どうしたって行き止まり


 磨き上げられたような黒い夜空に光が差し込み、空は少しずつ明るみ始めていた。だけど、相変わらず寒い。骨まで染みるような冷たい風が吹きつける中、金髪リーゼント――花垣武道君と歩いていた。
 送ると言うからバイクで送ってくれるのかと思ったけど、武道君はバイクを持ってなかった。正しく言うと持っているけどまだ運転に自信がないらしい。私は私で行きのタクシーで全部使い果たした為、徒歩以外の選択肢が残されていなかった。ていうか暴走族ならバイクぐらい乗りこなせよ、九井じゃないんだから。

「えーっとぉ……篠田さんはイヌピー君とココ君と同い年なんですか……?」

 ずっと続いていた沈黙が、花垣君の恐る恐るといった問いかけによって破られた。おっかなびっくりしながらの口調は普段なら苛立たしく思うものだけど、泣きすぎて頭がぼうっとしている私は特に何も思わずこくりと頷いて肯定を表す。

「どれくらいの付き合いになるんですか?」
「小1からだから……9年だね」
「へー。長いですね」

 言いながら私も長いな≠ニ思った。気付いたらあいつ等と知り合ってから9年もの月日が経っていた事に胸に驚きが差し、続いて妙に感傷的な気分になる。
 九井と乾に初めて会った時の記憶はない。気付いたら視界に入っていた。いつのまにかイケてる男子≠フカテゴリーにあいつ等が入っていて、女子の間で好きになるならどっちかみたいな風潮になっていた。私はなんとなく九井にした。恋ばなに入りたかった。後れを取りたくなかった。だけど少しずつ少しずつ、本当に気になるようになって。

 ……くだらない。
 とっくの昔に捨てた恋心を振り返るなんてバカみたい。私、今アイツの事大嫌いだし。

 心の隅で小さく瞬いている淡い光を覆うように「ねぇ」と花垣くんに話しかけた。

「怪我、どうしたの? 乾も九井も怪我してたけど。花垣君もヒグマに襲われたの?」

 花垣君は「ヒグマ……?」と目を丸くしてから「ああ」と合点がいったように頷き、それから苦笑した。

「まぁ確かに、ヒグマみたいなもんすね。……オレとイヌピー君とココ君、ヒグマ……ムーチョ君って人に拉致られたんすよ。ムーチョ君はココ君を引き抜きたいから、オレとイヌピー君をボコったんです。ココ君が止めてくれなかったら、今頃オレとイヌピー君死んでたかもです」

 私の表情筋が恐怖で凍り付いたのがわかったのだろう、花垣君は冗談っぽく「マジ、ココ君には感謝っす」と笑った。殺されかけたと言うのに、花垣君から怯えはあまり窺えない。見た目に反してタフな精神なのだろう。そう思うと途端に花垣君の金髪が眩しく見えて、私は彼から少し視線を逸らした。眩い光は、私には却って毒だ。自分という人間を透かされるような気がして、居心地が悪くなる。

「……なんで、九井だけ引き抜かれたの?」

 ぽつりと問いかけると花垣君は「財力です」と答えた。
 中学生が使うには大人びた単語で、妙に空虚に響いた。案の定馴染まずに、いつまでも空気の中を漂っている。

「ココ君には、財力があります。金を作る天才のココ君を引き入れる事で、ムーチョ君は天竺を最強の犯罪組織にしようとしてます」
 
 金を作る天才。
 心のなかで花垣の君の言葉を復唱する。

 あいつ、不良の世界でそんな風に言われてんだ。

 中学の時の九井が脳裏に浮かぶ。

 大人でも投げ出すような難しい経済や法律の本を、目を血走らせながら読んでいた。必死に活字を追い、自分の中に取り込んでいた。

 あの人を助けるために。

「違うよ」

 気付いたら、口からぽろっと言葉が零れ落ちていた。視界の端で花垣君が私を少し驚いたように見つめているのを感じながら、私は感情に乏しい虚ろな色で言葉を重ねる。

 これは幼馴染みの義務だ。
 花垣君は最近のアイツしか知らない。だから、教えないと。

「九井は天才じゃない。アイツ、図書館で必死にお金集める方法勉強してたから。毎日毎日。だから天才じゃないよ」

 経済書を読む九井からは鬼気迫るものがあった。隣に座る私に目も暮れずに、一心不乱に読み耽っていた。一緒にお昼食べようよと声を掛けても無視された。どうしたらお金を効率よく稼げるか、どうしたらあの人を助けられるか。きっと、そんなことばかり考えていた。

