跪いて頭を垂れよ


 壁の時計に何度も何度も視線を走らせてまだかまだかと待ち構える。担任は最近二組はまとまりがないだの他の先生からも言われるだの愚痴めいた説教をため息でピリオドを打ち、「じゃ。号令」と日直に投げやりな指示を出した。

「きりーつ、きをつけー、れーい」

 日直のだらけた声がふわふわと投げられ、ようやく、一日が終わった。あらかじめ帰る準備を整えていた私は、号令が終わるや否やスクバを肩にかける。

「麻美ー、どっか……あ、そっか。今日予備校なんだっけ」
「そ! ごめんねー! また誘って!」

 友達に笑顔でそつなく断りを入れてから、私はある方向に顔を向けた。ホームルームが終わりクラスメイト達は友達と喋ったり部活に向かったりと忙しい中、その子はただじっと座っていた。油っぽい真っ黒な長すぎるロングヘアーに手入れされていない制服。スカートの長さも買った時からそのままの膝下十センチ。私に顔こそ向けてないけど、おっかなびっくりしながら、ちらちらと視線を送っている。

 こういうとこがムカつくんだよね。

 うっすらと立ち上がった苛立ちをそのままに、笑顔を浮かべながら「山田さん」と綺麗に整えた声で呼び掛けた。私の気配を察知していたくせに“今気づきました”みたいな態度で、山田さんは「な、なに」と私を見上げる。平静を装うとしているのがバレバレで、ウケる。
 
「私、今日忙しいんだー。代わりに掃除やっといてくんない?」

 申し訳なさそうに眉を八の字に寄せながら「いつもごめんね?」と手を合わせる。言葉とは裏腹に、有無を言わせない口調。質問の体を取りながらも断られるわけがないと確信していた。

「……わかっ、た」

 籠った声で紡がれた了承に私は「ありがとー!」と甲高い声でお礼を言う。すると続いて私の友達も「山田さん! うちも今日忙しくてさー」とお願いしてきた。あんたさっき私を遊びに誘ってきたじゃん、とはもちろん突っ込まない。

 嫌なら嫌と言えばいい。
 言いたいことがあるのに言わない方が悪い。

 その持論を元に生きている私は掃除を押し付けたことに対し、もちろん全く罪悪感を持たない。軽い足取りで教室を出て、昇降口へ向かった。




「あと28分な」

 テーブルに到着した私に開口一番に奴が放った言葉はそれだった。

「は?」
「いや、もう27分か」

 口を開けて唖然とする私に一瞥もくれないまま、奴――九井一はケータイを弄り続ける。あまりにも失礼千万な態度に座るのも忘れ、立ったままの状態で「ちょっと!」と声を荒げた。平日の夕方のファミレスは、主婦やら学生やらでそれなりににぎわっていた。周りの客の面白がるような視線や咎めるような視線をいくつか感じ居心地の悪さを覚えた私は、少し声のボリュームを抑えて尖った声で問い詰める。

「なによ27分って!」
「オマエに使える時間は30分が限度。それ以上無駄な時間は割けねぇ。以上」

 九井は依然としてケータイに目を向けたまま淡々とそう言った。一秒たりとも私に視線を合わせない。九井の舐め腐った態度に頬の筋肉が強張っていくのを感じた。引き攣る口角を無理矢理吊り上げて「ふーん?」と粘着質な声を敢えて出した。九井も私と同じくらい不快な気持ちになるように、そんな願いを籠めて。

「アンタんちの住所。アンタに恨み持ってそうな連中に教えてやってもいいんだけど?」
「やれば。自分より格下にしか手ェ出せないオマエがああいう奴等に声かけれんなら、って話だけど」

 言い終えるとここで初めて、九井は私に目を合わせた。細目の真ん中に位地取る小さな黒い瞳には、嘲笑が宿っている。コイツはどうしてこんなに私をコケにできるのだろう。まるっきり的外れでもない指摘は羞恥心と屈辱感を煽り、やがてそれは憎悪に変わる。
 実際の所、私は九井に恨みを抱いているであろう集団に声を掛けることなどできない。少年院に入った事を勲章として掲げるような、そんなイカれた人間。視界に入れるだけでも恐怖がせり上がる。実際に出くわしたら私はそそくさと目を逸らすだろう。
 頭が切れる九井相手に交渉は分が悪いとわかっていながらも、認めるのは歯がゆかった。苦し紛れに「意味わかんない」と吐き捨てるように呟く。けど九井はもう私の話を聞いていなかった。

 ……意味わかんない。
 心の中で、もう一度つぶやく。スカートのポケットの中に手を突っ込んで、ケータイを握りしめた。

 意味わかんない。
 コイツ、私に脅されている癖に、どうしてこんなに平然としてられるんだろう。

 寄る辺に縋るように、私はケータイを固く握りしめた。硬い金属でできたケータイは圧迫されても形を変えることなく、存在を主張し続ける。
 昔の人は、ケータイ無しでどうやって生きてきたのだろう。私はケータイがないと生きていけない。だってここには何でも入っている。家族、友達、彼氏未満の使い勝手のいい男たちと繋がる手段。プリクラの画像。好きな芸能人のブログのURL――それから。

 それから、九井が乾にキスしている写メ。
 
 いたいけな女子高生である私はこれを使って、暴走族の幹部を脅している。





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