Is it necessary?



 
 ココを九井と呼ぶようになってから二年経った頃、私は中三になった。
 九井に殺されかけてから、私は奴とは一言たりとも言葉を交わしていない。殺人未遂を起こした犯罪者予備軍と話すことなんて何もないけど、私は九井に復讐せねばならず、監視の必要があった。だから今まで同じように図書館に出向き、奴の動向を探る。九井は変わらず、金稼ぎに執着していた。“赤音さん”が死んで何年も経つというのに馬鹿馬鹿しい。無駄な行為を重ねるだけの九井を遠くから見つめながら鼻で笑った。死んだ人間を思い続けるとか本当に馬鹿。セカチューの主人公気取りかよ。

 九井はなかなか尻尾を見せなかった。犯罪行為の証拠を集めようと思ったんだけど、九井は自身が首謀者だという痕跡は絶対残さなかった。かれこれ二年間ずっと監視してるにも関わらず、頭が切れる九井は弱味を一切見せない。

 ……あ。

 その日も同じように九井を監視していると、乾がやって来た。あいつ少年院から出たんだと私は今初めて乾の出所を知った。九井が違法行為で荒稼ぎする一方、乾は乾で手のつけられない不良になり暫く学校で姿を見ないと思っていたら、いつのまにか少年院に入っていた。かつての女子の憧れの二人組は今やどちらも社会不適合者になってることに時の流れの残酷さを感じる。あーあ。あいつらこの先どうするんだろ。何とも言えない虚無感が胸の中に漂う。ああ無常ってか。

 私はいつも二階の座席に陣取って九井を監視していた。何の話をしているか全く聞こえないけど、この位置が一番安全に九井を監視できる。二人が何の話をしているのか気になるけど、下手に近づくと危険だ。なんせ相手は社会不適合者。また、殺されるかもしれない。
 忌々しいあの日は私の心に深い所まで刻みつけられていた。思い出すだけで憎悪がお腹の底から込み上がり、目の前が真っ赤に染まる。拳を握りしめる手に力が籠り、ミシミシと軋んでいく音が聞こえた。最悪の記憶を思い出すと決意がまた強く固まっていく。墨汁で塗りつぶすように、心は憎悪に支配されていく。

 絶対、絶対に復讐してやる。
 時間が経った今も、私の復讐心は一度も緩まない。それどころか日を追うごとに、加速していった。

 乾が去ったあとも九井は静かに本を読み続けていた。私はそれをじっと見続ける。飽きっぽい私だけど、九井を見つめることに対して飽きは少しも感じなかった。本を読んで、元に戻して、また本を借りてきた本を読んで――その繰り返しだけど、飽きなかった。ずっと見ていたかった。監視している事をバレる訳にはいかないのに、九井の視線がこちらに向く事すら、願っていた。瞬きすら惜しかった。

 じっと見続けている内に、九井は動いた。数冊の本を戻し、また何か借りてくる。その途中で、九井は乾を見つけた。
 乾は窓際に腰を掛けて寝ているようだった。アイツ図書館を何だと思ってるんだろう。勉強もせず読書もしない自分のコトを棚に上げながら、非難がましく乾を見つめる。九井は私に背を向けた状態で乾ぬ向かい合っている為、九井がどんな顔をしているかはわからなかった。

 窓から風が差し込んで、ふわりと白いカーテンが揺れて、二人を包み込む。

 カーテンが風にあおられて右側にはけるようにたなびくと、二人の世界が私の目に飛び込んだ。
 映画のワンシーンのように、スローモーションで私の瞳に映り込んだその光景は網膜の深部まで強く焼き付ける。

 息を呑む。
 頭の芯まで真っ白に染まった。

 一瞬、ほんの一瞬だったけど。
 顔を斜めに傾けた九井が、乾のくちびるに自身のくちびるを重ねていた。
 
 衝撃が雷のように走ると、私の体は氷づけられたように固まった。

 九井はキスをやめると、崩れ落ちたように座り込む。先ほどのせせらぎのように静かで流麗な仕草は消え、今は深い水底に沈むように打ちひしがれていた。大嫌いな九井の弱った姿。踊りだしたいほど待ち望んでいた光景が広がっているのに、私は全く喜べなかった。ただ、座り込んでいる九井を呆然と見つめる。眼差しはすっかり固く強張っていた。視線を動かそうにも動かすことができない。

 やがて九井は何事もなかったように立ち上がり、自分の席に戻っていった。いつも通りの涼しげな表情で、迷うことなく歩いている。
 息を吐きだしたその時、呼吸が楽になったのを感じることで、私はようやく自分が呼吸を止めていたことに気付いた。
 酸素が脳内を駆け巡ると、恋愛映画やドラマによって蓄積された知識が、九井の行動の名前を教えてくれた。

