ざまあみやがれ





 体から全ての生気を根こそぎ吸い取られたのかもしれない。

 朝帰りを無断で決めた私はお母さんに死ぬほどキレられ、軽く軟禁されている。だけどどうでもよかった。全部が全部。何もかも。
 ベッドに仰向けに寝転がりながらぼうっと天井を眺める。途方もない虚脱感に纏わりつかれているせいで、何も考えられない。

 長年封じ込めていた想いと再び向き合ったところで何も変わらなかった。朝になると日は昇り夜になると沈む。その繰り返しを永遠になぞるだけ。

 九井は赤音さん≠ェ好きなまま。
 私は自分のことを嫌いな奴を好きなまま。

 九井。
 ココ。
 二つの呼び名が頭の中で交互に現れる。

 私はどっちで、あいつを呼べばいいんだろう。

 ―――コンコン。

 考えても仕方ない事に思いを馳せ続けていると、ノックを鳴らされた。「麻美〜」とお姉の声が続く。独り暮らしを始めたくせに、お姉はしょっちゅう家に帰ってくる。久々の再会というわけでもないし、返事するのが億劫で無言を貫いた。どうせ大した話じゃないし。
 返事を返さない私にお姉は「寝てんの?」と独りごち「勿体ないなー」と呟いた。

「結構かっこいい子だったのに」

 ガバッと起き上がりドアを開けると、目を丸くしたお姉が立っていた。

「誰か来たの!?」
「は? 起きてたの麻美。何無視してんの」
「誰か! 来たの!?」
「だから来てるってば。今も玄関の前にいるよ。小学生の時の―――、」

 皆まで聞かずにお姉を押し退け、階段を高速で駆け下りて玄関のドアを開ける。小学生の時の、小学生の時の、小学生の時の……! 胸の中で狂ったように反芻しながらドアを開ける。その先には。

「あ。お久しぶりです。篠田さん」

 良く言えば人の好さそうな顔で、悪く言えば能天気な顔で笑う花垣君とその隣で仏頂面を晒している乾が立っていた。

 結構かっこいい子
 小学生の時の

 お姉の言葉を振り返りながら乾を凝視すると、乾は「あ?」と不愉快そうに眉毛を動かした。

「お姉を眼科に連れてかなきゃ」
「意味わかんねぇけど喧嘩売られてることだけはわかる」

 結構かっこいい子プラス小学生の時のイコールが乾になる予想が一体誰にできるのだろう。失望に包まれながら心の声を漏らすと、何かを感じ取った乾がこめかみに血管を浮かばせながら指の関節をポキポキ鳴らし始めた。「イヌピー君!」と花垣君が必死に止めている。

「オレはオマエに言いたい事なにひとつねぇけど花垣がテメェに言いたいことあるっつーから連れてきた」

 取り付く島もない硬質な声で私の家までやって来た理由を告げる乾に花垣君は「イヌピー君なんでそんな篠田さんに当たり強いんですか……?」と若干引いた後、気まずそうに私に目を合わせた。気づかわし気な色を浮かばせたその瞳にあ≠ニ思う。どくり、と心臓が不穏にきしんだ。
 
 空虚な空白が、胸の真ん中に滴り落ちる。

「ココ君を連れ戻すことはできませんでした」

 そしてあっという間に広がっていった。

「…っ、本当に、すみません!」

 花垣君が勢いよく頭を下げて謝ると、乾が「花垣」と咎めるように呼びかけた。

「ココは自分で選んだんだ。オマエのせいじゃねえ」
「でもオレ、絶対連れ戻すって約束したんですよ!」
「それでもだ」

 乾は唇を一瞬閉じてから続ける。

「オレ達に、ココの人生に口出す権利はねぇよ」

 諦観なのか、悟りなのか。それとも無理矢理感情を抑えこんでいるのか。どれかはわからない。ただ乾の声は波ひとつ立たない海のように、静かだった。

 花垣君は乾の言葉を理解はしながらもどこか納得できないようで、唇を浅く噛みしめながらぎゅっと拳を握る。「それでも」と苦しそうに呟いた。

「オレは篠田さんとの約束を守れませんでした。……すみません」

 花垣君の苦しげに寄せられた眉も、乾の無感動な眼差しも、二人の向こうに広がる青い夜空も、全てが作り物のように思えた。私は膜で覆われてしまったのか、ものすごく意識がぼんやりとしている。
 ココ君を連れ戻すことはできませんでした。
 つまり、ココは戻ってこない。
 遠いところに、行ってしまう。