「違うのに」

 もう一度呟くと喉のあたりが膨れて声が出なくなった。目の奥が熱い。胸がぺしゃんこに潰れてしまったみたいだ。呼吸すら苦しい。

 違うのに。
 天才なんかじゃない。
 血の滲むような努力の結果なのに。
 
 犯罪のためじゃない。
 あの人のために、頑張っていた。

 許されない方法だけど、頑張っていた。
 
 犯罪なんかの為じゃない。

「ココはそんなことの為にお金を稼いでたんじゃない……!」

 嗚咽を必死に押し殺しながら言い切ると、熱い吐息が一気に喉から胸までを焼いた。歯を食いしばって、拳を強く握りしめる。あのバカ、違法行為で稼ぐから変な奴に目をつけられてんじゃん。だから私やめとけって言ったじゃん、私警察に駆け込むこともできないじゃん、言ったら、あんたまで捕まる。
 怒りと苛立ちが蜷局のように私の体の中で巻きあがる。だから言ったのに、だから言ったのに、だから言ったのに。何回も何回も同じ言葉を呪うように唱え続けていると。

「篠田さんって、」

 花垣君がしみじみと実感を籠めながら独りごちるように言った。

「マジで、ココ君の事好きなんですね」

 何の脈絡もなく紡がれた的外れな発言が私の心の真ん中に真っ直ぐに投げ込まれた。受け入れる体勢を全く整えていなかったから、深く、入り込む。
 時間が止まる。呼吸ができなかった。
 だけど、それは私だけのようだ。花垣君はキリッと表情を引き締めて、一言一言に真摯な重みを籠めて私に誓う。

「大丈夫です。……絶対、連れ戻します」

 花垣君の瞳の中で、強い意志が夜空のように瞬いている。
 
 私以外の全ては、ちゃんと動いていた。風は吹き、星は姿を消し、日は昇り、夜は明けてゆく。

 呼応するように、胸の奥底にずっとしまい込んでいた光が、再び点滅を始めた。
 小学生の頃の私が何よりも大切にしていた言葉。

『別によくね?』

 つまらなそうに頬杖を付きながら、ココはそう言った。



 小学四年生の時、初めて九井と同じクラスになった。
 りぼんやちゃおの主人公に憧れた私たちはあんな風な恋がしたいと夢を抱き、クラスのイケてる男子≠ノヒーロー≠投影するようになった。選出基準は足が速いとかサッカーがうまいとか、そんな感じ。

 私は九井にした。喋っていて楽しいし、他の男子よりは馬鹿過ぎる行動しないし。九井なら私に釣り合っているだろうと踏んで、九井を選んだ。

 春か夏か秋か冬か、いつだったか忘れたけど、ある日抜き打ちテストが起こった。
 私は算数がとにかく苦手だった。あまりの苦手具合を見兼ねたお母さんにちゃれんじをやらされることになったけど、やりたくないから放置した。だって、よくわかんないもん。意味わかんないもん。ちゃんと勉強してる? という問いかけに、やってるやってると生返事する私にお母さんは言った。

『テストの点悪かったら、家に入れないからね』

 今ならわかる。あれはただの脅し文句だ。例え私が零点取ってもお母さんは怒りながらも最終的に私を家に入れるだろう。高校生となった今なら鼻で笑える脅し文句で何も怖いことなんてないけど、小四の私からしたら死刑宣告に等しかった。

 今日からやろうと思っていたのにと愕然とする私に、無慈悲にテストが配られる。
 友達と手紙交換に明け暮れていた私は授業をろくに聞いていなかった。初めて見る数字の羅列に眩暈を覚える。必死に読み込むけど何から何をどう解けばいいかわからない。家から閉め出される現実が着々と私に近づいていた。冷たいものが背筋を流れ、私は更に焦燥感に追いやられる。どんどんどんどんパニックになっていった時だった。

