そこに見えたのは







 あなただけだった。






「青宗ー、青宗ー。おーい」

 つんつんと頬に何かが当たる感触がゆるやかに広がり、そして意識を揺り動かした。重たい目蓋を開けるとまだぼんやり霞んでいる視界の中では、赤音が「起きた」と瞳を柔らかく細めている。

「もう見終わったから好きなの見ていいよ」
「んー……」

 生返事しながらなんとなくテレビに視線を向けると、派手な衣装を着た奴等が映っていた。作り込まれた化粧と現実離れした衣装に彩られた人間を眺めている内に、意識が覚醒していく。ああ、そっか。思い出した。友達から宝塚のビデオを借りた赤音がリビングで見始めたんだった。最初はなんとなく見ていたけど色恋沙汰に全く興味の無いオレは『ロミオー!』『ジュリエットー!』の応酬を聞いている内に自然と眠りに落ちていた。

「赤音こういうの好きなの」
「んー? そうだね。思ったより面白かった。今度図書館でロミジュリ借りてみようかな」
「ふーん」
「すごい良い言葉あったんだよね。良いっていうか、心に残るって感じかな」

 赤音はそれから何か語り始めていたけど、ロミオとジュリエットに1ミリたりとも興味を覚えないオレの耳を右から左へとすり抜けていく。聞いている内にまた目蓋が重くなった。現実と夢の中で揺らいでいる間、作中の好きな台詞を一言一言丁寧に紡ぐ赤音の声はまるで子守唄で、優しく手を取るようにオレの意識を奥へ奥へと誘い、深く深く、潜り込む。





 動けば肘が当たるような人の波の中、






 人、人、人人人人人人。
 見渡す限りどこもかしこも人だらけだった。どいつもこいつも暇なのかと自分の事を棚に上げて思う。
 特にさしたる理由もなく専門後に渋谷に寄ったものの、日曜の人混みの凄さはただ事じゃなかった。戻ろうにもこの人だかりを掻き分けないといけないと思うと、胸の奥が塞がったように気分が重くなる。だりぃ、と内心呟いた時肩をとんとんと叩かれた。

「お待た……きゃっ! すみません! 間違えました!」

 振り向いた先に立っていた若い女はオレの顔を確認すると、綻んでいた目元をみるみるうちに見張らせて「すみません!」と平謝りしてきた。「ああ。はぁ。まぁ別に」と謝罪を適当に受け流すオレに「ほんとにごめんなさい!」と女はもう一度ペコッと頭を下げてから駆け出した。自分を待つ誰かの為に、一目散に向かっている。なんとなしに辺りを眺めれば、皆、誰かに向かったり、誰かを待ったりしていた。
 
 たくさんの人間で溢れかえる中、オレだけひとり宙に浮いているようだった。誰もオレの存在を気に留めず、各々の心が思い描く人間の元へと向かっていく。
 ちらりと隣に視線を滑らせれば、知らない人間がまたオレの横を通り過ぎていった。去年はココが立っていた空間をするりと通っていく。当たり前だ、今は誰もいない空っぽの空間なんだから。

 ――イヌピー

 ガキの頃誰かに付けられたあだ名が耳を掠めたような気がして、はたと我に返り辺りを見渡す。けど視界の中に、オレのあだ名を知っている人間は存在していなかった。幻聴か。虚無感と諦観が綯交ぜになり、胸の中を靄のように漂う。

 やることねぇし帰るか。そう、踵を返した時だった。

 ぐいっと、腕を掴まれて後ろに引っ張られる。そして最近よく聞く声が響き渡った。

「イヌ、ピー、くん!」

 限られた人間しか口にしないオレのあだ名が、秋空の下で大きく反響する。最近聞くようになったその声の持ち主を確認すべく見下ろすと、予想通り中野がそこにいた。ぜえぜえと息を切らしながら、オレの腕を杖のように掴んで立っている。

「はや、きみ、ほんと、歩くの速……! 追いつくのめっちゃ大変だった……! 呼んでんのにぜんっぜん止まんないし……!」

 ぎゅうっとオレの腕を握り続けられると、地面に付ける脚に力が入っていった。今オレはここに立っているという当たり前の事実が身体の中に染み渡り、オレを作り上げる細胞のひとつひとつが息を吹き返すように、強く、起き上がっていく。

