下人の行方は誰も知らない




 真っ黒な空の下、私は肩をすぼめながら帰路を辿っていた。20デニールのタイツの網目の隙間を通り入り込んだ冷たい風が私の身体を震わせる。お母さんにもっと厚いタイツを履きなさいよと言われるけど絶対に嫌。これ以上デニールを上げると透け感が薄れてダサくなる。ダサいイコール死。おばさんみたいに厚着して『ダサッ』と舐められたら一巻の終わりだ。

 歩く度に骨に染み入るような極寒の風が私の体温を奪っていく。寒い。寒い寒い寒い! さっさと帰ればよかった。友達に誘われて合コンに参加したものの、小学生の時から狂っている私の目は九井以外の男がへのへのもへじに見えてしまう。付き合いで最後まで参加したけど退屈で仕方なかった。

『オマエもいい加減こんなん≠ノ構うのやめれば?』

 いつかの九井の言葉が鼓膜の中で蘇ると、胸の奥底をざらりとしたものが摩っていった。構ってるんじゃないし、強請ってるんだし、別に、九井なんかどうだっていいし。心の中で反論を並べ立てていくと、数メートル先で男の姿を確認した。体が若干強張り、それとなくカバンの中に手を突っ込んでケータイを握る。深夜で人通りのない空間、不審者が女子高生を襲うには絶好の時間帯だ。多分普通の人間だろうけど、万が一に備えて警戒モードに突入すると。

 ――え。

 警戒心が瞬く間に崩れ、代わりに驚きが胸の中に差し込んだ。

 九井だった。顔を真っ赤に腫れあがらせながら、ふらふらと歩いていた。俯きがちに歩いていたけど、私の視線を感じ取ったのか顔を上げる。目を凝らすように細めて私を認識すると僅かに目を見張らせ、嫌そうに逸らした。

「九井……!? ちょ、どうしたの、その顔! なに!? 喧嘩!?」

 駆け寄ると、九井はチッと舌を鳴らした。「オマエには関係ねえだろ」と苛立ちを露に声を尖らせる。ドスの効いた声は私の喉元を圧迫した。怯みそうになって慌てて踏ん張り「か、関係あるし!」と声を高める。

「九井は私の奴隷なんだから! だいたいそんな口効いていいの!? 乾に、」
「言えよ」

 ……え?

 今まで私は何度も九井を脅迫してきた。九井は『じゃあバラせば』と平然とすることはあれど能動的にバラすように仕向けることはなかった。
 どうして。
 呆然と九井を見つめる。九井は私を見下ろしながら、ふっと唇を緩めてから開いた。

「イヌピーとオレ、決別したから」

 何て事なさそうに。小馬鹿にしたように。
 九井は流暢な口振りでそう告げた。
 
「……は?」

 何語喋った、コイツ。

 ぽかんと口を開けて呆ける私を九井は鼻で笑い飛ばすとまた私を追い抜こうとする。「ちょ、ちょっと!」と声を荒げながら九井の腕を掴んで引き留めた。

「決別って何!? 乾と喧嘩したってこと!?」
「今日から違うチームに、っ」

 九井は喋っている途中で不意に顔を歪めた。唇の端が切れているから、口を動かすと辛いのだろう。チッと舌を鳴らすと私の腕を振り払い、スタスタと歩き始めた。脚はふらついているし顔は腫れているし何より『イヌピーと決別した』。
 言動全てがおかしい九井を放っておけずに私は「待ってよ!」と食い下がり、もう一度腕を掴むと掴んだ瞬間に振り払われた。

「触んな」

 鋭く冷たい視線が、心臓に抉り込むように私を貫いた。普通の十六歳の男には出せない凄みのある声に戦慄が走り、声を失う。

 九井って、不良なんだ。

 何年も前から知っている事実がまたしても胸の中に宿る。一度、殺されかけた事もあるのに。特攻服を着ているのを見た事もあるのに。
 それなのに、今も尚、私の記憶の中で一番強く残っているのはココ≠フ姿だった。

 乾と肩を並べながら帰るココ=B
 同じ方向だったら理由をつけて一緒に帰れるのにと、いつも口惜しく見送っていた。

 ……数年前まで、ランドセル背負っていたくせに。
 自分にも通用する理屈を九井に当てはめるとなんだか無性に腹立たしくなった。恐怖よりも大きく上回る。ギラッと九井を見上げると私はすうっと息を吸い込んで。