「―――い、おい。篠田。おいブス、聞いてんのか」

 乾の苛立った声が私の鼓膜をびりっと震わせて、少しだけ意識がクリアになった。視界の端で花垣君が「え、ブスって……篠田さんのことっスか!?」とぎょっとしている。

「……なに?」

 ぼんやりしたまま答えると、乾は鳩が豆鉄砲を食ったような顔をした。ぱちぱちと瞬きを何度も繰り返しているせいで、長い睫毛が震えている。

「用件は済んだ。帰る。つったんだよ」
「あ。うん。わかった」

 ぼうっとしながら頷いて踵を返した時、足ががくんとなった。気付いたら地面との距離が縮まっていた。背後から花垣君の声が聞こえる。焦りの滲んだ心配そうな声を鼓膜は確かに捉えているのに、頭の中に入って来ない。

 戻ってこない。
 戻ってこない。
 もう会えない。

 そればかりが私の頭の中を埋め尽くし、氾濫する。私の身体に亀裂が入り、その裂け目から魂が流れ出るような感覚があった。さっきまで抱えていた空虚感を更に凌駕する空虚感が私の足首を掴んで奈落の底に引きずりこむ。

 ああ、こういうことなんだ。
 今やっと私は、ココの気持ちの片鱗に触れることができたんだ。

 意識不明の重体の赤音さん≠想い、虚ろに宙の一点を見つめてているココが脳裏に浮かぶ。私が話しかけてもいつも上の空なココに『仕方ない』と思いつつも『どうして無視するの』と憤慨していた。
 ココは無視をしていたんじゃない。

「篠田さん、篠田さん!」

 本当に、聞こえなかったんだ。

 ガラス瓶に閉じ込められたように全ての事柄が遠くに思える。私を労わる眼差しも私を無理矢理立たせる強い手も全部が全部。

 真っ黒な闇の中、ココは消えてしまった。
 乾と別れて。私を置いて。
 誰も知らないどこかへ、向かってしまった。




 息を吸って吐いてその繰り返しの人生をあと数十年続けなければならないことに吐き気を催す。

 今までどうやって生きてきたのか思い出せない。確か声を出して友達と話して雑誌読んでオシャレしてとそんな風に日々の中で自ら娯楽を作り出す事で人生を彩っていたはずなんだけど、今はどうしてあんなことに声を上げて笑う事ができたのか、自分で自分が不思議だ。

 どうやら私はおかしくなったらしい。皆が皆、私に『どうしたの?』と眉を潜めながら尋ねる。ご飯も食べないし日がな一日ぼうっと過ごしている。足取りもふらふらと頼りなく学校に行こうとしたら家を出た瞬間に車に轢かれかけ、それから二日間、学校も休んでいる。明日の学校はどうするかまだ決めていない。真っ暗な部屋の中、差し込む月光を頼りに白い天井を眺め続ける。

 いない。もう会えない。

 魂を引き抜かれて抜け殻になった体なのに、心臓だけは動きを止めない。今も鼓動を打ち、私の身体隅々まで行きわたるように、酸素を乗せた血液を送り届けている。

 いない。いない。いない。もう会えない。
 最後にアイツと交わした言葉は何だったっけ。『馬鹿』だっけ。『隠れて』だっけ。どっちだったっけ。だけど最後にもらった言葉はちゃんと覚えている。

『アリガト』

 舌をべえっと出しながら、そう言っていた。
 起伏に乏しい有難みに薄れた言葉だったのに、鼓膜に今も強く残っている。

 だって全部、欲しかったから。
 伏せられた目蓋も、つまらなそうにケータイを弄る指も、ストローを咥える唇も。ココを作り上げる細胞ひとつひとつを削り取って、私の中に取り込みたかった。

 欲しい欲しい欲しい。私はそればかりだった。今の私からしてみればあまりにも傲慢な願いを叫び続けていた過去の自分に、怒りを超えてただ呆れる。会えているのならいいじゃないか。
 だって今の私は、会えない。もう会えない。

