今日はデート






 言ってはいけない。聞いてはいけない。だってこんな言葉ウザい女の代表格だ。だけどどうしても聞かずにはいられなかった。

 彼の大きな黒目を見据えながら、私は問う。


「私とバレー、どっちが大切?」








 私の彼氏、影山飛雄とは二年の付き合いだ。高校二年生の時に同じクラスになって、大人っぽい外見とは裏腹に彼は存外子供っぽく、そのギャップに目を丸くしている内に、気付いたらころっと絆されていた。なんとか近づきたいとあの手この手でアプローチしたものの『へえ』『マジかよ』とバレー以外に興味を覚えない彼には暖簾に腕押し。けど、何もしないよりは何かした方がマシだと清水の舞台から飛び降りる勢いで卒業式の日に告白したら、彼は大きな黒目を丸くして「マジかよ」といつもの言葉を呟き、そして、オッケーした。

 信じられない事に、私は彼からオッケーされた。

 信じられなくて、『……え?』と思わず疑わしげに見つめる。怪しい鍋売り業者でも前にするような目つきで。すると『なんだよその目』とギロリと睨みつけられた。

『や、オッケーされるって思わなくて』
『あ? お前最初から負ける気とか舐めんなよ勝負は勝つ気で来い勝つ気で!』

 なんかよくわからないけど怒られた。『え、あ、はぁ、ごめん』と謝った。

 その日の帰りの事はよく覚えていない。私と影山くんは各々の部活の打ち上げに顔を出さなければならなかったので、二人一緒に帰るという事もなかった。ただ、その夜。打ち上げからの帰り道。私は影山くんの彼女なんだと口の中で呟くと、体温が上昇し、三月の宮城の寒さなんてあっという間に掻き消えた事だけは覚えている。澄んだ夜空の中、星がいつもよりきらきらと光っていた。

 私と影山くんは大学こそは違うものの、同じく東京に進学したので、幸い、遠距離恋愛にはならなかった。しかし、私と影山くんは『本当に付き合っているのか』と訝しがられるほど味気なく淡白な付き合いだった。
 LINEを送るのは絶対私から。返事は一言返って来たら上々といったところ。試合には行くけど、影山くんが誘ってくれたから……という訳ではない。自分で調べて観に行っている。

 試合後、影山くんの元へ行っても影山くんは私には一瞥暮れるだけでくれたらいい方でそれよりも試合中の自分やチームメイトの動向が気にしていた。ギューンッて飛んだボールを先輩がドカーンと打って……と擬音語てんこ盛りで熱く語る影山くんを見詰めてから帰る。もちろん影山くんと帰ることはない。
 
 そういった感じで、私と影山くんの交際は、世間一般の交際からすさまじくかけ離れている。そう、だからこそ。だからこそ。

『なんかチケットもらったんたけど。再来週の日曜暇なら一緒に行かね?』

 思い出すだけで言葉にならない興奮がお腹の底からせり上がってきて、スマホを片手に私はぶるぶると震える。気持ち悪いと非難されようが白い目を向けられようが知った事ではない。ドラマのエンディングを口ずさみながら、ロッカーの扉をパタンと閉める。

「お疲れ様です!」

 バイト後、ドアを開けると、ひんやりとした空気が肌を刺した。ほう、と息を吐く。冬がもうそこまで迫っている。東京の空は四角くて空気も淀んでいる。だけど、この日見た夜空は、あの日のように澄んでいて、きらきらと星が輝いていた。