「助けてええええ!! 犯される〜〜〜〜〜〜!!!」

 道端の中心で、思いっきり叫んだ。

 切れ長の細い目を最大限に見開いた九井に構わず叫び続ける。

「いや〜〜〜〜! 変態〜〜〜〜〜!」
「このクソアマ……!」

 九井は慌てて私の口を抑えたがその頃にはいくつかの家で光が灯っていた。九井の狼狽が更に濃くなる。私は心の中で舌を出してから九井の手を振り払う。そして手首を掴んで駆けだした。

「ほらさっさと走って! 早くしないと人来る!」
「てめぇのせいだろーが……! つかどこ行くんだよ!」
「私んち!  その顔マジヤバいから! 手当してあげる!」

 九井を見ずに真正面に顔を向けたまま言うと一拍の間を置いてから「ああ、」と合点がいったような声が降ってきた。

「オマエ、保健委員だったな」

 ……コイツ、マジで嫌。

 明らかに適当に呟かれた言葉に私を非難したり嘲笑う響きはない。それでも、私の神経をピリピリと逆なでた。

 何の感情も籠っていない声だった。そういやそんなことあったな≠ニ思い出しても感傷に浸る事の無い記憶であることが、ありありと伝わってきた。
 だけど私は九井が小学校の時の私の事を覚えていた事に、胸の奥がギュッと狭くなった。九井の記憶力が無駄に良いだけなのに、舞い上がりそうになる。

 下唇をきゅっと噛みながら、私は走り続ける。ぎゅうっと掴んだ腕から伝わる九井の体温が暖かくて暖を取るのにちょうどよかったから、更に強く掴んでやった。




 鍵を回し家のドアを開けた私は「入って」と九井を促す。九井は目を左右に動かしてから「お邪魔します」と小さく呟きながら、ドアを潜った。社不のくせに、『お邪魔します』。なんだかおかしくなって笑う。
 私の両親が都合よく家を空けていることもないので、私は九井に「静かにね」と声を潜めながら指示を出す。お母さんは九井の事を小学生の頃から知っているけど、札付きの不良となった九井を深夜に家に招き入れることは良しとしないだろう。九井は「へーい」とやる気のない返事を指示に倣ってか、一応小さく返してくれた。

 お父さんもお母さんも寝静まっていた。私の隣の部屋はお姉だけど、ついこの間独り暮らしを始めて家を出ていったので蛻の殻だ。両親は寝つきが深いし、私か九井のどちらかが大きな物音を立てない限りバレることはないだろう。抜き足差し足で階段を昇っていく内に、九井が私の後ろにいることがなんだか無性に気になりだした。スカートを抑えながら振り向く。

「へ、変なトコ見たら殺すから」
「見ねぇよ」

 間髪入れず興味なさげに答えられ、ピキッとこめかみに血管が浮かび上がるのを感じた。怒鳴ろうとすると、九井は「しーっ」と口元に人差し指を立てた。そ、そうだった。大きな声出しちゃいけなかった。慌ててうぐっと声を引っ込ませると、九井はべぇっと舌を出した。人をおちょくるような態度に頭皮が蠢くほどの苛立ちがせり上がるのを感じ、地団太を踏みたい衝動を必死に抑える。こいつ! 人が手当てしてやろうとしてやってんのに! 
 本当に、ものすっごくムカついてるのに。それでも私の中から九井に手当するという選択肢は消えなかった。怒りを噛み殺しながら階段を昇り切る。両親の寝室を細心の注意を払いながらようやく私の部屋にたどり着いたところで、とんでもないことに気付いた。

 部屋がものすごいぐちゃぐちゃである、ということに。

 朝の惨状を思い出し、眩暈を起こしかける。気乗りしない合コンとは言え舐められるのは絶対に嫌だった私はああでもないこうでもないと今日のコーデを試行錯誤した。その哀れな顛末がドアの向こう側に広がっている。

「ちょっと待って!」

 声を潜めながら早口で命じた私は、ほんの少しだけ開けたドアに体を滑り込ませる。想像通りの惨状が広がっていた。スカートやらセーターやらパンツやらをかき集めるだけかき集めてクローゼットに封じ込めた。よし、と息を吐いてからドアを開ける。

「入って」

 手招きすると、九井が入って来た。その瞬間、外の空気の中に入り混じった九井自身の匂いが私の鼻孔をくすぐり、どくんと心臓が跳ねた。
 ドアを潜り抜けた九井が私の部屋の中に入り込む。私が普段生活している空間に九井が立っているのを確認すると、心臓が強く活性化を始めた。どくんどくんどくんと、激しいロックのように強く鼓動が刻まれているのが聞こえる。多分今、私の寿命は猛烈な勢いで縮んでいるだろう。

