今の君がここにいる




Q.イヌピー君の好きなものってなに?
A.バイクじゃね?


「やっぱそれかぁー……」

 ドラケン君も柚葉と八戒君(私とは喋れないらしく柚葉越しに教えてもらった)と同じ答えで、予想通りとは言えつい落胆の息が零れる。柚葉越しに八戒君からドラケン君の連絡先を聞き出してまで彼をファミレスに招いた理由はただひとつ。イヌピー君は何を誕プレにしたら喜んでくれるか知るためだ。

「もうなんでもよくない?」
  
 頬杖を付いた柚葉の目は白々しく、すごくつまらなさそうだ。『乾の誕プレとかマジどうでもいい』と顔に書いてある。イヌピー君をとにかく嫌う柚葉が何故この場にいるのかというと、他の男子と二人でいてあらぬ疑いをイヌピー君にかけられたくなかった私は、柚葉に声を掛けて着いてきてもらったのだ。

「あいつ絶対そんなこだわりないって。醤油とかあげとけば?」
「うーん。でも結構服の趣味派手なんだよねー」
「へー興味ない」

 柚葉の辛辣な物言いに苦笑しながら答える。あまりにもイヌピー君に厳しいので、十中八九イヌピー君に非があるのだろうと予想しながら、昔なにがあったのか恐る恐る尋ねると、予想以上に彼はやらかしていた。なんとイヌピー君は八戒君にナイフを突きつけて八戒君を守るべく飛び蹴り食らわせた柚葉に殴りかからん勢いでぶちギレてきたらしい。一から十まで全部イヌピー君がヤバイ話で弁護のしようがなかった。マジでヤバイ。

 だからか、初めて会った時から柚葉は私をすごく心配してくれる。何回も『見えないとことか殴られたりしてない?』と連絡してくるほどだ。美人なだけでなくとても優しい。こんなによく出来たいい子をぶん殴ろうとしていただなんて……昔のイヌピー君のやばさに目眩を覚えながらも、私は柚葉の心配に『大丈夫大丈夫ー!』といつも笑って返していた。

 柚葉に言っても信じてくれないんだけど、イヌピー君は存外良い彼氏だ。
 事故で肘鉄を食らわされたこと以外、私はイヌピー君から暴力を受けたことはない。歩くの早いと言うと速度も落としてくれるようになった。

 糞して来るとか言わなくていいことも言うし、恐ろしくデリカシーに欠ける粗暴な振る舞いも多いし、すぐ怒るし、優しくてかっこいい夢のような彼氏かと聞かれたら頷くことは難しいけど、私はイヌピー君と付き合うことに楽しさを見出だすようになっていた。
 もうすぐ訪れるイヌピー君の誕生日もお祝いしたいと思うほどには、彼と付き合うことを楽しむようになっていた。

 ドラケン君は「醤油!」とげらげら笑った後「つかよくイヌピーの誕生日わかったな」と私に顔を向けた。

「あー学生証でわかったんだよね。ポケットから落ちたの拾った時に知った」
「あぶねぇな……。えーと、いつだっけ。10月18日?」
「うん! てかドラケン君が知らないの意外〜」
「まー去年はあいつとバチバチに抗争してたしな」 
「去年の乾か……。思い出したら腹立ってきた……アタシの可愛い八戒に……!」

 去年のイヌピー君の蛮行を思い出した柚葉の綺麗な形の額に、ピキピキと血管が浮かび上がっていく。ああ、どうしよう。弁護のしようがない。去年のイヌピー君の話題を知れば知るほど彼はろくなことをしていなかった。八戒君にナイフ突き付けるわ後ろから三ツ谷君を鉄パイプでぶん殴るわ……。
 そして。去年のイヌピー君の事を聞くと、時折、釣られるように彼の名前も出てくる。