 最後までひどいことをしてばかりで、終わってしまった。

 ――ヴーッ、ヴーッ、ヴーッ。

 ベッドの上のケータイが震え始めた。そろそろと手を伸ばし、ケータイを開いた。長年の習性とはすごい。出る気なんか全然ないくせに勝手に手が動くのだ。

 暗闇の中で発光している液晶が名前を映し出す。その三文字は弾丸のように鋭く鋼鉄な勢い宿し、私を撃ち抜いた。

「……っ」

 息せき切りながら飛びつくように出た瞬間に「下」と何の脈絡もない単語が耳の中に流れ込む。

「え、へ、し、た?」
「下」

 端的にもう一度告げられるとした≠ェ方向を指している事にようやく気付く事ができた。窓にへばりついて下≠見ると――立っていた。

 月の光を浴びた黒髪が濡れたように光っている。

 窓越しに視線が合うと九井はいつものように、べえっと舌を出した。その瞬間、弾かれたように肌がびりびりと震え上がった。
 視覚が色を取り戻す。聴覚の中で音が息づく。私を覆っていた膜が剥がれて、世界≠ェ私の中に飛び込んでくる。

 階段をものすごい勢いで駆け下りた瞬間に思い出して、また部屋に戻る。捨てろと言われた靴はまだ私の手元に残っていた。だって、捨てられる訳がない。他の男だったら、例えば乾のだったら燃えるゴミに速攻出しているけど、捨てられる訳がないんだ。
 もう一度階段を駆け下りた時最後の三段で足が滑り、お尻から落ちていった。「〜っ」と声にならない悲鳴を上げる。じんじんと痺れるお尻をさすりながらなんとか立ち上がると、お母さんの声が二階から降ってきた。

「麻美アンタ何してんの!?」

 何をしているんだろう。本当に。
 ストーカーしたり脅したり泣きわめいたり、ずっとずっとずっと、そんなんばっかだ。

「ちょっと外行ってくる!」

 二階に向かって声を投げると「こんな時間に!?」と驚きと心配が入り混じった咎める声が背中に飛んできた。親の心配をこんなにあっさりと跳ねのけて、私は外に飛び出す。それが、友達でも彼氏でもない、社会不適合者の真っただ中にある男に会う為だというのだから。

「遅ぇ」

 息せき切りながら駆け付けたいたいけな女子高生に対し、社不は、九井は目を眇めて冷たく言い放つ。『マジ、救いようのねぇ馬鹿女』乾の軽蔑に塗れた声が脳裏に蘇る。アイツの言う事に同意したくないけれど、本当にそうだと思った。

 狂ったように高鳴る心音を聞きながら深く実感する。私は本当に、救いようがない。




 九井に靴を渡すと「捨てろっつったのに」とぼやかれて、おざなりに「ありがと」と言われた。私はそれに無言で頷いた。
 喋れなかった。
 九井の匂いが鼻先をかすめると、胸のなかがぐるぐるして、何も声が出なかった。


「オマエ腹でも壊してんの?」

 三歩前を歩いている九井は振り向くと、私にそう尋ねた。

「え……」
「いつもべらべら喋ってんのに全然喋んねえじゃん」

 私を推し量るようにじっと見つめてくる九井の目線から逃れるように「別に……」と俯きながら答える。

 言いたい事はたくさんあった。
 だけど、会いたいと切望していた人間をいざ目の前にすると胸がいっぱいになり、喉が膨れ上がって、何も出てこなくなった。傷つける言葉ならたくさん出てくるのに、お礼や謝罪となると足が竦んで二の足を踏んでしまう。今更言っても私の行いが帳消しになる訳でもないし、それに捻くれ者の九井が素直に受け取る事はないだろう。『は? 今更?』とせせら笑われるのがオチだ。

「……なんで、私に会いに来たの」

 お返しとばかりに、私も質問を返す。睨むように九井を見つめながら問うと、九井は瞬きをしてから、淀みなく答えた。

「性悪メンヘラ馬鹿女の末路が気になったから」

 いけしゃあしゃあと。

 虚しく冷たい風が私の心を吹き抜けた後、怒りが火柱のように燃え立った。

「ちょっとそれ全部私の事!?」
「たりめーじゃん。他に誰がいんだよ。とうとう面すらも悪くなった篠田想像したらマジ胸が躍ったね。写メってイヌピーにも送ってやりたかったのに全然変わってねぇじゃん。つまんね」

 不満を表しながらも肩を竦めて嫌らしく笑う九井は絶妙に私の怒りを煽る。私はわなわなと手を震わせながらも、心のどこかで安心していた。九井、普通に乾の話している。決別したとかもう戻ってこないとか聞いたけど、乾と花垣君が大袈裟に話を大きく広げていただけなんじゃないかと、淡い期待がインクが染み込むように広がっていく。