「適当に座って」

 声が上擦らなかった事に救いを覚えながら、一階から取ってきた救急箱を開けようと九井に背中を向ける。すると「篠田」と九井に呼ばれた。

 何も考えずに振り向いた先には、衝撃的な光景が広がっていた。

「落ちてた」

 胡坐をかいた九井が、真顔で私の黒いブラを摘まみ上げていた。

 問答無用で引っ手繰り手中に収める。ロックというかもうパンク並みに鼓動は激しかった。あまりにも激しすぎて今にも胸を突き破って飛び出てしまいそう。声が出ない。死ぬほど詰りたいのに喉はからからに渇いていて、息を吐くだけで精一杯だった。酸素を求める魚の如く口をパクパクと開閉させるだけの私を九井は呆れたように眺めている。

「大袈裟過ぎじゃね? たかがブラくらい」

 た、た、たかが……!
 ぶるぶると震える唇を真一文字に結びながら、ギラッと睨み付けた。たかがじゃない。断じてたかがじゃない。だって九井が私のブラを触ったのだ。私が普段身に着けているブラを。九井が、九井の指が、わ、わ、私のブラに……!
 不快感はないけど羞恥心が体の中で燃え上がり、血液が沸騰する。気が動転した私の思考回路は行き詰まりまともに働く事を拒否し、代わりに妙な方向に動き始めた。赤音さん≠ェ好きな九井は清楚系が好きだろうからどうせ見られるのならもっと白とか薄いピンクのを見せるべきだったとか、そんなことを思い始める。

「ち、違うから、黒はそれしかないから、いつもは白とかピンクだから!」
「はぁ」
「はぁじゃなくて!」
「オマエのブラが白だろうがピンクだろうが金だろうがどうでもいいって」

 ふわぁっと欠伸をされると、頭がいい具合に冷えた。そうだった。コイツにとって私の下着なんて道端に落ちている石ころのようなもの。今まで何度も何度も突き付けられた事実を改めて眼前に差し出されると、隙間風のような侘しい寂寥感が胸の中に差し込んだ。

 もう、慣れっこだけど。

 小さく息を吐いてから救急箱を掴んで九井に向かう。腫れあがった顔は痛々しかった。赤音さん≠ネんかに入れ込むから暴走族に入ることになったんじゃん。バッカじゃねーの。心の内で毒づきながら無言で救急箱を開けて、消毒液を浸したガーゼを傷口に押し付けた。

「い…っ!」

 痛みに顔をしかめる九井にぐりぐりとガーゼを抉り込むように押し続ける。「いてえつってんだろ!」と小声で声を荒げる九井を無視し、尚、ぐりぐりと押し込んだ。ぐりぐりぐりぐりぐりぐり。

「胸は揉ませるくせにブラは嫌とかなんなのオマエ」

 押し付ける手が止まった。というか、固まった。いつかの自分の行動が頭の中で再生され、体中の血液がのたうち回るように暴れ出した。私と対話する意思を一切持たない九井が腹立たしくて屈辱感に震えるあまりに出た暴挙を、改めて九井自身から口にされると、恥ずかしさも倍増だった。

「つかあの時からオレ脅されてたな。あーオレってほんとカワイソ」
「こ、九井が私の言う事聞かないからでしょ! ていうか話ぐらい普通にしてくれたってよかったじゃん!」

 声を潜めながら抗議すると九井は「あーそうですねオレが悪かったゴメンゴメン」と軽薄な笑みを浮かべながら全く心の籠っていない声で適当な謝罪をした。あああああマジでコイツムカつく! イライラしながら絆創膏を取り出しかけて白いテープに変える。傷口が大きすぎて普通の絆創膏では間に合わなさそうだった。間近で九井の顔を見ると、目の下はぱっくりと皮膚が裂けているわ鼻血の跡があるわでとにかく痛々しい。九井の喧嘩の腕前がどの程度か知らないけど、相当強い奴と戦ったのは間違いなさそうだった。

「ねぇ、あんたヒグマとでも戦ったの? マジで怪我やばいじゃん」

 眉間に皺が寄っているのを感じながら問いかけると、九井は「ぶっ」と噴き出した。

「あながち間違ってねえな。大体ヒグマみてぇな奴に襲われたんだよ」

 クックッと喉の奥を鳴らすように笑う九井に「ふうん」と返しながらも、心臓の周りを靄が纏っていくのを感じた。
 そんな奴と喧嘩してほしくない。怪我をしてほしくない。
 私は九井の事が本当に大嫌いで苦しむ顔を見たいけど、怪我は負ってほしくなかった。

