さもしくみじめにくたばれよ




 しつけぇ。

 晴れの日も雨の日も曇りの日も、粘つくような視線が体中に巻き付いていた。ちらりと後目で捉えると、頭空っぽの馬鹿女が一心不乱にオレを見つめている。目は口程に物を言うとは、昔の人間は上手い言葉を思いつくものだ。声を掛けられていないにも関わらず、視線からアイツの感情が濁流のように流れ込んでくる。毎日毎日毎日、よく飽きねぇな。視線が繋がらないように用心しながら確認すると、オレはまた本の中に視線を落とす。

 綿菓子のように空っぽな恋慕の眼差しは、ある日を境に憎悪に塗れた猛々しいものへと遂げる。どちらにせよ、どうでもいい。男か自分の見た目のことしか頭にないような空っぽの馬鹿女、相手にする時間がただひたすらに惜しい。無視しても、無視しても無視しても、その視線は着いてきた。
 
 秒針が同じところを何度も辿るように、ずっと。







 ぶっすう、と仏頂面の私はストローを咥えながらオレンジジュースを飲み続けていた。
 薄暗い照明の中、若い男女のうるさい声が四方八方から耳に飛び込んでくる。訳の分からない蘊蓄に「流石だね! 私そんなこと知らなかったぁ! すっごーい!」と合コンさしすせそを用いているナホコを睨みながら、上顎に出来た口内炎に触れないようにオレンジジュースをただひたすらに呑み続ける。どうしても落としたい男がいる、とナホコに必死に頼み込まれて大学生の飲み会に参加したものの、ナホコと違いこの場に落としたい男がいない私は手持ち無沙汰だった。ナホコの必死な眼差しにシンパシーを抱いてしまい、着いてきた私が馬鹿だった。ナホコは落としたい男とやらのタクトだかナオヤだかに必死に媚びへつらってばかりで私など今やアウトオブ眼中だろう。学校だとひたすら私に胡麻を擦っているというのに。

 暇だった。けどたかってくる蠅を追い払うのには忙しかった。『可愛いね』『暇なの?』『名前なんていうの?』『ケー番教えて』全部蠅の羽ばたきにしか聞こえない。しかも皆声を揃えて同じ言葉しか吐かず、退屈が乗じて苛立ちが募り始めていった。可愛い暇なの名前何ケー番教えて可愛い暇なの名前――

「君、高校生でしょ」

 四つのセリフ以外のセリフが、するりと耳の中に流れ込んだ。新鮮に響き渡る。顔を上げると、亜麻色の髪の毛の優男が、人好きのする笑顔で立っていた。大学生というだけあって、クラスの男子よりオシャレで洗練されている。

「……まあ」
「だよね。垢ぬけてるけど、肌とかつやつやだし」

 高三と大一でそんな違いあるんだろうか。と思いながらも「はあ」と適当に頷く。2007年になった今も私はココ以外の男に興味が持てず、会話を広げる気が全く起こらない。 

「どこの高校?」
「A高」
「あー、オレの友達の元カノが行ってたなー」

 縁遠すぎんだろ。と突っ込むのも面倒くさいのでオレンジジュースを吸い続けて黙る。ああ、暇。暇! 暇! 暇! ジュース飲みきったら帰ろう。ナホコはタク、タク、タク……タクなんたらとうまいことやれそうだしというかやれなくても帰る。

「あとまぁ、ジュースだしね」

 どこか揶揄るような声に、ピリッと神経が逆立った。眉を寄せながら「は?」と剣呑な声を突き付ける。けど優男は物ともせずに受け流した。年下の女に睨まれても何も怖くない、と言いたげに。

「やっぱお子様だよね、高校生って」

 お母さんに、何回も同じことで叱られた。アンタその短気なとこ何とかしなさいと、何回も何回も叱られてきた。だけど何で何とかしないといけないのだろう。私の気分を害する奴らが悪いのに、何で私が奴等に迎合しなければならないのだろう。ピキピキピキ、とこめかみに血管が浮かび上がっていくのを感じながら、私をコケにした目の前の男をギラッと睨み付ける。乾と同じことを主張するのは嫌だけど、負け犬のように尻尾を巻いて逃亡なんてそんなのプライドが許さない。

「持ってきて」

 ギラギラと敵意を漲らせながら睨み上げて、強く言い放った。

「なんでもいいから、お酒持ってきて!」

 