「急にいなくなられんのってきついしな」

 ――え。
 いつも通りの人を食ったような声。トーンに変わりはない。だけど、その一言で場の空気がガラリと切り替わるのを感じた。
 歩いていく内に、私達はいつかの公園に差し掛かっていた。私が九井に首を絞められた公園。私が、九井を嫌いになった場所。

「人ってさぁ、ホントの事言われるとキレるんだって」

 霜が降りるように密やかな声が私の心に降り積もり、深く深く、染み込んでいく。

「オマエ、史上最悪の馬鹿女だけど、あれだけは合ってたわ」

 あれ≠ェ何を指しているかすぐにわかった。『ココのやり方でお金集められても、赤音さんは喜んでくれるかなぁ?』。正論を盾に『だから私を見て』とアピール。私の愚かで浅ましい言葉がまだ九井の中にも残っていた事に、羞恥心で顔に熱が集まった。目の前に自分の痴態を突き付けられているようで居たたまれなくなり思わず視線を下に向けると、九井は「あー違うって」と面倒くさそうに、言葉を投げた。

「オマエが合ってるつってんじゃん。赤音さんは、汚い金で目が覚めても喜ばない。……あの人は、そんな人じゃない」

 赤音さん≠語る九井の口調は自嘲が混じっている。だけど、優しかった。優しさの中に、胸が締め付けられるような切なさが潜んでいる。私には絶対に、向けられない声。

 馴染みのある痛みが心臓に走った。

 九井が赤音さん≠ノプロポーズした時、私の心臓には亀裂が入った。嫌い≠ナ傷口を覆いながらも僅かな隙間から膿が滲み、化膿するばかり。いつまでも、塞がらなかった。

「だから、ここからはオレの意思だ」

 九井の声が硬質さを帯びる。鋼のように固い、強い意志を湛えた声だった。月をバックに佇む九井の瞳が、痛々しいほどに冴え冴えと光っている。

「オレは、オレの意思で今のまま生きていく。これ以外の生き方をするつもりはない。赤音さんもイヌピーも関係ねえ。オレはオレの道をゆく」

 冬が終わり、春が訪れるように。九井が去ることは抗えようのない事実ということが、心臓を抉るように胸の奥深くまで突き刺さった。

 私に背を向けて、九井は去っていく。どこか知らない場所に向かって、歩いていく。そこには乾も、赤音さん≠燔Aれていかない。当然、私も。

 石化の呪いをかけられたように、私の足は動かない。ここのい、と戦慄くように唇を震わせたけど、何故か声は出なかった。どんどん遠ざかる背中を見つめながら息を吸う。呼吸をするといつも通り酸素を取り入れただけなのに、胸は罅が入ったように痛んだ。

 青い闇に溶け込むように、あいつの背中は小さくなっていく。
 あいつ。九井一。私が脅してきた人間。私のほしいもの。

 私の好きな人。

 どくんと心臓が深く沈み込んで跳ね上がると、私の心を抑え込んでいた厳重な蝶番が吹っ飛んで、留めていた感情が堰を切ったように溢れ出した。

「待って! ココ! 待って!!」

 なりふり構わず走り出して私はココの背中に飛び付いた。いつのまにか私より大きくなった背丈にしがみつきながら「やだやだやだ!」とヒステリックに駄々をこねる。

「やだ! ダメ! やだ! 行っちゃやだ!!」

 燃えるように熱い眼球から涙が押し寄せ、私の頬の上を転がり落ちていく。心臓が千切れそうなほど、痛い。ココがいなくなるという絶望感が足元から這い上がり、私の身体を呑み込む。

「お願い何でもするから、何でもするから行かないでぇ……!」

 涙が眼球を覆い、視界はぐちゃぐちゃに濁っていた。ひくひくと嗚咽で痙攣する喉奥から必死に声を絞り出して懇願する。みっともないとか情けないとかそんなことは何も考えられなかった。私の傍にいてほしい。狂おしいほどにただそれだけを切望する。

「悪いトコ治すからぁ……! えぐっ、わ、わがま、わがまま、言わないからぁ……!」

 ぼたぼたぼたぼた。熱い雫が口の中に流れ込み、舌がしょっぱい。ココは何も言わない。どうしても行ってしまうと言うのなら。そうならば。

「連れてってよぉ、ひぐっ、なんでもする、えぐっ」

 ココが赤音さん≠フ為に全てを懸けたように、私も全部懸ける。犯罪だって何だってする。

 だって、私は。

「わた、わた、し、ずっと、ずっと、ココのこと……!」

 ずっと胸の奥に仕舞い込んでいた気持ちをなりふり構わずぶつけようとしたその時だった。

 無言を貫いていたココが、背中にしがみつく私の手を振り払うように勢いよく振り向いた。突然の強い動作を受けて思わずよろめいた私の手を、ココは強く掴んで引き寄せる。顎の線に沿うようにして指が這い、持ち上げられた。