 キスだ。
 九井は乾にキスをしていた。






 キスだった。
 あれはまぎれもなく、キスだった。

 一時間目から四時間目まで私の脳内は九井と乾のキスシーンに占領されていた。石灰水が白く濁ろうが鎌倉幕府がいつ作られるようがどうでもいい。そんなことより、九井と乾のキスだ。私の人生に石灰水が関わることは今この瞬間だけだろうけど、九井と乾のキスはこの先も深く関わる。だって私は九井に復讐しなければいけないんだから。

「麻美大丈夫? なんか今日元気ないよね?」

 友達Bに心配そうに顔を覗き込まれ「あー、まあ生理中だから」と苦笑を浮かべる。実際は一週間前に終わったけど。生理って面倒くさいけど手っ取り早く体調不良の原因を作れるから、こういう時に楽だなと思う。友達Bは「マジ? しんどかったら言いなよー」と眉を潜めて心配してくれた。

「ありがとー」

 適当にお礼を言いながら、なんとなく教室を見渡すと隅っこに視線が吸い寄せられた。誰が決めたわけでもないけど、隅っこでお弁当を食べるのはダサい奴等と決められている。私が決めたんじゃない。いつのまにかそうなっていた。案の定、オタクと呼ばれるダサい女子達が集まり、小さな声で談笑していた。漫画の表紙を隠すように広げているけど、指の隙間から表紙が見える。
 ああ、そうか。そういうことか。何で自分が普段は全く歯牙にもかけない三流の奴等を気にかけているのかわかった。
 オタク達が持っている漫画の表紙に、目を奪われたからだ。

 友達に何の断りもなく席を立つと「麻美?」と不思議そうに問いかけられた。「ちょっとね」とおざなりに言い残し、オタク達に近づく。

「ねぇ、ちょっといい?」

 私が話しかけた途端にオタク達を纏う空気は凍り、早口で漫画の事を語っていた唇が不自然に停止した。明らかに委縮しながら目を左右に動かし『誰か何か反応して』とグループ内で返事を押し付け合っている様子に苛立ちを覚えたけど、安心させるようにニコッと笑いかけた。

「ごめんね、お弁当食べてる時に。その漫画がどうしても気になったの」

 オタクAの両腕の中で隠すように胸の中に包み込んでいる漫画を指すと、オタク達の顔が驚愕に満ち、次に青白く染まった。

「こ、これ、篠田さんが読むタイプの漫画じゃないから……!」
「そ、そうそう! あの、少女漫画とかじゃなくって……!」
「いいじゃん、私新規開拓したいし。ねー、いおりん」

 オタクAに擦り寄って猫なで声で甘えるように言うと、オタクAの頬にぽっと朱色が染まった。オタク達が私の事を悪く言っているのは知っている。けど、同時に私に憧れている事も知っていた。私に愛称で呼ばれたら悪い気はしないはずだという読みは見事的中。予想通り。コイツらちょろすぎ。心の中で舌を出しながら「貸してほしいなぁ」ともう一押しすると、「しゅ、趣味じゃないかもだけど……」とオタクAは差し出してきた。

「ありがとー!」

 華やいだ声でお礼を述べて漫画を見せてもらうと、案の定、男同士が絡み合った漫画だった。漫画はあまり読まないけど、BLというジャンルは知っていた。少女漫画コーナーの隅っこにいつもひっそりと置かれている。女みたいな顔立ちの男が顎の鋭く尖った男に良いようにされている様を何の感慨も持たずに眺める。ぱらぱらとページを捲っていく内に、キスシーンに行き着いた。
 男が男にキスをしている。昨日見た光景と、一緒。

「あ、あの篠田さん……」

 昨日の光景と漫画のキスシーンを照らし合わせ熟考していると、オタクAに恐々と呼ばれた。神経を巡らせているところに横槍を入れられ、思わず「なに」とつっけんどんに言うと、オタクAはビクッと肩を震わせてから「そ、そ、その」と今にも消え入りそうな小さな声を継いだ。

「あ、あまり、こういうジャンルの漫画は、おおっぴろげに読んじゃ駄目、なんだけど……」
「なんで?」

 純粋に疑問に思ったのでそう訊くと「なんでって」とオタクAは困惑したように口ごもった後、言い辛そうに呟いた。

「BL、だから」
「だから?」
「お、男同士の……恋愛、だから、その、隠さなきゃ、いけないし」

 隠さなきゃ、いけないし
 その一言を聞いた瞬間に閃光のようなものが一直線に頭の中を駆け抜けて、霧が晴れるように思考が澄み切った。憑き物が落ちたように体が軽い。新鮮な酸素が体の中を駆け巡り、ぐんぐんと力が漲っていく。