「……ココ≠チてどんな人だった?」

 イヌピー君から口にすることは滅多にない。けど、イヌピー君に喧嘩を売る不良はこぞって彼の名前を口にする。ココノイはいねぇの? と揶揄りながら。

 ドラケン君と柚葉は目を合わせてから「どんな……」と思い思いに考え始めた。

「アタシの可愛い八戒を馬鹿にして……いつもニヤニヤ笑ってて……」
「嘘の情報をタケミっち達に売ってたって聞いたな。あーあとは……金! って感じ」
「あのココ≠チてもしかして大分ヤバい奴?」
「黒龍時代の乾とつるんでたんだからヤバイに決まってんじゃん」

 フンッと鼻息荒く強く言い切りそして「よくもアタシの可愛い八戒を……」と怒りに拳を震わせ始めた柚葉にドラケン君はゲラゲラ笑う。柚葉の怒りはごもっともとしか言いようがなく「アハハハハハ……」と乾いた笑い声を上げる事でやり過ごしながら、ふと思う。

 ココ≠ネらイヌピー君が何欲しがるかすぐにわかるのかな。ずっとイヌピー君と一緒にいたココ≠ネら。

 私はイヌピー君が一番ヤバい時を知らない。知っているのは今の彼だけ。

 家が火事に遭った事。少年院に入っていた事。黒龍で悪いコトをたくさんしてた事。それらをただ人づてでしか知らないのだと思うと、胸の中にぽっかりと空洞が広がった。

 私はイヌピー君の事を本当に知らない。きっとココ≠フ百分の一にも満たないだろう。
 
 心臓が鉛をはらんだように重たくなり、気持ちが沈んだ。釣られるように視線を下に向ける。

「陽子ちゃんからもらったモンなら嫌がらねえよ」

 沈みかけていた意識がピタリと止まる。視線を上げるとドラケン君に見られていた事に気付き、やばい、と焦燥感が募っていった。ドラケン君はしっかりしているけど私よりひとつ年下だ。年下の子に気遣わせてしまった申し訳なさと気持ちを見透かされた恥ずかしさから笑顔を取り繕い「えーそっかなぁ。フリフリのエプロンとかでも?」と冗談を飛ばす。

「そりゃいらねって言うだろうな。つかわかってんじゃん。アイツがどういうのいらねって思うか」

 ドラケン君はニッと歯を見せて笑うと、視線を斜め下に向けた。「長い付き合いでもわかんなくなるって事あるし、」と、ぽつりと呟いてからもう一度私に視線を合わせる。優しい瞳。だけど、それだけじゃない。どこか羨望の色が滲んでいる。

「陽子ちゃんは今≠フイヌピーをちゃんと見てる。だからわかるよ。アイツが欲しいもの」

 

 






「何ガン飛ばしてんだテメェ」

 今≠フイヌピー君をテーブルの向かい側からじいーっと見続けていると、イヌピー君はハンバーグ定食から視線をあげてメンチを切ってきた。これで大分丸くなった方だと言うのだから昔のイヌピー君は一体どれだけギラギラしていたのだろう。
 完全に恐怖心を拭いきれた訳じゃないけど、私はイヌピー君の粗暴な言動に慣れつつあった。荒く雑な物言いはイヌピー君の標準装備だ。今も目つきと口は悪いけど、本当に怒っている訳じゃない事はなんとなくわかる。だから私は「ガン飛ばしてないから!」と突っ込んでから、ニコッと笑いかけて。

「イヌピー君、誕生日おめでと!」

 パチパチと瞬きして驚いているイヌピー君に「学生証拾った時に見えたんだよね」と種明かしすると、合点がいったようだ。「あの時か……」と咀嚼するように呟いている。

「セブンティーンだね! どう? 17歳になった気分は」
「なんも変わんねぇよ」
「まぁそうだよねー!」

 あえて大声で笑うことでドキドキと逸る心音から意識を逸らそうとする私を嘲笑うかのように、鼓動は勢いを増していく。さりげなく鞄に手を忍び込ませてプレゼントを掴むと、心臓がどくんと跳ねるのを感じた。

 嫌がりはしない、はず。言い聞かせるように心の内で呟いてから「はい!」と誕プレを差し出した。イヌピー君は青い包装紙に綺麗に包まれた四角い箱を確認するようにじっと見つめてから受け取る。