 視界の端っこに、答案用紙が見えた。

 私の右斜め前の席は当時、九井だった。もう解き終わったようで、頬杖を付いている。

 少し目をすがめて凝らすと、九井の答えが見えた。

 どくん、どくん、どくん。心臓がざわつき始める。ごくりと唾を飲み込んでから、私は言い訳を並べた。たまたま、見えちゃっただけだから。
 九井が出した答えと同じ数字を書きつけて、もう一度目を眇めて九井の答案に視線を送る。見えちゃっただけだから。たまたまだから。
 
 だから、
 だから、
 だから。

「センセーッ! 篠田カンニングしてる!」

 警告音のように轟いた声に、心臓は大きく揺らされ、連動するように肩がビクッと強く跳ね上がった。

「し、してない!」

 私を糾弾する男子に振り返って反論したものの、どもったせいで説得力に欠けた。顔を真っ赤にして狼狽えている私を男子は満足そうに目を細めながら「嘘くせぇー」とせせら笑う。事実を突かれ、私は更に焦燥感に襲われる。頭皮にじとりと脂汗が滲むのを感じた。

 私をやり玉に挙げている男子Aは、昔、私の事が好きだった。事あるごとに私に嫌がらせをして嫌がる私の反応を楽しんでいた。スカートを捲られた時、屈辱で目の前が真っ赤に染まりランドセルでぶん殴り泣かせた。私は間違いなく被害者で正当防衛だと言うのに何故か私は職員室に呼び出され『どんな理由があっても暴力はいけない』と諭された。『好きな子イジメってやつだよ』と困ったように笑われた。じゃあ私の気持ちはどうなるんだろう。生理だったのに。ナプキンを固定している羽の部分を男子に見られたとしても、好かれていたら許さなきゃいけないって事なんだろうか。

 そう訴えたかったけど屈辱のあまり頭が回らず『だって!』と募らせる事しかできず、私が悪いということで終わった。謝りたくないのに謝った。謝らされた。それでも男子Aの溜飲はまだ下がらなかったらしい、鬼の首を取ったように嬉々として私を糾弾し続ける。

「ココのテスト見てたじゃん! オレ見てたもん!」

 クラスメート達のざわつきはどんどん加速していく。

「えーマジ?」
「あ〜ココなら合ってるもんね」
「そーいや、なんか篠田変なポーズしてたかも」

 先生が騒動を収めようと「静かに!」と声を張り上げても皆口を閉じない。興味深そうに、揶揄るように、軽蔑するように、様々な視線で私を見ていた。

 どうしよう。なんとかしなきゃ。でも実際に私はカンニングした訳で、なんとかって言っても。うまい言い訳が浮かばない。拳をぎゅうっと握りしめながら、必死に頭を巡らせる。なにか言わなきゃなにか言わなきゃなにか言わなきゃ、ああ、でも。
 周りの値踏みするような視線に体が竦み、声が出ない。喉に息の塊が蟠っていた。顔を俯けてぎゅうっとスカートの裾を握りしめながら口を開く。だけど唇を震わせるだけが限度だった。

 小学生は悪い奴≠ノ容赦がない。カンニングしたとなれば権力者の私ですら瞬く間に失墜するだろう。水に落ちた犬は徹底的にいたぶられる。

 なにか、なにか、なにか。
 ぐるぐるぐるぐる、袋小路に陥った思考回路はうまい言い訳を導かない。

「違うもん、やってないし……!」

 バカみたいに同じことを、繰り返すだけ。何の説得力もない。
 視線が強まる。疑惑に満ちた眼差しが四方八方から突き刺さり、孤独感が私を取り囲む。

 おとうさん、おかあさん、おねえちゃん、
 だれ、か。

「別によくね?」

 騒然とする教室を、淡々とした声が一直線に切り拓いた。しん、と場が静まったのを聞き終えると、私の右斜め前の席の男子――九井は言葉を続けた。

「篠田やってないっつってんだし。どうでもいいから帰らせろよ。今日イヌピーんち行くんだから」

 九井は机を苛立たし気にとんとんと叩きながら言うと、「なぁイヌピー」と後ろを振り仰ぐがこくりこくりと舟を漕いでいる乾を見て「寝てるし」と笑った。

「ど、どうでもよくねぇし。篠田、カンニングしたんだから」
「証拠ねぇじゃん。水掛け論しても不毛なだけだろ」
「お、オレ見たもん!」
「それ証拠じゃねえから。証言だから。裏付けあんの? つかオマエもテスト中何見てんだよ」