 優男にお酒を次から次へと運ばせた結果、気付いたら、目の前がとろんと霞がかっていた。思考力を奪われて、座っているのもしんどい。

 何回か友達とお酒を呑んだことはあるけど、浴びるように呑んだのは初めてだった。最初からアルコール度数の強いお酒を持ってこられてしんどかったけど、チビチビ飲んでいると「まだきついかぁ〜」と囃しされ怒りを煽られ、一気に飲み干し「次!」と言いつけてしまった。

 冷房が効いた空間なのに、身体の火照りはまったく冷めない。頭は鉛のように重いし、身体全体が粘つくような倦怠感に纏わりつかれている。ミニのタイトスカートから伸びる剥き出しの太ももをこすり合わせながら息を吐くと「大丈夫?」と気づかわし気な声が隣から滑り込んできた。
 大丈夫じゃないけど大丈夫じゃないとは死んでも言いたくない。こくりと頷くと「いやいや」と苦笑された。

「どう見ても大丈夫じゃないでしょ。上で休もうか」
「うえ……?」

 首を傾げながらオウム返しすると「ほら、おいで」と半ば強制的に立たされた。腰に腕を回されて生理的な嫌悪感が身体を走るけど、霞がかったような思考回路はまともに働かず、拒否しろという指令を体に伝達しない。触るなと突っぱねる事もできなかった。
 生温い空間から脱すると、少し呼吸が楽になった。だけど相変わらず、意識はふやけている。いくら優男に支えられているからと言って、飴細工のような造りの8pヒールのミュールで歩くのは困難だった。自分の身体の重みに耐えられず、がくんと床に膝をつく。
 
「おっと。しょうがないなぁ」

 苦笑混じりの言葉とは裏腹に、優男は私の太ももの裏と背中に回しそうと手を伸ばした。サマーニット越しにブラのホックの部分に男の指が触れて、ぞわぞわと首筋が粟立った。キモい、コイツ。男の手を押しのけ、お尻を動かし壁に背中をくっつける。ぎゅっと目を狭めて優男を睨んだ。気安く触んな。けど優男は大して意に介さず、困ったように「えー、やなの?」と眉を潜めるだけ。嫌に決まってる。私が触られても嫌悪感を抱かないのは、この世にただ一人だけ。私の前から姿を消した、アイツだけ。

 最後に目にした背中が脳裏にあぶくのように浮かんだ。他の男なら少し触られただけで鳥肌が総立ちするのに、アイツなら大丈夫だった。むしろ、触れたいくらいだった。私が胸を押し付けても平然と振り払うとか、ほんとに、意味わかんない。アイツの思考回路の回り方に釈然としないものを抱えながらも、酔いしれた意識のなかでは怒る気力も沸かなかった。ただ、胸の奥がギュッと狭まって、息が苦しい。

 今は関東卍會というチームに属しているらしい。その手がかりをもとに二年間、探して探して探しまくっているけど、全然、見つからない。

「……どこにいるの……」

 二年経った。今どんな風になってるんだろうと想像を巡らせている内に、目蓋が重みを増した。眠いのに頭を使うからだ。重力に従うようにそのまま下ろすと、一滴のインクを落とされた水のように、眠気が広がった。

「麻美ちゃん?」

 声が聞こえる。

「……やっと効いたか」

 知らない男の声。

「にしても、今回マジで当たりだなー」

 それから。

「どこがだよ」
「え…………っ!?」

 聞き覚えのある声が、つまらならそうに響いた。ドカッと何かが吹っ飛ぶ音が続いて、知らない声が呻き声に変わる。私はそれを幕が垂れ下がった舞台の向こう側の出来事として捉えていた。何かやってるなぁ。物騒な事が起こっているような気がするけど、でも、聞き覚えのある声がすんなりと鼓膜に馴染んだせいか、深い安心感が胸の中に垂れ込んでくる。けど同時に、胸の奥が妙にざわついた。

 例えば廊下ですれ違う時。例えば学校の帰り道。そんな風に、私はアイツの存在を確認すると、生きている事を示すように心臓が暴れ出し、体の内側が末端に至るまで甘ったるい熱で焦がされていった。