「開けていいか」
「とーぞ!」

 そういう断りは入れるんだ、と地味に驚きながらうなずく。嫌がりはしないはず嫌がりはしないはず嫌がりはしないはず。心の中で念仏のように唱え続けながらイヌピー君が包装紙をびりびりに破いていくのを見守った。
 箱に貼られたセロハンテープが取られ、箱が開けられる。イヌピー君が中身を見た瞬間に心臓が強く波打った。

「えっと。イヌピー君、バイク好きだから。鍵につけたらどうかなーって思ったんだけどー……」

 黒革のキーホルダーが姿を現わした瞬間、私はまるで言い訳するように選んだ理由を説明する。
 喜んでもらえるのかどうか、その不安が胸の中を巣食っていてどうにも落ち着かない。まだ出会って半年未満で好きなものもよくわからないんだから仕方ないと納得に値するだけの理由を持っているのに、落ち着かなかった。

 だってまぁ、一応付き合ってるんだし。まぁ、情も覚えてきたし。最近は一緒にいるの、普通に、すごく、楽しいし。ストローでジュースをかき混ぜながら、心の中で理由をとりとめもなく並べ立てていくと。

「ありがとな」

 柔らかな声が、私の胸の中に空白をもたらした。
 初めて聞いたイヌピー君の声に思わず顔を上げると、目が驚きで見張られていったのがわかった。

 いつも真一文字に結ばれている唇の端が、緩んでいた。掌の中のキーホルダーを見つめるために伏せられた目蓋から覗く瞳に、喜びが灯っていた。

 イヌピー君、笑ってる。

 言葉にして実感すると、胸の中で暖かいものがぶわぁっと弾け、血管の内部から内蔵の裏側まで満たしていった。初めて見たイヌピー君の笑顔は私の心臓を強く穿ち大きく揺らがす。笑っている。笑っている。笑っている。その事実を何度も噛みしめるように実感すると、まるで抱きしめられたように胸の奥が暖かくなって、溢れんばかりの喜びが体中に漲っていった。
 イヌピー君も笑うんだね。そう茶化そうとしたら声が出なかった。どうしよう。やばい。なんだこれ。体の中でむずむずするような甘ったるい熱が充満している。逃すべく、気付かれないように息を吐き出すとようやく少し落ち着く事が出来た。よし、よし、いい感じ。

「ねぇ、せっかくだし写メ撮ろうよ。そっちいっていい?」
「いいけど」

 イヌピー君の「オマエ写真撮んの好きだな」と呆れたような発言に「JKってそういうもんなの」と返す。「どんな生き物だよ」とのツッコミにけらけら笑いながら隣に腰を下ろした。まるで自然にぶつかったように演出しながら、肩をイヌピー君の肩に触れさせる。重なり合う熱をくすぐったく思いながらシャッターボタンを押した。こずるい小手先の技を披露した後でイヌピー君をちらりと横目で見ると、いつもの仏頂面だった。やっぱりさっきの笑顔はレアだったらしい。なんとなくそんな気はしていたけど落胆に沈む気持ちを抑えながら「これ送っとくねー」と笑いかけた。

「ん。……あ」

 藪から棒に、何かを思い出したと言わんばかりにイヌピー君が声を上げ、そして端に寄せた紙袋の取ってを引っ掴んだ。そういえばそうだった。イヌピー君、何か持っていた。いつも手ぶらなのに珍しいなと思ってはいたけど、誕プレを喜んでくれるかどうかばかり不安がっている内に、気付いたらその疑問をいつの間にか脳の端に追いやり、埃を被らせていた。
 何なんだろう。疑問を胸に見つめるとイヌピー君は「ん」と青い冊子を私に向けた。