 感じたことのない感触をくちびるに感じた。

 最大限に見開かれた目から、ぽろっと雫が転がり落ちる。だけど、それきり出なかった。驚きで喉は塞がれ、涙も声も何も出ない。

 真空の世界に閉じ込められたように静かで、時が止まったみたいだった。

 一瞬の事で温度も柔らかさもよくわからなかった。ココはキスをやめると、何の感情も宿さない瞳で呆然と立ちすくんでいる私を見下ろすと。

「餞別」

 平坦な声で呟いて、それから、べっと舌を出した。

 ――私はいつか、この男に殺される。

 不規則な鼓動を続ける心臓が、私にそう告げる。

 だって今、本気で殺されかけた。
 首を絞められた時以上の圧迫感が喉に迫り、息が出来なかった。

 ううん、違う。私は殺された。
 戯れのように触れたくちびるに、一瞬、息の根を止められた。確かに鼓動が止んでいた。

 痛感する。
 実感する。
 どうしようもなく思い知らされる。私の心臓は、九井一の手の中にあるということを。


 




「麻美ー? 麻美ー?」

 ハッと我に返り、友達Bの呼びかけに「なに?」と答えると「大丈夫〜?」と眉を潜められた。

「今日も超ボーッとしてんじゃん。まだしんどいの?」
「や、しんどくはないんだけど。なんか、うん」

 歯切れ悪い口調の私に友達Bは「病み上がりなんだから無理しちゃ駄目だよー?」と更に気遣いの言葉を被せた。「ありがと」とお礼を言いながらも、また私の意識は遠のいていく。

 あれは夢だったんだろうか。

 ココと別れた後、気付いたら私は自分の家に戻っていた。どうやって戻ったんだっけ。ああ、そうだ。確かタクシーに乗せられたんだ。曖昧な記憶の中で、茫然自失とする私を引っ張るココの背中がゆらゆらと揺蕩っている。私の手を掴む手が、私よりも一回り以上大きかった。

「麻美、麻美ー!?」
「え、あ、うん。ごめん」
「もー! あのさ。しんどくないんだったら、今日カラオケ行かない? リエとエミも行くってー」

 他クラスの友達も込みでのカラオケはいつもなら魅力的に映るだろう。だけど、魂の抜けきった私にはイマイチ響かず「そうだね」と曖昧に頷きながら黒板に視線を泳がせる。すると、ある事を思い出し思わず「あ」と声が漏れた。

「私今日音楽室の掃除」
「えー? そんなん山田さんに頼めばいいじゃん」

 何を今更と言わんばかりに友達Bは言う。そういえば、そうだった。ついこの間まで私は何も気負うことなく山田さんに掃除を押し付けていた。だって、何も言わないから。ちらちらと怯えながら私を見るくせに何も言わない山田さんに生理的嫌悪に近い不快感を抱き、いつも押し付けていた。直接的な言葉は使わないくせして態度には滲ませて気づいて≠ニ察しを求めてくるあの姿勢に、イラついていた。
 山田さんにそれとなく視線を走らせると、彼女も私を見ていたのだろう、視線がばちりと繋がった。私と目が合った事に山田さんは顔を引き攣らせ、慌てて下に向ける。
 ちり、と感情がささくれ立ったのを感じた。言いたいことをはっきり言わない奴が私は嫌いだ。今も昔も。

 だって、似ているから。

 「どこのカラオケ行く?」と続ける友達Bを無視して席を立ちあがり、山田さんに近づいた。「山田さん」と声を掛けると、彼女の肩がビクッと跳ね上がった。目を左右に泳がせている情けない顔を見据えながら、静かに言う。

「音楽室行こ」

 何拍か経ってから「……え?」と間の抜けた声が、山田さんの唇から零れ落ちる。俯きがちだった顔が上がり、目を白黒させながら私を凝視している。そこにはいつもの私への恐怖心が宿っていなかった。