 待ちに待ったデート当日。私の心を映し出したように清々しい青空だった。赤や橙に色づいた葉の上をざくざくと踏みしめながら、待ち合わせ場所に到着する。腕時計を確認すると二十分も前だった。早く来すぎちゃったなあ。辺りを見渡すが待ち人はまだ来てない様子。背が高くて目立つから、来たらすぐにわかるだろう。その間に、と。鞄からいそいそと鏡を取り出して覗き込んで前髪を直す。あ、ヤバ。いつもよりチークつけすぎちゃったかも、でも今から直すのもなあ……。うだうだと悩みこむ時間、一分。今更化粧を直しても中途半端になるだけだろうと結論を下し、観念した。まあ、どうせ気付かないでしょ。私が髪の毛を染めても気付かなかった影山くんだ。確かに、そんなに明るく染めた訳じゃないけどさあ……。
 苦笑を漏らしてから、空を仰ぐ。青い絵の具で刷ったような快晴は心を弾ませた。
 はやく来てほしいような、もう少し遅れてほしいような。相反する気持ちの間を揺蕩いながら空を見上げる。点々に浮かび上がる鱗雲は少しずつ少しずつ流れていった。
 時間は刻々と流れる。空が青から橙に変わった。そして、橙色と濃紺が入り混じり、夕方と夜のグラデーションが出来上がる。

 影山くんは、来なかった。






『おい影山ー。チケット余ったんだけど、いる?』

 大学の先輩に渡されてすぐ断ろうと口を開いた時、アイツの声が浮かび上がった。好きなの、と嬉しそうな笑顔も添えて。
 気付いたら俺は『いらねっす』を『あざっす』に変えて受け取っていた。遊園地のチケットが二枚。バレーボールよりも軽くていつ吹き飛ばされてもおかしくない。だから強く握ったら、チケットがししわくちゃになった。

 俺は再来週の日曜がオフだった。苗字はどうなのかと訊いたら速攻で返事が返ってきてビビった。及川さんのサーブ並に凄まじい気迫がLINEから溢れ出していて、ゴクリ……と生唾を呑み込む。
 それから、少しだけむず痒くなった。

『影山ー、これ、見るか?』

 それからちょっと経って。チケットをくれた先輩が今度は何かのブルーレイをひらひらと泳がせていた。『〇×大と▼▽大の試合の映像なんだけどさ』『ください』間髪入れずに答えると『やらねえよ』と額をブルーレイで叩かれた。大事な映像が入っているんだからもっと丁寧に扱ってほしい。
 帰宅して速攻でパソコンに入れた。薄っぺらい画面から溢れ出す緊迫感や昂揚感に、俺の体も呼応するように熱くなる。アドレナリンが大量に生まれて、体内を駆け巡った。見終えたあと、俺は本能の赴くままに部屋を飛び出した。ハッハッと息を切らせながら、星空の下を走る。

 はやくバレーしてぇ。もっとうまくなりてぇ。
 その欲求だけが俺を突き動かしていた。

 気付いたら夜が明けていた。夜通し走ると流石に眠く。俺は布団の上に倒れ込んだ。何か忘れてるような気もするがまあなんとかなるだろう。バレー以外の事に思考を割く容量は残されていなかった。眠気に誘われるままに瞼を下ろす。何かが脳裏で微かに点滅しているような気がしたが、まあ大丈夫だろう。
 バレーに関することは俺は絶対忘れない。忘れるということはそれまでだ。少しずつ薄れゆく意識の中、その確証を胸に泥のように眠った。

 ―――ピンポーン

 機械的な音に快眠を妨げられ、眉間に皺が寄る。構わず眠り続けようと無視するが、もう一度鳴らされた。あ゛あ゛うっせえな。舌を鳴らしてから立ち上がり、ドアを荒々しく開ける。

「はい?」

 不機嫌さを隠そうともせず、剣呑とした声で問いかけてから、俺は時間を止められたかのように固まった。
 鼻の先を赤くした苗字がぱちぱちと瞬きをしていた。靄がかっていたような脳みそが覚醒し、意識が鮮明になる。それと同時に、急速に身体が冷えていった。
 苗字は「……あ〜」と困ったように呻きながら、視線を外す。無理矢理唇を笑みの形にして苦笑混じりに問いかけた。