「アルバム。オフクロに聞いたら一冊だけ残ってた」
「……え?」

 突然アルバムを差し出してきたイヌピー君の意図が掴めずに首をかしげると、イヌピー君はわかりやすく機嫌を損ねた。「テメェが見てぇつったんだろ」と声を尖らせる。
 そう、いえば。記憶の底が揺り動かされる。イヌピー君のアルバム見たい。確かに私はそう言った。だけどその後の『火事で全部なくなった』発言の衝撃の強さにその願いは瞬く間に思考の隅に追いやられていたのだった。
 私が言ったことを覚えててくれたんだ。

「み、見る見る見る!」

 昂揚感にぶわっと包まれながら、アルバムを両手で縋りつくように掴む。青いアルバムがなんだかきらきら輝いているように見えた。

 テーブルの上に置いてアルバムを広げる。収納されている写真を見た瞬間、衝撃と驚きで喉が塞がれた。

 ふわふわの髪に長い睫毛に縁取られた幅の広い二重瞼。まだ子どもだからか男≠ニいう性が前面に押し出されていない。筋肉も乏しく、今以上に中性的な顔立ちだ。見ようによっては女の子にも見える。
 多分、小学校中学年頃のイヌピー君が映った写真をまじまじと見つめてから、ごくりと唾を飲み込み、今のイヌピー君に焦点を合わせた。

「チッ、取れそうで取れねえ……」

 爪楊枝で歯の奥に詰まった食べ物を取ろうとしていた。何とも言えない気分に浸りながら、次のページを捲る。いや今も良い見た目をしてらっしゃるんだけどね。なんかこう……うん………。とにかく顔と言動が全然合ってないんだよなぁ……。
 でもどうやらそれは昔かららしい。写真のイヌピー君は半目だったり大きく欠伸していたりと締まりのないものばかりだった。写真を撮られる気が全くないらしい。呆れながらも、昔のイヌピー君に今に繋がるイヌピー君なんだと思えて、胸の中がほわほわと暖かくなった。私の知ってるイヌピー君だ。

「あ、この人がお姉さん?」
「ん」
「うわー! 流石イヌピー君のお姉さんだね! 美人ー!」

 イヌピー君のお姉さんはイヌピー君を女の子にしたらこんな感じだっただろうと思わせるような顔立ちだった。垂れ目を縁取る濃くて長い睫毛は私と違い、自前のものだろう。柔らかそうな唇は花びらみたいに可憐だ。綺麗で可愛い。女子の究極的存在だ。

「お姉さんといくつ違い? 五つ? 六つ?」
「五」
「へー。じゃあ私と弟と一緒かー。……あ、」

 初々しい態度に、にやぁっと笑ってしまう。イヌピー君のお姉さんの隣で頬をうっすら赤らめながら視線を変な場所に彷徨わせているつり目の少年を「この子、お姉さんのこと好きでしょ!」と指差した。
 イヌピー君はちらりと写真に目を遣ると小さく顎を引いて、淡々と同意した。

「わかりやすいよな、ココ」

 ――ココ
 
 情報だけは今まで何度か入って来た。。ニヤニヤ笑っていて、頭が良くて、八戒君を馬鹿にして、一番悪い時のイヌピー君の隣にずっと一緒にいたココ

 こんな顔なんだ。

 ようやく名前を顔を合致することが出来て、妙な感慨を元にココ≠まじまじと見つめる。事前に知った情報よりもココ≠ヘ純朴だった。まだ幼いからというのもあるだろうけどイヌピー君のお姉さんの隣でドギマギしている様子からはお金にがめつい切れ者の印象は全く窺えない。

「ココ……君って、この子、なんだ。へえぇ……」

 突然ココ≠フ顔が判明したことの動揺でうまく反応が取れない。相槌を何度か打つことで情報を処理する。事前情報と緊張に顔を赤らめているココがうまく合致しないけど、とにかく、この少年がココ≠轤オい。うん。そうか。わかった。もう一度頷くと、やっと情報を処理することが出来た。
 イヌピー君との会話は九割がた私が主導権を握っている。私が喋らないと沈黙が続くので、わざとはしゃいだ声を作った。