 隠さなきゃいけない。
 あれは、見られてはいけないものだった。

 口元がむずむずと震える。精神の根底から脳天まで昂揚感が突き抜けた。きっと私の目は今、少女漫画のように輝いているだろう。

 ああ、やっと。やっとだ。

「いおりん、ありがと。すっごい助かった!」

 オタクAの手をぎゅっと握りしめながら満面の笑顔を咲かせると、オタクAは更に頬を紅潮させ「えっ」としどろもどろになった。私の手の中には、二つのものが在った。ひとつはオタクAの湿った掌の感触。

 もうひとつは。

 心の中で言語化すると、笑みが深くなっていくのを感じた。

 




 私は九井以外の男がどうでもいい。今も、昔も。
 だけど今この瞬間は、乾の存在を今か今かと心待ちにしていた。九井以外の男を手から喉が出るほど求めるのは初めての事だ。
 毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日、乾の来訪を祈っていた。呪うように、祈っていた。
 
 親を必死に説得し、カメラ付きケータイに変えた。お父さんは私に甘い。カメラ付きケータイじゃないと友達に馬鹿にされるの。親の贔屓目抜きに可愛い私が目を潤ませて懇願すると即落ちた。父親と言えど男だな、と『ありがとうお父さん!』と感激しながら冷静に思う。

 私の思い通りにならなかったのは、九井だけ。
 だけどそれももうすぐ終わり。

 獲物を狙う飢えた獣のように、虎視眈々とその瞬間を狙い続ける。九井は乾が来る度にキスする訳ではなかった。乾は気紛れに図書館に訪れる程度だし、私があのシーンに巡り会えたのは奇跡のようなものだったのだろう。

 だけど私は確信していた。証拠はないけど、絶対的な確信を胸の中に宿していた。

 九井はもう一度、乾にキスをする。
 だってアイツは絶対、まだ。
 まだ、あの人の事を。

 長く濃い睫毛に縁取られた垂れ目を思い出すと、お腹の底から焼けた塊みたいな怒りが私を突き上げた。今私がこの世で一番憎いのは九井だ。だけど、赤音さん≠ノは説明のつかない生理的嫌悪で肌が粟立つ。彼女の事を考えると吐き気のような靄付きが胸の中に立ち籠り、巨大な屈辱感と敗北感に津波のように追い立てられる。

 行き場のない怒りを息を吐きだすことで誤魔化し、心を無理矢理沈めさせる。その時だった。

 あの日と同じように窓際に腰を掛けた乾が、寝入り始めた。はっと息を呑んだ私は高揚感で震える体を抑え付けながら、足を滑らせるようにして一階に降りていく。乾が寝入ってる本棚の向こう側に身を隠し、九井が来るのを待った。

 来い、来い、来い……!
 最新のカメラ付きケータイを壊れるんじゃないかって勢いでぎゅうぎゅう握りしめながら、九井の来訪を首を長くして待つ。心臓はどくんどくんと波打つように強く動いていた。

 私が身を隠している本棚は宗教のコーナーで本を借りる人はほぼいなかった。足音すら滅多に響かない、閑静な空間。
 一歩、歩みを進めるけでどこまでも伸びやかに響き渡る。

 ――カツン、カツン。

 ローファーが床を打つ音が静かにだけど強く、私の鼓膜を揺らがし、私の精神の根底まで届いた。連弾するように、私の心臓も連なって強く鼓動を打ち始める。どくん、カツン、どくん、カツン。
 呼吸を最小限に抑えながら息を殺して、奴の足音が止まるのを待つ。カツン、カツン、カツン。少しだけ体を動かして本棚に体の大半を隠しながら角の向こう側を覗き込むと、九井がポケットに手を突っ込みながら佇んでいた。図書館に似つかわしい静謐な雰囲気を纏いながら、乾をじいっと見つめている。

 乾の寝息は風に乗り、私の耳元まで届いた。クー、カー。深く寝入っている事を証明する、間の抜けた声。
 どくんどくんどくんどくん。心臓は興奮と緊張で強く収縮を繰り返していた。きっと私の寿命は今縮んでいる。縮みたかったら縮めばいい。五年でも十年でも二十年でもくれてやる。

 ずっと固く握りしめいたケータイをゆっくり開き、カメラを起動させる。普通のカメラに比べたら画素は落ちるけど、私は美しい風景を撮りたい訳じゃない。

 九井が乾に近づいた。あの日と同じように、ふわりとカーテンが舞い上がる。
 
 九井が首を傾げながら、近づいた。

 ――カシャッ。

 図書館に不似合いな電子音が響き渡ると、九井はハッとしたように振り返り、切れ長の瞳を最大限まで見張らせながら私を凝視した。
 九井が私を見ている。そう思うと満足感と昂揚感により、唇がむずむずと震えた。大声で笑いだしたい気持ちを抑えつけながら、甘ったるい声を作り出す。

「みーちゃった」

 語尾にハートマークを飾らせたような茶目っ気たっぷりの声を、ケータイと共に九井に向ける。九井と乾のキスを収めた最新式のケータイを見せつけると、九井は目玉を驚愕で震わせていた。

 ああ、その顔! 私アンタのそういう顔が見たかったの!