「誰のシマで女犯そうとしてんだよ。勝手な事すんじゃねえ。……おい、」

 聞き覚えのある声が私に近づいた。肩に手を置かれて、乱暴に揺さぶられる。不思議。服越しに伝わる肌の感触がちっとも嫌じゃない。でもすごくドキドキする。変なの。

「おい、何笑ってんだ。起きろ。おい、篠田。おい」

 聞き覚えのある声が苛立ちを帯びていったけど、私の安心感と心地よさは増すばかり。眠気が更に増幅して、とろけるように、意識が消えていった。







 すやすや眠る篠田をスタッフルームのソファーに寝転がせてから、オレも腰を下ろし、聞こえよがしにため息を吐いた。盛大に。だがアホ面晒して眠る馬鹿女はもちろん気付かない。なんだか幸せそうに唇を合わせながら微笑んでいる。さっき犯されかかっていたのに何笑ってんだコイツ。

 関東卍會の顧客が経営しているクラブに何となく顔を出し、監視カメラで顧客を確認していると、知っている顔―――篠田麻美を見つけ、少し驚いた。

 無駄に整った顔面に渋面を浮かべながら、男をあしらっていた。声は聞こえないけど言っている事は想像がつく。知らないどうでもいい意味わかんない。男嫌いならこんなトコ来なきゃいいのに。相変わらずの馬鹿っぷりに呆れと懐かしさを感じた。

 暇つぶしに見続けている内に、篠田は急ピッチで酒を煽り始めた。五杯、六杯、七杯……おいおい。案の定、篠田は潰れた。篠田の腰に回された男の手に『そういうことね』と納得する。

 放っておくか、否か。三秒悩んで、ため息吐きながら立ち上がった。あの馬鹿女、どこまで馬鹿なんだ。
 知り合いがレイプされんのを知ってて放置は、流石に寝覚めが悪い。





 馬鹿でもわかる。篠田はオレに惚れている。

 何が原因かわからないが気付いたらオレに纏わりつくようになっていた。『ココ〜!』と他の男に対するものより一オクターブ高い声でちょっかいをかけてくる。イヌピーとは死ぬほどそりが合わないようで、他の男に対するものより二オクターブ低い声で接していた。
 篠田は昔から見た目しか取り柄がない、馬鹿女だった。華やかな顔立ちと強気な性格でクラスのトップに君臨していたが、ガキの頃から学校なんてただの一施設とか見なしていなかったオレには何の魅力にもならない。

 それに。どうしようもなく、好きな人がいた。綺麗で儚げで、だけど笑うと少しあどけない。子どものような無邪気さと甘やかな強かさを兼ね備えている、不思議な魅力を纏った、綺麗な人だった。

 だから篠田に惚れられたところで大した足しにはならない。給食のおかず多くついでもらったとかまあそんな程度のメリット。

 嫌いではない。けど好きでもない。無≠サのもの。

 ――だったのに。

『ココのやり方でお金集められても、赤音さんは喜んでくれるかなぁ?』

 ぬけぬけと事実を語られたことによって、無は殺意へ遂げた。

 オレが目を逸らし続けていた事を、篠田はあっさりと目の前にぶら下げた。どうしようもなく、純然たる事実。真っ当過ぎる事実は真実だからこそ、オレの心臓に深く突き刺さった。篠田はその後も心理カウンセラーのような物言いで何やら言っていたが羽虫が飛ぶように耳障りで、聞くに堪えなくて、首を絞めた。

 業火の如く燃え盛る殺意は篠田のでかい目から涙が零れ落ちたのを見た瞬間に、虚無感に包まれ鎮火した。自分の浅ましさにも気付かずに悲劇のヒロインよろしく自己陶酔してる馬鹿女を殺して何の足しになる? 
 意味のない事を延々と続けている癖に意味のない事が嫌いなオレは、篠田をその場に残した。こんな女、殺す価値もない。 

 その日を境に、可愛さ余って憎さ百倍≠身を以て体感する事になる。

 始終纏わりついていた甘く焼くような視線は憎悪の籠った毒々しいものに変わる。篠田は突き刺すようにオレを睨んだ。
 相変わらず鬱陶しいが、取るに足りない。馬鹿女に向けられる感情が好意から悪意に変わっただけ。それよりもイヌピーが年少に入った事の方が重大だった。

 イヌピーは赤音さんに似ていた。
 男女の性差はあれど、似ていた。色素の薄い髪色、滑らかな肌、じいっとこちらの全てを見透かしそうな、水晶玉のような瞳。

 オレは意味のない事が嫌いだ。だけど、意味のない事に縋り続ける。
 叶えなくてもいい約束。いつの間にかすり替えられた金稼ぎの目的。イヌピーからあの人の面影を感じ取り、いつか叶えられたかもしれない幻想を見出した。
 嫌いな事の為に身を鼓し、時には命すら危険に晒す。生まれたてのガキすらしないような愚かな行動を、延々と、繰り返す。

