞こえてっからな」

 背後で荒削りなオーラが揺らめいているのを感じ、振り向くとイヌピー君が眼光を鋭く尖らせて私を睨んでいた。ズボンのポケットに両手を突っ込んで私を見下ろすイヌピー君に、ユカリが「ひいっ」と悲鳴を上げる。この程度のキレはもう日常茶飯事なので「ごめんごめん」と笑いながら受け流した。

「てか口の端にソースついてるよー」

 指摘するとイヌピー君は無言で舌で舐め取り、それからユカリを見た。ユカリはビクッと肩をはねさせてから小さな体を細かく震わせる。

「ほら、私がよく話す子。ユカリ。合コンにもいたじゃん」
「覚えてねぇ」
「あーユカリ、イヌピー君ね。誰のことも覚えてなかったから大丈夫。私のことも覚えてなかった。てかこの子基本ほとんどのこと覚えてない」
「テメェ鳥の巣にすんぞ」
「ぎゃーー! 今日40分かけたからほんとにやめて!」

 丸い瞳を私とイヌピー君の間で往復させているユカリに「ねー、無茶苦茶だよねー」と笑いかける。ユカリがなにか言いたげに口を開くと、別の友達が「なになに混ぜてー!」と割り込んできた。気の弱いユカリは声を引っ込めて「ミホちゃん」と笑う。

「あ! 噂の陽子の彼氏じゃん! うわマジイケメン! いいなー!」

 ユカリ、なにか言いたいことがあったんじゃ……と懸念が広がるけどミホのマシンガントークの前に私は呑み込まれてしまう。私のマジイケメン≠フ彼氏はというと口をもごもごさせていた。「取れそうで取れねぇ」と呟いている。なんか奥歯にキャベツでも挟まったな。

 てか噂って。イヌピー君の姿が人目を集めるものだということはわかっていたけど予想以上に集めていたらしい。噂の陽子の彼氏≠ノどう反応すべきか。いいでしょー! と茶化してふんぞり返るか。いやでもマジでイラッとされる危険性もあるしな……と逡巡していると。

「へぇー、陽子の彼氏」

 ドクンと心臓が軋み、胸の奥で嫌なざわめきが広がった。乾いた下唇を舐めてから、笑みを被せた頬を声の先――ナナコに向けた。

「あーナナコ。おひさー。うん。そう。私の彼氏。乾青宗君」

 平然を装いながらも、緊張から声が上擦り早口で喋ってしまう。ナナコは「ふーん」と無関心に頷き、そしてイヌピー君を一瞥した。その目つきはイヌピー君を値踏みするもので、胸の中を靄が漂った。このままだと私のせいでイヌピー君まで嫌な思いをしてしまう。さりげなくこの場から離れようと画策していると。

「かっこいいじゃん! やるなぁ、陽子」

 ナナコに腕を絡み取られ、シャツ越しにもわかる吸い付くような柔らかな肌がぴとっと私に密着する。下から微笑みかけられて、逃げられない事を悟った私は曖昧に笑う事しかできなかった。「あはは」と笑う声がどうか痛々しいものになっていませんように。

「陽子男子と話すの得意だもんね。もう彼氏いんだから気の無い男子にも思わせぶりな事しちゃ駄目だよー?」
「やー、そんなことはないかなー」
「そんなことあるってー。あ、彼氏。陽子結構モテるから気を付けた方がいいよ! 陽子もさぁ、彼氏安心させるためにもこれからスッピンで過ごせばぁ?」
「えっとー、それはちょっとー」

 微量の毒を甘くコーティングし、私の自尊心をすり減らしていく。一年の頃からの変わらないやり方。虐めと糾弾するほどのものじゃない。鈍感な人間からしたら女子同士のじゃれ合いにしか見えないだろう。
 自分の好きな男子が一瞬でも自分より下≠フ女を選んだ事が未だにナナコを苛んでいるらしい。アイツ、そんなに私の事好きじゃなかったよ。ノリで告って来ただけだよ。そう告げたら更に彼女のプライドを傷つけて逆上されるのが落ちだ。だから私は笑顔でやり過ごしかない。だってこれ、虐めじゃないし。私だって、アイツがナナコじゃなくて私を選んだことを喜んだ。選ばれた事に対して喜んだ。私の方が上≠ネんだと、安っぽいプライドが満たされていくのを感じた。だからこれは、罰のようなもの。甘んじて受け止めるしかない。

「陽子って超化粧上手いんだよ。今ハマグリかってくらい目ぇおっきいけど、実際はアサリぐらいなんだよー。私お泊りの時マジ吃驚したもん」

 ユカリは曖昧に頷きながら、時折私を心配そうな眼差しをちらりと私に向けてくる。ミホは薄く笑いながら居心地悪そうに視線を明後日に泳がせて、ぽりぽりと首筋を掻いていた。速くこの場から逃れたさそうだった。表立って『死ねブス』と罵ろうものなら庇えるけど、ナナコは別に私を侮辱していない。表立ってはしていない。
 この程度の嫌味はどこにでもあること。適当にやり過ごすうちに時間は経ち、仕込まれた毒は抜けていく。
 そう。だから、それまで、少しの間、耐えるだけ。