 有頂天と言っても差し支えない快感が満ち溢れ、私を幸福へと誘っていく。くるぶしに羽でも生えているような軽い足取りで九井に近づいた。私と九井の身長差は明確になり、意識しなくても上目遣いで見上げられる。

 ただ瞬きを繰り返しているだけの九井の顔を下から覗き込んで、きょとんと首を傾げながらあどけない声を作って問いかけた。

「九井ってぇ、ホモだったの?」

 ピクッ。九井の口の端が痙攣したように引き攣ったのが見えて、私は更に笑みを深める。そうそう、そういう顔! 幸せなら態度で示さないとと諭してくる歌のように、手を叩いて今の幸福を体現したかった。

「乾ビックリするだろうなー。親友が寝てる自分にキスしてるとか、ホラーだよね。私だったらドン引きするなぁ」

 乾にちらりと視線を走らせる。まだすやすやと寝入っていた。長い睫毛が頬に影を落としながら、寝息と連動するように胸を上下に下ろしている。眠り姫のような深い眠り。起こさない限り起きないし、言わない限り気付かない。
 王子が助けに来ない限り眠り続けるお姫様と一緒だ。私か九井が言わない限り、乾は永遠に気づかないまま。

「この写真、私のパソコンにも送ったから」

 だから今力づくで私からケータイを奪い取ったとしても無駄だよと言外に告げる。

 九井はわずかに瞑目した後、少しだけ目蓋を持ち上げ、私を見下ろした。伏し目がちの瞳に宿る理知的な冷たい光を一直線に向けられている事に、身体が震えた。

 九井が私を見ている。他の誰でもない、私を。

 麻薬でも摂取したかのような昂揚感が血を湧き立たせた。九井の眼差しが私の細胞を新たに創り上げていくようだった。全身にぞくぞくと戦慄が走り、未知の感覚が呼び起こされる。

「いくら」

 九井は後頭部を反らしながら顎を上げることで目玉の位置を上げる。一層私を見下ろす形となった。右手はポケットに突っ込んで、左手は怠そうにだらりと下がっている。

「五万? 十万? 百万?」

 お金の金額を吊り上げていく声は平坦で、報告書でも読み上げるようだった。先ほどの動揺はもう見えない。けど、お金を払って口留めしようとしているという事は、九井だって乾にキスした事を知られたくないという何よりの証拠。

 天にも昇る気持ち。歓喜の渦の中に呑み込まれそうになりながら必死に自分を律した。冷静を装うように澄まし顔でフンと鼻を鳴らし、馬鹿にしている事を伝える。

「そんなのいらない。私が欲しいのは、人間」

 私は九井以外の男に興味を持てない。日本中の人間が恋焦がれている福沢諭吉だって例外ではない。だってアイツ、造幣局で毎日大量生産されているし。

 九井の上目蓋が僅かにピクリと震えた。不愉快そうにすうっと目を細めて、鋭い眼光で私を捉える。
 切れ長の瞳から放たれる視線を余すことなく受けていると、手足の先までぴりぴりと痺れが走った。
 
 私が欲しいのは、ひとつだけ。
 この世にたったひとつしかない、唯一の存在。

 目の前の男にひたと焦点を合わせる。九井は、小学生の頃はさほど背丈が変わらなかったのに今や悠々と私を見下ろしていた。私の奥底まで射抜かんばかりの鞭がしなるような鋭い視線を受けている内に、全身を覆う皮膚すべての毛穴がじわじわと見開かれていくのを感じた。やっと、やっとなんだ。やっと私は手に入れる事が出来たんだ。心臓が生きていることを伝えるように、どくんどくんと鼓動を大きく繰り返している。

 身体の中を駆け巡っている迸るような狂喜を鎮めるために、浅く息を吐いた。右手でケータイをしっかりと握りしめながら、銃口の照準を合わせるように左手の人差し指を九井に向ける。

「九井」

 声が震えている。ああ、やっぱり駄目だ。抑えきれない。喜びに悶えながら満面の笑顔を湛えて、私は告げた。

「今日からアンタ、私の奴隷ね」

 欲しいものはたったひとつ。
 九井一の支配権。







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