 ヤク中が性懲りもなくヤクに手を伸ばすように、イヌピーに近づいた時だった。

 カシャッとシャッター音がはしゃぐように弾け、振り返ると、デカい瞳に狂喜をぎらつかせた馬鹿女が立っていた。
 嘘だろ、と目を瞠る。あれから、もう一年以上経っているというのに。
 
 オレの苛立ちを煽るようにねっとりした声で『乾可哀想』と挑発する篠田を見ている内に、驚きは冷えていった。馬鹿だ馬鹿だと思ってたけど、ここまで馬鹿とは。オレの弱味を掴めたと有頂天になっているが、そんな写真どうって事ない。この頃オレは、黒龍に加入こそしていなかったが、暴走族や窃盗団との繋がりを持っていた。売春斡旋、薬の流通、器物破損、強盗――金さえ払ってもらえば、何でもやった。

 せいぜい学校でしか権力を奮えない一介の馬鹿女の脅しなど、簡単に捻り潰せる。

 ガキが惚れた相手の気を引くために、嫌がらせをするのと同じだ。冷めた目つきで見下ろすオレを跳ねのけるようにフンと鼻を鳴らしてから、篠田は銃口でも突き付けるように、人差し指を向けて言い放つ。

『今日からアンタ、私の奴隷ね』

 紅潮させた頬を緩ませてうっとりと恍惚に浸る篠田に、軽蔑し、呆れ、そして感動した。
 世の中にはオレと同等、否、オレ以上にみっともない人間が存在している。





「ん〜……」

 くぐもった声が物思いに終止符を打つ。ちらっと視線を横に滑らせると、篠田が緩慢な動作で起き上がった。とろんと濡れた瞳はまだ焦点がおぼつかなく、ぼんやりと空中を彷徨っている。しかしオレに行き着いた瞬間に、ひたりと止まった。

 強い視線が縫い付けられるようにオレに固定される。口を半開きにしながら、ポカンとオレを見ていた。デカい目が更にデカく見張られ、そこから瞳が零れ落ちそうだった。

 間抜け面を晒し続ける篠田に「死人でも見るような目じゃん」と冗談を飛ばす。だが、依然として篠田は硬直している。もう二度と会うつもりなかったけど、そこまで驚く事か? 暇つぶしに篠田がキレるであろう言葉を投げつけようとした、その時。

「ココ――――ッ!!!!」

 弾丸のように、篠田がオレに抱き着いてきた。

 あまりにも急だった為、オレはそのまま勢いよく押し倒された。呆気に取られている間に、篠田はオレの首筋に顔を埋めながら、ひくひく嗚咽を震わせて叫ぶ。

「あい、あい、会いたかったよおぉおおぉおぉ!」

 …………………そういや、元々こんな態度取られてたわ。
 二年前の篠田はひたすらオレに嫌味を言っていたから忘れていたけど、元々篠田はオレに馬鹿みたいに媚びていた。鼻がかった声で『ココ』と甘えるように呼んだり、身を摺り寄せてきたり。そういえば、そうだった。

「ねぇ、ひぐっ、今、どこ、えぐっ、いるの、家どこぉ?」

 篠田は涙でぐしゃぐしゃになった顔面を上げて、オレに尋ねる。住所教えようものなら間違いなく突撃されるので「日本」と答えた。すると「日本ね!」と目を輝かせた。コイツ酔いすぎで馬鹿さに拍車がかかっている。
 篠田はオレにピタリと体を這わせたままなので、オレの胸板辺りに自然と胸が乗っかる形になっていた。サマーニットから覗く谷間をちらっと観察してから、無駄に見た目だけは整ってんだよなとしみじみ思う。それ以外特に思うことなし。無=B

 涙と落ちたマスカラを払うように、篠田は手で目元を軽く拭ってから「帰ってきてよぉ」と目を潤ませる。顔が良い人間って化粧落ちても顔がいいんだなと感心しながら「ヤダ」と答えた。