「忘れてた?」

 馬鹿正直な俺は、馬鹿正直に頷く。
 苗字の向こう側の景色はすっかり日が暮れていて、オレンジと濃紺が入り混じった、夜の始まりの空だった。



 くしゅん。女子、という感じのくしゃみが響く。もちろん俺じゃない。苗字は鼻の下を抑えながらずずっと鼻をすすっていた。カバンからポケットティッシュを出して、鼻をかんでいる。指先は赤くかじかんで痛々しい。もう秋も終わりだ。いくら東北出身とは言え、冬の始まりの気温は体の芯まで響いただろう。
 とりあえず、苗字には家に上がってもらった。俺が馬鹿正直に答えたあと、苗字がくしゃみをしたからだ。上がるかと聞くと苗字は吃驚したように目を丸めてから、じゃあ、とおずおずと上がりこんだ。そういえば、苗字が家にきちんと上がるのはこれが初めてだ。ヤカンを急須に注ぎながら気付く。お湯を沸かすことは俺が唯一できる家事だ。

「茶」
「あ、うん。ありがとう」

 マグカップを唇に運んで、ふうふうと息を吹きかけている。唇は人工的に色づいていたが禿かけていた。血色の悪さが透けて見えて寒々しい。苗字はごくりと喉に流し込んで、ふうっと息をついた。
 チク、タク、チク、タク。秒針の音がやけに鮮明に響き渡る。苗字は何故か何も言わない。キレるでもなく喚くでもなく、いつも通りだ。いつも通りで、だからこそ、なんつうか。緊張感が神経を張り詰めていき、唾を飲み込む。とりあえず筋は通さなきゃなんねえだろ。苗字に向き直って、すうと息を吸いこみながら頭を下げようとしたら。

「聞いてもいい?」

 淡々とした落ち着いた声。だけど、有無を言わせない響きがあった。「おう」という言葉が押されるようにして口から零れる。苗字は体ごと俺に向けて、じいっと見つめてきた。

「私とバレー、どっちが大切?」

 苗字は、三文ドラマに出てくる台詞みたいな事を聞いてきた。
 苗字の顔と声はのっぺらぼうみたいに感情が抜け落ちていて、あ、キレてるんだ、と今更思った。そりゃそうだ。クソ寒い中待ちぼうけを食らわされたんだ。
 口の中が乾いていく。カサついた唇を湿らせてから、無理矢理こじ開けた。

 俺は今から、フラれる。

「バレー」

 真っ直ぐ目を逸らさずに、馬鹿正直に答える。苗字もじっと俺を見ていた。視線が繋がったまま、時間が流れる。
 不意に、視線が解ける。苗字はふうっと息を吐いてから、笑った。

「嘘でも私って言っとけばいいのに」

 仕方なさそうに笑いながら、やれやれと肩を竦める。

「あーお腹すいた。なんかない?」
「……え。あ。カップラーメンなら、ある」
「一個ちょうだい」

 苗字はすくっと立ち上がって、カップラーメンだらけの段ボール箱の前にしゃがみこむ。背中を向けながら物色する苗字に、俺は狐に抓まれたみたいにポカンとしていた。

「キレてねえの」
「キレるっていうか、もう呆れて言葉も出ないって感じ」
「……わりィ」

 淡々とした声が怖い。いたたまれなさで身体を縮こまらせながらボソボソ謝る。
 苗字は薬缶を傾けてカップラーメンに注ぎ込んで、蓋を閉めた。
 苗字が断りも入れずにストーブの温度を二、三度上げた。表情にこそ現れてないが冷たい怒りが醸し出ている。