 一瞬の事だった。

 私はもぎ取るような手つきで腕を引っ張られた。ナナコの腕が私から離れる。代わりにゴツゴツと骨ばった手が私の腕を握りしめていた。反射的に振り仰いだ先には真顔のイヌピー君がいた。だけどいつもの真顔じゃない。整った顔立ちの節々から、ぴりぴりと電流のようなものが流れている。
 イヌピー君は氷を削り取ったような冷たい眼差しをナナコに向けると、薄い唇を開いた。

「死ねブス」

 単刀直入に告げられた四つの言葉に、イヌピー君以外の人間が度肝を抜かれていた。化粧を取っても可愛いナナコは驚きのあまり、それが自分への言葉だとはわからなかったようだ。大きな目はぱちくりと開いたまま、固まっている。

「ボサッとしてんじゃねえ」

 イヌピー君はポカンと虚脱状態に陥っている私に毒づきながら、強く引っ張っていく。イヌピー君の脚は私より長いからついていくのに必死だった。脚の回転をいつもより速めて、背中に必死について行く。

「ちょ、待って、歩くの速い」
「オマエふざけんなよマジで」

 イヌピー君の苛立った声に鼓膜が震え、びりっと痺れる。イヌピー君は足を止め、振り向いた。水晶玉のような瞳の中で、怒りが溢れている。
 怒ってる。イヌピー君、怒っている。

「よくわかんねぇことにはブチ切れるくせに、自分のことはキレねぇのなに。クソムカつく」

 イヌピー君、あれを嫌味だと捉えることができたのか。という驚きが先に来た。鈍感だし気付かないだろうと踏んでいたのに。ああでもイヌピー君は敵意とか悪意には敏感だった。
 別に取るに足りないことなのに。よくあることなのに。多分今までの元彼や好きな人だったら女子あるあるだと判別し、男は首を突っ込まないべきだと距離を取っていただろう。イヌピー君は信じられないほどガサツだから、そういう繊細な対応ができないんだろうけど。ただそれだけなんだろうけど。

 だけど、でも。心臓が熱い。

 胸を突き破る勢いで心臓がドクンドクンと騒いでいた。落ち着いてほしい。頼むから落ち着いてほしい。
 確かに私はイヌピー君が好きだ。キスできる程度には好きだ。けどそれは今までの元彼と変わらない。元彼とだって付き合っている時はキスできた。今彼こそ至上に思えるのは自己陶酔にも似た甘ったるい感傷。彼氏の代わりなんてたくさんいる。出会ってきた人間の中でこの子ならまぁありかな≠ニ見繕っただけのものなんだから。だから私はもしイヌピー君に出会わなかったら今ごろ他の男子と付き合っていたはず。
 だから違う。今までの彼氏と違うとか、そんなの、ない。
 喉の奥に熱くて湿っぽい塊が込み上がってきたので、ぐっと奥歯を噛み締めて飲み下した。声が震えないように意識しながら、明るい声を作り出す。

「イヌピー君は大袈裟だなー。あんなの何でもないじゃん。私全然気にしてないし」

 へらっと笑いながら、脳の隅っこでこれからナナコにどう接すればいいんだろうとかユカリ達今フォロー大変だろうなとか考える。けど、頭の芯が痺れてうまく思考が働かない。

「あ?」

 イヌピー君は射竦めるような強い光を宿した目を眇めて、顔を歪める。イヌピー君は感情を取り繕うことをしない。いつだって剥き出しだ。だから合コンで犯罪歴も普通に暴露する。バカみたい。もっと上手に器用に生きればいいのに。でもだからこそ。

「知るかクソ。オレがムカつくんだよ」

 誤魔化してばかりの私の心に、大きく響くのだろう。

 私のためを思ってとか可哀想と同情してのことじゃない。イヌピー君はそんなに優しい人じゃない。本当にただ自分がムカついてるだけ。
 私の今彼はいつもそう。私が蓋をして無かったことにしたがることを自分の都合でこじ開けて、代わりに怒り出す。 
 怒ってくれる。計算も何もなしに、ただ単純に。

 乾いた心が沁みるように、暖かく潤っていく。体中に広がり、不必要に強張っていた肩の力がほどけるようにふっと解けていった。

 イヌピー君は私を強く睨んでから踵を返し、階段を降りていく。私よりも大きな背中をぼんやりと眺めているうちに、衝動が私を押していた。勝手に体が動いていた。

 気付いたら後ろからイヌピー君に抱きついていた。階段差のおかげでいつもは私より高い位置にある肩に顔を埋められる。柔らかな髪が頬に当たってくすぐたかった。

 街中で必要以上に彼氏に触れる子を見ると場を弁えない馬鹿な子だと辟易していた。私はあんなことしない。振られたとしても縋り付かないし喧嘩しても落ち着いて話し合うし人前では精々腕を絡ませるぐらい。節度を持って付き合う。戒めるまでもなく呼吸をするようにその常識に則って付き合ってきたのに。

 こんな非常識な行動をしてしまうなんて私らしくない。絶対、イヌピー君のせいだ。

 私は悪くない。イヌピー君が悪い。ギュッと首の周りにしがみつきながらそう言い聞かせて、口を開く。熱く湿った喉元が震えた。

「ありがとう」



 







(原因は自分の心の中 3マス進む)



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