「ああ、でも今まで代わりにやってくれてたもんね。いいよ、来なくて」

 一向に動き出さない山田さんに痺れを切らした私は踵を返し、ひとりで音楽室に向かう。途中、ポカンとしている友達Bに「私今日カラオケパス」と告げて教室を出ると、恐る恐るといった感じの足音が後ろから着いてきた。後目で確認すると、山田さんが私から五歩ほど離れた場所で、怖々と歩いている。

 似ている。ぼんやりと、だけど確かに思った。

 山田さんは私に似ている。




 山田さんと一緒にゴミ箱を持ちながらごみ捨て場に向かう。その間終始無言だった。山田さんが沈黙を気まずく思っていることが妙にそわそわしている挙動から伝わってくる。私にとって山田さんは歯牙にもかけない存在。だから会話が無くても気詰まりではないけど、山田さんからしたら私は気を遣わねばならない存在だから何か喋らなきゃ≠ニ焦りながらも何も話題が思い付かず、沈黙を重苦しく捉えているのだろう。だから私から話題を提供することにした。というのは嘘で、言いたいことを言った。

「山田さんさぁ」
「はっはい」
「言いたいことあるなら言った方がいいよ」

 山田さんは目を点にして「え?」とすっとんきょうな間抜け声を漏らした。

「相手、いついなくなるかわかんないし。さっさとしとかないと、言っておけばよかったって後悔することになるよ」

 私みたいにとぽつりと付け足すと、山田さんは目を大きく見張らせながら私を凝視して「そんなことあるんだ……」と呟いた。そんなこと≠フ意味が掴めず「どういうこと?」と尋ねる。

「その、篠田さんってキラキラ女子高生って感じだから、後悔とかそういうことと無縁だって思ってて……」

 山田さんがおどおどと紡いだキラキラ女子高生≠ニいうワードに私はぱちくりと目を瞬かせてから心のうちで反芻し、これまでの私の生活を振り返る。

 脅したり、暴言をぶつけたり、腕を振り払われたり。キラキラ≠ノは程遠い惨めな生活を思い浮かべて鼻で笑う。

「全然違うし」

 私の恋は惨めで汚く浅ましい。まるで、私のように。
 キラキラなんて、全くしてなかった。






「うわ」

 私を見ると嫌そうに眉を寄せた乾に「うわってなによ」と私も負けじとしかめっ面で応戦する。

「嫌いな奴が出てきたらうわって言いたくなんだろ。つーかなんでここがわかった」
「あんたのお母さんに教えてもらった。あ〜乾のお母さんのことを思うと泣いちゃうな。少年院にぶちこまれた息子がや〜っと更正し始めたんだから。ほんと、や〜っと!」

 バチバチバチバチ! と繋がった視線が衝突し火花が炸裂する。私と乾は落書きだらけのガレージの前でにらみ合いを続けた。

『青宗ならお友達とバイク屋さんやるって出ていったの』

 そのお友達≠ヘ、あいつじゃないことに、落胆を覚えた。小学生の時は『ココの親友が乾なのヤダ!』と苦々しく思っていたというのに。乾の隣にココじゃない他の人間が立つ事にココの不在を強く突き付けられて、胸が苦しい。心臓が『寂しい』と鳴いている。

「なんだよ」

 乾は嫌そうに目を眇めて『はやく言え』と言外に促してきた。相変わらずの不遜な物言いに腹立つけど、怒りを一旦抑え込んですうっと息を吸い込む。癪だけど、借りは返さないといけない。

「クソ犬とか言ってごめん」

 籠った声で早口で告げると、乾の目が大きく見張られた。そんなに驚かなくてもいいじゃん。恥ずかしさが込み上がり、居たたまれなくなる。ふいと目を逸らすと、視界が暗くなった。影が落ちたのを感じ、顔を上げると。

「いだだだだだだだだ!」

 頬を左右に思いっきり引っ張られた。

「オマエ篠田じゃねえな。あのクソ性悪女がオレに謝る訳ねえんだよ。正体を表せ。天竺の残党か?」
「いだいいだいいだいいだい! っいだいっでば!」

 乾の靴を思い切り踏もうとしたら、乾はひょいっと避けて私の顔からようやく手を離した。千切れる一歩手前まで引っ張られた頬を摩りながら「マジ最悪意味わかんない乾やっぱ死ね!」と涙目で怒鳴りつける。

「なんだ。篠田かよ」
「私に決まってんじゃん! マジで馬鹿! 本当に馬鹿!」
「あ゛? 殺すぞブス」

 ヒリヒリする頬の痛みが和らぐように両手で包み込みながら激しく後悔する。こんな奴にお礼とか謝ったりするんじゃなかった! 