「別れねえの」

 脳味噌と口が直結している俺は臆面もなく問いかけた。苗字は澄んだ目で俺を見据える。

「別れたいの?」
「違う」

 間髪入れずに答えてから、驚く。俺、苗字と別れたくねえんだ。他人事のように驚いた。
 苗字は目を丸くしてから「……ずる」と悔しそうに唇を尖らせた。何もずるくねぇだろと突っ込もうとしたら、苗字は「あーあ!」と投げやりに声を放ってから、ふうと溜息を吐いた。面白くなさそうに目を眇めながら、俺を睨みつけてくる。

「私、バレー馬鹿な影山くんしか知らないんだよね。即答されて、まじでムカついたけど、でもだから、あそこでバレーって即答してこそ影山くんじゃん。
 ……私が好きになった影山くんじゃん。
 だからもう、お手上げ」

 苗字はやさぐれたように両手を挙げたあと、もう出来たかな、と蓋を捲ってラーメンを食べ始めた。中華スープの香ばしい匂いが狭い和室に広がっていく。

 マジかこいつ。大丈夫か。感謝よりも困惑、戸惑いが胸中を占める。

 ずるずるとラーメンを啜っている苗字を眺めながら、俺は覚悟を決めた。
 
「殴れ」

 苗字の動きが止まった。目を丸くして、俺を凝視している。

「え……、別にいいよ。なんかもうそういうテンション通り越してるし」
「いいから」
「いや、」
「殴れつってんだろ」

 ギロリと睨みつけながら声を低めると、苗字は観念したように息を吐いて「わかった」と渋々頷いた。箸を置いて、俺の正面に座る。背筋を正して、すうと息を吸いこんだ。目を閉じて、来たるべき衝撃に堪える体勢に入る。

「いくよ」
「こい」

 一拍置いてから、重い鈍器が頬に抉りこんだような衝撃に見舞われた。耐え切れず体勢が崩れて畳の上に転がる。血の味がした。平手じゃなくて拳かよ。
 目を開けると、苗字が吃驚したように目を丸くしていた。なんでお前も驚いてんだよ。俺はじんじんと熱を打ったように痺れる頬を無理矢理動かしながら、のろのろと起き上がる。

「お前、力、強ェな」
「まあ、うん。バスケ部だったし」
「バレーやらね?」
「やらない」
「そうかよ。他、」
「え?」

 苗字は首を傾げた。苛立ちと羞恥から声を荒げる。

「何かやりてえことねえのか」

 苗字はぱちぱちと瞬いてから唇を閉じる。少し間を置いてから、ぽつりと漏らした。

「デートしたい」

 視線を落としながら力無く呟いて、もう一度、力強く言った。

「私、影山くんとデートしたい」

 苗字は頬を少し赤らめて上擦った声で言う。呟くような声だった。俺はスポーツバッグを掴み取って、クリアファイルを取り出す。練習表をテーブルに叩き付けた。

「予定合わせんぞ」

 苗字はもっと目を丸くして、そして、ふわりと和ませた。うん、と嬉しそうに頷いてからいそいそとスケジュール帳を取り出す。

「チケットまだ使える?」
「あと二か月は使える」
「よかった」
「苗字、マジであそこ好きだよな」

 苗字の緩んだ頬が引き上げられた。「え」と目を白黒させている。

「なんで知ってんの」
「高校の時、好きだっつってたじゃねえか」

 俺はどれだけ馬鹿だと思われてるのだろう。一年前にも満たない記憶をもう忘れてると思われている。心外から声を尖らせると、苗字の顔は少し間を置いてから何故か赤くなった。は? と眉が八の字に寄る。寒い中突っ立っていたせいでマジで風邪を引いたのかもしれねえ。懸念が広がり大丈夫かと問いかけようとしたら、二の腕に軽くパンチされた。

「なんだよ」

 痛くはないが不可解で眉を顰める。苗字はぎろりと俺を睨んだ。

「ばか」
「あ? どこが馬鹿なんだよ。つーか馬鹿って言う方が馬鹿なんだよ」
「ばぁーか」

 苗字は口をいーっとしてから、ほどけるように笑った。









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