 ざわめきに溢れた人混みの中だというのに、耳元に心臓を押し付けられたみたいに鼓動の音が強く聞こえる。

「イヌピー君イヌピー君呼んでんのに、もう……! どんだけぼうっとしてんの……!」

 息も絶え絶えにオレを非難する中野に少し経ってから「しょうがねえだろ」と返す。理不尽な責めを受けているのに、頭の芯が痺れて苛立つ余裕もない。

「こんなとこで呼ばれるとか思わねえだろ」

 オレに向かって、一目散に駆けつける人間なんていない。
 いたとしてもそれは間違いだ。よく似た人間と間違えた事に気付くと皆呆然としてから、そして本当に自分が会いたい人間に向かって、駆けていく。

 オレは誰かの正解になれない。

 オレに向かって、一目散に駆けつける人間はいない。

「いやあるから! 私今呼んだじゃん! 何回も何回も!」

 ぎゅっと更に強く腕を掴みながら、中野はオレの顔を下から覗き込んで来た。呆れ返った眼差しはシャッターを切る前のカメラみたいに、ひたりとオレに焦点を絞っている。

「まぁ、でも確かにめずらしいか。たくさん人いるし。私も最初は多分イヌピー君……? って感じだったし。はー、あっつー!」

 中野は火照った頬に手で扇ぎながら「でもよかった!」と声を弾ませた。

 人工的に塗られた黒い睫毛を奮わせて、目を細めて大きく笑う。

「イヌピー君でよかった! 合ってた!」

 笑う中野の輪郭が背後の夕日を浴びて光っていた。眩しくてたまらずに目を細めると、いつかの赤音の声が、脳の端で付箋がはためくようにちらついた。



 動けば肘が当たるような人の波の中、



「てかイヌピー君じゃなかったら私マジヤバい奴だよね。いやーほんとにイヌピー君でよかったー。そういやイヌピー君なにしてたのー?」
「散歩」
「そうなんだ! 私もなんかぶらつきたくて、」
「中野」

 気付いたら、まるで裾を掴むような口振りで中野を呼んでいた。話の腰を途中で折られた中野はきょとんと眼を瞬かせている。丸い瞳の真ん中にはオレが映っているんだと思うと、鼓動が速まり胸の奥が熱くなった。

「なんか食いに行かね」

 大した空腹を覚えていないのに気付いたらそんなことを口走っていた。胸の奥底がむずむずと震え、訳の分からない痒みが口内を這いずり回る。中野は言葉の意味を咀嚼するように瞬きを繰り返してから、オレの顔を覗き込んで来た。見上げてくる瞳には、からかうような色がある。

「ナンパ?」

 柔らかな声は甘ったるく、挑発するようにオレの鼓膜を撫でた。

「帰る」
「ぎゃーー! ごめんごめん!」

 感じた事の無い何かがくるぶしから脳天を駆け抜けたと同時に苛立ちがせり上がった。んな腑抜けた事誰がするかクソが。ブスブスと苛立ちを燻らせながら、中野に背を向けてズンズン突き進んでいく。とにかく動きたかった。全身ダニに刺されたみたいに痒くて妙に火照った体をとにかく動かしたかった。

「待って待って!」

 中野に腕を掴まれて、脚が止まる。別に振り払ってもいいけど、何故かそうしたくなかった。自分でもわかるくらいにムスッと表情筋を硬くしながら振り向いた先で、中野は「調子に乗り過ぎました! 大変反省しております!」と手を合わせながら目をぎゅっと閉じて必死に謝ってくるが、仰々しすぎる敬語は神経を逆撫でする類のものだ。明らかにオレをおちょくった言動。きっと他の奴だったらぶん殴っている。

「ウソです! ナンパじゃありません! 彼氏だから普通にただのお誘いです! だから超超超超嬉しいです!!」

 中野はそれなりにデカい声で言い募ると「怒ってる?」と窺うようにオレを見上げてきた。心臓がすごい勢いで痒くなる。体中が苛立ちと痒みに蝕まれて無性に落ち着かない。だからとりあえず中野の頭を鳥の巣にしてやった。「ぎゃーーー!」と悲鳴が上がる。

「またー!? 何で!?」
「ムシャクシャしてやった」
「かんっぺきに犯罪者のセリフだよそれ!!」

 「十分かけて巻いたのに〜」とわざとらしくおいおい泣き真似を始める中野が普通にウザいので無視する。踵を返し歩こうとした時、何が食いたいのか聞いていない事に気付いた。「おい」と振り返った先には、中野が立っている。頬を綻ばせてなんだかむず痒そうに唇を合わせながら髪の毛を整えている中野を目にしたその瞬間、いつかの赤音の言葉が唐突に蘇る。






 動けば肘が当たるような人の波の中、
 振り向いた時そこに見えたのは、あなただけだった。









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