女神の前髪ひきちぎれ


 私が九井のことを『ココ』と呼んでいた頃、私は九井の事が好きだった。

 九井と私は同じ小学校に通っていた。九井は他の馬鹿丸出しの男子より少し落ち着いていて頭も良く運動神経もそれなりに良かったのでそこそこモテていた。いつもつるんでいる乾もぼうっとしているくせに立っているだけで妙に絵になっていて、二人で並んでいるとそれなりの存在感を放っていた。つまり二人ともイケてる£j子。恋する理由なんてそれだけで十分だ。ねえねえ〇〇ちゃん、好きな人いる? えー誰にも言わないでよ。私イヌピー。そうなんだ! 私ココ! そんな風に、大抵の子はココかイヌピーのどちらかに恋をしていた。
 そう。私の場合はココだった。九井一だから、ココ。誰かがつけたあだ名をいつの間にか皆呼び、私もそれに倣っていた。

「えー! 麻美ちゃんココなんだー!」
「えへへ。あいつ口悪いし、ムカつくけど……なんか、ね!」
「いいじゃんいいじゃん! ココって落ち着いてるし、頭いいし! 麻美ちゃんも大人っぽいし、ココとお似合いだよ!」

 ココとお似合いだよ。今となって見れば本心かどうかとわからない言葉に当時のわたしは舞い上がりそして納得していた。当たり前じゃん。人付き合いは同レベルの人種で行っていくもの。物心ついた時には既に、私は自然と集団の上位層に組み込まれていた。私の意見はいつも大事に扱われたし、友達作りに困った事なんて一度もない。だって、みんな私と仲良くなりたがるから。私と一緒にいれば、地位が向上するから。

「もしかしたら、ココも麻美ちゃんの事好きかもよ! ココ、好きなタイプ年上らしいし!」
「え〜〜? そうかなぁ」
「そうだって!」

 そうなんだ。ココって年上が好きなんだ。年上っぽい子が好きって事なんだろうな。私は発育が良く、当時すでに胸が膨らみ始めていた。ココはほんとは私の事が好きなのに恥ずかしいから年上が好き≠ニ誤魔化したんだとこじつけ、自分の都合がいいように解釈していた。

 私は、自分が見たいものしか見ないようにしていた。自分の見たい世界を強制的に創り上げていた。
 
 だけど作り物はいつか壊れされる。

「赤音さん! オレ…一生好きだから!」

 本物によって。

「大人になったら結婚してください!!」

 ピアノからの帰り道、曲がり角を曲がる直前に飛び込んできたのは、初めて聞いた九井の声だった。いつもの人を食ったような声色はない。どこまでも真剣で真っ直ぐな声は、矢のように私の胸に突き刺さり、深く深く、心臓に抉り込む。

 なにそれ。

「一生守る!!」

 ココって、そんなこと言うキャラだっけ。

 私の知っている九井はどこにもいなかった。いつもは人を鼻で笑うようなスカした奴が、守る≠ニか言っている。なにそれ。なんかドラマの影響? ダサいんだけど、ねぇ、ココ、ココ。

 ココ。

「……約束?」

 乾によく似た女の人――赤音さん≠ェ頬を少し赤らめながら、じいっと探るように九井の瞳を見つめている。思慮深く、澄んだ眼差しだった。中学生か高校生だ。短いスカートから、華奢な脚が伸びている。ただ細いだけの私の脚と全然違った。

「うん! 約束!!」

 真剣な表情で強く頷いている九井に、赤音さんはふわりと笑いかけた。可憐で嫋やかな微笑みを浮かべながら、彼女は「待ってるね」とさえずるように唇を動かした。

 じゃあ、大人になるまで待ってるネ

 柔らかそうな唇は、桜の花びらのようだった。
 
 そこからどうやって帰宅したのか全く記憶がない。気付いたら私は自分の部屋のベッドで寝転んでいた。現実世界から逃れたくて眠りにつきたいのに、さっきの光景が延々と頭の中を流れて目を閉じても睡魔が全くやってこない。見た事もない真剣な表情でプロポーズする九井がぐるぐると頭の中を回り続ける。好きなタイプ年上ってなんだよ。好きなタイプじゃないじゃん。好きな人が年上なんじゃん。わかりづらいんだよ、ちゃんと言えよ、つーか年上とかババアじゃん。あの女もあの女だよ小学生に手ェ出してんじゃねえよ、