「超緊張してるじゃん! 可愛いねー! ココ君、お姉さんのことすごい好きだったんだね! てかこんなちっちゃい頃から仲良かったんだ!」
「仲良いかはわかんねぇけど、」

 イヌピー君は一切躊躇うことなく言った。

「オレはアイツのためなら死んでもいい」

 自分の周りの空間が真っ白に染まったような錯覚を覚えた。額に強烈な一撃を浴びせられたみたいに、一瞬、呼吸を忘れる。
 
 死んでもいい。17歳の少年が口にするには大仰で物騒な台詞は私の思考に馴染まない。そんな事言う奴、初めて見た。「へ、え……」と強張る頬を無理矢理吊り上げる。お腹の中をぐるぐると靄が回っていた。イヌピー君の突拍子もない言動にドン引きしているのとも違う。ただ、消化不良を起こしたみたいにぐるぐると何かが渦巻き、やがてそれは喉元までせり上がってきた。ピクピクと痙攣に震えかける頬を持ち上げたまま「イヌピー君は大袈裟だなぁー!」と笑う。冗談にしたかった。重たい話は苦手だし、私の手に負えない。
 
 それから。単純に嫌だった。
 死んでもいいという発言が、しこりとなって胸を巣食う。

「大袈裟じゃねえよ」

 イヌピー君は何の感情も籠めずに否定する。報告書でも読み上げるように言葉を足していく。

「何の取り柄もねぇオレをずっと支えてくれたんだ。それくらいしねぇと割が合わねぇ」

 それくらいって。ぴりっと苛立ちが沸き上がり「違くない?」と思わず語気を強めて反論する。するとイヌピー君は不愉快そうに目を眇めた。

「なにが違ぇんだよ」
「だって、友達ならそうでしょ。支えるとか、普通じゃん。イヌピー君と一緒にいてココ君だって楽しかったと思うし。そんな、命まで懸けることないよ」

 私の正論≠ヘ、イヌピー君が右眉を上げたと同時に弾かれる。火傷の跡が盛り上がっていた。

「何も知らねぇくせに勝手な事言ってんじゃねえよ」

 彼を纏う空気に圧が生じ、喉の奥がヒュッと鳴った。牙を剥く野犬のように荒々しい雰囲気に呑み込まれる。遊園地の帰り道のような凄みのある荒んだ目つきに睨まれると、背筋に恐怖が駆け上がった。
 心臓がバクバク言っている。怖いと叫んでいる。『ごめんね』と謝りいつもの軽口を飛ばすべきだと理性が説いてくる。大体私に真面目な話題なんて似合わない。どうせいつか別れる彼氏なんだから、深いところまで関わることないと諭しかけて来る。ああ、でも、だけど。

『オレはアイツのためなら死んでもいい』

 ――いやだ。

「……何があったか知らないけど、絶対、イヌピー君がそこまですることじゃない」

 自分の命を投げ出す発言を反芻すると、胸の奥がぐちゃぐちゃになった。理屈抜きで嫌だった。そんなこと言わないでほしかった。

 恐怖に引き攣る喉奥から必死に声を振り絞ってから、恐る恐るイヌピー君を見据える。イヌピー君は冷たい目で私を見ていた。憐れみすら浮かんでいる。物分かりの悪い子どもを見るような、そんな眼差し。

「オレが今生きてんのは全部ココのおかげだ。火事の時、ココが助けてくれたんだよ。ホントは赤音を助けるはずだったのに、アイツ、間違えてオレを助けたんだよ。赤音とオレ、結構似てたから」

 私の中で時間が止まる。衝撃で喉が塞がれた。上目蓋と下目蓋が最大限まで開き、眼球が戦慄くように震える。嵐の中で立ち竦むように呆然としている私を無感動に眺めながら、淡々と、もう一度同じことを言う。平然としながら、当たり前のように言う。