 九井の指摘に男子Aが顔を赤らめる。図らずも男子Aがテストではなく私に意識を割いていた事がクラス中に知れ渡る事となった。「アイツ麻美ちゃんずっと見てたんだ……」「きも〜い」と容赦ない女子の声に怒りを煽られたのか、男子Aは眉を吊り上げて怒鳴った。

「オ、オマエはそれでいいのかよ!」
「いーよ別に。カンニングされても痛くも痒くもないし。つかもうマジでよくね? 被害者のオレがいいっつってんだから」

 小学生らしからぬ弁舌に、先生含めてクラス中圧倒されていた。「ほら、先生早く授業」と先生に授業の進行を求める九井に押されて、先生は「え、ああ、うん」としどろもどろになりながら、言われた通り授業を再開した。当時の私たちの担任は問題を大きく広げることに抵抗を覚える、ことなかれ主義の小心者だった。クラスメートを無闇に疑ってはいけないけど、疑われるような真似をした私も悪いと両成敗の方向で話を強制的に終わらせて。九井の言う通り確たる証拠もないカンニング騒動にこれ以上時間をかけたくなかったのだろう。

 男子Aが私を告発した時、もうほとんど終了時間だったということもあり、テストが回収される。

 私のカンニング疑惑がなあなあに流されていく。被害者の九井が『別にいい』と答えたからだ。

 胸の中に、何かが灯る。ろうそくのような、淡い光。


 その日の夜、九井の家に電話を掛けた。一君いますか、と言った時舌がむずむずした。ココの下の名前、一って言うんだ。
 だけど九井が『何』ってつっけんどんに出たものだから、電話を掛けた事が間違いのように思えて萎縮した。お礼を言おうとしたつもりだったのに、何故かありがとうが出てこない。私は喘ぐように唇を震わせてから、別の事を口にした。

「あいつ、しつこいから気を付けて」

 私を糾弾する事に躍起になっていた男子の名を挙げて、忠告する。実際私はカンニングしていた訳だし、アイツは何も間違った事を言っていない。不正を正そうとしたのに『大袈裟に喚く奴』と白い目を向けられた事は屈辱的だろう。しかも、皆の前で九井に完膚なきまでにやり込められたのだ。間違いなく恨んでいる。

 九井はフンと鼻を鳴らした。明らかに馬鹿にしていた。

「ココなら大丈夫だと思うけど、その、仲間はずれとか」
「性犯罪者とつるみたくねぇよ」

 セイハンザイシャ。聞きなれない単語は脳内で処理できず、「セイハンザイシャ?」と問い返すと、九井は呆れたように答えてくれた。そんなことも知らねえの?

「キモい事する奴だよ。オマエ、スカート捲られてたじゃん」

 皆、『そんな事で怒らなくても』と言った事。
 好きな子イジメ≠セからいいじゃない。麻美ちゃん可愛いからね。イジメたくなっちゃうんだよ。だから光栄に思えと皆私に婉曲に伝える。

 どうやって電話が終わったのかは覚えていない。
 だけど多分、あの日を境に光が強くなった。顔を見ると心が弾み言葉を交わすと頬が緩んだ。

 もしかして私、ココが好きなのかな。

 初めて自覚した瞬間なんて覚えていない。だけどいつからか恋心を心の内で唱える度に、甘くて酸っぱい何かが、炭酸水のようにしゅわしゅわと泡を立てながら、胸の中を満たしていった。