「なにが目的だ? 言え。金ならねぇぞ」
「いらねーよ! なに! そんなにおかしい!?」
「おかしい」

 曇りなき眼の乾は力強く頷いた。こいつ、私のこと一体なんだと思ってるんだろう! と憤慨した後に今まで乾に浴びせかけた暴言の数々を思いだし、頭が冷えて思い直す。ルパン的な変装を疑うのはバカの所業だと思うけど、本当に私かどうか疑わしく思う心理は、まあ、当然のことなのかもしれない。

 キスをされた時、多分私は一回死んだ。
 魂を取られて脱け殻になってでもまた息を吹き返して目覚めた世界に、ココはいなかった。

 ココに占領されていた脳みそはココをなくすと、ぽっかりと容量があいて、色んなものが見えるようになった。私を常に蝕んでいた、始終何かに追い立てられているような焦りや苛立ちは、毒を抜かれるように静かに引いていった。
 
 キスひとつでこれだ。
 私の心臓は永遠にアイツの手の中にあるのだろう。

「ココ、オマエに会ったんだ」

 ぽつりと静かな呟きが、怒りに膨れ上がっていた私の心に落ちる。水面に落ちた雫が波紋を広げるように、その声は私の胸の内に静かに広がっていった。

「……まあ」

 乾は私にどういう話をしたのか追及してこなかった。曖昧に頷きながら目を逸らす私に「そうか」と低い声で相槌を打った。

「……ココがどこ行ったか、知ってる?」
「知らねぇよ」

 乾ですら知らない。アイツが全て投げ打って懸けた存在が知らないというのなら、きっと誰も知らない。
 赤音さん≠助ける為でも、乾を助力する為でもない。ココは自分の意思で、今のままの自分で生きていくと言っていた。今のまま、それはつまり、違法行為に手を染めてお金を稼いでいくという事。未成年の今の時点でヤバイ奴等に目を付けられて拉致られたのだから、大人になれば砂糖に群がる蟻のように、ココはヤバイ連中の金づるとして求められるだろう。

 社不。犯罪者予備軍。いつか予備軍≠カゃなくなっちゃうかもね。冷静に分析しながら、独りごちる。

「じゃあまた、虱潰しにしてくしかないな」

 何拍か間を置いてから乾が唖然と呟いた。

「は?」
「絶対見つけ出す」
「なに寝言言ってんだ」
「ハァ? この目のどこが眠そうに見えんのアンタ眼科行けば?」

 私は乾に自分の大きな目を見せつけて、べえっと舌を出す。乾のこめかみにピキッと血管が浮かんだ。私も大概短気な方だけど、乾は私に輪に掛けてひどい。これで本当に客商売とかできるのかな。どうでもいいけど。

 そう。私はずっとずっとずっと、ココ以外の男に興味を持てない。

「絶対、どこに行っても見つけ出す。逃がさない」

 凪のように穏やかな胸の中でひとつの決意が固まっていた。誰にも傷つけられない。傷つけようがない。ココにだって、傷つけられない。

「だって私まだ、言えてないもん」

 言おうとしたら、キスされたから。私が自分に惚れ抜いているのを知っているアイツは、私がキスをされたらどうなるか見越した上での行動だったのだろう。適当にからかって遊ぶには丁度いいけど、いざ気持ちを受け取るには面倒くさい。そんなところだろうか。……ああ、なんって嫌な奴!

「ココに好きって言えてない。……言わせてくれなかった」

 そんな奴、いくら好きだとしても幸せなんて願いたくもない。

 そもそもの話。ココの幸せはココの幸せだ。ココが幸せになったところで、私は幸せにならない。アイツの痛みを少しも理解できなかったように、幸せだって理解できない。だから私はこれからも、私の幸せを願って好きなように生きていく。

「私に好かれたくないぐらい私の事嫌いなら、アイツ、私に好きって言われたら、すっっごい嫌な顔するでしょ、絶対。散々私をコケにしてきた仕返し、してやるんだから」

 今より少し大人になったココを見つけたら、渋谷の繁華街だろうがどこだろうが、駆けだして引っ張って大声で叫んでやるんだ。きっと、嫌そうに顔を顰めるんだろうなぁ。想像するだけで笑みが零れる。鼻の奥がつんと痺れている事に気付かない振りをしながら、口角を上げて満面の笑みを咲かせてみせた。

「ざまあみろって、笑ってやるんだから!」

 はぁっと息を吐くと、湿っぽい空気が喉を震わせた。潤んだ視界を晴らす為に目蓋を閉じて目を擦ろうとしたら、胸の奥で光が瞬いているのを感じた。

 ああ、やっぱり。ずっとずっと、光っている。


「あいつ別にオマエの事嫌いじゃねーぞ」

 突然、私の意識に割り込んできたぶっきらぼうな声に、土足で上がられたような不届きさを感じ眉間に皺を寄せた後、一拍置いてからその声が紡いだ内容に気づく。

 ………え?