「な! ん! で!」
「嫌だから」

 べえっと舌を出すと「私だってやだー!」とオレの上でじたばた暴れ出した。玩具が欲しいとトイザらスで発狂しているガキそのものの醜態を白い目で見すえる。

「乾の馬鹿とドラケン君と一緒にバイク屋やればいいじゃん!」

 ドラケン。篠田とドラケン。繋がらないはずの点と点が結びついた事に微かな衝撃を覚え「オマエ、ドラケン知ってんの?」と反射的に疑問が口から衝いて出た。ドラケン――龍宮寺堅。今のオレのボス、マイキーから絶大な信頼を得ていた。ひとつ年下とは思えないほど統率力と人望に溢れ、東卍の副総長を張った男。

 暴走族なんて社不の集まりと公言して憚らない篠田が、『ドラケン君』。

「うん。知ってるよ。ココも知ってるんだぁ」

 篠田は嬉しそうに頷いた後、思い出したように「ていうか! ねぇ! 聞いてよ!」と声を張り上げた。オレに顔を近づけ、猛々しく息巻く。酒臭ぇ。たまらず顔を顰めるオレに構わず、篠田は怒気を露に愚痴り始めた。

「ココが戻ってくるとしたらどうせ乾のアホのトコだから私毎日乾の店に行ってんの! もしかしたら、もしかしたら、って毎日毎日……。なのに乾の馬鹿はこんなにいじらしい私に、邪魔とか帰れとか帰るか死ぬかビラ配るかどれかにしろって脅してくるんだよ!? 前科持ちに脅されたら言う事聞くしかないじゃん! そんでビラ配りして戻ってきたら『給料』って10円渡してきて! そしたらドラケン君が『そりゃねえだろイヌピー』って乾のクソバカの頭を叩いてくれたの! もう! 超絶かっこよかった! マジマジヤバかった!」

 珍しい事もあるモンだな、と感心と驚きが入り混じる。篠田が男を手放しで褒める事はそうそうない。
 気の強さから敬遠される事もあるが、見た目が抜群に良いので基本的にモテる。馬鹿だがノリは悪くないし、マゾっ気のある男ならこいつの我儘に振り回されたくもなるのだろう。
 けど篠田はオレ以外の男に興味を示さない。男に良い寄られてるのを何回か目にしたことがあるが、いつもつまらなさそうにそっぽを向いていた。
 
 あまりの珍しさに、感心と驚きと、妙な燻りが靄の如く広がる。ざらり、と胸の奥底を微かにさすっていった。

「乾のボケカスアホが雨の中ビラ配りさせようとした時も『女に体冷やすような事させんじゃねえ』って叱ってくれてさぁ〜! ビラ配りの時変な男にナンパされてたら助けてくれたし! 帰りも危ないからって進んで送ってくれたんだよ! 下心とかも、ほんと、全然なくて……! 背高いしイケメンだし優しいししっかりしてるしマジパーフェクト! なのに私達より一個年下なんだって! ほんとにほんとに! かっこいいの! 乾と月とすっぽん!」 

 篠田は目を輝かせながら、熱っぽい口調でドラケンを絶賛した。まだ酔いが回っているのか潤んでじんわりと赤く染まっているデカい目には、無表情のオレが映っている。相変わらず、つまんねぇ話しかできねぇ馬鹿女。

 瘡蓋をの上をつうっとなぞられたような不快感が、心を這う。

「ドラケン君、乾が私の事ブス呼ばわりするのも怒ってくれるし、」
「ヤッた?」

 端的に尋ねると、篠田の笑顔が硬直した。何を言われてのか瞬時に理解できないらしい。日本語すらわからねぇとか、やっぱコイツ馬鹿だな。憐れみから苦笑が口元に滲み、ふっと緩める。

「すげぇ褒めるからさ。オマエ、ドラケンとヤッた?」

 篠田は相変わらず、固まっている。電池を無理矢理もぎ取られた玩具のようだった。けどその間も瞬きは続いている。マスカラの落ちた睫毛が震えていた。

 ――瞳の中に、激しい怒りが迸る。

 篠田は上半身を起こし、左手でオレの胸倉を掴んだ後右手を振り上げた。喧嘩慣れしていない女を止めることは雑作もなく、振り下ろされる直前に手首を掴んで「ボーリョクはんたーい」と眉を潜めてみせる。