「オレの命はココの人生無茶苦茶にした上で成り立ってる」

 そうしてまた客観的な口振りで、自分自身の命を卑下した。

「………違う」

 沈黙を私の低く沈んだ声が破る。イヌピー君は「あ?」と鬱陶しそうに眉を寄せた。まだわかんねえのかコイツ。イヌピー君から発される空気は節々から苛立ちが滲んでいた。機嫌を取らないとと普段の私なら思うだろう。だけど今は脳みそがぐつぐつ煮えたぎって胸の奥がぐちゃぐちゃで何も考えられない。

「違うよ、間違えてないよ。ココ君、イヌピー君を助けたんだよ。アカネさんはその後で助けるつもりだったんだよ」

 俯きながら否定するとイヌピー君の苛立ちが更に増幅した。チッと舌打ちが上から降ってくる。

「間違えたんだよ。赤音じゃねえつった時のココ、すげぇ呆然としてた」

 イヌピー君は「絶望ってああいうこと言うんだな」とボソリと独りごちた。自分が助けられたことを当たり前のように間違いと口にし続ける神経が信じ難くて、信じたくなくて、頭がおかしくなりそうだった。イヌピー君が自分自身を事も無げに否定する度に、私の心から何かがすり減っていく。

「違う、友達が生きてたんだから、」
「違わねぇよ」

 否定する事を許さない強い声が私の声に覆いかぶさる。これ以上の馬鹿げた発言は聞くに堪えないと言うように。

「ココがあの時間違えなかったら今生きてんのは赤音で、アイツは真っ当な人生を送れてた。ホントならオレは今、」
「違うってば!!!」

 初めて出した大声は情けないほど掠れていて、ヒステリックに満ちた痛々しいものだった。店内が水を打ったように静まり返る。全員の視線が私に集まっていた。情けなくてみっともない醜態を晒しているのを自覚しながらも、私のヒステリーは止まらない。体中に迸る熱が私を立ち上がらせ、ぽかんと呆けているイヌピー君を見下ろす。

「なんで、なんでそんなことばっか言うの!! 死んでもいいとか、そんなんばっか……! いい加減にしなよ!!」

 家族にもこんなに怒ったことない。弟にお気に入りのスカートを汚された時だってこんなに怒らなかった。身を焦がすような怒りが体の中を駆け巡って、私の理性を食い荒らす。衝動の赴くままに、イヌピー君を詰った。

「間違い間違い間違い間違い……! なにそれ! じゃあココが死ねって言ったら死ぬの!? 思考停止の馬鹿じゃん!!」

 イヌピー君とココ≠ノ何があったのか、正しい全貌を私は知らない。きっとイヌピー君が正しい。ココ≠ェ本当に助けたかったのはアカネさんなのだろう。イヌピー君は間違えた末に助けられた。それは動かしがたい事実なんだろう。でもそれが何なんだろう。だって今ここにいるのは乾青宗という男の子で私の彼氏でアカネさんじゃなくて私にとってはそれが全部でそれなのに目の前の男の子はそれが全て間違いだと言っている。

「今日誕生日なのに、なんでそんなことばっか……!」

 怒りと悲しみは案外近いところにあるらしい。燃えるように熱い眼球から溢れ出した涙が私の視界を覆い、何も見えなくなる。手の甲で乱暴に拭うと、落ちたマスカラが手の甲にくっついた。目を丸くして私を見上げているイヌピー君から目を逸らし、財布から適当にお札を出してテーブルに叩きつけて無言でカバンを引っ掴むが否や、速足で出て行った。





 街中で子どもにマジ切れするお母さんを見るとみっともないなと眉を潜めていた。
 彼氏に捨てないでと追い縋った友達の話に表では同情しながらその実ドン引きしていた。
 人とぶつかる事をいつも冷ややかに眺めていた。暑苦しい。もっと楽に生きればいいのに。
 だからまさかこんなこと自分がするなんて思わなかった。

 ファミレスの中心で彼氏にブチ切れる。みっともないにも程がある。

 四方八方から突き刺さる視線が痛々しさに満ちたものだった。何あの子キレてんの? と視線が物語っていた。なんでだろう。どうしてあんなにキレたのか自分でもよくわからない。痺れたようにぼうっとしている頭で自分の奇行を振り返っていると、肩を強く掴まれた。ああ、追いかけてきてくれたんだ。