「……ていうか、私が保健委員ってことよく覚えてたね」

 油断したら心の声が漏れそうだった私は話題を変えることにした。『怪我しないでほしい』と思っている事がバレたら、九井は変な方向に解釈して『心配してくれてんの?』と茶々を入れてくるだろう。馬鹿みたいに九井を観察してきたせいで、顔も声も簡単に想像できてしまう。もうこれ以上翻弄されるのは癪だ。だったら冷静に対処できる話題を選んだほうがいい。どうせ『なんとなく』とかそんな返事が返ってくるだろうと予想しながら手当を進めていくと、九井は「ああ、」と頷きながら呟いた。

「確かサッカーで膝擦りむいた時に、オマエがすっげぇ血相変えて飛んできたじゃん。だからだと思う。篠田マジですっげー顔してて……うん、だからだワ。だから覚えてる」

 思い出を言語化していく内にどんどん記憶が鮮明になっていったのか、曖昧な口振りが次第に確信的な色を帯びていった。
 覚えていた。
 九井は私との思い出を普通に覚えていた。

 覚えて、くれていた。

 胸の奥が小刻みに震えていた。小さな心の襞のひとつひとつが触れ合い、あまやかな旋律を奏でている。頬の内側がほわほわと暖かくなり、思考回路に蜜が滴り落ちて瞬く間に広がった。

「覚えてくれてたんだ……」

 熱に浮かされたようにぽーっとなった私は、気付いたら、心の声を漏らしていた。九井が面食らったようにぱちぱちと瞬きを繰り返して私を凝視している。その視線があまりにも驚きに満ちていて何でそんなに吃驚しているんだろうと不思議に思った次の瞬間、ハッと我に返った。慌てて口を抑えてももう遅い。九井の顔面には嫌らしい笑みが広がっている。

「覚えてる覚えてる。ココ、大丈夫!? ちょっと痛いけど我慢してね! つってた」

 九井は声を高く作り眉をわざとらしく潜めて、全く似ていない私の物真似を披露する。ま、また人をおちょくりやがって……! 「そんなん言ってないし!」と薬缶が沸騰するように怒った私は声を荒げて否定する。実際は、まあ、言ったけど。
 
「嘘はいけねぇなー。ココ他に痛いトコはない? 大丈夫?」
「キッモい物真似すんじゃねーよ! 言ってないってば!」
「言ったって」
「言ってない! じゃあ証拠出してよ! 私がいつそんなふざけた事を言った!? 地球が何回廻った時!?」
「多分五億回」
「適当に言うんじゃねーよ!」

 ああ言えばこう言う……! 減らず口を飄々と叩き続けられて更なる怒りが込み上がり、わなわなと手を震わせる。九井は小馬鹿にするように鼻を鳴らすと、後ろ手を付いた。そのまま天井を仰ぐような形で見つめながら、ぽつりと呟く。

「こんなクソしょうもねえ会話、久々だわ」

 諦観するような呟きを聞いた瞬間、一拍の空白が胸の中に垂れ込んだ。連なるように乾の家が火事になった後の九井がまるで走馬灯の如く脳裏を駆け巡る。

 小中学生には高度過ぎる司法に関連する本を必死に読み込んでいる姿。
 柴と乾とつるんで明らかに悪いコトを企んでいる姿。
 文化祭にも体育祭にも参加せずに乾のバイクの後ろに乗り、どこかに去って行く姿。
 
 九井の親は非行に走った息子を嘆き、教師は付ける薬はないと匙を投げた。
 九井はいつも悪いことばかりしていた。
 いつもいつもいつも、何か考えていた。

「九井は、考えすぎなんだよ」

 唇の端からぽろりと言葉が零れ落ちると、九井は天井を仰ぐのをやめて私を見た。その視線を真正面からしかと受け止めた私はキッと睨みつける。

「この何年か、ずっと難しい本読んでるかなにか企んでるかばっかじゃん。その、普通、うちらの歳って、クソしょうもないことばっか考えるもんだから」

 最初は威勢よく話していたけど、何を伝えたいのか次第にわからなくなっていった。しどろもどろに紡ぐ声が尻すぼみに弱まるにつれて、視線を九井から下げていく。

 いざ、気落ちしている九井を前にすると、胸の奥がこんがらがって、途方に暮れた。
 泰然と構えながら皮肉を唇の端によじらせるその顔が憎くて、困らせたい傷つけたいと渇望していた。だから、今が最大のチャンスだ。傷つけようとひどい言葉を投げつけても九井の心は鎧に覆わているように強靭で全く意に介さず、せせら笑いながら舌鋒鋭く反撃してくる始末だ。いつどんな時も体勢を崩さず、余裕に溢れている。
 だけど今、その九井に綻びが生じていた。今ならきっと、私の言葉に傷つく。今までさんざん振り回されてきた仕返しを、殺されかけたリベンジを果たすならば、今、なのに。