「ふざけんな!! 離せ!! 百発殴らせろ!!」
「無理」

 べっと舌を出すと、篠田は更に激昂した。整えられた眉と目尻が重力に逆らうように吊り上がる。

「ふざけんなふざけんなふざけんな!!! オマエまじ死ね!!!」

 さっきまで泣きながら抱き着いてきた女とは思えない。切なげに揺れていた瞳は今や憎悪に燃え上がり、舌足らずの甘い声は雷鳴のように激しく怒りを轟かせている。会いたいのか死んでほしいのかどっちなんだよ。矛盾だらけの言動を繰り返す相変わらずの馬鹿さ加減に「フン」と鼻を鳴らすと、篠田は更に怒りをヒートアップさせた。

「そうやっていっつもいっつも私の事馬鹿にして……!!」

 躾のなっていない小型犬のようにキンキンと騒ぎ立てる声に、湿っぽさが混じる。篠田の目は真っ赤に染まっていた。時折、何かを堪えるように歯を食いしばりながら、荒い息を漏らしている。

「わた、私が、二年間、どんな気持ちで……!」

 オレの掌の中の篠田の細い手首が戦慄くように震えていた。振り払う気力がなくなったのか、萎れたようにだらりと垂らしている。デカい目がぎゅっと狭まられ、中心に据えられている黒い瞳が小刻みに震えている。篠田は自由の効く左手で目元を擦った後、燻る炎を籠めた目つきでオレを睨み据え、

「ココなんかほんと嫌い!! 大嫌い!! 世界で一番大嫌い!!!」

 部屋が割れんばかりの大声で、そう叫んだ。

 鼓膜が破れるかと思うくらいのデカい声が、頭の中で反響を続けている。コイツ、何でこんなうるせえんだろ。肩で息をしている篠田を白い目で見据えながら「オレも」と静かに同調した。

 篠田の動きがピタリと止まる。「……へ」と間の抜けた声が、ぽつりと滴り落ちた。

 ぽかんと呆けている間抜け面を、まじまじと観察する。見た目だけは良い。けどそれ以外はすっからかんの、哀れで惨めな馬鹿女。自己肯定感を上げる為の存在。一生叶うことのない思いに執着するその姿は鏡に映ったオレのよう。だから、苛立つのと同時に同情を誘われた。

 だから気が向いたら構ってやった。
 だから思い出作りにキスしてやった。

 カワイソウ。好きでも嫌いでもない。どうでもいい。そう思っていたが、どうやらそれは誤認だったらしい。

「オレもオマエの事嫌い」

 胸の中で苛立ちが蟲のように蠢いているのを感じながら淡々と告げる。茫然自失としながらオレを見下ろしている篠田がおかしくて、噴き出した。

「気ィ合うじゃんオレ等」

 喉の奥で笑いながら篠田の顔を覗き込むように首を傾げると、篠田は氷漬けられたように固まり、生気を失わせた。紅潮していた頬がみるみるうちに青白く染まっていく。篠田は震え始めた目元を隠すように顔を俯けた。篠田の罵声が事切れると、鉛をはらんだような重たい沈黙が横たわる。

 胸の中が漂白されたように白けていくのを感じながら、だりぃなと思った。

 これ以上馬鹿女に割く時間はない。見切りをつけ起き上がろうとすると、シャツの胸倉をギュウッと掴まれた。縋りつくような、そんな手つきで。

 離せと凄もうとした時だった。気付いたら、デカい目に涙を溜めた篠田が目と鼻の先にいた。下唇を必死に噛んでいるのか、顎の形が歪になっている。

 面が良いのが唯一の取り柄なのに、と眺めていたらだった。
 あっという間に距離を縮められ、――くちびるに、柔らかな何かを乱暴に押し付けられた。

 一拍の空白が胸の中に垂れ込んだが、オレの思考回路はどんな時も器用に働くもので、自分の身に何が起こっているか瞬時に教えてくれた。

 篠田に下手くそなキスをされている。

「そう、嫌いなの、じゃあ、ちょうどいい……!」

 篠田はキスをやめると、殺意に似た決意をギラギラと漲らせながら、口角を吊り上げた。頬がピクピクと痙攣しているから相当無理している事がわかる。篠田本人は不敵に笑っているつもりなのかもしれないが、傍から見ればねじ曲げられた唇がただ痛々しい。

 涙に塗れた声がヒステリックに響き渡る。

「アンタのこと、無茶苦茶に犯してやる!!」

 ハアハアと息切れしながら、篠田は笑う。『ざまあみろ』と言わんばかりに、勝気に吊り上がっていた。


 呆れを越えて感動する。
 この女、どこまで馬鹿なんだろう。







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