 そう、つまりは子どもの恋。
 大人になって振り返った時『そういえばそんなこともあったな』で片づけられるような記憶。

 だから、今は。

「違う」

 はっきりと言ったつもりなのに、何故か茫洋とした声になった。風に吹かれて舞い上がりなかなか落ちない葉っぱのように、宙に浮いている。

「違うから。そんなんじゃないし」

 いつまでも、終着しない。

 朝日が昇り始めると花垣君の金髪が眩しくて、私は彼から目を逸らしながらボソボソと続ける。俯きながら歩みを進める足を見つめた。私の脚はいつのまにか赤音さん≠フような細くしなやかな脚へと遂げていた。小学生の時のような棒のように細い脚じゃない。細いけど程よく肉付いた、大人の女に近づきつつある脚。

 もう私は子どもじゃない。だから、初恋なんて終わらせている。

「人を好きになるって、幸せを祈る事でしょ。自分がどうなってもいいから、その人を助けたいって思う事でしょ」

 九井みたいに。心の中で付け足す。

 小学生が四千万作ると本気で誓う。バカみたい。できる訳ない。
 だけど九井は本気でやろうとした。
 赤音さん≠助けようと必死に足掻くその様は、馬鹿で、本当に馬鹿で、――恋≠サのもの。まるで映画のような純愛。

「私は、そんなこと思わない」

 物語の中のヒロインに憧れて恋を始めた私の恋は、猿真似から始めただけあり、やっぱりおざなりだった。好きな人をなくしかけて失意に沈んでいる九井に対し、自分の欲求を押し付けた。はやく私を見て。はやく私を好きになって。

 だから九井を怒らせた。だから九井に殺されかけた。
 私を押し倒して首を絞める九井の憎悪と殺意に漲った眼差しを今でも覚えている。燃え上がるような怒りに荒んだ瞳の奥で、哀しみが揺らめいていた。どうしようもうないやる瀬なさの中で、九井は溺れるように悶え苦しんでいた。

 九井の事わかりたかった。その痛みに触れたかった。私はココの事が好きなんだから、誰よりもココを理解しているんだから、だからきっと触れても大丈夫。傲慢な思いを胸に九井の傷口に指を突っ込みじゅくじゅくとえぐった。ココのやり方でお金集められても、赤音さんは喜んでくれるかなぁ? 

 いつもいつもいつも、私は自分の事ばかり。
 九井の事なんて、ちっとも考えていなかった。

 だから、こんなの違う。

「でも、ココ君を追いかけて来たんですよね?」

 心底不思議がっている花垣君の声が、私の胸の中に差し込む。奥底に仕舞い込んでいた感情にスポットライトを当てるように。
 花垣君は訳がわからなさそうに眉を寄せながら、しきりに首を捻っていた。

「手当したり、夜中にひとりで東卍に乗り込んだり。それって、すげぇ幸せ祈ってません?」

 花垣君は困惑している。今更地動説に意を唱える人間を前にしたみたいに戸惑っていた。

 花垣君の瞳をぼうっと見つめている内に、がらんどうになった体の内側を何かが徐々に駆け上がって、
 伴うように、今まで私が見てきた九井の姿が胸の中に溢れ返った。

 給食で嫌いなものが出たら食べてくれた。
 エプロン作りに手間取る私に『下手くそ』と茶々を入れてきた。
 寄贈する千羽鶴に対し、金渡した方が良くね? と生意気な口を効いていた。

 いつのまにか開けられたピアス。
 難しそうな本。
 乾のバイクに乗る後ろ姿。

 脅して無理矢理一緒に過ごしたファミレスの時間。
 ナンパされた後、強制的に送らせた帰り道。 

 どうしてだろう。
 どうしてなんだろう。

 ねぇ、どうしてこんな取るに足らない思い出が光っているの。

『麻美ちゃん誰が好きなの?』

 友達Aの声が蘇る。私は少し恥じらいながらも誇らしげに答えた。だって、一番かっこいいもん。
 私の好きな人は、

「ばか……」

 ぽろっと抗議の声を漏らすと花垣君は「え?」と固まった。能天気面をキッと睨みつける。だけど、何故かすぐに見えなくなった。涙が眼球を覆った世界は半透明で、すぐ近くの花垣君すらぼやけている。

「どうして、そんなこと言うの……!」

 ひくひく嗚咽を上げながら花垣君を詰る。乾もだ。どうして皆して寄ってたかって私を苦しめるの。突き付けてくるの。
 認めたとしても無理な事を。到底叶わない想いを私のものだと言って目の前にぶらさげるの。