『一生守る!』

「るっさい黙れ……」

 目をぎゅっと閉じながら毒づいた。うるさい。うるさいうるさいうるさい。たまらず耳を塞いでも頭の中から響いてくる声なので防ぎようがない。うるさいうるさいうるさいうるさい、

 なんで、私じゃないの。

 私だったら、大人になるまで待たなくていいのに。今すぐ受け入れるのに。なんでよ。なんでよなんでよなんでよ。

 奥歯をぎりぎりと噛み締めながら息を吐く。熱く湿っていた。
 閉じた目蓋の裏側が真っ赤に染まっている。
 私の中の何かが燃え上がっていた。怒りと悲しみが入り混じった、憎悪のような何かが噴き出している。

 なんでよ。
 なんで。
 なんでなんでなんでなんで。
 ねえ、
 
「なんでよ!!」
「うわ! 吃驚した…!」

 感情を吐き出すように声を荒げると、誰もいないはずの空間にお母さんの声が聞こえた。ぎょっとして目を開けると目を見張らせたお母さんが私を凝視していた。嫉妬に悶え苦しんでいる自分を見られたことに動揺した私は飛び跳ねるように起き上がって「勝手に入って来ないでよ!」と怒鳴りつけると、お母さんはムッと眉間に皺を寄せた。

「ちゃんとノックしたわよ。だけどあんた返事しなかったじゃない」
「……聞こえなかったの! ちゃんとしてよ!」
「だからちゃんとノック……、まあいいわ。あのね、麻美、大変なことになったの」
「は? なによ」

 この時の私は、九井が私以外の女にプロポーズしたこと以上に大変な事などないと思い込んでいた。恋の終わりこそが世界の終わり。それ以外など全て些細な出来事。眉を潜めて不機嫌を露にする私に、お母さんは神妙な顔つきで内緒話をするように声を潜めながら、ゆっくりと告げた。

「乾君のお家、火事に遭ったんだって」








 乾の家が全焼した翌日、九井はいつものように登校はしていたけど、暗い闇の中に佇むようにして虚ろに過ごしていた。誰が何を言っても聞いてもひたすらに無視、というよりも本当に聞こえていないようだった。赤音さんに向けていたきらめくような瞳は、今や一筋の光も差し込んでいない。
 
 可哀想。可哀想なココ。

 深い悲哀と虚無感の中を揺蕩っている九井を見つめると、私は胸の奥がぎゅうっと締め付けられるような痛みを感じながらも――心臓は、どくどくと興奮で昂っていた。

 映画やドラマでよくあるパターン。失意の中沈むヒーローをヒロインが救うことで、二人の間に愛が芽生える。大丈夫、私はあなたの痛みがよくわかるわ。だって私はあなたのことを、愛しているから。

 そう。私もココの痛みがよくわかる。
 だって私はココの事を、好きなんだから。

 自分を映画の中のヒロインに見立てた私は、九井を救うことこそが私に課せられた使命なのだと歓喜で体を震わせた。
 九井の事を好きな子が他に存在している事は知っていたけど、全員相手にならなかった。私より見栄えが劣るし発言力も弱い。何よりも、九井への愛が足りなかった。だって私の方が好きだもん。愛は数値化できないし目に見えないから証拠は出せないけど、絶対に、私がこの世で一番ココを好きだという自負があった。

 愛こそ全て。この世に存在するすべての創作物はみんな声を揃えて同じことを言う。『この世で一番強いものは愛』。
 
 乾の家は全焼したものの、乾の家の人たちはほとんど無事だった。乾の両親は外出中で、乾は九井に助けられたそうだ。九井は乾を助けるために燃え盛る家の中飛び込んだらしいという話を聞いた時は、溢れんばかりのときめきが胸を高鳴らせた。

 けど、ひとりだけ例外がいた。四人家族の内、無事じゃなかったのはただひとり。
 九井がプロポーズした、乾のお姉さんだけだった。
 
 四人中、一人だけ。四分の一。25%。天気予報の降水確率が25%だったなら、私は傘を持って行かない。だってそんなの、ほぼ降らないじゃん。

 ほぼ助かった中で、彼女だけが助からなかった。つまりはそういうことなのだろう。胸の中に宿った強い確信が、力の源となり、私の細胞を活性化させていく。宙の一点を虚ろに見ているであろう九井の背中を見つめながら、ココ、と心の内で愛おしげに囁いた。

 神様は私とココの味方だ。
 
 私に、ココを救ってやれと告げている。






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