「だからたまには、考えるのやめなよ」

 何でこんなこと言ってるんだろう。

 ……だって、九井、いつも考えてばかりだから。

 絞り出すようにして答えを弾き出し、言い訳するように心の中で言葉を並べ立てていく。

 九井は小学生の時から思考力がズバ抜けて高く、サッカーする時も常に二手三手先を考えながら作戦を立てていた。だからきっと今も、小学生の時と同じように頭を使って相手を陥れる術を編み出しているのだろう。

 私にはわかんない難しいことを、ずっと考えている。
 ぐるぐるぐるぐると考え続けている。

「……せめて今日くらいはさ。色々、あったみたいだし」

 そんなんじゃいつかパンクしてしまう。
 そう、だから。
 奴隷にパンクされたら困るから、
 だから、たまには息抜きさせないと。

「あああ! もう!」

 心臓を巣食うモヤモヤを持て余した私は憤然と立ち上がり、ベッドに近づいた。眉を訝しげに潜めている九井の顔面に枕を投げつける。九井は「ぶっ」と間の抜けた声が漏らした。

「寝ろ馬鹿!」
「は? 意味わかんね」
「いいから寝ろ! 言うこと聞け!」

 脅せる材料を、私はもう持っていない。だけど構わず命令した。人差し指を突き付けながら指示を出す。九井はポリポリと頬を掻きながら目を細めてつまらなさそうに私を見つめた後、小さくを息を吐いて仰向けに寝転がった。枕を頭の下にひいて、照明の光を隠すように目元を腕で覆う。
 
 澄み渡るような静寂が流れる。九井は何も言わない。私も何も言わない。風が窓を揺らす音や秒針が刻まれる音だけが響いていた。

「……九井」
 
 試しに呼んでみると、何も返ってこなかった。寝てるのかな。もう一度「九井?」と躊躇いがちに呼ぶ。それでも返事はなかった。

 ……じゃあ。

 乾いた唇を湿らせてから、口の中に集まった唾を飲み込む。
 初めてその名を口にした時のように。

「……ココ」

 糸を紡ぐようにゆっくりと、呼びかけた。

「しつけぇ」

 …………は?
 横っ面を叩かれたような衝撃に襲われ、口が効けない。九井は目元から腕をずらすと、鬱陶しそうに目を細めていた。呆然とする私に焦点を合わせ、べぇっと舌を出す。

 徐々に徐々に、羞恥心と怒りが混ざり合った感情が私の身体を支配していき、やがて爆発する。

「狸寝入りしてんじゃねーよ! バーカ!」

 あ。
 激昂が口から突いて出たことに、一拍置いてから気付いた。ドアの向こう側でドアが開閉される音が続く。お父さんかお母さんか、どっちかが起きて私の部屋に向かっている。

「ちょ、隠れて……!」
「いい」

 九井はすげなく断ると、窓を開けた。冷たい風が一気に部屋の中に流れ込んで、思わず身を竦める。

「じゃーな」

 九井は窓の下枠に足を掛ける。ウソ、と目を見開く私に「靴捨てといて」と平然と告げた後、

「アリガト」

 少しだけ口角を釣り上げてから、舌を出した。

 九井が部屋を飛び出たのと同時に、ドアが開かれる。九井が飛び降りた音と私のお母さんが激しくドアを開けた音が重なった。

「麻美あんたうるさ……ってさむっ! 何で窓開けてんの!?」

 目を三角に吊り上げていたお母さんは開けっ放しの窓に気付くと目を白黒させた。何でと訊かれても。
 肌を刺すような風が私の体温を奪う。それなのに、熱かった。心臓が燃えるように熱い。

 ぎゃあぎゃあうるさいお母さんを無視して窓から身を乗り出す。外にはただ闇が広がるばかり。まるで初めからいなかったみたいに、九井は忽然と姿を消していた。
 
 乾と別れて。私を置いて。
 九井はひとりで、どこかに消えていった。




 



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