「無理だもん、絶対、無理だもん、無理な事、わざわざ言わないでよ……! 無理だもん、だって、ココは、」

 胸の奥がぐしゃぐしゃに潰れている。九井の憎悪に満ちた眼差しを思い出すと、更にひどくなった。

「ココは私の事嫌いなんだからぁ……!」

 心臓が真っ二つに裂けたような痛みが私を貫いた。痛くて苦しくて息ができない。両手で顔を覆いながらその場に蹲り、膝小僧に額を擦りつけた。「篠田さん……!?」と花垣君の慌てふためく声が聞こえた。すぐ近くからの声なのに、妙に遠くに聞こえる。

「た、たく、たくさんやな、こと、いった、いつも、いつも……!」

 ココに首を絞められたあの日、完璧に嫌われた日。私は嫌われた事に耐えられなくて悲しみを怒りに変換した。そうしないと、耐えられなかった。今だってそう。ココは私が嫌い。魂に亀裂が入ったような痛みに息も絶え絶えになる。どうしてあんなこと言っちゃったんだろう。ココのやり方でお金集められても、赤音さんは喜んでくれるかなぁ? そんなのきっとココも知っている。私より頭良いんだから、知っている。

「ひどい、こと、たくさ、ん……!」

 どうせ嫌われているのなら、これ以上ないってくらいに嫌われようと思った。
 嫌いになってやろうと思った。
 だけどそのくせ、傍にいたかった。
 私の事見てほしかった。
 ココの事、見たかった。

 どうしてだろう。
 テレビや漫画の恋は露店のりんご飴のようにきらきらと輝いているのに、私の恋はこんなにも暗く捻じれて淀んでいる。脅したり、傷つけたり、そればっかだ。

 汚い。醜い。浅ましい。まるで、私のように。

「だ、大丈夫ですよ! ココ君、篠田さんのこと嫌いじゃないですって!」

 花垣君が闇雲に私を励ます。上っ面だけの薄っぺらい言葉だ。

「だって、ひとりで東卍っすよ東卍! イヌピー君にガン飛ばされても引かなかったし!」

 なにも知らない癖に。

「自分のコトこんなに想って泣いてくれる女の子の事、嫌いになれないって!」

 私が一体、何をしたか。

「すっげぇ好きってことがオレにもわかるくらいだし!」

 膝小僧から顔を上げると、花垣君が私を見ていた。私に視線を合わせるようにしゃがみ込んでいる。中学生らしい幼さの残る顔立ちなのに、どうしてだか、小さな子に諭しかけるような大人びた表情が滲んでいた。

「大丈夫です! 男なんてみんな単純です!」

 ぎゅっと拳を握りながら、強く言う。

「彼女がいようが好きな子がいようが! 好かれたら問答無用で嬉しくなる! それが可愛い子ならなおさら!」

 花垣君は鼻息荒く言い切ると、どこか遠くに視線を遣った。「ココ君16でこんな女泣かせってすげぇな……」と力なく笑っている。

 間抜け面を晒している花垣君をぼんやりと見つめながら思う。お気楽な子だ。ココはそんな単純な奴じゃないし、赤音さん≠ニ乾の事しか考えていない。絶対嬉しがらない。私の想いを羽虫にたかられているように鬱陶しく思っている事を、私は身を以て知っているのに、それなのに。

「ありがとう……」

 涙に塗れた声でお礼をつぶやく。
 
 嬉しかった。
 ココは絶対そんなことを思っていないのに、それでも嬉しかった。私の醜く淀んだ想いを尊重されるべき感情のように思ってくれることが、嬉しかった。

 光が私たちの間に差し込んだ。東の空を仰ぐと、太陽が更に姿を出していた。
 こうやって、夜は明けて日が昇る。私が泣こうが喚こうが、そんなことお構いなしに。

 日差しを浴びた花垣君の金髪が眩しくて目蓋を閉じると、涙が頬を転がり落ちた。いつかの光が目蓋の裏で舞う。

 光は消えない。
 ずっと消えない。

 光ってる。
 ずっとずっと、光っている。

  




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