「食い逃げすんな」

 イヌピー君の声が鼓膜に馴染んだ時、また涙腺が緩んだ。喉に熱い塊がせり上がる。無理矢理振り向かせようとしてきたから、腕を振り払った。「何ヒスってんだ」とイヌピー君の声が剣呑になる。だけど答えない。私だって怒っているんだから。

 ハァッと煩わしげな溜息の後に舌打ちが続いた。イヌピー君が私の前に回り込んだ気配を察し、更に化粧の落ちかけた顔を俯ける。案の定見慣れたスニーカーが見えた。意味もなく、心臓が騒ぎ立てる。

「オマエまじ何。意味わかんねぇ」

 私を詰る言葉を私は黙って聞く。無視する。「おい」と苛立った声に反応ひとつ返さない。

「……ここで突っ立ってたら普通に邪魔だろ」

 剣呑な声に、少しだけ戸惑いが滲む。初めて聞いた声に興味をそそられて少しだけ視線を上げると、イヌピー君は八の字に寄せた眉に当惑をのせていた。初めて見る顔に胸の中のどこかがずくりと疼いた。絆されかけて、すんでのところで気を引き締める。ここで怒りを引込めたらこの子はまた同じことを繰り返す。私の行動から汲み取って察するなんて芸当、信じられないくらいガサツなイヌピー君には無理だろう。歩くの速いからもうちょっと速度落としてと頼んだ時も目を丸くして驚いていた。
 だから、言うしかない。

「イヌピー君が、ヤなことばっか、言うから」

 そうしないと、わかってくれない。
 俯きながら、掠れた頼りない声で少しずつ言葉を紡いでいく。イヌピー君のスニーカーに視線を落としながら。

「言ってねぇだろ」
「言ったし。ずっと言ってた」
「言ってねぇよ」
「言ったよ! ずっとずっとずっと……!」

 口に出したらまた悔しさと悲しみが入り混じり、熱い塊となって私の喉元に蟠る。ぼろぼろと涙が零れ出て、口の中に流れ込んだ。
 ココ≠ノとったら、イヌピー君にとったら、イヌピー君が助け出された事は間違いでも、私にとっては違う。

「誕生日祝う人間の前で死んでもいいとか、そんなん、言わないでよ……!!」

 君がここにいる。それだけが唯一の真実だ。

 突風が吹き抜けるように、一連の出来事が起こった。

 両耳を掴むように乱暴に顔を持ち上げられた。髪の毛の中にごつごつした指が入り込む。

 瞬きの間に、距離を詰められた。

 近すぎてどんな顔をしているのかよくわからない。代わりに、自分の顔はわかった。水晶玉のような瞳の中に、顔をぐちゃぐちゃにした私が映っていたから。

 すごく近い。そう思ったのはほんの一瞬。呼吸を奪われ、思考回路が行き詰まる。だから一拍遅れてから、ようやく私は気付いた。

 イヌピー君の口が私の口にくっついていることを、やっと、理解した。

 私のくちびるを塞いでいた熱が離れていくと、ようやく顔が見えた。だけどいつもと変わらない。いつも通りの仏頂面を、私は呆然と見上げる。初彼と初キスした時以上に、私は動揺していた。体中が心臓になってしまったみたいに、全身がドクンドクンと高鳴っていた。

「なん、で……?」

 あんなにイライラしてたのに。沸き上がった疑問をそのままぶつけると、イヌピー君は少し黙ってから口を開いた。

「ヒスッてた女がキスされたら黙ったのテレビで見たから」

 …………………………………………。
 何とも言えない虚無感が到来し、私は言葉を失った。ヒスってた女。ああ、それ、つまり私の事………。肩からガクッと力が抜ける。イヌピー君らしいと言えばイヌピー君らしい理由に、ぴくぴくと引き攣る頬を動かして「そ、そう……」と白目で相槌を打つ。ヒスッてた女、ヒスッてた女……。