 ぽかんと口を開ける私に乾は、記憶の底の思い出をひとつひとつ汲み上げるように、淡々と言葉を重ねていった。

「オマエがココに纏わりついてんの知った時、オレ、ココにアイツうぜぇし絞めとこうか? って聞いたんだよ」
「ちょっと待ってアンタ何持ち掛けてんの」

 自分のあずかり知らぬところで私のリンチ話が裏で進みかけていた事に戦慄と怒りを覚え、後ずさりして乾から若干距離を取る。乾は怯えている私を全く気に留めずに話を続けた。

「そしたらココ、別にいいつったんだよ。オレは好きで篠田といるって」

 どくん、と心臓が大きく跳ねた。ココが自ら望んで私と一緒にいた。予想だにしなかった事実は、甘い蜜のような喜びを胸の内に垂らし、酩酊感の中へ私を誘う。
 足元がふわふわと浮いている。まるで、くるぶしに羽でも生えているみたいだ。

「一緒にいると安心するつってた」

 たくさん嫌な事を言った。たくさん嫌な事をした。そんなことをしても赤音さんは喜ばないと軽はずみな覚悟でココの傷口に触れて、更にひどく、傷口を広げた。私がココに与えているものは、苦しみばかりだと思っていた。

 小匙一杯程度かもしれない。それでも、少しだけだとしても、幸せにできていたと自惚れていいのだろうか。

 目の奥が熱を帯び、また、視界が揺らぎ始めた。すうっと息を吸い込んで、冷たい空気を取り入れる。それでも体の中は熱かった。

 テレビや漫画で語られるような綺麗な恋からは程遠い、醜く歪んだ恋だった。たくさん傷つけた。たくさんひどいことを言った。世間から祝福や賞賛に値するような恋じゃないのはわかっている。さっさと諦めて、捨てるべき恋だって事も。

 だけど、ねぇ。ココ。
 私、ココのこと、好きでいいの?
 好きでいいって、許してくれるの?

 ひくっと喉の奥が戦慄くように震えたのを感じた。駄目だ、と痛感する。

 胸の中で光が存在を主張するように瞬いている。
 どれだけ押し込めても消えなかった光はただただ言っていた。

 ココのことを好きでいたい、と叫んでいた。




「自分よりやべぇ奴見るとすげぇ安心するつってた」

 ………。
 ……………。
 ……………………………、

「は?」

 涙が急速に引っ込んだ。訳がわからない。何を言われたのか、さっぱりわからない。間の抜けた声で問いかけた私に、乾は「だから」と面倒くさそうに言う。

「自分よりやばくてみっともねぇ奴見ると安心するんだってさ」

 乾の声を少しずつ処理し終えると、頭皮が蠢くほどの勢いで、こめかみに血管が浮かんでいくのを感じた。ああ、頭の中でそう言っているアイツの姿がありありと思い浮かぶ。私の事を陰で嘲笑っている、犯罪者予備軍の憎たらしい顔を鮮明に思い描ける! そう、だって、ずっと見てきたから!

「ふっざけんな! 何それ! 何で人をそういう風にしか見れないの絶対ココのがヤバいから! ていうか私の一途な想いになんか感じるとこはないの!? ねえねえねえ!」
「知らねえよつか服を掴むな破けんだろ」

 うう〜っと涙目で唸りながら私は再び強く誓う。幸せなんて絶対絶対祈ってやらない。やっぱりあいつは最低最悪性悪社不だ。このまま人生を歩んだら超絶極悪集団の一員になって、日本を震撼させるような至上最悪の犯罪者になるだろう。そうはさせない。組織の立場を揺るがすくらいの恥をかかせてやるんだから。

 今度見つけたその時は、飛び付いて抱きついてめちゃくちゃにキスして、耳元で鼓膜が破れんばかりに叫んでやる。

 世界で一番大嫌いで大好きだ!! ってね。








END.



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