「あと」

 静かだけど強い声が私の意識を引き寄せる。もう一度イヌピー君に焦点を合わせたその瞬間、息が詰まった。
 瞳に強い光を湛えながら、猟犬が静かに獲物に照準を絞るような目つきで、イヌピー君は私を見据えていた。

「したかったから」

 ずくん、と心臓が強く波打った。得体のしれない感情が、胸の上の骨の辺りを揺蕩っている。じいっと私を見続けている視線を受けている内に、何かが掻き立てられていった。イヌピー君と一緒にいると時折こうなる。

 無性に挑発したくなる。

 好きなものはバイクとかっけぇ先輩な彼の眼差しを、私に向けたくなる。

「こういうとこでしちゃ駄目」

 人通りは多くないけど、少なくもない。多分何人かに見られていた。疎まし気な視線を察した私は淡々とイヌピー君を嗜めてから、彼の腕を掴んで、路地裏に連れ込む。突然の私の行動に、イヌピー君は驚いたようだ。ぱちくりと瞬いてから、不可解そうに眉を寄せる。

「なに、」

 何かを言いかけたイヌピー君は、私がつま先立ちをして顔を近づけると、目を丸くした。可愛い。もう少し拝みたかったけど目を開けながらするのはそんなに好きじゃないので、目蓋を下ろしてから、柔らかく、くちびるを合わせた。さっきは一瞬掠めた程度だったから、三秒間くらい押し付けてみる。思っていたよりは柔らかかったけど、少しかさついていた。かさつきを感じるために肩に置いた手に力を込めて少し深く重ねてみると、胸の奥底が甘ったるく疼いた。

「こういうのは、誰もいないところでするの」

 イヌピー君の肩に手を置きながら、耳元で囁く形で教えてあげる。息を零しながらクスクス笑ってみせると、両手首を掴まれ、そのまま壁に縫い付けるように押し付けられた。後頭部に衝撃が走り、びりびりと体中に震えが伝わった。

 獰猛な瞳と一瞬目が合うけど、すぐに途切れる。噛みつくようにキスされた。

 荒々しいキスを受けながら、やっぱイヌピー君ってすぐ怒るなぁと再確認する。まんまと挑発に乗る単純さがおかしくて可愛くて、恍惚感が胸の中を満たす。脳髄がふやけ、とかされながらも、どこか冷静な私が存在していた。

 女あるある。今彼こそがホントの運命の人と思い込みたがる。『今度の彼氏はホントに違くてー』という友達の話は耳にタコができるほど聞いた。前の彼氏の時もそう言ってたよ? と事実を口にするほど私は野暮じゃない。
 親が中一まで転勤族で、それまで一、二年限りの付き合いの交友関係ばかりだったせいか『どうせすぐ終わる』『代わりなんてたくさんいる』と見切りをつける癖がついた。転校しても友達だよ。高校離れても大好きだよ。全部すぐ終わる。遠くの友達や彼女より、近くのクラスメイト。

 だから今の思いも女あるある。なんか今までと違う気がするとか、きっとそんなことない。こんなにみっともなく声を荒げ泣きじゃくったのは初めてだけど、多分、違わない。

 くちびるを更に強く押し付けられて、胸がぎゅうっと苦しくなる。心地よい締め付けに、心臓がきゅうきゅうと鳴いた。これは女あるある。今彼が今までの中で一番に思える現象。前に好きだった人とかも、すぐ忘れちゃう。ほら、女の恋は上書き保存っていうから。

 キスは何度かした事がある。確かどれもそれなりに気持ちよかったはずなんだけど、いつのまにか忘れていた。ポケモンの技といっしょ。私の場合は四つじゃなくて一つしか覚えられない。覚えていたくない。

 今までしたことのあるキスが、全部、嘘のように思える。
 私にとってのホント≠ヘただひとつ。
 乾青宗君が今生きていて、私の今の彼氏ということ。

 今ここにいる私の彼氏の感触を確かめるために、私もくちびるを押し付け返した。 
 







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